第18章: 弱さを認めること。
ノヴァが家を出てから一週間が経っていた。
それ以来、俺はラプラスとフェイトとの生活にも慣れてきたが……二人が村へ食料を買いに出かけるたび、家には俺と――彼女だけが残された。
俺はソファに腰掛け、彼女は暖炉のそばに置かれた肘掛け椅子に座っていた。
最近になって、冬がゆっくりとこの地を包み始めている。
ラプラスから聞いた話では、この世界の季節は二つしかない。
夏と冬。
ミライはこの惑星の北方に位置する国であるため、寒さに晒されることが多いらしい。
海風のおかげで春や秋の名残を感じられたニッツァとは違い、この土地の季節は白と黒しか知らないようだった。
「はぁ……ノヴァ、ちゃんとやっていけてるといいけど。」
正直、一人で世界を旅させるのは少し心配だった。
「……あ……は……」
俺はカリュケのほうへ視線を向けた。
彼女はこちらをじっと見つめていた。
「またノヴァに会えて、嬉しかったか?」
カリュケは口を開いたが、意味を成さない声しか漏れなかった。
「……は……は……」
彼女の手が小さく震えていた。
まるで何かを伝えようと必死になっているかのように。
しかし、その脳は眠ったままのようだった。
やがて彼女はゆっくりと腕を伸ばし、俺を掴もうとする。
俺も手を差し出し、その手を握った。
「まだ……あの子を許せないのか。」
「……は……は……」
彼女はもう片方の腕も伸ばした。
その腕の先には、失われた手首しかない。
椅子から落ちそうになった彼女を、慌てて抱き留める。
「おっと、危ない!」
「……は……は……」
彼女は震えながら、俺の着物を強く掴んでいた。
怒りでも恐怖でもない。
まるで、自分のすべてを振り絞って、何かを伝えようとしているようだった。
その瞬間――
彼女の震えはぴたりと止まった。
俺が少し身を引くと、彼女は完全に静止していた。
まるで脳の電源が切れたかのように。
俺は思わず体を強張らせ、下唇を噛む。
「ニマリ、気をつけろ。」
《ラヴォワ》が俺をたしなめた。
以前、前の宿主の癖が表に出る兆候について尋ねたことがある。
その一つが、こうして下唇を噛む仕草だった。
わずかに戻った力を使い、俺はカリュケを抱き上げ、車椅子へそっと座らせた。
「少し散歩でもしないか?」
「……」
俺は微笑み、そのまま車椅子を押して外へ出る。
冷たい風が穏やかに吹き抜けた。
そういえば、彼女はこんな寒さに合う服装ではなかった。
昔のままのドレスを着続けている。
「ああ……まったく。ラプラスは本当に女性の世話には向いてないな。」
俺はため息交じりにつぶやく。
「よし。今日はやることが決まった。」
カリュケは……前の宿主の娘だ。
だからこそ、俺は彼女に責任を感じていた。
本当は馬鹿げた話なのかもしれない。
それでも、今の彼女を放っておくことだけはできなかった。
俺はカリュケについていくつか情報を集めていた。
ラプラスによれば、この世界でカリュケは学院の創設者だったらしい。
そしてレオナルドと共に、この世界の《異常》を守る組織を立ち上げたという。
ある日、彼女は《石の回廊》に現れた。
両脚と片腕を失った姿で。
そして、眼の傷はそれより後に負ったものらしい。
……不思議な話だ。
俺は足を止め、この世界を見渡した。
《再書き換え》とは、本当に文字通りの意味だったのだ。
俺たちは、ある時代のこの世界へと書き換えられて現れる。
それが終焉より前であろうと、後であろうと関係ない。
この世界での死が、再び現れる時代を決めるわけではないのだ。
だからこそ、ノヴァはいま十八歳なのだ。
彼女が死んだとき、本来ならすでに四十歳近くになっていたにもかかわらず。
「……なんて立派な樫の木なんだ。」
俺は麦畑の真ん中にそびえ立つ一本の樫を見つめていた。
その枝葉は風を切り裂くように揺れていたが、幹はあまりにも力強く、どれだけ風を受けても微動だにしない。
それとは対照的に、エイレーネは「あちらの世界」の終焉を覚えていた。
だからこそ、彼女は《異常》という存在に、心の底から憎悪を抱いている。
一方で、カリュケについてどうしても理解できないことがあった。
なぜ彼女だけが、あちらの世界の終焉とまったく同じ姿のままで、この世界に存在しているのか。
しかも、フェイトをその身に宿したままで。
まるで一つの肉体の中に、二人のカリュケがいるようだった。
