↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
~フェイトの記憶 ~  作者: Yūyake
シーン3 ― 押し殺された叫び
29/31

第21章 : オラリオン王都

二日後


私たちは、オラリオン帝国の帝都――ノルスへ向けて出発したばかりだった。そこまでは、護送隊で二週間ほどの道のりだ。だが、なぜ私たちはこんな軍の輸送隊に乗っているのだろうか。

「つまり、あなたは《紅の大竜》に追われている、と言うわけですか?」

アルスが尋ねた。

「ええ。もう四か月以上になるわ。あの竜の狙いは私だった。だから、エイレネを殺したとは思えないの」

ニマリはそう答えた。

アルスは腕を組み、彼女の真意を測りかねている様子だった。

「正直なところ、《紅の大竜》については伝承でしか知りません。しかし、本気であなたを殺すつもりだったなら、その場で仕留めていたはずです。」

「つまり、手加減していたってこと?」

「まあ、私を見れば分かるでしょう。私たちはあなたを見つけ次第、殺害せよという命令を受けていました。ニッツァ襲撃の時も同じです。ですが、その命令書は何者かによって改ざんされていた気がします。」

「……誰がやったのか、心当たりはあるわ。」

アルスはため息をついた。そのやり取りを私は必死に追っていた。

私は彼へ身を寄せ、小声で尋ねる。

「皇帝って、どんな人なんですか?」

「うーん……そうですね。ミュライとは正反対で、とても慎重な方ですよ。」

その言葉を聞いた瞬間、視界の端でニマリが驚いたようにわずかに顔を引きつらせるのが見えた。

「ミュライって誰?」

アルスは生えかけの髭を掻きながら、どこか同情するような目で私を見た。

その視線の意味が分からず、少し腹が立つ。

「実は、ミュライとは国の名前でもあり、その国を治める女王の名でもあります。あなたの故郷の国ですよ。」

「自分がミュライという国に住んでいたことは知っていました。でも、その国を治める人まで同じ名前だなんて、まったく知りませんでした。」

ニマリは慌てたように私へ向き直った。

「忠告だと思って聞いて。もし彼女に会ったら、何も考えずに逃げなさい。警告なんて必要ないわ。」

ニマリが慌てたり取り乱したりする姿は珍しかった。

だが、その名を口にしただけで恐怖に染まった彼女の表情を見て、私は警戒せずにはいられなかった。

一方のアルスは、小さく呟く。

「……なるほど。そういう事情でしたか。」

「ねえ、ニマリ。一つ聞いてもいい? その《悪》が頭の中に現れる前、ミュライとは血の繋がりがあったの?」

「勘違いしています。《ラヴォワ》は、私が生まれた時からずっと私の中にいました。」

その言葉に、アルスは目を見開いた。

「そんな存在と、一つの頭で生きているのか!?」

「記憶まで共有しているわ。」

「なるほど……あなたがそこまで現実離れしている理由が分かりました。そんな、人間をあまりにも哀れむような視点と共に生きていれば……。」

ニマリは額に手を当て、痛みを堪えるような仕草を見せた後、アルスへ小さく微笑んだ。

「ええ。彼が経験したことは、ほとんど覚えているわ。まるで私の一部が、彼の前の器のまま残っているみたい。でも幸い、私は彼じゃない。」

「どうしてそこまで言い切れるんです? あなたの自我そのものが、彼の記憶に書き換えられているだけかもしれない。考えてみてください。あなたの中には何千年もの記憶があるんですよ。その四分の一を想像するだけで、私は気が遠くなります。」

