219-報告と確認
宵街の科刑所では、白と黒の二人の少年の報告が搗ち合っていた。病院で変転人の死体を確認した白花苧環と、仕留め損ねた獲物が人間だと勘違いをしていた長実雛罌粟だ。
白花苧環が譲って先に長実雛罌粟が報告することになり、彼は眩草を『見知らぬ変転人』と報告した。何も間違ったことは言っていない。長実雛罌粟自身も武器が銃だと秘密にしているので、秘密に理解がある。眩草が獣と係わりたくないと言うなら他言をしない。相手が宵街の最高権力者であってもだ。
「負傷した変転人をここへ連れて来ることはできるか?」
「人間の街での生活を大切にしているようなので、難しいです。それにあまり怪我人を歩かせたくないです。俺が確認しなかった所為なので、庇わせてください」
「そうか。無理に連行しても快く答えてはくれないだろうな。死体をただ発見しただけで面識も無く犯人も見ていないなら、これ以上は係わらないようにしよう。だがもし話したいことがあるなら、いつでも話を聞く」
「獏と打ち解けているようなので、獏には何か話してるかもしれませんね。俺は撃ってしまったので警戒されてるでしょう」
「……獏か。長実雛罌粟、何故発砲したんだ?」
「いけなかったでしょうか? 変転人の死体を撮影する悪趣味な人間ですよ」
「撮影? 記録していたのか? そういった道具に私は疎い。思うことがあれば狻猊に相談してほしい」
「取り急ぎ記録は削除しましたが、処理はそれで充分なのか相談してみます」
「ああ」
削除すれば充分なのではないかと狴犴は思うが、人間の作る道具は複雑だ。苦手分野は得意な者に任せる。
長実雛罌粟は頭を下げ、後ろへ下がって白花苧環に譲る。白花苧環も頭を下げ、病院で見たものを報告した。
「死体を確認しました。見覚えは無かったです。ラクタヴィージャも見覚えが無いと言ってました」
「そうか……特定は難しそうだな。何か気になった点はあるか?」
「服装が気になりました。どう見ても襤褸です。狻猊にも確認してもらいましたが見覚えは無く、彼が制作した服では無いようです。足も裸足で、何処からか慌てて逃げてきたような……と言っていました」
「狻猊が記憶に無いなら宵街出身の線は薄いな。鉄線蓮のように獣に保有されていたなら、転送の傘を強奪された報告が私か獏の所にあるはずだが」
「獏は言及してません」
待機していた長実雛罌粟が口を添えた。直接尋ねなかったが、獏の口からその話題は出ていない。
口を開こうとしていた白花苧環は一旦口を閉じ、長実雛罌粟の発言を待って再び口を開く。
「これは狻猊の独り言ですが、最近、灰色の傘を一本作ったと言ってました。灰色海月の依頼だそうですが、彼女が使用する傘ではないようです」
「灰色海月……また獏か」
「これも確認しましょうか?」
「ああ。平時は報告義務は無いが、今は情報が欲しい」
灰色と聞き、長実雛罌粟は獏の所にいた灰色の青年を思い浮かべたが、今度は口を挟まなかった。口止めをされたが、あの青年は逃れられないようだ。
「はい。行ってきます」
白花苧環は颯爽と踵を返して扉を開ける。何かがぶつかる鈍い音がした。
「?」
ドアノブを握る手の勢いを落とし、そろりと扉の向こうを覗く。灰色の長い髪の女が顔を押さえて蹌踉めいていた。
「クラゲ……?」
「は……はい……」
恐る恐る手を離して目を合わせ、白花苧環は顔を見た瞬間に血の気が引いた。
「鼻血が……病院に行きましょう!」
何事かと、部屋の中で狴犴と長実雛罌粟も怪訝な顔を傾ける。
「この程度ならすぐに止まりますよ。これを使ってください」
