第17章: 小さな滝。
目を覚ましてから、まだそれほど日数は経っていない。二日、いや、もしかすると一日しか経っていないのかもしれない。
というのも、一日目は怪我の痛みにうめきながら、ずっとベッドに寝たきりだったからだ。
髭をたくわえた老人――ラプラスという名前らしい――の話によれば、俺は高熱にうなされ、完全に幻覚まで見ていたらしい。夜中に馬鹿みたいに笑いながら、支離滅裂なことを延々と口走っていたそうだ。
あれだけ身体を無茶苦茶にしたのだから、無理もない。
ラプラスについて言えば、かなり親切な人だった。ずっと俺の枕元にいて、友人と一緒に何度も包帯を替えてくれた。
……まあ、あのドラゴンの子との戦いで、俺もかなり容赦なくやってしまったからな。
そして二日目になると、ようやく自力で起き上がれるまでに回復した。
「坊主、お前は本当に頑丈だな!」
「ありがとうございます。」
照れ隠しに頭をかきながら答える。
「数日前まで死にかけていた奴が、この歳で立ち上がれるなんて信じられん。」
「さあ……体が丈夫なんじゃないですかね。」
「むしろ、その強さを授けてくれた親に感謝するんだな。」
俺は部屋の中を見回した。
そこは書斎のような場所だった。机や壁には子どもの落書きのような絵があり、獣のスケッチや様々なメモが散らばっている。
埃をかぶった本棚には、古びていながらも興味をそそられる本がぎっしりと並んでいた。
「ずいぶん立派な書斎ですね、ラプラスさん。」
「はっはっは、ありがとう。だが実は、この家は私のものじゃない。昔の恩師が貸してくださっているんだ。」
「そうなんですか……」
いまいち話が飲み込めず、家具へ意識を向けようとしたその時、扉がコンコンとノックされた。
振り向くと、ドアの向こうにはノヴァが立っていた。
何か言いたそうにしているが、一歩も中へ入ってこない。胸に拳を当て、鼓動を落ち着かせようとしているようだった。
「どうした?」
ラプラスが尋ねる。
「あ……いえ。その……様子を見に来ただけです。」
そう言うと、彼女は振り返り、来た時と同じように静かに部屋を後にした。
ラプラスはため息をつき、俺へ向き直る。
「なあ坊主。あの娘と何かあったのか?」
今度は俺がため息をついた。
辺りを見回し、眼鏡を見つけてかけ直す。
「あなたの日常に関わるような話じゃありません。それより……あいつはどうしていますか?」
「フェイトのことか?」
「……」
「……」
「実は、君が目を覚ましてからずっと部屋に閉じこもったままだ。母親と一緒にな。私以外は誰も中へ入れない。」
「ノヴァも何度か行ったんでしょう?」
「ああ。一度や二度じゃない。フェイトを安心させようとしたんだが、彼は彼女に対してひどく敵対的になってしまってね。」
俺は小さく息を吐き、ベッドの縁へ身体を向けた。
足を床につけると、ラプラスが目を見開く。
ゆっくり立ち上がる。身体はまだ驚くほど頼りなかった。
それでも棚に手をつきながら、一歩ずつ部屋の外へ歩き始める。
「お、おい坊主! どこへ行くつもりだ!」
廊下へ出ると、リビングのソファに座っていたノヴァが俺を見つけ、同じように目を丸くした。
「ニマリ!?」
俺は右へ向きを変え、隣の部屋の扉の前に立つ。
部屋の中は薄暗く、奥のベッドにはあのドラゴンの子――フェイトがいた。
身体を小さく丸め、膝を抱えるようにうずくまっている。
その時、部屋の扉が音を立てて開いた。
驚いたフェイトは、とっさに両腕で顔を隠す。
どうやら人間の姿には戻っていた。
それでも、黒い鱗がところどころに残り、尻尾や角もまだ消えてはいなかった。
だが、腕の隙間からこちらを見た彼は、俺の姿を認める。
俺は扉の枠にまっすぐ立ち、静かに彼を見つめていた。
「フェイト、お前だろ。」
「……」
横ではラプラスが黙ったまま俺を見つめていた。
俺が何を考えているのか、まるで見当もついていないようだった。
それでも何も言わず、俺が部屋の中へ入っていくのを見守ってくれる。
その途中、車椅子に座る女性の姿が目に入った。
扉を開けた瞬間から、彼女はずっと俺を見つめ続けていた。
俺はベッドへ歩み寄り、フェイトの真正面に立つ。
小さなドラゴンは、まるで殴られるのを待っているかのように、小刻みに震えていた。
俺は深く息を吐くと、その腕をつかむ。
「な、何するんだ!? 離せ!」
「一緒に来い。」
そう言って、そのまま引っ張る。
抵抗しようにも、今の俺の力のほうが強かった。
俺は彼を部屋の外へ連れ出した。
