第19章 : 新しい生き方
フェイト
気がつくと、俺は石造りの長い回廊を歩いていた。
目的地などなかった。ただ、一人で歩いているだけだった。
……いや、目的はある。少なくとも、あったはずだ。
だが、その肝心な目的が思い出せない。
頭を強く打たのだろう。額から流れた血が顔を伝っていた。
だから俺は歩き続けた。
自分がどこへ向かっているのか、それを知るために。
だが、その回廊には終わりが見えなかった。
まるで夢の中にいるような――いや、悪夢と言った方が正しいのかもしれない。
「……なんだ、これ?」
不意に、回廊は途切れた。
その先には、石でできた螺旋階段があった。
堅牢そうな造りで、びくともしそうにない。
「こっち、なのか……?」
俺は階段を下り始めた。
どこまで続いているのか。
どれほどの時間を歩いたのか。
何も分からない。
ただ一つ分かるのは、この階段は果てしなく続いているように思えたことだ。
そして、下へ進めば進むほど、辺りを照らす光は赤く染まっていった。
耳を澄ますと、一人の女性が泣き叫ぶ声が聞こえる。
聞き覚えのない声だった。
いや……違う。
恐怖の悲鳴ではない。
それは怒りだった。
激しい憎悪に満ちた叫び。
何に対して怒っているのかは分からない。
ただ、その声だけが階段中に反響していた。
俺は一歩、また一歩と下り続けた。
階段の壁に並ぶ窓の外では、青と赤の巨大な塊が歪みながら虚空を埋め尽くしていた。
相反する二つの色。
その中心には、一つの蝕。
俺は再び歩き出す。
幾千もの段を下り続けた末に、ようやく最下層へ辿り着いた。
そこには、水面が広がる円形の足場があった。
中央には、一人の男が倒れている。
その上に、一糸まとわぬ女性がまたがっていた。
彼女の手には一本の包丁。
祖父が肉を切るときに使っていたものと、よく似た包丁だった。
彼女はそれを両手で高く掲げると、容赦なく男へ振り下ろした。
一突きするたびに、鮮血が飛び散る。
一突きするたびに、男の命が少しずつ失われていく。
俺は彼女へ近づき、その顔を見つめた。
その瞳には何の光も宿っていない。
魂すら映していないような虚ろな目。
それでも彼女は涙を流しながら、何度も何度も男を刺し続けていた。
何も言わずに見つめていると、不意に彼女の動きが止まる。
ゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
金色の髪。
翡翠のように美しい緑の瞳。
その瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「……私、死んでもいいですか?」
彼女はそう尋ねた。
俺は黙って彼女を見つめる。
振り返れば、螺旋階段は空へ向かって伸びていた。
俺は静かに頷く。
彼女の望む答えを与えるように。
彼女は微笑んだ。
そして包丁を、自らの喉へと向ける。
「……ありがとう。」
次の瞬間、彼女はためらうことなく喉へ刃を突き立てた。
鮮血が俺へ降りかかる。
彼女は痙攣しながら水面へ倒れ込んだ。
俺は膝をつき、自分の両手を見下ろす。
そして顔を上げ、空に浮かぶ蝕を見つめた。
叫ぼうとした。
だが――声は出なかった。
「フェイト! フェイト!!」
「うわあああああっ!!」
俺は絶叫しながら飛び起きた。
荒い息をつき、辺りを見回す。
そこは洞窟だった。
外では雪が吹き荒れている。
だが、焚き火の熱が洞窟の中への侵入を拒んでいた。
「大丈夫? またあの悪夢?」
ニマリが身体を起こしながら尋ねてくる。
「ああ……悪い。」
「謝る必要なんてないよ。」
ミオリを離れてから、もう三か月が経っていた。
俺たちはソリアス砦からさらに遠くまで来ていた。