灰色海月の背後から黒い少年がハンカチを取り出した。彼女の出血を注視していてその背後に気付くのが遅れた。科刑所の廊下は薄暗く、黒い色は紛れ易い。
瞬きを忘れてしまった白花苧環を余所に灰色海月はハンカチを受け取り顔に当てる。白いハンカチが赤く染まってしまった。
「アルペンローゼ……?」
反射的に嫌な記憶が蘇る。場所が科刑所と言うこともあり、変転人を恐怖に陥れたヴイーヴルのことが脳裏を過ぎる。もう過去のことだと仕舞い込んでいたのに、彼の顔を見て引金を引かれた。
「すみません、驚かせてしまいましたね。今日は警戒させるような用で来たわけじゃないんです。寄生虫でお騒がせした件ですが、犯人の死刑の準備が整いました。宵街の方を見学に招待するために来たんです」
「貴方一人ですか……?」
背筋に冷汗が流れそうになるが、畏縮してはいられない。廊下の奥に視線を巡らせる。獣がいる気配は無い。
「はい。一人です」
アルペンローゼは前へ出、白花苧環の背中越しに様子を窺う狴犴に恭しく首を垂れた。
「書簡を預かっています」
「苧環、通していい」
狴犴の声は平時と変わらず淡々としている。白花苧環は道を空け、灰色海月をソファに座らせた。
「死刑見学の招待だと聞こえたが」
「はい。こちらの招待状をどうぞ」
花街の封蝋が施された封書を狴犴の前に置いてアルペンローゼは下がる。狴犴は感情の乏しいアルペンローゼの顔を一瞥し、内容は重いのに軽い招待状の封を切った。それに目を通し、微かに眉間に皺を寄せる。
「……死刑を執行するとは思えない文だが、花街の主要な目的は死刑の後の食事会なのか?」
アルペンローゼはフェルニゲシュとヴイーヴルが手紙を書いたということしか知らないが、おそらくヴイーヴルが大半を書いたのだろうと推測する。
「僕達にとっては長年の交流がある獣の死刑です。感情の詮索は野暮と言うものでしょう」
「無理に明るく振る舞おうとして空回りをするような文だが、お前の言う通り汲み取ろう」
「感謝します」
無理ではなくヴイーヴルは本当に食事会を楽しみにしているのだが、それはアルペンローゼが口を割る必要は無い。アイトワラスのことを何とも思っていないわけではないが、ヴイーヴルは楽しそうに食事のメニューの希望を出していた。
「宵街の方もメニューや食材の希望を出してくださって構いません。食べられない物やお好きな物もあると思いますので」
「死刑まで随分と時間を要したな。招待に応じるか各人に確認するが、時間はあるか?」
「僕は案内も仰せ付かっているので、確認が済むまで待ちます」
「招待状にも『アルペンローゼと一緒に来て』と書かれている。少し時間を要するかもしれない。その間――」
狴犴は一度口を閉じ、待機場所を考える。花街から招待に訪れただけの彼を罪人の牢で待たせるのは気が引ける。科刑所と病院も待機には適さない。下層にある図書園だと有色の変転人を警戒させてしまうかもしれない。
「差し障りなければ、獏さんの所で待っていてもいいですか?」
扱いを考え倦ねているのだろう。アルペンローゼはそう察して提案した。
「客人をあそこで待たせるのは気が進まないんだが、お前がそう言うなら構わない。――と言いたい所だが……」
変転人の死体の件で報告が重なり、獏の牢に見知らぬ変転人が保護されている。首輪の様子を見ている管狐もいる。客人のアルペンローゼをそこで待たせるのは些か躊躇がある。
「変転人の死体が見つかったそうですね」
だが心配には及ばず、彼は既に騒動を知っている。
「! 獏から聞いたのか?」