「それは断言できるわ。彼のかつての妻の一人と再会したもの。」

アルスの隣にいたサクラは目を細め、窓の外へ視線を逸らした。

「報告書で読みましたが……あまり良い再会ではなかったようですね。」

「ええ。私の身体は、《ラヴォワ》の過去を一度に受け止められるほど強くなかった。何度も《深淵》に呑まれかけたわ。」


◆ 深淵アビス


深淵アビス》とは精神状態の一種である。

それは鬱よりも深く、狂気よりも恐ろしい感覚だった。

一度その状態に陥れば、あらゆる感情は現実味を失い、すべての概念はただの言葉へと変わってしまう。

――殺人でさえも。

アルスは目を細めた。

「それで、お前自身は《深淵アビス》に落ちたことがあると思うか?」

「いいえ。でも、私はそれを見てきた……そして、私が出会った二人が《深淵》にいることだけは確信しているわ。」

「誰のことか、聞いてもいいか?」

アルスは興味深そうに尋ねた。

「一人目は……あなたも予想しているでしょうけど、ミュライ。そして二人目は、ルシア・クリーク。その人は、あまりにも長い間、一人で生き続けてきた。」

アルスは驚く様子もなかった。

一方の私は、自分の足元を見つめていた。

師匠に、そこまで深刻な悩みがあるようには思えなかったけど……。

……いや、待って。

「あっ、小さい頃のことを思い出した! 師匠、自分がどんな病気なのか分かってるって言ってた!」

二人は不思議そうに私を見た。

「一人で部屋にいると、よく変な声を上げてたの。もしかしたら、お腹でも痛かったのかな?」

二人はぴたりと固まった。

しばらく顔を見合わせたあと、アルスは突然吹き出した。

「私、何か変なこと言った?」

「いや……いや……はははっ……ああ、駄目だ……。お前はきっと女にモテるぞ。でも、その理由は今は教えないでおく。」

アルスは笑いながら答えた。

息を整えようとしていたニマリも、私の方を向いて言った。

「ふふっ……それだけは、お願いだから誰にも言わないでね、フェイト。」

「う、うん……?」

ようやく落ち着きを取り戻したアルスは、窓枠に肘を乗せるようにして言った。

「そうだな。俺もお前と同じ考えだ。最後に彼女と会った時には、もう普通の精神状態じゃないことくらい分かっていた。あいつは完全に現実を見失っている。」

「あなたの言う通りよ……。」


◇ ◇ ◇


私たちは四日以上、馬車で旅を続けた。

私の背中はすっかり悲鳴を上げており、それは守備隊の半数も同じだった。

機会さえあれば、女の子たちは馬車の外へ出て身体を伸ばしていた。

一方、ニマリはその間ずっとアルスと話し続けていた。

そして気づけば、二人はすっかり打ち解けていた。

「お前の頭の中にいる男の強さには興味がある。」

「《ラヴォワ》と戦いたいの? 頼んでみるわ。」

ニマリは静かに目を閉じた。

最近では、《ラヴォワ》と話す時は必ずそうしていた。

目を開けたまま話すと、まるで目を開けたまま眠っているように見えてしまうからだ。

正直、かなり不気味だった。

しばらくすると、ニマリの髪が少しずつ白く変わり始めた。

特に毛先が目立って白く染まっていく。

彼は立ち上がると、そのまま出口へ向かった。

「えっ? どこ行くの?」

「おい、小僧。俺と戦いたいんじゃなかったのか?」

アルスは満面の笑みを浮かべながら立ち上がり、その後を追う。

私はその場で固まってしまった。

ニマリの目つきが、さっきまでとはまるで違っていたからだ。

――これが、《ラヴォワ》の力。

私は外へ出て、向かい合うアルスとニマリの後ろについた。

二人はすぐに一対一で向き合った。

その場の空気が、一瞬で張り詰める。

左側に立つアルスは剣を抜き、肩へと担いだ。

対するニマリは静かに刀を抜く。

同行していた兵士たちは、あっという間に二人を囲んだ。

「何が始まるんだ?」

「子どもの一人がアルス様に勝負を挑んだらしい。」

アルスは指を鳴らしながら、地面に足を軽く打ちつけて草履の位置を直すニマリを見た。

「俺は負けるわけにはいかないんだ。部下たちの前で恥をかくわけにはいかないからな。」

「持ってるもん全部見せてみろ、小僧。」

ニマリの挑発に、兵士たちは一斉に目を見開いた。

彼らには、自分たちの隊長へ向けられたその挑発が、どれほど常識外れのものなのか理解できていなかった。

だが、ニマリが剣を目の高さに水平に構えて構えを取ると、兵士たちは彼の刀身が折れていることに気づいた。

「折れた刀で何をするつもりなんだ?」

私も兵士たちと同じような目でニマリを見つめた。

正直、あの刀はとても強そうには見えなかった。

けれど、不思議なことに、アルスは彼を初心者扱いしている様子はまったくなかった。

「フェイト! 開始の合図はお前に任せる。」

「えっ!? わ、分かった! みんな準備して……三……二……一……始め!」

私が開始を告げた瞬間――

誰一人として動かなかった。

張り詰めた空気だけが、その場を支配していた。

そして次の瞬間。

先に飛び出したのはニマリだった。

一瞬で間合いを詰め、そのまま鋭い一閃を真正面から振り下ろす。

しかし、アルスも甘い相手ではない。

足を払うような蹴りで刀を弾き飛ばした。

ニマリは後方へ宙返りしながら距離を取り、その勢いのまま蹴りを放つ。

だが着地すると同時に、さらに後ろへ跳び退いた。

折れた刀身が、ただの鉄くずのように地面へ転がる。

顔を上げたニマリは肺の空気をすべて吐き出し、拳を強く握って構えた。

アルスは、その瞬間に理解した。

《ラヴォワ》という存在が、どれほど危険なのかを。

武器を失った状態でもなお、迷いなく自分に構えられる。

本気を出せば、おそらく同じ土俵ですら戦えない。

そう確信した。

アルスは笑う。

「なるほど……皆が警戒する理由が分かった。」

アルスも構えを取り、ニマリを見据える。

ニマリは一切視線を逸らさず、その姿勢を崩さない。

兵士たちは腕を組んで見守る者もいれば、武器を握ったまま息を呑む者もいた。

誰一人として、この勝負から目を離さなかった。

やがて、先に動いたのはアルスだった。

大きく踏み込み、真っ直ぐな縦斬りを放つ。

ニマリはまるでボクサーのように身体を傾けてかわす。

そのまま剣の腹を叩き、軌道を逸らした。

そして反撃に移ろうとした瞬間――

アルスの拳がニマリの腹部へ突き刺さった。

「うわっ……えげつない。」

「完全に不意打ちだな。あの坊主、もう立てねぇぞ。」

ニマリは腹を押さえ、その場で胃の中のものを吐き出した。

「どうした? もう終わりか!」

アルスには容赦というものがなかった。

……だが、おかしい。

ニマリは竜と渡り合えるほどの力を持っている。

それなのに、なぜここまで押されている?

「髪が!!」

誰かが叫ぶ。

いつの間にか、ニマリの髪は黒へ戻っていた。

今戦っているのは《ラヴォワ》ではない。

ニマリ自身だった。

私はそのことに、もっと早く気づくべきだった。

どうして彼は、一人で立ち向かおうとしたの?