レオン――俺と同じ竜人族の男――そしてプリシリアに襲撃されたあと、俺たちはミオリを後にしたのだ。
祖父さんや母さんが無事なのかは分からない。
それでも――俺たちは前へ進み続けなければならなかった。
「ルシアはオラリオンにいると思うか?」
俺が尋ねると、ニマリは頷いた。
「ああ。出発する前に父さんと話しているのを最後に聞いた時、『オラリオンへ向かう』って言ってた。」
ニマリは……友達だ。
そう、友達だ。
霧の大地で我を失い、暴走していた俺を救ってくれたのが彼だった。
ある日突然、俺の人生に現れた。
彼について知っていることはほとんどない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
彼は俺の味方だということだ。
「雪が止むまで待とう。ったく、南へ下ってないとはいえ、いつまで降り続けるんだよ。この辺りはいったいどうなってる。」
ニマリはあまり辛抱強い性格ではない。
どちらかと言えば短気で落ち着きがない。
だが、とても強い。
見たこともない魔獣と遭遇するたび、彼は必ず俺の前へ立ってくれる。
その間に俺は図鑑へ記録を書き込める。
この三か月だけで、家にいた頃よりも多くの魔獣を記録することができた。
……もっとも、その中にはまったく友好的ではない奴らもいたけれど。
「そういえば、フェイト。」
「ん?」
「剣には興味ないのか?」
「剣?」
俺は少し考えてから答えた。
「ミールに教えてもらったことはあるよ。でも、それっきりだった。」
「ミ……ミール? 誰だ、それ?」
「リチャードさんの兵士の一人。『憤怒の魔術師』だよ。」
ニマリは焚き火を見つめた。
「ふーん……『憤怒の魔術師』か。聞いたことないな。」
俺は少し笑った。
「すごく強いんだ。」
「会ってみたいとは思わないな。」
俺は膝を抱えながら、炎を見つめた。
「プリシリアは今、何をしてるんだろう。」
「プリシリア? 誰だ? お前の恋人か?」
「恋人?」
俺は首を傾げた。
「うん、好きだけど……そんなに変なこと?」
「お、おお……なんて純粋なんだ。ちょ、ちょっと待て!」
ニマリは慌てて身を乗り出す。
「フェイト、お前にとって『好き』ってどういう意味なんだ?」
俺は眉をひそめた。
質問の意味がよく分からない。
「えっと……お母さんと一緒にいる時みたいに、一緒にいたくて、一緒に笑いたいってこと。」
ニマリは心の中で呟いた。
(……そうだった。こいつ、まだ七歳だった。)
彼は深くため息をついた。
俺は少し頬を膨らませる。
「じゃあ、ニは?」
「あのノヴァって人。」
「あいつがお前にとって何なんだ?」
「天下一品のお節介焼きだ。」
そう言いながら、ニマリは耳をほじった。
俺は驚いて少し身を引く。
「えっ、そうなの? てっきりお姉さんかと思ってた。」
「ぶははははっ!」
ニマリは腹を抱えて笑い出した。
「やめろよ、フェイト! 本気で笑わせるな! ははは!」
しばらく笑ったあと、ようやく息を整える。
「違う違う。血のつながりなんて一切ない。ただの赤の他人だ。」
「ニッツァで兵士たちから助けただけさ。」
「そうなの? どうして助けたの?」
ニマリは静かに息を吐いた。
「……あいつは"異常"だからだ。」
「異常?」
「どんな能力なの?」
ニマリの表情が急に曇る。
そして静かに言った。
「――あいつの能力は、『存在すること』だ。」
俺は目を細めた。
意味が分からない。
何か聞こうと口を開きかけた、その時だった。
ニマリは立ち上がり、焚き火を思い切り蹴り飛ばす。
「よし、行くぞ!」
荷物袋を肩に担ぐと、そのまま雪原へ踏み出していった。
俺は消えゆく焚き火を見つめる。