この世界を生きてきたカリュケと、再書き換えの際にフェイトと衝突し、流れ込んできたもう一人のカリュケ。
そして何より――
彼女こそが、本物なのだと俺は確信していた。
あの剣が、彼女の部屋の箪笥の上に置かれていたからだ。
俺は頭を振った。
……まったく。
まだ分からないことが多すぎる。
一人で考え込んだところで答えなんて出るはずもない。
まして、その答えが正しい保証もない。
「本当に、簡単じゃないな。」
もともと俺は、不安を抱え込む性格でもなければ、何でも理屈を求めるタイプでもない。
それでも、《亀裂》の仕組みを理解できれば、きっと大きな手がかりになるはずだった。
「誰か、導いてくれればいいんだけど。」
「そこの若い人!」
声をかけられ、俺は振り返る。
気づかないうちに村へ着いていたらしい。
ミオリ村は、観光と小麦の栽培を主な産業としている村だ。
この土地の気候は小麦栽培に最適らしい。
そして観光といえば――
俺は霧に包まれた大地のほうへ目を向けた。
確かに、あれだけの景色があれば十分だろう。
「もしもし、若い人!」
「あっ、すみません!」
「いえいえ。何だか道に迷っているように見えたので。何かお困りですか?」
「ええと……ああ、はい。服を扱っている店を探しているんですが。」
「ああ、それなら中央広場へ向かってください。噴水を越えた北側の通りにありますよ。」
俺は軽く頭を下げた。
その様子に、女性は少し驚いた顔をする。
「失礼ですが……あなた、ニッツァ地方のご出身ではありませんか?」
「そうですが……どうしてです?」
「いえ、その服装がミライの伝統衣装ではありませんから。それに……あなたが車椅子を押している女性、この村では有名な方なんですよ。」
……まあ、目立たないはずがない。
黒髪を前下がりのボブに切りそろえた女性は、口元に手を添え、上品に笑った。
「おかしな話ですけど……あなた、あの方に少し似ていますね。」
俺は目を見開いた。
それから気まずそうに微笑み、その場を後にした。
「……勘弁してくれよ。」
歩いているうちに、教えられた噴水へたどり着く。
村はそれほど大きくない。
土と石で造られた家々は互いに支え合うように並び、全体的にぎゅっとまとまった造りになっていた。
おかげで店を探すのに苦労はしない。
その反面、住人同士の距離も近いのだろう。
あちこちから向けられる視線を肌で感じる。
俺はため息をつき、噴水の縁へ腰を下ろした。
空を見上げると、雲が少しずつ広がり始め、思い思いの形を描いている。
俺は静かに目を閉じた。
石畳の隙間を流れる小さなせせらぎ。
整然としていない石の間を、水がさらさらと音を立てながら流れていく。
その音が、心地よく耳をくすぐる。
カリュケもまた、穏やかに目を閉じ始めていた。
自分が存在を自覚してから経験してきた出来事を思うと、いまだに信じられない。
俺はずっと、他人の記憶と共に生きてきた。
だから、この世界そのものを、自分自身の目で見ようとはしてこなかった。
でも――もう違う。
これからは俺も、この世界をゆっくり歩いていこう。
一つひとつの景色を、自分の目で確かめながら。
視線を落とす。
石畳の隙間から伸びる草は、噴水の水しぶきでしっとりと濡れていた。
「……本当に、穏やかな村だな。
さて、とりあえず服を新調しないとな。」
俺は車椅子の後ろに回り、そのまま押し始めた。
広場にいたときとは比べものにならないほど人通りが多い。
どうやら北通りは商店街らしく、多くの人で賑わっていた。
そして右手、赤い看板を掲げた店が、食料品店の奥に見えてくる。
そこが例の洋服屋だった。
店の前まで来ると、俺は取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。
店内は温かな空気に包まれていた。
あちこちに衣服が並び、布地のロールが積み上げられている。
左側の壁には、太い木の梁から色とりどりの布が吊るされていた。
入るや否や、明るい声が飛んでくる。
「いらっしゃいませーっ!!」
「こんにちは。」
迎えてくれたのは、ふわりと大きく膨らんだアフロヘアの女性だった。
「まあ! 付き添いの方を見た瞬間、てっきりフェイトちゃんかと思っちゃったわ。」
「今日は俺が彼女のお世話を任されてるんです。」
女性は慌てたように両手を振る。
「違う違う、責めてるわけじゃないのよ。ただ珍しいなって思って。それに、あなたを村で見かけるのも初めてだもの。」