「花街の変転人ではないかと尋ねられました。僕は否定しましたが、念のために死体を確認させていただいても構わないでしょうか? その後に獏さんの所で待機します」
「ああ。私も旅行者ではないかと憂慮していた。灰色海月、鼻血が止まっていれば病院へ案内してくれるか?」
「はい。もう少し待ってください……」
「すみません……」
ハンカチを離せない灰色海月に、白花苧環は消え入りそうになりながら謝罪を呟く。自分の仕事に集中していて、扉の向こうの気配にすら気付かないとは。
「苧環はここで灰色海月から聞き取りを行ってくれ。私はその間に招待を受けるか確認する」
「はい」
「長実雛罌粟は工房の後にもう一度報告書を提出してくれ。攻撃の経緯や状況の詳細が知りたい。他にも気付きがあれば記してほしい」
「はい」
「アルペンローゼはソファに掛けていてくれ」
「承知しました」
各自に指示を出し、狴犴は携帯端末を取り出す。花街の寄生虫騒動に関与した獣達に死刑を見学したいか問う。携帯端末で問う内容ではないだろう。
長実雛罌粟は軽く頭を下げて退室し、白花苧環は灰色海月の対面へ、アルペンローゼは彼女の隣に腰掛けた。
「……クラゲ、会話はできますか?」
「できます。鼻が塞がっても口は開くので」
「そうですね……。では質問ですが、最近工房で新しい灰色の傘を制作してもらったようですが、誰が使用する傘ですか?」
「…………」
「クラゲ?」
「会話困難になりました」
「……。疚しいことがあるんですか?」
「悪いことはしてません」
「獏が関係してますか? 譬え獣に口止めされて話せないとしても、獏は罪人です。罪人の口止めは無効です。話したことで貴方が危険に晒されるなら、オレが護ります」
「……危険ではないです。信頼です」
「わかりました。獏が関係してますね。後程、仕置印を持って行きます。監視役を脅すとは、悪辣な罪人です」
「!」
「どうかしましたか?」
「やっぱり言います……獏が痛い目に遭うのは嫌です……」
「わかりました。仕置印は無しにします」
灰色海月は獏を信頼し、獏を庇おうとする。白花苧環は彼女のその性格を利用した。
「見知らぬ変転人……と報告しましたが、以前善行をした時に知り合った変転人です。その人が手紙を出したわけではないんですが」
「もしや、その変転人に傘を?」
「はい……宵街のことも何も知らない人です。人間の街で平穏に暮らしたいそうです。なので、宵街に知られないように……」
「成程。灰色の傘と言うことは、灰色の方ですか? 名前を聞かせてもらってもいいですか?」
「灰色の男性です。眩草さんです。どうか内密に……」
「わかりました。話してくださってありがとうございます。後程死体の件で話を伺いに行くかもしれませんが、生活を脅かさないよう配慮します」
白花苧環は狴犴を一瞥して判断を仰ぎ、彼が携帯端末を耳に当てながら頷くのを確認する。
「……これは個人的になんですが、その人が宵街に入ることを躊躇うのは何故ですか?」
「それは……獣をあまり良く思ってないみたいです」
「そうですか。では獏の所に居る間、獣が行かないよう配慮します」
白花苧環は今し方話したことを紙に書き留めておく。後で狴犴が確認する紙なので丁寧に記す。
「そろそろ鼻血が止まった気がします」
「では病院に。オレも同行します」
紙を狴犴の机に置き、白花苧環は二人と退室した。
無言で聞き取りに耳を傾けていたアルペンローゼは会話を頭の中で反芻する。獏の牢で会ったあの変転人は特殊な出自のようだ。
(宵街の規則に縛られていない変転人……もし彼が変転人を殺しても咎められないのか……?)