ラプラスとノヴァは無言で道を空ける。
そのまま家の外へ出る。
服装はほとんど寝巻き同然で、身体中包帯だらけ。
……まあ、そんなことはどうでもいい。
「フェイト。」
「……」
「お前のことはまだ何も知らない。でも、知りたいと思ってる。」
「えっ……? どうして? 僕は……君を殺しかけたんだぞ。」
先ほどラプラスに教えてもらった石造りの通路へたどり着き、そのまま歩き続ける。
「俺を殺そうとした奴なんて、数え切れないくらいいる。」
「どうして!? どうしてみんな僕に優しくするんだよ! 僕なんか何の役にも立たないのに! 僕は……死んだほうがいいんだ!」
石畳の道を抜けたところで、俺は彼の腕を放した。
勢いのまま、フェイトは前へよろめく。
「周りを見てみろ。」
フェイトはゆっくりと顔を上げた。
黄金色の麦畑が風に揺れ、その周囲を青々とした草原が包んでいる。
遠くには雄大な山々が連なり、空へ向かってそびえ立っていた。
「世界は広いんだ、フェイト。
一度失敗したくらいで、自分を部屋に閉じ込めるには広すぎる。
俺も、お前も……普通じゃない。
自分でも制御しきれないものを抱えながら生きてる。」
「……君も、普通じゃないの?」
「違いがあるからこそ、美しいんだ。」
俺はその場へ腰を下ろした。
傷がまたじわじわと痛み始める。
左隣に立つフェイトは、目の前に広がる景色を静かに見つめていた。
柔らかな風が髪を揺らす。
俺はそのまま地平線へ目を向ける。
「自分の中に、自分の意思とは関係なく現れる"何か"がいる。 お前なら、その苦しさは分かるはずだ。だからこそ、それを理解して、受け入れて、少しずつ乗りこなしていくしかない。」
「……君は、それができてるの?」
俺は思わず吹き出した。
振り向いて笑う。
「全然。」
フェイトはしばらく俺の顔を見つめると、
「……なんだよ、それ。」
そう言って、小さく吹き出した。
彼が笑った、その瞬間。
不意に、前の宿主の記憶が頭をよぎる。
黒く短い髪。
全身に刻まれた刺青。
そんな一人の女性。
「……そういうことか。」
まさか、あいつがこんな場所に隠れていたなんてな。
俺は立ち上がり、辺りを見回した。
振り返れば、すぐ後ろには霧の壁がそびえ立っている。
「それにしても……本当にすごい景色だ。」
「《霧の大地》のこと?」
「ああ。外から見ても、中から見ても、本当に試練を乗り越えてきたんだって実感するよ。すごいな……。」
そう呟いた途端、力が抜けて、そのまま新緑の草原へ倒れ込んだ。
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫。ただ、この場所の静けさを味わってるだけだ。こんな穏やかな時間を感じたのは、本当に久しぶりだから。」
フェイトには俺の言葉の意味はよく分からなかったようだ。
それでも、何も言わず俺の隣へ寝転がった。
辺りは静寂に包まれる。
虫たちの鳴き声。
風に揺れる草のささやき。
俺がずっと求めていた――そんな平穏だった。
「……ニマリ。」
ゆっくりと目を開く。
俺たちのすぐ後ろに、ノヴァが立っていた。
「……ん?」
「あなたと、話がしたい。」
フェイトは気まずそうに視線を泳がせる。
本当に、来るタイミングが悪い。
……いや。
彼女の表情を見れば分かる。
ずっと胸につかえていた想いを、もう抑えきれなくなっていたのだ。
「……そうだな。フェイト、少しここで待っていてくれ。長くはかからない。」
俺は立ち上がり、フェイトをその場に残した。
身体を起こした瞬間、傷口が強く引きつる。
それでも構わなかった。
今、ちゃんと話さなければならない。
俺とノヴァは並んで歩き始める。
《霧の大地》で精神をすり減らし続けていたせいで忘れていた。
陽の光を受けた彼女の髪は、こんなにも美しく輝いていたのか。
しばらく歩くと、道の脇に小さな滝を見つけた。
水は岩肌を伝い、大地へと流れ落ちている。
見上げれば、青々とした木々の隙間から木漏れ日が差し込んでいた。
「……本当に静かな場所ね。」
ノヴァは少し離れた滝を眺めながら呟く。
「ああ。とても豊かな村なんだ。」
俺は彼女へ向き直った。
ノヴァも真剣な表情でこちらを見る。
「……この村は、お前にはぴったりだと思う。」
少し息を吸い、続ける。
「俺の傷が治ったら、この村を出る。……お前は連れて行かない。」
その言葉を口にした瞬間、彼女の表情が苦痛に歪んだ。
言い方があまりにも冷たく、突き放しすぎた。
きっと傷つけてしまった。
俺は頭をかいた。
「聞いてくれ。