炎は最後に一度だけ大きく揺らめき、静かに消えた。
俺も荷物を背負い、彼の後を追う。
吹き荒れる風が雪を巻き上げ、白い大地には波のような模様が描かれていた。
俺にはそれがとても綺麗に見えた。
だがニマリは違う。
洞窟を出てからというもの、ずっと同じことを繰り返していた。
「くそったれの雪め!!」
先頭を歩く彼の足元では、雪がズボンの上まで積もっている。
道を進むのは決して楽ではなかった。
「ねぇ、ニ。」
「本当に砦を迂回するの?」
「俺の知ってる話だと、砦の麓には村があるんだろ? そっちへ行ったほうが良くない?」
「ダメだ。」
「どうして?」
ニマリは苛立ったように足を止めた。
乱暴に頭をかきむしると、振り返って俺を睨む。
「自分の姿を見てみろ! お前には竜の角も尻尾もあるんだぞ!」
俺は眉をひそめた。
「だから何?」
「『だから何』だと!?」
ニマリは声を荒げた。
「いいか、ミライはとんでもない差別国家なんだ! 俺たちみたいな奴らは歓迎されない。これまでも、これからもな!」
「でも、村では――」
「村の連中は全員どこか頭のネジが飛んでるんだよ!」
俺はため息をついた。
「じゃあ、みんなに嫌われていたほうがよかったの?」
「そういう意味じゃねぇ……いや、もういい。」
ニマリは苛立ったように手を振る。
「好きにしろ。死にに行きたいなら、それもお前の自由だ。」
俺は静かに答えた。
「俺は、自分が役に立たなくなったら死ぬよ。」
その言葉に、ニマリの表情が凍りついた。
ゆっくりと俺へ向き直る。
「……今、なんて言った?」
「役に立たなくなったら、自殺するって言った。」
ニマリは奥歯を強く噛み締めた。
次の瞬間、俺の前まで歩み寄ると、勢いよく拳を振るった。
鈍い衝撃が頬を打つ。
俺は頬を押さえながら顔を上げた。
「カリュセとラプラスがお前にくれた命を大事にしろ、このバカ野郎!!」
「……ごめん。」
俺は立ち上がると、そのまま拳を振り抜いた。
不意を突かれたニマリは顔面にまともに食らい、そのまま後ろへよろめく。
俺は彼に飛びかかり、何度も拳を振り下ろした。
「簡単だと思ってるのか!」
一発。
「毎日毎日、お前は文句ばっかり言って!」
また一発。
「俺だって家族のところへ帰りたいんだ!」
さらに拳を叩き込む。
「寒くて……寒くてたまらないんだ!」
もう一度殴る。
「なのに、お前とこんな森で、明日何を食べられるかも分からないまま生きてる!」
拳を握り締める。
「それに……家族が無事なのかさえ分からないんだ!!」
最後の一撃を振り下ろそうとした瞬間。
ニマリの手が、そっと俺の肩に触れた。
「……分かった。」
彼は静かに言う。
「悪かった。ちゃんと謝る。」
「本当に……すまなかった。」
俺はそのまま力が抜け、彼にもたれかかった。
「……お母さんに会いたい。」
◇ ◇ ◇
ニマリ
フェイトは、まだ子どもだった。
そんな当たり前のことを、俺は忘れていた。
突然、生活のすべてを失う。
そんな経験をする人間なんてそうはいない。
まして七歳の子どもだ。
理性も、経験も、まだ何も追いついていない。
……だからこそ、あんな言葉が出てしまう。
俺は立ち上がり、口の中に溜まった血を吐き捨てた。
「……ったく。」
今の俺には、野宿を続けるだけの体力は残っていなかった。
「砦へ向かう。」
フェイトへ視線を向ける。
「ただし、マントは絶対に脱ぐな。」
フェイトは顔を上げ、不思議そうに俺を見た。
「どうして急に考えを変えたの?」
「……。」
俺は何も答えず、雪の中を歩き出す。
フェイトは少し頬を膨らませながら立ち上がり、五メートルほど後ろを歩き始めた。
木々の間を進む。
聞こえるのは雪を踏みしめる音だけ。