薄暗い石段を下り、酸漿提灯が病院までの道を照らす。アルペンローゼも訪れたことがある施設だ。蔦の絡む茂みを分け病院の入口を潜り、受付の姫女苑が三人に気付いて顔を上げた。
「アルペンローゼさん!?」
「驚かせてすみません。使いで来たんです」
「御使いでしたか……あっ、死体の確認でしょうか?」
「使いとは別件ですが、確認できますか?」
「はい! できます。苧環さん、案内してもらってもいいですか?」
「わかりました」
元よりそのつもりだった。先に行く白花苧環に灰色海月とアルペンローゼも続く。
薄暗い地下へ下り、明かりの灯る部屋のドアを再び叩く。幼い少女の姿をしたラクタヴィージャの分身体が間を置かずにドアを開いた。
「アルペンローゼ? 花街からも確認……にしては早いわね」
「別件で伺ったんですが、このようなタイミングで」
「ああ……いつもは暇なのよ。こんな物騒なことばかり起こってるわけじゃないから」
三人の様子を窺い、ラクタヴィージャは死体の顔を覆う布を捲った。首から下を布で覆った土気色の少年は人形のように微動だにしない。アルペンローゼは瞳を閉ざした顔をよく観察し、やはり見覚えは無いと首を振る。
「花街に戻ったら、念のために旅行者に尋ねてみます。もしかしたら目撃者がいるかもしれないので」
「助かるわ。宵街の中じゃ望み薄だったのよ。夜は寝るからあんまり人間の街に行く人がいなくて」
「多大な御迷惑をお掛けしたので、少しでも力になれれば」
「最近多いのよね……身元不明の変転人の死体」
「この方だけじゃないんですか?」
ラクタヴィージャは白花苧環を一瞥し、彼が止めないので話すことにする。科刑所には当然報告が上がっている。白花苧環も既知だ。身元不明の死体を花街に確認してもらう良い機会だ。
「この人以外は纏まって海で見つかったの。大量廃棄された人形みたいに」
「それほど大量にですか? さすがに多数が行方不明だと花街でも騒ぎになりますが……」
「一度に全部ってわけじゃないのよ。回収したのは五人だけど、他は人間か変転人か特定できないほど損傷してたり骨になってたり。回収した五人の内、無色は二人なんだけど……三人は有色みたい」
「有色が人間の街で見つかるんですか? 宵街の変転人の行動がわかりませんね」
「有色は宵街で暮らしてもらうのが普通ね。無色は獣に所有されたり、人間の街に棲みたいって言う人もいるけど、有色は今のところ宵街での生活を望む人ばかりよ」
「有色は自力の転送が不可能なので旅行は困難ですが、無色や獣に同行することは可能です。ですが……獣が変転人を作ってすぐに殺した……なら、有色の死体が人間の街で発見されることも不思議ではありません」
「有り得なくはないけど。宵街では多数の人間を一度に殺してはいけない規則があるから、どうしても殺したい衝動があるなら変転人を作って殺せばいい……気分の悪い話だけど。変転人に危害を加えてはいけないって規則もあるんだけどね」
「そちらの死体も確認させていただいても?」
「いいわよ」
「海月さんは待合室で待っていてください。気分が優れないようなので」
アルペンローゼはラクタヴィージャに続いて安置室を出る。残された灰色海月は返事をする暇も無かった。白花苧環も彼女の顔色を窺い、無表情の彼女を連れて安置室を後にした。
待合室の長椅子に腰掛けると受付に座る姫女苑が一瞥するが、声は掛けずに手元へ視線を戻す。
「……鼻血の所為で貧血でしょうか?」
もしそうなら白花苧環の所為だ。彼は怖ず怖ずと彼女の顔を窺う。顔色はいつもと変わらないように見える。アルペンローゼは白花苧環よりもずっと年上で経験が豊富だ。白花苧環が気付かない機微にも気付く。
「貧血ではないです……気分が悪く見えたなら、たぶん死体を見たからだと思います。変転人の死体は慣れなくて……」