「ええ。旅の途中なんです。しばらくラプラスさんのお宅にお世話になっていて。そのお礼も兼ねて、彼がとても大切にしているこの人の服を新しくしてあげたくて。」
「まあ! なんて優しい子なの。でも、一人旅をするには少し若すぎない?」
商品を整理しながら彼女が尋ねる。
「まだ七歳です。でも、探している人がいたんです。」
そう答えながら、店内に並ぶ服へ目を向けた。
「その人探し、手伝おうか?」
「もう大丈夫です。少し前に見つけましたから。」
女性は「なるほどね」と鼻歌混じりにうなずき、一着の服を差し出した。
「これはどう?」
白いドレスに革製のコルセットを合わせた一着だった。
「前に着ていた服と雰囲気が近すぎますね。彼女の肌色ともっと対比が出るものがいいです。」
俺の言い方が意外だったのか、女性は少し驚いたあと、楽しそうに乗ってきた。
「なるほど。それなら緑系はどうかしら?」
そう言って、同じコルセットに緑色のドレスを合わせたものを差し出す。
「……エルフっぽすぎます。」
思わず声に出してしまった。
女性は目を丸くする。
俺も服から顔を上げると、彼女は驚いた表情のまま俺を見ていた。
「あなた、なかなか度胸があるのね。」
「え?」
「人前で《異常》の話をするなんて。」
――しまった。
そうだった。
この世界ではエルフも《異常》として扱われているんだった。
「……すみません。」
「いいのよ、気にしないで。」
女性は肩をすくめて笑う。
「むしろ私は、こういうことまで黙っていなきゃいけない風潮のほうが嫌いなの。特にミライはね。あの女王様のせいで、ずいぶん息苦しい国になっちゃった。」
俺は思わず吹き出した。
「あなたも、ずいぶん遠慮がないですね。」
「言ったでしょ?」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「エルフっぽすぎる、ね……言いたいことは分かったわ。それなら――」
彼女は奥から一着の黒いロングドレスを取り出した。
……これだ。
まさに俺が探していた雰囲気そのものだった。
「これは私が一着ずつ手作業で仕立てたものよ。模様はナエッテアエルツのものなの。昔の戦争跡で見つけた装飾を参考にしたのよ。」
「……素晴らしい作品ですね。」
「気に入ってもらえて嬉しいわ。」
彼女は嬉しそうに微笑む。
「それで、あなたも服を新調する?」
「ええ。ちょうどいい機会だと思って。今の着物もだいぶ傷んできましたし。」
「分かったわ。それなら明日取りに来て。あなたには採寸して、ぴったりの服を仕立ててあげる。」
そう言うと、彼女はカリュケへ優しく目を向けた。
「奥様のほうは、今から私が着替えさせるわ。」
「気になるものがあったら、遠慮なく教えてくださいね。」
店主はそう言うとカリュケの着替えを引き受け、俺は店内を見て回り始めた。
すると、一つの商品が目に留まる。
「……これは面白いかもしれない。」
俺は立ち上がり、更衣室のカーテンへ視線を向けた。
「ちゃんと着替えられてるといいけど……。」
今のカリュケは、自力ではほとんど身体を動かせない。
店主も着替えさせるのに相当苦労しているだろう。
俺は両手を合わせた。
(……店主さん、ご武運を。)
心の中でそっと祈る。
しばらくして――。
更衣室のカーテンが静かに開いた。
俺は振り返る。
「お客様?」
「あっ、はい。……すみません。」
俺はカリュケの姿を見る。
「ええ、そのドレス、とてもよく似合っています。」
「でしょう? 本当によくお似合いです。」
とはいえ、このドレスは普段着というより、特別な日に着るような一着だ。
……まあ、構わない。
カリュケは昔から、ありきたりな服を好まなかった。
前の宿主の記憶でも、彼女はいつも上品に着飾っていた。
「よし、これにします。」
「ありがとうございます。それで、お客様ご自身のほうはいかがですか?」
「これをお願いします。」
俺は先ほど見つけた品を手に取る。
「おお! いいご趣味ですね。それも新しいお洋服と一緒に仕立てておきます。」
俺は思わず深く頭を下げた。
その様子に店主はくすくすと笑う。
「そんなに頭を下げなくてもいいのに。」
俺はカリュケの車椅子を押し、会計へ向かった。
「では、お会計ですが……。」
店主はそろばんを弾きながら計算する。
やがて顔を上げた。
「全部で四万六千三百二十二ミルになります。」
(よ、四万六千……!?)