勝てないことくらい、分かっていたはずなのに……。

アルスは背を向けた。

ニマリは地面にうつ伏せになり、必死に呼吸を整えている。

「頑張れ、ニ!!」

私は思わず叫んでいた。

アルスがこちらを振り返る。

応援していたのは、その場で私だけだった。

ニマリは何も言わず、苦しそうに立ち上がる。

その荒い息遣いだけが、彼の意思を物語っていた。

「気に入ったぞ、小僧。大した度胸だ。」

アルスは剣を手放し、拳だけで構えを取る。

「敬意を表して、お前と同じ条件で戦ってやる。」

「おい……少佐が相手に合わせるなんて初めてじゃないか?」

「あのガキ、一体何者なんだ?」

ニマリは再び構えた。

「見ろよ……。」

「もう足がほとんど震えてるじゃないか。」

「なのに……。」

「それでも、立ってる。」

アルスは右のフックを放つ。

拳はニマリの顔面へ直撃した。

それでもニマリは、一歩も動かない。

「気絶したのか?」

その静寂を切り裂くように――

「ああああああああああ!!!!!」

ニマリの拳がアルスの顔面へと深々とめり込んだ。

しかし、アルスもまた微動だにしない。

「当てた……。」

「……くそったれ。」

アルスは立ち上がり、顎を鳴らした。

ニマリは数歩後ろへ下がる。

――今の一撃は、確かに届いた。

いや……

彼はついに、自分自身を制御し、その力を使いこなせるようになったのだ。

ニマリは両腕を高く突き上げ、大声で叫んだ。

「よっしゃああああああああああっ!!!!!」

すると兵士たちが次々と彼のもとへ駆け寄り、口々に祝福を送る。

「フェイト! 見たか!」

私は笑って答えた。

「うん! すごかった! いい一発だったよ!」

そう言いながら、私は彼のもとへ駆け寄った。


◇ ◇ ◇


一週間後

私たちは、ようやく帝都の手前までたどり着いた。

だが、そこには検問所が設けられていた。

包囲網をかいくぐってきた再犯者を見つけ出すためのものらしい。

アルスは私に、異常者検査を受けずに済むよう、馬車の中で隠れているよう指示した。


◆ 異常者検査

この検査では、決められた詠唱を口にする。

この世界の住人は魔力を持たないため、魔法を使うことはできない。

しかし、《異常者》だけは、その詠唱を発動させてしまう。

「アルスさん……。」

ラーレは不安そうに彼を見つめた。

アルスは優しく彼女の頭に手を置き、その髪をそっと撫でる。

「いい子でここで待っていてくれ。」

そう言って外へ出ると、門番たちと話し始めた。

こちらまでは内容は聞こえず、くぐもった声だけが微かに届く。

しばらくしてアルスが戻ってくると、再び馬車へ乗り込んだ。

そして馬車は再び走り始める。

「よし。通行許可は何とか取れた。だが、お前たちを身元保証してくれる法人が必要になる。」

「どうして?」

ニマリが尋ねた。

「お前たちは移民という扱いだからだ。責任を負ってくれる法人がなければ、自由に行動することはできない。」

ニマリは腕を組み、眉をひそめた。

「ということは、フェイトには帝国での身分があるのか?」

「エイレネの執務室を調べてみないと分からないな。確か、手続きを進めていたはずだ。ただ、彼女はミュライの国民だったから、申請がなかなか進まなかった。」

「手伝わなかったのか?」

アルスは苦い表情を浮かべた。

「私たちの結婚自体が政治問題だったんだ。両国の貴族は私たちを快く思っていない。そんな状況で、血の繋がりのない子どもの法的手続きに私まで口を出せば、かえって立場が悪くなっていた。」