「そうでしたか……気付かずすみません。アルペンローゼがクラゲを置いて行ったのは、気付いたからなんですね」
「死体がたくさん見つかったというのは、初めて聞きました」
「ああ……機会があればクラゲの耳にも入れていいと許可を貰ってます。獣の覇下は覚えてますか? 善行中に会ったはずです」
獏に『人魚が見たい』と手紙が投函された時のことを思い出す。人魚の正体は龍生九子の兄弟の一人であり狴犴や贔屓の妹、覇下だった。覇下は海を自由に泳ぎ、海底から骨を拾っていた。
「まさか、あの海に沈んでた骨ですか……?」
「はい。贔屓が後日改めて覇下に拾わせ、骨以外にも真新しい死体を拾って来ました。なので宵街も警戒を強め、無色が交代で人間の街を監視してます。長実雛罌粟もその件で行動してました。犯人の目的は不明なので、クラゲも気を付けてください」
「はい……。連続殺人事件なんでしょうか……」
「それはまだ何とも言えません。犯人は獣なのか人間なのか、変転人なのか、同一犯なのか、何も判明してないです。海に沈んでいた死体と先程の死体は死んだ時期が数ヶ月は離れているので別の事件としてますが、連続殺人事件の可能性も無いとは言えません。獏の所にいる眩草にも念のため注意喚起しておいてください。獣や宵街に嫌悪があっても、変転人だということに変わりはないので」
「はい……わかりました」
「もしクラゲが獏への手紙を一人で回収する際に恐怖を感じるなら、暫く獏の善行を休ませるか、もう一人変転人を派遣するかオレから進言しますが。どうですか?」
「大丈夫です。私は監視役なので」
「そうですか? それなら無理にとは言いませんが……何かあればいつでも電話を掛けてください」
「ですが、狴犴さんに直接掛けろと言われたので……」
「気にしないでください。狴犴はオレがすぐに飛び出すのを止めたいだけなので。オレが踏み止まればいい話です」
「できますか?」
「できます」
最近の白花苧環の課題は配慮である。彼は生まれて一年ほどしか経たないが前世の素質を継ぎ、身体能力は申し分無い。戦闘も臆しない。無色としてそこは充分なのだが、それ以外はからきしだ。家事も得意になりたいがそれは自分のためなので、それよりも他人のためになることを優先する。つまり他人に気を配って慮る、人の気持ちを考えることが課題だ。
アルペンローゼが安置室から戻る頃には灰色海月も幾らか落ち着いていた。彼は全ての死体を確認したが、こちらも顔に覚えは無かった。
「顔は覚えたので似顔絵を作成して花街でも情報収集を行ってみますが、花街の変転人の線は無いでしょう。期待はしないでください」
「何故ですか?」
「旅行者なら翻訳機を付けているはずですが、耳には何も付いてませんでした。もし紛失していたとしても、翻訳機は城が貸し出す物なので、返却されていない翻訳機が多ければ僕も違和感を覚えます。ですが、申請された期間を過ぎても返却されていない翻訳機は無いです」
「成程」
「翻訳機を持たず旅行に行く例もないわけではないので気に懸けてはおきますが、今回は花街は無関係の可能性が高いです。もし花街が関係しているなら協力しますが、宵街の問題なら力になれません。――とは言っても僕が決めるわけではないので、大公が協力的なら吝かではありません」
「大公は……現在はヴイーヴルとズラトロクだけですか?」
「はい。死刑を終えてから新しい大公を募集する予定です。宵街から立候補されてもいいですよ」
「引き抜きですか……?」
「そのつもりはありませんが、面接を受けるなら歓迎します。と言う意味です」
「面接で決まるんですか……」
獣が椅子に座って大人しく問答する様はきっと奇妙な光景だろう。
「海月さん、獏さんの所へ連れて行ってください」
「は、はい」
灰色海月は顔に当てていたハンカチをそっと下ろす。鼻血は完全に止まった。