心の中で思わず叫ぶ。
俺は荷物の中から革袋を取り出した。
ニッツァを出てからも金貨の袋を失くさずに済んで、本当に助かった。
もし落としていたら、今ごろ大変なことになっていただろう。
金貨四枚、銀貨六枚、銅貨四枚を数えて渡す。
「お客様のお洋服代も、まとめてこちらに含めています。」
「なるほど……。」
「高かったですか?」
あまりにも率直に聞かれたものだから、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……少しだけ。」
店主は豪快に笑った。
「ははっ! 質のいい服は、それなりのお値段になりますからね。」
「はは……。」
店を出た俺は、何とも言えない気分になっていた。
まるで財布の中身をごっそり持っていかれたような感覚だ。
「……まあ、いいか。」
俺は再びカリュケの車椅子を押し、家への道を歩き始めた。
空気はさらに冷たくなっている。
つまり――もうすぐ日が暮れる。
沈み始めた夕日を見上げながら歩く。
帰り道では、農民たちが畑を耕していた。
彼らは俺に向かって手を振る。
俺も軽く手を振り返す。
「……本当に穏やかな場所だな。
君はずっと、こんな静かな土地で暮らしてきたんだね。」
「……」
そのとき、一頭の雌鹿が森から飛び出してきた。
俺たちの前で立ち止まり、数秒間カリュケをじっと見つめる。
そして何かを悟ったように身を翻し、麦畑の中へ駆け去っていった。
俺は草の中へ溶け込むその姿を目で追う。
カリュケもまた、その鹿を見つめていた。
その唇には、ごくわずかな微笑みが浮かんでいた。
「……さあ、帰ろう。」
◇ ◇ ◇
家へ戻ると、まだ誰も帰ってきていなかった。
不思議に思った俺は家中を見て回る。
しかし、ラプラスもフェイトも見当たらない。
「……二人とも、いったいどこへ行ったんだ?」
買い出しにしては、ずいぶん時間がかかっている。
それに、ラプラスたちがただの気まぐれで、一日中俺とカリュケを二人きりにするとも思えなかった。
俺はカリュケをソファのそばまで車椅子で運び、慎重に抱き上げて横たえる。
そのあと額の汗を拭った。
……さすがに重労働だ。
玄関のほうへ目を向ける。
すると扉が開き、ラプラスが入ってきた。
どこか気まずそうな笑みを浮かべている。
しかも頬には、大きな切り傷が一本走っていた。
「うわっ!? 一体どうしたんですか、その傷!」
俺は思わず声を上げる。
「長居はしないよ。」
ラプラスは苦笑した。
「実は、できれば君に会わせたくない相手と鉢合わせしてしまってね。適当に言い訳したんだが……あまり気に入ってもらえなかった。」
「今日は家には戻らないんですか?」
「いや。フェイトが今夜は彼女のそばにいたいと言っていてね。それを見ているために、私はヘンリーの家へ泊まるつもりなんだ。だから、できれば――」
そこまで言って、彼は目を見開いた。
「……おお。」
視線の先にはカリュケ。
新しい服に着替えた彼女を見て、しばらく言葉を失う。
「新しい服を買ってあげたのか。そこまでしてくれなくてもよかったのに。」
「彼女のためでもありますし、あなたへのお礼でもあります。」
「……そうか。」
ラプラスは少し照れたように笑った。
「ありがとう。」
俺はカリュケの後ろへ回り、肩にそっと手を置く。
「フェイトには言わないでください。驚かせたいので。」
「ああ、分かった。」
ラプラスはそれ以上何も言わず、静かに家を出て行った。
……
何を考えているのかは、何となく分かる。
見知らぬ子どもが、この女性にあまりにも親しげに接している。
警戒するのは当然だ。
むしろ、それが普通だろう。
きっと彼は嘘をついた。
会わせたくない相手なんて、最初から存在しなかった。
フェイトを俺から遠ざけ、俺がカリュケにどう接するのか観察したかっただけだ。
俺という人間を見極めるために。
霧の大地から突然現れた七歳の子ども。
しかも、一緒にいた女性は宿主の馬を連れて姿を消したという。
……俺だって逆の立場なら疑う。
ラプラスは着替えを詰めた革袋を肩に掛けたまま、玄関で立ち止まった。
振り返り、小さく頭を下げる。
「本当にすまない。」
「気にしないでください。今夜は俺が彼女を見ておきます。」
「助かる。」
そう言い残し、彼は去っていった。
俺は台所へ向かいながら、その背中が《石の回廊》へ消えていくのを見送る。
……
しばらくその場で待ってみる。
やはり、ヘンリーの家へ向かったとは思えない。
今ごろ霧の大地のどこかから、俺を見張っているはずだ。
なら、俺はいつも通りに振る舞えばいい。
身体もまだ完全には回復していない。
それに、フェイトのことも気にしなければならない。
もし動くことになったとしても、あいつを連れて行く。
嫌がろうが、力ずくでも。
「よし。晩ご飯を作るか。」
踏み台を床へ置き、その上に乗って野菜を刻み始める。
塩を少し加え、簡単なスープを仕込む。
豪華な料理ではない。
それでも、一晩を越すには十分な栄養になる。
「……火をつけないと。」
暖炉へ向かい、薪へ火を移す。
母さんが最低限の家事を教えてくれていて、本当に助かった。
あれがなかったら、一人では何もできなかったかもしれない。
「……それにしても、七歳の子ども一人に家を任せるか、普通。」
俺は苦笑する。
「もっと自然な理由はいくらでもあっただろ……。
……いや、待てよ。
まさか、それも計画のうちか?