俺たち以外、誰もいない。
それぞれが、それぞれの思いを抱えながら歩いていた。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
森の静けさが、少しだけ頭の中を整理してくれる。
時刻は昼過ぎだろうか。
天頂まで昇った太陽の熱で、枝に積もっていた雪が溶け始める。
白い塊が木々から落ちる音に顔を向けると、そこには数羽の野ウサギがいた。
真っ黒な毛並みは、一面の雪景色によく映えている。
フェイトはどこか寂しそうな表情で、そのウサギたちを見つめていた。
「……親父たち、無事だといいな。」
思わず独り言が漏れる。
「え? 何か言った?」
俺は振り返り、フェイトを見る。
彼もこちらへ顔を向けた。
「独り言だ。」
「そうなんだ。」
俺たちは再び歩き始めた。
深く積もった雪のせいで、一歩進むだけでも体力を奪われる。
多少は慣れているつもりだったが、それでも楽ではない。
俺は空を見上げ、大きく息を吐く。
白い吐息は煙のように空へ溶けていった。
寒さが少しずつ思考を蝕んでいく。
一歩踏み出すたびに視界はぼやけ、木々が何本にも増えて見えた。
それに、さっきフェイトから受けた傷も決して軽くはない。
「……くそ。」
その時だった。
雪の下に埋もれていた枝に足を取られ、俺は木へ激しくぶつかった。
「ニ!」
フェイトが慌てて駆け寄ってくる。
俺の真っ赤な顔を見て、その表情が曇った。
「ニ、大丈夫じゃないよ。」
「平気だって。」
「僕がおぶるよ!」
俺は舌打ちし、彼を軽く突き放した。
「いい。自分で何とかする。」
立ち上がろうとした、その瞬間――
激しい衝撃が頭を襲った。
視界がぐにゃりと歪む。
そして俺は、そのまま雪の上へ倒れ込んだ。
そこから先は、断片的な記憶しか残っていない。
フェイトに背負われている光景。
砦へたどり着いた記憶。
宿を探して歩き回る記憶。
そして――
俺はベッドの上で目を覚ました。
最初に耳へ届いたのは、薪が爆ぜる音だった。
氷に閉ざされたこの世界で燃える火。
「……あったかい。」
「ニ?」
目の前にはフェイトが座っていた。
彼はまだマントを羽織っていたが、俺たちの服は部屋の物干しに掛けられている。
俺は身体を起こし、部屋を見回した。
木と石で造られた、素朴な内装。
いかにもミライらしい、質実剛健な宿屋の一室だった。
「……どれくらい寝てた?」
「五時間。」
「今は砦の中にある『エラニル亭』って宿だよ。」
俺は布団をめくる。
その下には何も身につけていなかった。
「服がびしょ濡れだったから、脱がせて寝かせた。」
「そ、そうか……ありがとう……?」
フェイトの口調は相変わらず素っ気ない。
まだ怒っているのだろう。
当然だ。
俺は顎へ手を当てる。
包帯が巻かれていた。
「それは宿の主人が手当てしてくれた。」
「……いつまで怒ってるつもりだ?」
「怒ってない。」
「本当に?」
フェイトは不機嫌そうに唸ると、
「うるさい。」
「だから黙って寝て。」
そう言い放った。
俺はため息をつき、再び横になる。
そこでようやく気づく。
部屋にはベッドが一つしかなかった。
俺は石壁を見つめながら尋ねる。
「……二人部屋は空いてなかったのか?」
「違う。」
「荷物を守るために、最初から一人部屋を取った。」
「なるほど。」
俺は苦笑する。
「……お前の尻尾は隠せなかったんだな。」
そう言ったのは、尻尾が床を擦る音が聞こえていたからだ。
「うん。」
「でも、兵士たちは身分証しか見なかった。」
「熊に襲われて逃げてきたって説明したよ。」
「それと、僕たちは兄弟だって。」
俺は思わず笑みを浮かべた。
「実は俺、ミライの市民証なら――」
「……ニ?」