私は俯いた。

「……私のせいで、たくさん迷惑をかけてごめんなさい。」

するとアルスは慌てたように声を上げた。

「いや、そんなことを言うな!」

彼は首を横に振る。

「君のおばあさんは、お前をここへ連れて来られることを本当に喜んでいた。いつも言っていたよ。『フェイトは、とても愛らしい子なのよ』って。」

「……ありがとうございます。」

アルスは立ち上がると、私の頭にそっと手を置き、優しく髪を撫でた。

「焦らなくていい、フェイト。おばあさんは、こういう複雑な話になると少し不器用な人だからな。」

「……うん。」

私の頬は少しだけ赤くなった。

こんなふうに誰かが私を気遣ってくれるのは、久しぶりだった。

私は窓の外へ目を向ける。

遠くには、大きな建物の姿が少しずつ見え始めていた。


◇ ◇ ◇


私は馬車から降り、目の前に広がるオラリオン帝国の帝都――ノルスを見上げた。

最初に目を奪われたのは、その圧倒的な人の多さだった。

何百人もの人々が街中を行き交い、それぞれが自分の目的地へ向かい、それぞれの人生を歩んでいる。

私はニマリの方を振り向いた。

彼は微笑みながら私を見ていた。

「ここへ来られて、ずいぶん嬉しそうだね。」

「見てよ、この人の多さ!」

アルスも馬車を降りると、腰に手を当て、大きく背伸びをした。

「さて、お前たちは好きに街を見て回ってこい。四時間後にここで落ち合おう。サクラたちは私について来てくれ。」

「はい。」

サクラはラーレを抱きかかえながら返事をした。

私はニマリの腕を掴み、そのまま引っ張る。

「行こう!」

「分かった、分かった!」

私たちはそのまま帝都を歩き始めた。

この街には、ほかの都市とは違う三つの特徴があった。

一つ目は、巨大な鉄の塔。

まるで矢のように鋭く天へ伸び、その頂上からは白い煙のようなものを噴き上げていた。

二つ目は、街並みそのものだった。

ヴィクトリア様式とゴシック様式が混ざり合ったような建築が並び、まるで異世界そのもののような雰囲気を漂わせている。

そして最後に――

「あれが皇帝の城か。」

ニマリが呟いた。

私たちは丘を登った先にある展望台のような場所に立っていた。

眼下には巨大な宮殿がそびえ立ち、いくつもの塔が空へ向かって伸びている。

中でも中央の塔は、白と金の大理石で造られており、ひときわ荘厳だった。

さらに高い場所から見渡すことで、ノルスを構成する四つの主要区画まで見渡すことができた。

「つまり、整理すると……右があの大きな鉄塔。正面がお城。そして左が《大十字大聖堂》。砦の衛兵さんが話していた場所だね。」

「アルスと別れたのも、あそこだったな。」

と、ニマリが付け加える。

「その通り。それで私たちは……住宅街にいるってことかな?」

ニマリは手すりにもたれかかり、風に身を任せた。

「たぶんね。」

それから私たちは、特に目的もなく帝都を歩き続けた。

建物を眺め、通りを歩き、人々の暮らしを眺める。

そんな時だった。

空がふっと陰った。

私は思わず空を見上げる。

巨大な何かが空を横切っていた。

街の人々も足を止め、一斉に見上げる。

「なんだ、あれ!?」

ニマリが驚きの声を上げた。

「でっかい!!」

波のような模様が描かれた淡いベージュ色の巨大なクジラが、帝都の上空を悠々と泳いでいた。

私は鞄から手帳を取り出し、似た生き物を探す。

「あった!」

ニマリが私の本を覗き込む。

「《シルイス》だ。この世界に生息するクジラなんだって。周囲の空気を体内へ取り込み、お腹を膨らませることで空を飛べるらしいよ。」

「じゃあ、水の中には住んでないのか?」

「えっと……うん、そうみたい。」

ニマリはポケットに手を入れたまま苦笑する。

「変わった世界だな……。」

私は布屋の壁に映る夕日を見て、はっとした。