『出来すぎている子どもほど怪しい』ってことか?」
視線をカリュケへ向ける。
彼女は暖炉の炎をじっと見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。
「……本当は。」
小さく呟く。
「俺のせいで、この人まで辛い思いをするのだけは嫌なんだ。」
もし本当にラプラスの狙いがそこにあったのなら――
かなり巧妙だ。
結局、俺は小さく息を吐き、それ以上考えるのをやめた。
鍋を暖炉へ掛け、煮えるのを待つ。
その間、家の中を歩き回り、やがて再びカリュケの部屋へ入った。
飾り気のない質素な部屋。
装飾と呼べるものは、ベッド脇の小さな机に置かれた花瓶と、そこに活けられた一本の白いユリだけ。
……いや。
俺の目を奪ったのは、それではない。
異様な形をした一本の剣だった。
刀身は刀によく似ている。
だが鍔は異様なほど厚く、柄はどこか湾刀を思わせる造りになっていた。
俺はその剣の前へ立ち、静かに見つめる。
「……これが、この世界の歪みを生み出した元凶なんだな。」
俺はゆっくりと手を伸ばし、刀身に触れた。
冷たい。
……当然だ。
鋼でできているのだから。
いや、それ以上に――
この剣には莫大な魔力が宿っていた。
あまりにも澄み切った魔力。
触れているだけで、心まで静かに包み込まれるようだった。
右手を柄へ滑らせ、そのまま握る。
剣は何の反応も示さない。
……いや。
もう反応しなくなった、と言うべきか。
俺には、その資格がない。
それに――重い。
持ち上げることさえ試練と思えるほど、この剣は途方もなく重かった。
俺はふと入口へ目を向ける。
そこには車椅子に座ったカリュケが、静かにこちらを見つめていた。
「……どうして……」
彼女はゆっくりと手を上げる。
その先は剣ではない。
俺の背後だった。
振り返る。
――黒い影。
そこにいた。
全身を恐怖が一気に駆け巡る。
俺はとっさに飛び退き、剣を構えようとする。
だが――
手が震える。
歯が激しく鳴る。
黒い影は笑いながら、見る間に大きくなっていく。
「――っ!」
俺は勢いよく目を開いた。
額から汗が流れ落ちる。
「……何だったんだ、今のは。」
そのとき、剣が淡い青い光を放った。
「……そうか。」
俺は静かに息を吐く。
「警告してくれたんだな。
ありがとう。」
剣を元の台座へ戻し、部屋を後にする。
もう俺は、この剣の担い手ではないのだから。
居間へ戻ると、カリュケが俺を見ていた。
俺が何をしに部屋へ入ったのか。
彼女は最初から分かっていたようだった。
この家へ来てからというもの、前の宿主の記憶と俺自身の記憶が幾度も交錯している。
そのせいで、ノヴァと別れることになった本当の理由さえ、少しずつ霞み始めていた。
俺は顔を手で覆う。
「……もう嫌だ。」
カリュケは静かに目を細める。
そして、ソファを軽く叩いた。
俺は彼女を見つめる。
「……隣に座れってこと?」
相変わらず無表情のまま。
それでも、不思議と彼女の言いたいことはすぐに伝わった。
俺は彼女の隣へ歩いて行き、腰を下ろす。
暖炉の炎を見つめる。
その温もりが、張りつめていた表情を少しずつ和らげていく。
そのときだった。
何の前触れもなく、一つの手が俺の頭へそっと触れる。
優しく押されるまま、身体がゆっくりと傾いていく。
気づけば俺の頭は、彼女の膝の上にあった。
カリュケは静かに俺の髪を撫でる。
その手はあまりにも穏やかで、心地よくて――
身体が急に鉛のように重くなる。
そして、そのまま意識は眠りへ落ちていった。
誰かの膝で眠るなんて、いつ以来だろう。
最後にそうした相手は――母さんだった。
家の縁側。
あの枝垂れ柳の前で。
「……母さん……」
◇ ◇ ◇
頬をくすぐる朝日で目が覚めた。
重いまぶたをゆっくりと開く。
……今日は、何をやっても捗らない一日になりそうだ。
顔を横へ向ける。
俺を見下ろすように、カリュケが静かに眠っていた。
「……膝枕のまま寝ちゃったのか。」
別に恥ずかしいとは思わない。
信頼できる相手にだけ見せる弱さは、人を安心させるものだから。
彼女になら、何も心配はいらない。
俺は物音を立てないよう静かに起き上がり、彼女をそっとソファへ寝かせた。
「……ありがとう。」
自然と笑みが浮かぶ。
そのまま台所へ向かい、朝食の支度を始めた。
昨日は何も食べていなかったせいで、かなり腹が減っている。
暖炉へ近づき、鍋の蓋を開ける。
次の瞬間――
俺の顔が引きつった。
「……うわ。」
慌てて蓋を閉める。
鍋を抱えたまま外へ出ると、中身を庭の外へぶちまけた。
これなら腹を空かせた動物たちの餌くらいにはなるだろう。
振り返った、その時だった。
庭の緑の中に、一本の白い軌跡が見えた。
視線を逸らさず見つめていると――