「アルさんのハンカチは治癒力を高めてくれました」
「そんな効果は無いですよ」
彼自身に備わっている驚異的な治癒能力は、持ち物にまで染み付かない。冗談だろうと思いつつアルペンローゼは返答した。
「見学希望者が揃ったら声を掛けてくれますか? それとも機を見て科刑所に伺いましょうか?」
「声を掛けに行きます」
「ではお待ちしています」
アルペンローゼは受付の姫女苑にも挨拶をし、灰色海月と共に病院を後にする。残された白花苧環は彼の一挙手一投足を観察し、仕事のできる変転人は気遣いと気配り、そして無駄の無い動きをするのだと胸を打たれた。
(彼を手本にしてもいいかもしれません……少なくとも家事は得意になれそうです)
白花苧環も姫女苑に頭を下げて科刑所に戻った。
狴犴の部屋には獣が増えていた。狴犴は自席で書類に目を落とし、ソファには少年と青年の姿の獣が座っている。
「戻りました」
「おかえり、苧環」
答えたのは贔屓だ。招待状に目を通していたが、白花苧環のために顔を上げる。
「アルペンローゼは獏の所へ行きました。見学希望者が揃ったら声を掛けてほしいとのことです」
「そうか。今の所は僕と蒲牢だけだな」
向かいに座っていた蒲牢は少々浮かない顔で白花苧環を一瞥する。口は開かない。
「僕も死刑の見学にはあまり気が乗らないんだが、招待を受けた以上、誰かは見届けるべきだろう」
「俺は食事会だけでいい」
「それは花街に聞いてみないと」
食事会には興味があるが死刑の見学には興味が無い。その気持ちから蒲牢は浮かない顔をしていた。
「同様に饕餮や椒図、蜃も食事会だけならと言っている。窮奇はどちらも興味が無いようだ。鵺は連絡待ちだよ」
「獏も行かないか?」
「獏は罪人だからな……狴犴が許可しないと」
狴犴を一瞥すると、彼は無言で首を横に振った。罪人にそんな自由は無い。
「苧環、死体は確認したか?」
「はい。アルペンローゼにも覚えは無いそうです。最近回収した死体も確認してもらいましたが、そちらも同じです。花街は無関係だろうとの見解です。ですが花街でも尋ねてくださると」
「ありがたいが、花街の調査には期待しないでおこう」
調査をすると言って消極的だった先例がある。この部屋に今いる者達は知っている。
「……死体って?」
聞き流して良い単語ではないだろう。蒲牢はソファの背に凭れて問う。贔屓は引き揚げに関与しているが、蒲牢は死体が発見されたことをまだ知らない。
「蒲牢にも話しておいた方がいいな」
「知らないのは俺だけか?」
「ここに居る者達の中では、そうだな。一件は、覇下が見つけた海底の死体だ。これは数が多く、」
「待って。覇下? 同名の他人か?」
「ん?」
贔屓は覇下が見つかったことを狴犴に報告している。当然その後、兄弟達に連絡が行き渡っているはずだ。贔屓は狴犴の方を見、彼は無言で首を横に振った。
「!? な……何故言ってないんだ……?」
「すまない。化生を感知していると思い込んでいた」
「狴犴も感知してなかっただろ……?」
「ああ。私の感知力が弱いんだと考えてしまった。私はこの通り印に頼る身だからな」
「そんな所で卑下するな……狴犴は弱くなんてないよ。立派な獣で、自慢の弟だ」
「……よく恥ずかしげも無く言えるな」
「フ……照れなくていい」
「言い合わなくていいから肝心なことを教えて」
弟と妹達は長子の贔屓にとって目に入れても痛くない自慢の存在である。あまり口にはしないが、喧嘩をすることはあっても嫌うことは無い。
「獏の善行中に覇下と名乗る獣が現れたんだ。兄弟がいることを知らないようだったが、それに関しては饕餮の例がある。彼女は僕達の妹で間違い無い。昔見た彼女の面影があった」
「…………」
蒲牢は目を丸くし、睫毛を伏せる。何百年も死んだままだった覇下が漸く化生して喜ぶべきなのに、不安が勝る。
「記憶は……?」
「化生前の記憶かい?」