俺たちは、もう同じ世界の人間じゃない。
それに、俺は七歳で、お前は十八歳だ。
一緒に生きていける関係じゃない。」
ノヴァはぎゅっと拳を握る。
「……もう前を向いてくれ。俺のことは忘れろ。お前は人間なんだ。自分の身体に裏切られるような宿命も背負っていない。」
「……私は……」
「頼む、ノヴァ。」
俺は静かに言った。
「お前が愛した男は、もう死んだ。それが現実だ。そして俺には、その男がお前に向けていた想いを埋めることなんてできない。」
少し間を置き、微笑む。
「だって……俺は、あいつじゃない。」
「それでも!」
ノヴァは勢いよく顔を上げる。
「あなたのいない人生なんて……私には考えられない!」
俺は足元へ視線を落とした。
二人の間を、小川の水が静かに流れていく。
「……そう言ってもらえて嬉しいよ。」
苦笑しながら続ける。
「でも、その言葉は俺にじゃない。俺の記憶の中にいる男へ向けたものなんだ。」
ぎこちなく笑い、俺は歩き出した。
「ニ――」
「いや。」
振り返らずに答える。
「もう決めたんだ、ノヴァ。傷が治ったら、この村を出る。一人で。」
そのまま歩き続ける。
俺も、自分の道を歩かなければならない。
もう誰かの記憶に縛られて生きるのは終わりだ。
俺はニマリだ。
イオじゃない。
あいつは許されない罪を犯した。
その責任は、俺が背負わなければならないのかもしれない。
それでも。
俺は俺自身として生きたい。
両腕を大きく伸ばす。
頬を撫でる風が心地いい。
ようやく、一つの重荷から解放された気がした。
もう、あいつの愛まで背負う必要はない。
だって俺は――
ニマリなのだから。
◇ ◇ ◇
翌朝。
重い瞼をゆっくりと開く。
外の冷気が頬を刺していた。
雨戸の隙間から外を覗くと、空はようやく白み始めたばかりだった。
布団から足を出した瞬間、床の冷たさが容赦なく襲ってくる。
「……寒っ。本気で凍えそうだ。」
身体を起こし、窓へ近づく。
雨戸を開けると、冷たい風が一気に部屋へ吹き込んできた。
「……くしゅん!」
思わずくしゃみが漏れる。
窓を開け放ち、外を見る。
囲いの中には二頭いたはずの馬が、一頭しかいなかった。
残った一頭は、ドラゴンのそばで静かに草を食んでいる。
「……ラプラスさん、朝早く村へ行ったのか?」
そう呟き、部屋を出る。
廊下へ出ると、すべての扉は閉まっていた。
フェイトは母親、そしてノヴァと同じ部屋で眠っている。
ラプラスも自室にいるようで、扉は閉じられたままだ。
気にせず居間へ向かうと、暖炉の火は消えていた。
「仕方ないな……。」
小さくため息をつき、薪を組み直して火を起こす。
立ち上がった瞬間、縫い直された着物の下で傷口がずきりと痛んだ。
「いってぇ……! 本当にまだ痛むな……。」
痛みに顔をしかめながらふと食卓を見ると、一通の手紙が置かれていることに気づく。
「ラプラスさん宛てか?」
近づいて手に取る。
封筒の表には――
俺の名前が書かれていた。
「今日やることでも書いてあるんだろう。」
そう呟きながら封を切り、手紙を開く。
読み始めた、その時――
家の奥の部屋の扉が開き、大きなあくびをする男の声が聞こえてきた。
手紙には、こう綴られていた。
◇ ◇ ◇
親愛なるニマリへ
この世界へ来てから、私がどれだけあなたに負担をかけてきたのか、そしてあなたが話してくれたことを、私はちゃんと考えました。
私は今まで、本当のあなたを見ていませんでした。
私が見ていたのは、あなたの中にいる――あの人だったからです。
でも同時に、私はこの世界のことも、あなたのことも、まだ何も知らないまま、自分の気持ちを決めつけていたのだと気づきました。
今の私は、七歳の子どもに頼りきりの、未熟な女の子です。
あなたの身体を限界まで酷使させてしまったことも、本当に申し訳なく思っています。
だから私は前へ進みます。
いつか、あなたに好きになってもらえるような人になるために。
ラプラスさんに学院の場所を教えてもらいました。
私はそこへ向かいます。
十年後。
今の私と同じ十八歳になったあなたと、学院で再会しましょう。
その時には、胸を張ってあなたの目を見て話せる私になっていたいです。
今まで本当にありがとう。
――ニマリ。
◇ ◇ ◇
不思議なことに、その手紙を読み終えた俺の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
これは第1幕の最後から2番目の章です。第2場は次の章で完結します。