色の違う両目が、こちらを見返してくる。
「やっぱり君だったか。」
その人物は、そう言って微笑んだ。
俺は敵意ひとつ見せることなく彼女を見つめ、そのまま家へ向かって歩き出した。
庭に立っていた人物が、苛立ったように地面を踏み鳴らす。
「ちょっと! 何か言うことはないの!? ねぇ!!」
俺は歩みを止めずに答えた。
「……ラプラスが俺のことを話したのか?」
「は?」
「教えてくれよ、《執行者》――いや、エイレーネ。」
女は小さく舌打ちをした。
正規の制服は身に着けているが、帽子だけは被っていない。
「何のことか分からないわ。」
「……そうか。」
俺は小さく頷く。
「知らないふりをするんだな。まあ、いいさ。」
肩をすくめる。
「今の俺じゃ、どのみち兵士一人にも勝てなかっただろうし。」
「勘違いしないで。」
エイレーネは冷たく言った。
「私は停職処分になってる。ただ……娘に会いに来ただけよ。」
俺は眉をひそめる。
「……娘?」
記憶では、お前は――
「それ以上言うな。」
彼女の声が鋭くなる。
俺を真っ直ぐ睨みつけた。
「続きを口にしたら……後悔させる。」
俺もその視線を受け止める。
「……俺に会いに来たわけじゃないんだな。」
「違う。」
迷いのない返事だった。
「もちろん、あなたの存在を見るだけで今すぐ殺したくなるくらいには憎んでるけど。」
その言葉に、俺は思わず立ち止まった。
「……そうか。」
少し間を置いてから言う。
「じゃあ、入れよ。みんなももうすぐ帰ってくるだろうし。」
エイレーネは気高さを崩さないまま、俺の横を通り過ぎて家へ入っていった。
「……あの子はいないの?」
「会いたいのか?」
彼女は苛立たしげに舌打ちする。
「もう私には、あの子のそばにいる資格なんてないことくらい、あなたも知ってるでしょう。」
「……俺も同じだ。」
静かに答える。
「だからノヴァは、自分から家を出ることを選んだ。」
エイレーネは眠るカリュケへ歩み寄る。
静かな寝顔を見つめながら、乱れた髪をそっと耳へ掛けた。
「一つ、聞いてもいい?」
「何だ?」
「記憶は……残ってるの?」
「……ああ。」
「全部?」
そう問いかける彼女の表情は、これまでになく真剣だった。
俺はため息をつく。
「……あいつじゃない。」
少し言葉を探してから続ける。
「俺は、ただ一人の鬱病患者の記憶を受け継いだだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。」
「そうね……。」
エイレーネは苦笑する。
「やっぱり、あなたはあの人とは違う。」
……その言葉だけは、少し癪に障った。
だが。
彼女の表情を見て、俺は言葉を失う。
もう二度と見られないと思っていた表情だった。
優しく微笑みながら、カリュケの頬を撫でている。
「……あなた、この世界へ来てどれくらい経つの?」
「二十年以上になるわ。」
彼女は静かに目を閉じる。
「本当に怖かった。
気がついたら商店街の真ん中に立っていて、人が私の周りを行き交っていた。」
少しだけ震える声。
「最後に覚えていた光景は……
あの人の剣が、彼の身体を貫いていた瞬間だった。」
俺は黙ってため息をつき、台所へ向かった。
湯を沸かし、お茶の支度を始める。
窓ガラスには、自分の姿がぼんやり映っていた。
「……あいつは。」
エイレーネが静かに口を開く。
「あなたの前にも現れるの?」
「いや。」
俺は窓に映る自分を見つめたまま答える。
「俺は、生まれたときからあいつの記憶と一緒に生きてきた。
それに……あいつも、ずっと頭の中にいる。」
「じゃあ――」
彼女はゆっくり問いかける。
「あなたは、誰なの?」
「俺が誰か、か……。」
少し考えてから口を開く。
「俺はニマリだ。
それだけは間違いない。」
視線を窓から外へ向ける。
「でも、それが本当のニマリなのか。
あいつの影響を受けてニマリになったのか。
それとも、生まれたときからニマリだったのか。」
「……自分でも分からない。」
エイレーネはしばらく黙って俺を見つめていた。
やがて静かに立ち上がる。
「私には、あなたはあの人に見える。」
彼女はゆっくり首を振る。
「でも……同じじゃない。」
「癖も、仕草も、話し方も。
考え方だって、あの人の影響を強く受けている。」
「それなのに、不思議なの。」
「あなたを見ていても、一度も『あの人だ』とは思えない。」
少し間を置き、彼女は俺を見据えた。
「……《ラヴォワ》は、今もあなたの中にいるの?」
「今までに、あなたの意思を無理やり奪おうとしたことはある?」
「……分からない。」
俺は静かに答えた。
「覚えていないだけかもしれない。でも、一つだけ確かなことがある。」
エイレーネを真っ直ぐ見つめる。
「君の苦しみは理解できるし、同情もする。」
少し間を置く。