しまった。
ギーさんの猫のバッグに入れっぱなしだった。
「今、身分証の話をしてた?」
「い、いや……そんなこと言ってない!」
思わず声が上ずる。
フェイトは首を傾げた。
「え?」
「じゃあ、さっきから何をぶつぶつ言ってたの?」
「……何でもない。」
俺は布団を頭まで引き上げる。
「もう少し寝る。」
ニマリ
目を閉じても、フェイトの尻尾が床を擦る音が耳について眠れなかった。
フェイトはもともと睡眠時間が短い。
悪夢のせいで眠れないのか。
それとも警戒しているからなのか。
俺には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
眠らずに起きている時のフェイトは、決まって同じことをしていた。
旅の途中で見つけた魔獣を、魔獣図鑑へ書き込むことだ。
◇ ◇ ◇
フェイト
『黒兎』
全長: 約五十~六十センチメートル。
体重: 未計測。
特徴:
黒兎の毛並みは非常に濃い漆黒で、雪原ではその姿だけがはっきりと浮かび上がる。
一般的な兎とは異なり、群れで生活する習性を持つ。
生息地では特別強い印象は受けないが、決して臆病な性格ではない。
俺は図鑑を見つめた。
ところどころに、おじいちゃんの字が残っている。
書き間違いを直した跡や、補足を書き加えた跡。
……会いたい。
本当に、おじいちゃんに会いたい。
俺は顔を上げ、ニを見た。
彼はぐっすり眠っているように見える。
きっと何も心配していないんだろう。
……いや、違う。
本当は、そこまで他人を信用しているわけじゃない。
だからこそ、彼は決して深く眠らない。
俺は静かに立ち上がり、窓の外を眺めた。
いつの間にか夜になっていた。
街の灯りは降り積もる雪に覆われ、通りをぼんやりと照らしている。
俺はニマリの刀を手に取り、それをマントの内側へ隠した。
そして静かに部屋を出る。
このまま部屋に閉じこもっているのは、あまり良くない気がした。
それに、この部屋は少し暖かすぎる。
扉を開けると、目の前には長い廊下が伸びていた。
俺たちの部屋は一番奥にある。
歩くたび、木の床が小さく軋んだ。
階段を下りると、左手に受付が見える。
宿を切り盛りしている女性が、目を開けてこちらを見た。
「坊や?」
「今夜は泊めてくださって、ありがとうございました。」
「そんな、気にしなくていいよ。」
俺は受付へ近づく。
「お兄さんは大丈夫?」
「うん。少し落ち込んでるけど、それなら大丈夫だと思う。」
女将は小さく微笑んだ。
「外へ行くの?」
「はい。少し外の空気を吸ってきます。」
「その間、ニのことをお願いします。」
「もちろん。」
「夕食までには戻る?」
俺は微笑み返す。
「……分かりません。」
そう言って宿を出た。
外では雪が静かに降り続いていた。
まず感じたのは、肌を刺すような冷たさだった。
それでも森の中よりは、どこか暖かく感じる。
俺はゆっくり歩き始めた。
踏みしめるたび、雪が小さく軋む。
息を吐くたび、白い吐息が夜空へ溶けていく。
何より――
街には俺しかいなかった。
静かで。
寂しいほどに。
並ぶ家々は、俺の村とよく似ていた。
それでも建物の配置はまったく違う。
そして砦の中央には、大きな城が建っている。
「あそこが、この土地の領主様のお城なのかな。」
そう呟いて、再び歩き出した。
しばらくすると、巡回中らしい衛兵たちとすれ違う。
彼らは何も言わずに通り過ぎていった。
だが、一人の兵士だけが少し先で立ち止まり、俺を呼び止めた。
「おい、坊主。」
「はい?」
「夜は冷える。気をつけろよ。」
「ありがとうございます。」
俺は軽く頭を下げる。
その優しさが少し嬉しかった。
再び歩き始め、道を曲がる。