「うん」
「無いようだったよ」
その言葉に安堵した。もし記憶があれば覇下は蒲牢を恨んでいただろう。だが安堵していることに自己嫌悪する。覇下を殺したのは蒲牢なのに、それを覚えていないことを安堵するなんて最低だ。譬え彼女が覚えていなかったとしても、殺した罪は消えない。
「覇下は……どんな感じだった?」
「昔と比べて身長が伸びていたよ。それから、随分と明るくなった。少々抜けていると言うか、おっとりとした印象だったな」
「明るく……?」
昔の覇下は、幼子だった頃に見た残酷な光景の記憶を引き継ぎ、その恐ろしさに常に震えていた。いつも暗い顔をして怯えていた。
その記憶を全て死と共に置いて来た今代の覇下は、明るい表情ができるようになった。
「じゃあもう……俺は会わない方がいいな。俺を見たら何か思い出すかもしれないし、思い出さなくても体の何処かが嫌悪感を覚えてるかもしれない」
「蒲牢? 君が一番会いたがっていると思っていたんだが……」
「会いたいわけじゃない。ただ……全然化生しないから心配だっただけだ。化生したんなら、俺のことは知らずに平穏に暮らしてほしい」
「兄弟の名前は既に全員教えてしまった」
「贔屓……」
「大事なことだからな。兄弟が多くて覚えられないと言っていたよ」
「俺のことは忘れていいよ」
「だから紙に書いて渡しておいた」
「…………」
面倒見の良い兄に、蒲牢は頭を抱えたくなった。
「気になるなら獏に聞いてみるといい。最初に会ったのは獏だから、彼女の素の部分が知れるはずだ」
「獏の所に覇下はいないよな?」
「覇下は海で暮らしているから、獏の所にはいないよ」
「獏って川の終着点みたいだな……」
「?」
「何でも集まってくる」
「ああ……人徳かな?」
獏は罪人だが、心に寄り添うことが上手い。困った時に駆け込む人もいれば、内緒で匿うことも、獣を嫌う見知らぬ変転人が身を寄せていることもある。
「……獏の所に行ってくる」
「ああ、わかった」
獏の牢には今、獣を嫌う眩草と使いで来たアルペンローゼ、そして首輪の調子を観察している管狐がいる。よくもこんなに集まるものだと贔屓は感心する。
携帯端末を確認していた狴犴は書類に目を戻し、顔を上げずに口を開いた。
「蒲牢。獏の所へ行くなら、戻る時にアルペンローゼも連れて来てくれ。鵺から連絡が入った。彼女も招待に応じるそうだ。蛙と蝸牛が食べたいと言っている」
「鵺って変なもの好きだよな……」
結局、一番の目的である死刑見学のために花街に赴く者はいないようだ。皆、花街の異国の料理の方に興味を示している。
「蒲牢は食べたい物はないのか?」
「ん……」
蒲牢が答えようとした時、扉が勢い良く開け放たれた。部屋の中の全員が訝しげに顔を向けた。
「連続殺人事件が起こったと聞いたの! この迷宮入りの難事件、このザクロ巡査が解決してあげるの!」
元気に手を上げて入って来たのは幼い少女の容姿をした変転人、白実柘榴だった。背後で黒葉菫が何度も申し訳無さそうに頭を下げている。
「すみません、見回り中に話していて……」
「柘榴、巡査は殺人事件の捜査に参加できないよ」
「!? ……ち、違うの……巡査じゃなくて……ぅ……あっ、捜査一課なの!」
「すみません、御邪魔しました……ザクロ、せめてノックしろ」
黒葉菫は白実柘榴を引き摺って下げ、扉を閉める。扉を隔てて彼女の声が遠ざかっていく。彼らは新人教育の一環で宵街の見回りをしていた。
「頼もしいが、無茶はさせないようにしたいな」
「少し気が紛れた。獏の所に行ってくる」
「ああ」
無邪気で天真爛漫な白実柘榴は手綱を握るのが難しいが、場を和ませてくれる。黒葉菫はまるで小型犬を散歩させている気分だろうが、見る側は他人事なので微笑ましい。
蒲牢が退室するのを目で追い、狴犴と贔屓は各々手元の紙に視線を落とした。