「でも、あいつは死んだ。それは変えられない事実だ。」
「俺は、あいつと同じ道を歩むつもりはない。」
「利用するのは記憶だけだ。
俺自身の目的を果たすためにな。」
エイレーネは目を見開いた。
俺はそのまま続ける。
「それに――」
「もう、君たち五人とは関わりたくない。」
「全部終わらせて、君たちのいない人生をやり直したいんだ。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて彼女は、小さく笑った。
「……そう。」
その笑みは、どこか寂しげだった。
「やっぱり、あなたはあの人とは違う。」
静かに息を吐く。
「あなたが……この循環を断ち切ったのね。」
「……ごめん。」
思わず謝ると、彼女は首を横に振った。
「それでも私たちは敵同士。」
「ああ。」
俺は微笑む。
「もっと違う形で出会えていたら、君のことを知りたかった。」
そう言って、一杯の紅茶を差し出した。
エイレーネは受け取り、小さく笑う。
「……そうね。」
ソファでは、カリュケが静かに目を開けていた。
最初からずっと。
俺たちの会話を聞いていたのだ。
◇ ◇ ◇
勢いよく玄関の扉が開いた。
フェイトとラプラスが帰ってくる。
俺は食卓で本を読んでいた。
暖炉の前では、雪のような白髪の女性――エイレーネが、カリュケの髪を優しく撫でている。
「あ、お帰りなさい。」
「マミー!!」
フェイトが不満そうに頬を膨らませた。
「パンを買いに一緒に行くって約束したのに、急にいなくなっちゃった!」
「ごめんなさいね。」
エイレーネは優しく笑う。
「今から一緒に行きましょう。好きなパンを選んでいいわ。」
「やったー!!」
二人はそのまま家を出ていった。
扉が閉まる。
ラプラスはまだ温かい紅茶を自分のカップへ注いだ。
「……話はできたようだね。」
「え?」
俺は目を丸くする。
「どうして俺たちが知り合いだって分かったんです?」
ラプラスは肩をすくめた。
「停職処分を受けた高官の話なんて、隠そうとしてもすぐ広まるさ。」
少し笑う。
「特に、その理由が理由ならね。」
俺は苦笑しながらため息をついた。
「……そんな形で知られるとは思ってませんでした。」
ラプラスは紅茶を一口飲む。
そして真剣な表情になった。
「一つ聞きたい。」
「君と《パンドラ》はどういう関係なんだ?」
少し間を置く。
「特に――ルシア・クリークとは。」
「何の関係もありません。」
俺は即答した。
「パンドラの一員でもないし、ルシアとも親しいわけじゃない。」
顔をしかめる。
「あいつの名前を聞くだけで吐き気がします。」
「ははは。」
ラプラスは豪快に笑う。
「ずいぶん相性が悪かったみたいだ。」
「当たり前ですよ!」
思わず声が大きくなる。
「あいつ、俺を殺そうと――」
最後まで言い切る前だった。
閃光。
気づけば、剣先が喉元へ突きつけられていた。
「孫ほどの子どもを助けてみれば、異常なまでの耐久力。」
ラプラスの目は笑っていない。
「しかもパンドラではないと言いながら、第01師団――最凶の部隊を率いる隊長を知っている。」
さらに剣先が近づく。
「……君はいったい何者だ?」
俺は一切強がれなかった。
ここで言葉を間違えれば、本当に首が飛ぶ。
そう確信していた。
だから慎重に口を開く。
「一つだけ、はっきり言えます。」
「俺は、あなたやフェイトの敵じゃありません。」
「……あ……あ……」
その瞬間。
カリュケが反応した。
俺へ剣が向けられた瞬間だった。
「それどころか――」
俺はラプラスの目を見据える。
「この世界で、フェイトにとって一番頼れる味方になるかもしれません。」
「……どういう意味だ?」
ラプラスの表情が険しくなる。
俺は静かに答えた。
「この国――ミライを治めている女王。」
「本当に手綱を握っているのは、あの人じゃない。」
「……っ!」
ラプラスの瞳が揺れる。
「女王は、もっと邪悪で、もっと狡猾な何者かに操られている。」
その一言で。
ラプラスの怒りが爆発した。
「つまり、お前は言いたいのか!!」
怒声が家中に響く。
「これまで死んでいった者たちは――」
剣を握る手に力がこもる。
「すべて……ただの巻き添えだったと言うのか!!」
俺は剣身を両手で掴み、そのまま自分の喉元へ押し当てた。
刃が皮膚を裂き、血が一筋流れる。
「約束します。」
俺はラプラスを真っ直ぐ見つめる。
「俺は、あなたたちの敵じゃありません。」
その瞬間だった。
玄関の扉が勢いよく開く。
フェイトが汗だくのまま飛び込んできた。
「はぁ……はぁ……!」
「フェイト!?」
ラプラスが駆け寄る。
「どうした!? まずは落ち着いて息を整えろ!」
フェイトは肩で息をしながら叫んだ。
「マミーが……!」
「……!」
「フードを被った男に襲われたんだ!