数分ほど進むと、一つの細い路地へ辿り着いた。
そこを見つめた瞬間、胸の奥に違和感が走る。
……何かがおかしい。
いや。
実はさっきから、宿にいた時からずっと気になっていた。
強い匂いがする。
不思議と嫌な臭いではない。
むしろ、どこか惹かれる香りだった。
宿を出てからというもの、俺は無意識のうちに、その匂いを追い続けていた。
そして――
気づけば、その路地の前に立っていた。
俺はその路地へ足を踏み入れた。
灯りは一切ない。
月明かりだけが細い路地を静かに照らしている。
しばらく進くと、小さな分かれ道に出た。
左は行き止まり。
正面はさらに奥へ続いている。
……違う。
匂いは右からだ。
俺は右へ顔を向けた。
そこに、一人の女性が立っていた。
足元の雪は赤く染まっている。
血だった。
その血は彼女自身から流れ落ちていた。
ゆっくりと視線を上げる。
彼女は渦模様が描かれた黒いローブをまとい、長く尖った魔女帽子をかぶっていた。
俺は思わず立ち止まる。
近づけば危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。
その女性の後ろには二人の少女が身を寄せ合っている。
服はどちらもボロボロだった。
一人は桃色の髪。
もう一人は金髪で、左目は前髪に隠れている。
たぶん、俺より年上だ。
「……あなたは、あの者たちの仲間ですか?」
俺は眉を寄せる。
彼女の言葉を理解しようとしながら答えた。
「違う。」
「俺は兄と旅をしているだけだ。」
彼女はしばらく俺を見つめ、
「……嘘はついていないようですね。」
そう呟くと、その場へ崩れ落ちた。
「お母さん!」
少女たちが慌てて駆け寄る。
俺も近づく。
赤い瞳をした女性は、俺の首元へ視線を落とした。
ルシアにもらった首飾り。
それを見た彼女の瞳が揺れる。
「その紋章……。」
「あなたも、『異端』なのですか?」
俺は静かに尋ねた。
「……あなたは誰?」
距離を取っていた。
彼女から漂う血の匂いが、あまりにも濃かったからだ。
傷口から流れる血の香り。
それが、俺の空腹を刺激する。
「私は魔術師です。」
「帝国で暮らしていました。」
「ですが、この子たちを奴隷商人から救い出し、帝国を脱出しました。」
「そう。」
俺は小さく頷く。
「それで、魔術師さん。」
「俺に何をしてほしいの?」
彼女は苦しそうに息を整えながら答えた。
「……この子たちを学院へ。」
「学院なら、安全です。」
俺はフードを外し、真っ直ぐ彼女を見つめる。
灰色の瞳が彼女を映す。
彼女は息を呑んだ。
「ま、まさか……。」
「あなたは竜……?」
「俺はフェイト。」
「ルシア・クリークを探している。」
「この子たちを連れて行くなら、オラリオン帝国へ向かうことになる。」
「ルシアはそこにいるから。」
女性は静かに目を伏せた。
「……構いません。」
「おとぎ話や伝説に語られる竜よ。」
「どうか、この子たちを救ってください。」
「どうか……私の犠牲を無駄にしないでください。」
本当はニマリには話せない。
だけど、もう見捨てることなんてできなかった。
いや――
最初から、そんな選択肢はなかったのだと思う。
「いたぞ!!」
路地の入口から怒鳴り声が響く。
三人の男が剣を手に駆け込んできた。
俺はわずかに振り返る。
フードの奥へ顔を隠しながら、彼らを見据える。
「……お前、誰だ?」
左端の男が睨みつけてくる。
俺は少女たちの前へ一歩踏み出した。
これで逃げ道はなくなった。
「……彼女たちを放してくれませんか。」
男たちは一瞬ぽかんとした。
「はぁ?」
「ガキが何言ってやがる。」
「その娘たちは俺たちの奴隷だ。」
「さっさと返せ。」