太陽はもうほとんど沈みかけている。

「遅刻しちゃう!?」

「しまった! 時間を見るのを忘れてた!」

私は慌てて走り出した。

私たちは急いで大聖堂へ向かう。

ようやく到着すると、腕を組み、不機嫌そうな顔をしたアルスが待っていた。

「私が何と言った?」

「……ごめんなさい。」

私はしょんぼりとうつむく。

アルスは深いため息をつき、そのまま大聖堂の大きな扉へ向かって歩き始めた。

「ここへ何をしに来たんだ?」

ニマリが尋ねる。

「この大聖堂の司祭と交渉して、お前たちがオラリオンに滞在している間だけ、法的な身元保証を引き受けてもらえることになった。」

「なるほど。」

ニマリは静かに頷いた。

私たちはアルスを挟むように並んで歩き、彼が大聖堂の重い扉を押し開けた。

入口ではラーレとサクラが私たちを待っていた。

その隣には、一人の若い司祭が立っている。

年齢は……二十五歳くらいだろうか。

「おや、アルス様。その子が私がお預かりする少年ですか?」

「そうだ。名前はニマリ。」

アルスはニマリの背中を軽く押した。

ニマリは数歩前へ出る。

司祭は眼鏡をかけ直すと、一歩近づき、ニマリの前でしゃがみ込んだ。

「分かりました。初めまして、ニマリ君。私はギュイール神父です。《大十字大聖堂》に滞在している間は、私が君の担当になります。」

「よろしく。」

するとニマリは目を細めて尋ねた。

「……フェイトは?」

アルスは私の後ろへ回り、両手をそっと肩に置く。

私は見上げながら彼を見た。

「フェイトは今夜、私の家に泊まる。」

「えっ、本当ですか?」

思わず驚きの声が漏れた。

ニマリは小さくため息をつく。

「分かった。今夜だけは任せる。」

「ちょっと! 私は君の持ち物じゃないんだから!」

私は頬を膨らませて抗議した。

アルスは笑みを浮かべたまま、ギュイール神父へ向き直る。

「子どもたちのこと、よろしく頼む。」

「《大十字教会》は、助けを必要とする者すべてに門戸を開いております。」

私は立ち去ろうとするアルスを見送り、深く頭を下げた。

それから慌てて彼の後を追う。

最後にもう一度振り返り、みんなへ手を振った。

大聖堂を出ると、空はすでに夕暮れ色へ染まり始めていた。

「家って遠いの?」

「いや、住宅街だ。」

「みんなと一緒に住んでるの? 皇帝と暮らしてるわけじゃないんだ。」

アルスは小さく笑った。

「いや。マミは王族や、そういう面倒ごとから離れて暮らす方を好んでいたんだ。」

「そうなんだ。」

いかにも、おばあちゃんらしい。

ミオリでの暮らしについて、一度も文句を言っているところを見たことがなかった。

私たちはしばらく街を歩いた。

アルスは、自分とおばあちゃんが一緒に過ごした場所を、一つひとつ教えてくれる。

けれど、不思議だった。

彼が思い出を語る場所へ行くたびに、胸の奥が少しずつざわついていくのを感じていた。


◆ ◆ ◆


ニマリ


ここが、俺と二人の少女に割り当てられた部屋だった。

俺たちはそれぞれ寝床を決める。

ラーレは二段ベッドの上段。

姉のサクラは下段。

そして俺は窓際のベッドを選んだ。

少なくとも窓枠にもたれられる場所くらいは欲しかったからだ。

「フェイト、大丈夫でしょうか?」

ラーレが不安そうに呟く。

「どうしてそう思うんだ?」

俺は首を傾げた。

「だって……あの子が一人になるのは初めてでしょう? しかも、まだよく知らない人と一緒なんですよ。」

それは確かにそうだった。

フェイトは、人懐っこいというか……

悪い意味じゃないが、かなり甘えん坊だ。

それに――

『まったく、あのアルスって男は何様のつもりだ!』

頭の中から《ラヴォワ》の苛立った声が響いた。