一撃で気絶させられた!」
その言葉を聞いた瞬間、ラプラスは俺を見た。
俺は静かに首を横へ振る。
俺じゃない。
そう伝えると同時に、俺は書斎へ駆け込み、刀と荷物を掴んだ。
ラプラスは素早くフェイトへ指示を飛ばす。
「フェイト、よく聞け。」
「ニマリから絶対に離れるな。」
「……でもその前に、書斎から最低限の荷物だけ持ってこい!」
「う、うん!」
涙をこらえながらフェイトは走っていく。
必死に冷静さを保とうとしていた。
一方ラプラスは寝室へ駆け込み、鎧の一部を装着し、剣を腰へ差す。
そしてカリュケを車椅子へ移した。
ちょうどその頃、俺もフェイトと共に居間へ戻る。
――その瞬間。
庭へ、一人の男が姿を現した。
黒いフードを深く被った男。
……
分かる。
俺にも。
フェイトにも。
身体が勝手に震え始める。
――危険だ。
本能が叫んでいた。
男はゆっくり口を開く。
「ようやく見つけたぞ……
カリュケ。」
その低い声は腹の底まで響いた。
刀へ手を伸ばそうとするだけで、身体が言うことを聞かない。
ラプラスが叫ぶ。
「俺が走れと言ったら、迷わず走れ!!」
「……!」
「……!」
次の瞬間。
時間が消えた。
男が動いたことさえ認識できない。
あまりにも速い。
ラプラスが、
「行け――!」
そう言い終えるより早く。
轟音。
ラプラスの身体が吹き飛び、庭の泉へ叩きつけられる。
そのまま動かなくなった。
俺とフェイトは、目の前に立つ巨大な男を見上げる。
まるで壁だった。
出口を完全に塞いでいる。
男は静かに言う。
「……俺の息子を返せ。」
その拳がカリュケへ振り下ろされようとした瞬間。
フェイトが飛び出した。
「……!」
小さな身体で、カリュケの前へ立ちはだかる。
男は目を細めた。
「そうか。」
「別の竜と契約したのか。」
(……何を言ってる?)
俺が理解できずにいると――
《ラヴォワ》が絶叫した。
『受けろ!!』
男の拳が天高く振り上げられる。
俺はフェイトを突き飛ばし、その拳を刀で受け止めた。
「ぐっ……!!」
衝撃。
あまりにも重い。
一撃で意識が飛びそうになる。
刀越しに伝わる感覚は――
山だ。
巨大な山が、そのまま刀へ落ちてきたような重圧。
全身が押し潰されそうになる。
「ぐあああっ!!」
俺は歯を食いしばり叫ぶ。
「フェイト!!」
男の目がわずかに反応する。
「カリュケを連れて逃げろ!!」
「でも――!」
「いいから行け!!」
フェイトは歯を食いしばる。
俺を見つめるその目には、覚悟が宿っていた。
「……嫌だ。」
封じられていた両腕を解放する。
そのまま男へ拳を叩き込んだ。
「……。」
「なっ!?」
男は片手だけでその拳を受け止める。
それでもフェイトは諦めない。
もう片方の拳を振るう。
しかし届かなかった。
代わりに、その手は男のフードを掴む。
ビリッ――
フードが引き裂かれる。
現れたのは。
黒いタンクトップを着た筋骨隆々の男。
頭には二本の逞しい角。
背後では赤い尻尾が地面を叩き、棘を鳴らしていた。
「フェイト!!」
その瞬間。
エイレーネが男へ飛び込み、鋭い一撃を叩き込む。
彼女は二人を振り返らず叫んだ。
「二人とも逃げなさい!!
こいつは私が食い止める!!」
意識を取り戻したラプラスは、すぐに剣を掴み、そのまま男へ突進した。
渾身の一撃を振り下ろす。
だが――
男は空いていたもう片方の手で、あっさりとその剣を受け止めた。
「……《赤き竜》。」
ラプラスが低く呟く。
「レオン!」
エイレーネがその名を叫んだ。
(レ……レオン!?)
俺は目の前の男を見つめる。
まるで呼吸すらしていないような静けさ。
圧倒的な存在感だけが、その場を支配していた。
レオン――。
こいつも、この世界へ《再書き換え》された者だった。
元の世界では、《始祖竜》と呼ばれる存在。
あのレオンが……。
(いったい、いつからこの世界に……。)
考える暇はない。
俺は振り返り、フェイトの腕を強く掴んだ。
そのまま力任せに外へ引っ張る。
「待って!」
フェイトが叫ぶ。
「みんなは!?」
「……。」
「待ってよ!!」
俺は怒鳴った。
「黙って走れ!!」
フェイトの腕をさらに強く引く。
「二人の犠牲を無駄にする気か!!」
フェイトの瞳が揺れる。
「おじいちゃん……。
ママ……。」
俺たちは泉を飛び越え、その場から全力で駆け出した。
その背中を見送りながら。
エイレーネとラプラスは、同時に笑みを浮かべる。
「二人で行くわよ!!」
エイレーネが叫ぶ。
ラプラスは静かに剣を構えた。
「……ああ。」
◇ ◇ ◇
どれほど走ったのか分からない。
肺が焼けるように痛む。
それでも足を止めることはできなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
――もう、この世界に安全な場所など存在しない。
――1二幕・完―