……奴隷。
その言葉の意味は分からない。
それでも俺は一歩前へ出る。
「『奴隷』が何なのかは知らない。」
「でも。」
「彼女たちを放してあげて。」
男の一人が舌打ちする。
「もういい。」
「ガキ、失せろ。」
「さもないと殺すぞ。」
フードの下で、俺の瞳から少しずつ自信が消えていく。
相手は大人が三人。
しかも全員、剣を持っている。
……勝てるはずがない。
それでも。
今、この子たちを守れるのは――俺しかいなかった。
「……竜様。」
俺は再び男たちへ視線を向けた。
右にいた、いちばん気の短そうな男が一歩前へ出る。
俺は大きく息を吸った。
緊張が胸の奥で膨れ上がっていく。
それ以上に――あの匂いが、少しずつ俺の理性を奪っていく。
「さっさと死ね。」
その瞬間だった。
俺の背中から巨大な影が現れる。
次の一瞬。
男の頭は勢いよく石壁へ叩きつけられた。
鈍い音が響き、顔面が壁に潰れる。
その頭を押さえつけていたのは、黒い鱗に覆われた巨大な腕だった。
「!!?」
「なっ……!?」
残る二人は驚愕し、慌てて剣を抜く。
魔術師の女性は俺を見つめ、フードの奥で浮かぶ笑みに目を見開いた。
俺は男の頭から腕を離す。
男はそのまま雪の上へ崩れ落ちた。
「……耳を塞いで。」
もう、自分を抑えられない。
視界が霞む。
霧の大地で暴走した時と、まったく同じだった。
「あ、あれは何だ!?」
「異端だ!!」
俺は右手でマントを払い落とす。
背中から現れた二本の巨大な黒い腕が夜空へ広がる。
口元には自然と笑みが浮かぶ。
次の瞬間、俺は凄まじい勢いで二人へ飛びかかった。
追加の腕が石壁へ触れるたび、壁は軋み、大きく歪む。
「右から回れ!」
「俺が注意を引く!」
「了解!」
男たちはすぐに動いた。
だが、俺は真正面の男へ一直線に突っ込む。
巨大な腕を横薙ぎに振るう。
男の身体は吹き飛び、そのまま石壁へ激突した。
「……っ。」
急激な疲労が襲う。
巨大な腕を維持するだけでも、身体への負担は大きい。
俺は動きを止めた。
その時だった。
月明かりに照らされた屋根の上。
瓦の上へ腰掛けながら、ニマリがこちらを見下ろしていた。
冷たい夜風が彼の髪を揺らす。
「どうやら、俺の出番みたいだな。」
俺は最後に残った男へ顔を向ける。
俺の瞳にはもう光がなかった。
魂の抜けたような灰色の目。
それを見た男は恐怖に顔を歪め、そのまま逃げ出した。
俺も追おうと一歩踏み出す。
だが路地の出口。
白い月光の中へ、ニマリが立ちはだかっていた。
逃げる男は、彼の存在など目にも入らないまま横を駆け抜ける。
――もう俺には、敵と味方の区別がつかない。
今の俺にとって、ニマリもまた敵だった。
「俺の刀を返せ。」
ニマリは静かに手を差し出す。
俺は無言で刀を投げた。
刀は彼の足元へ落ちる。
ニマリはゆっくり歩み寄ると、指の関節を鳴らした。
そして足先で刀を蹴り上げ、そのまま鮮やかに手で受け止める。
「よし。」
「暴れる獣を落ち着かせる時間だ。」
「……ニ……。」
「……ニ……。」
ニマリは小さく息を吐いた。
「なるほどな。」
俺の意識は、竜としての怒りへ必死に抗っていた。
◇ ◇ ◇
『魔獣大事典 第二巻』
竜の狂化
竜は極度の精神的負荷、強すぎる匂い、急激な緊張状態など、さまざまな要因によって理性を失うことがある。
この状態では竜の本能が完全に主導権を握り、「狂化」へ移行する。
狂化中の竜は、脅威を排除することだけを目的として行動する。
対象が生存している限り、この状態は解除されない。
狂化を止める方法は二つしか存在しない。
対象を安心させること。
あるいは――竜を殺すことである。
◇ ◇ ◇
「さて。」
「第二ラウンドといこうか。」