「少しくらい好きにさせてやれよ。悪い人には見えなかったぞ。」

『それは認める。だが、どうしてもあいつだけは気に食わん!』

俺はため息をついた。

《ラヴォワ》は昔の恋人が絡むと、本当に理性を失う。

しかも、エイレネからあれだけ酷いことを言われても……

今なお彼女を愛し続けているのだから始末が悪い。

「ニマリ!」

「ん? どうした?」

「また《ラヴォワ》さんと話してたんですか?」

「うん、ごめん。」

二人の方を見ると、思わず目を見開いた。

二人とも《大十字教会》の制服へ着替えていた。

ここに滞在している間は、教会の指示に従うこと。

それがギュイール神父から言い渡された決まりだった。

身元保証の一環でもあるらしい。

「二人とも、すごく似合ってるよ。」

「ありがとうございます!」

ラーレが嬉しそうに笑う。

「ニマリさんは着替えないんですか?」

「こういう宗教っぽい服は、あまり得意じゃないんだ。」

サクラは少し頬を膨らませた。

「一緒に着てくれたらよかったのに……。」

小さな声でそう呟く。

「何か言ったか?」

「な、何でもありません!」

その時、部屋の扉がコンコンと叩かれた。

二人が振り向くと、扉が開き、ギュイール神父がいつもの笑顔で顔を覗かせる。

「食事の準備ができましたよ。」

「今行きます。」

サクラが答える。

「見てください、神父様! 着替え終わりました!」

「おお、とてもよく似合っていますね!」

……その無邪気な笑顔が、どうにも鼻につく。

どんな時でも満面の笑み。

俺たちが《異常者》だと知っても、まるで驚きもしなかった。

いや、返ってきた言葉はたった一つだった。

『神は、あらゆる罪をお赦しになります。』

まるで、あの狂ったルシアを見ているようだった。

……いや。

まったく同じだ。

そう感じたのは俺だけではない。

『ニマリ。』

「どうした?」

『あの男は……すでに《深淵アビス》の中にいる。』

《ラヴォワ》の言葉が、俺の疑念を裏付けた。

――注意しておく必要がある。

あの男は、何かを隠している。

しかも、とてつもなく重い秘密を。


◆ ◆ ◆


食事を終えた私たちは、それぞれの部屋へ戻っていった。

ギュイール神父は私たちへ手を振って見送ると、そのまま修道院の静かな回廊を歩き始める。

やがて、小さな木の扉の前で足を止めた。

扉を開くと、その先には果てしなく続く螺旋階段が伸びている。

彼は迷うことなく階段を下り、石造りの地下通路へ辿り着いた。

そのまま廊下を進むと、いくつもの木製の扉が並ぶ一角へ出る。

鉄の取っ手に手を掛け、一つの部屋へ入った。

中には簡素なベッドと机だけが置かれている。

神父たちの私室だった。

彼は机の上へ蝋燭を置き、部屋に並ぶ燭台へ次々と火を灯していく。

椅子へ腰を下ろそうとしたその時――

木製の戸棚を開いた。

床には靴が並び、その横には小さな木箱が置かれている。

彼はそれを手前へ引き寄せた。

箱の中には、黒い装束と、一枚の仮面。

子羊を模した仮面だった。

「私は神の御手。」

彼は静かに呟く。

「今宵、神罰は罪人のために鐘を鳴らし、その罪を赦す。」

黒い装束を取り出し、静かに身へ纏う。

そして扉の前へ立つと、両手を組み、目を閉じた。

「我が神よ。

あなたは限りなく善にして、限りなく愛に満ちたお方。

罪はあなたの御心に背くものであるがゆえに、私はあなたを悲しませたことを深く悔いております。

あなたの聖なる恩寵に支えられ、再びあなたを傷つけることなく、償いの道を歩むことを固く誓います。」

数秒の静寂が流れる。

そして彼は、誰にも聞こえぬほど小さな声で囁いた。

「 Desiderium。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。