俺は動きを止め、ニマリを見つめる。
そして次の瞬間、巨大な腕を突き出しながら一直線に襲いかかった。
しかしニマリは、わずかに右へ身体をずらす。
そのまま足を払った。
俺は勢いのまま地面へ倒れ込み、四つん這いになる。
喉の奥から低い唸り声が漏れた。
ニマリは目を細め、呆れたように笑う。
「……誰に向かって唸ってやがる。」
ニマリの蹴りが俺の顔面を捉えた。
意識はまだあった。
だが、その一撃だけで気を失いかける。
彼はゆっくりと俺へ歩み寄る。
立ち上がろうとした俺の襟首を掴み、そのまま石壁へ叩きつけた。
俺は反撃しようと拳を振るう。
しかし、ニマリは軽く身をかわす。
「人間の姿じゃ、大したことないな。」
そう言うと、彼は容赦なく拳を振り抜いた。
鈍い衝撃。
俺の意識はそこで途切れた。
ニマリは気を失った俺を肩へ担ぎ上げ、少女たちのもとへ戻る。
瀕死の魔術師は、苦しそうな呼吸を繰り返しながら二人を見上げた。
「……あの子は、大丈夫ですか?」
「ああ。」
「ただ暴走しただけだ。」
魔術師の容態は誰の目にも明らかだった。
もう助からない。
それでも彼女の瞳には、不思議なほど穏やかな信頼が宿っていた。
「……いつから私たちを見ていたのですか?」
「最初からだ。」
「俺はこの子竜をルシア・クリークのもとまで連れて行く約束をしてる。」
「だから一緒に旅をしてる。」
魔術師は静かに頷く。
「……そうですか。」
「その子は……あなたにとって大切な存在ですか?」
ニマリは少しだけ考え、
「いや。」
「そこまでじゃない。」
「ただ、約束を守るだけだ。」
そう答えた。
魔術師は小さく微笑む。
「……そうですか。」
彼女は二人の少女へ視線を向ける。
そして最後に、俺を見つめた。
「私は……。」
「心配するな。」
ニマリは優しく笑った。
「この子たちは、必ず学院まで連れて行く。」
その言葉を聞き、魔術師の口元に安堵の笑みが浮かぶ。
呼吸は途切れ途切れで、一言話すだけでも苦しそうだった。
「……小さい方はラレ。」
「もう一人は、サクラ。」
「二人とも……お兄さんたちの言うことを、ちゃんと聞くのですよ。」
「お母さん!」
「一緒にいたい!」
「学院でも一緒に暮らすって約束したじゃない!」
魔術師は静かに二人へ向き直る。
血に染まった両手で娘たちの頬へ触れた。
その瞬間。
彼女自身の命が、完全に尽きようとしていることを誰もが悟る。
「ごめんなさい。」
「約束は……守れそうにありません。」
「さあ、行きなさい。」
「私が時間を稼ぎます。」
姉のサクラは状況を理解した。
泣き叫ぶ妹・ラレを強く抱き締め、そのまま引き離す。
ラレは母のもとへ戻ろうともがき続けた。
ニマリは二人を連れ、その場を駆け出す。
背後から、魔術師の声が届いた。
「……愛しています。」
ニマリは振り返らず、小さく頷くだけだった。
魔術師は胸の前で両手を重ね、最後の魔法を詠唱する。
「冬花の残響よ――」
「灼熱の砂漠を燃やす炎よ。」
「汝のみが我が声を聞き、我のみが汝の呼びかけに応える。」
「我が魔力、その身へと流れよ。」
「この世界より、汝なき世界へ――」
「アフィール――《真夜中の輝き(ミッドナイト・グリーム)》」
青い魔力球が宙へ浮かぶ。
それと同時に、赤い魔力球が現れた。
それぞれが
《ウォーター・ボール》
そして
《ファイア・ボール》。
二つの魔法が激突した瞬間――
轟音とともに、巨大な爆発が夜空を飲み込んだ。
大地そのものが震え、衝撃波が辺り一帯を揺るがす。
ニマリは足を止める。
爆炎の方角へ、砦の兵士たちが次々と駆け出していくのが見えた。
彼は下唇を強く噛み締め、小さく舌打ちする。
「……くそったれ。」




