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~フェイトの記憶 ~  作者: Yūyake
シーン2 ― 私はダモクレスの剣だ
22/31

第16章:死の狩り


ニマリ


霧の中を歩き続けて、もう何日も経っていた。

ノヴァは精神的に限界だった。

そして俺も……俺も同じだった。

兵士との戦いから二時間ほどして彼女が目を覚ますと、俺がまた自分を抑えきれなかったことを理解するのに、それほど時間はかからなかった。

だが今回は違った。

俺はもう少しで彼女を殺してしまうところだったのだ。

彼女は自分の喉に手を当てた瞬間、その事実を悟った。

その瞳を見れば分かった。そこには怒りも憎しみもなかった。ただ、心配だけが宿っていた。

俺たちは再び村を目指して歩き始めた。

だが運の悪いことに、荷車とともに荷物はすべて失われてしまっていた。

俺の手元に残っていたのは、折れた剣だけ。

ノヴァの剣もまた、霧の中へ消えてしまっていた。

くそったれ。

本当に最悪の状況だった。

さらに二時間ほど歩くと、空気はすっかり冷え込んできた。

どれだけ歩き続けたのかも、もう分からない。

そんな時、一本の大木が道を塞いでいた。

俺はその幹によじ登り、向こう側へ飛び降りる。

すぐ後ろからノヴァも続いた。

幹の上まで登った彼女は、そのまま跳び降りる。

俺は前を向いて歩き出そうとした――その瞬間。

「きゃあっ!」

悲鳴が響き、俺は慌てて振り返った。

ノヴァは尻もちをつき、足首を押さえていた。

どうやら着地に失敗したらしい。

まあ当然だ。

下駄なんて履いていれば、いつか誰かが怪我をするのは時間の問題だった。

俺は彼女のそばへ寄り、ズボンを引き裂く。

裂いた布で彼女の足首をしっかりと巻いた。

「今日はここで休もう。」

「……うん。」

俺がそのまま彼女の隣に腰を下ろすと、彼女は少し驚いたような顔をした。

「どうした?」

「ううん。ただ……やっと私に拗ねるのをやめてくれたんだなって思って。」

俺は黙って霧の向こうを見つめた。

この霧は、少しずつ俺を狂わせていく。

「……まあな。今回は、本当に取り返しのつかないことをするところだった。」

「そうね。ほら、首にもまだ跡が残ってる。」

彼女は少し笑ってから、穏やかな声で続けた。

「ニ。これは二人で乗り越えればいい。あなたは一人じゃないんだから。」

俺は立ち上がり、彼女に微笑む。

「悪い。少し、一人で考えさせてくれ。」

「遠くへ行きすぎないでね。」

「ああ。心配するな。」

俺は霧の中へ足を踏み入れた。

幸い、鞘で地面に一本の溝を刻むことを思いついた。

道しるべのつもりだった。

どれほど歩いただろう。

いや、五分も経ってはいなかったと思う。

行き先なんてなかった。

ただ足を引きずり、虚ろな目で歩き続ける。

まるで、自分の悲劇に身を任せる亡霊のように。

「……え?」

何気なく足元へ目を落とした瞬間、目の前に一本の溝が見えた。

最悪の事態だった。

俺は、自分で刻んだ溝の場所へ戻ってきてしまっていた。

実際、もしまだ彼女が俺の前にいたのなら、今すぐ引き返せたはずだった……。

だが、俺はもう彼女の前を通り過ぎてしまっていた。

境界線を越えてしまったのだ。

俺は勢いよく顔を上げ、辺りを見回しながら叫ぶ。

「ノヴァ! ノヴァァァ!!」

「……」

道に迷った。

地面に刻んだ溝を頼りに左へ進んでみたが、また同じ分かれ道へ戻ってきてしまう。

「……冗談だろ。」

今度は右へ進んだ。

だが結果は同じだった。

再びあの分岐点に立っていた。

「あり得ない……。」

「落ち着け!」

何時間も沈黙していた《ラヴォワ》が、突然口を開いた。

「お前は簡単に言うけどな!」

「いいから落ち着――」

「それはこっちの台詞だ! 少しは落ち着け、この野郎!」

落ち着けと言われただけなのに、俺は《ラヴォワ》へ怒鳴り返していた。

「……この霧、何かがおかしい。」

そう呟きながら口元へ手を当てる。

気づけば、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。

「そうだな。お前がどこまで進んだのかは分からないが、この辺りはマナの濃度が異常に高い。そのせいだ。だから落ち着け。濃すぎるマナは精神を昂らせる。」

「……くそ。」

俺は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「おそらく、この霧の奥には何かが封じられているんだろう。これ以上被害を出さないためにな。」

《ラヴォワ》は推測するように言った。

「……そうだな。だったら回り込むしかない。山頂はどっちだ?」

その瞬間、俺の腕が勝手に持ち上がる。

《声》が身体の主導権を握り、霧の奥を指差した。

「……あっちだ。」

その時だった。

背後から足音が聞こえ、俺は振り向く。

「ニマリ?」

「ノヴァ!?」

目を細めた次の瞬間、彼女は勢いよく俺へ飛びついてきた。

両手で俺の腕をしっかりと掴む。

大きく見開かれた瞳には、どこか狂気じみた光が宿っていた。

彼女は微笑み、ゆっくりと俺の耳元へ口を寄せる。

「……つかまえた。」

「早く引き離せ! マナの影響で正気を失っている!」

《ラヴォワ》の叫びに、俺は反射的にノヴァを突き飛ばした。

彼女は驚いたように目を見開き、ぎりっと歯を食いしばる。

「どうして……? どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……どうしてぇぇぇっ!!」

彼女は両手で自分の頬を掴み、皮膚を引っ張り始めた。

「突き放しちゃ、だめ……。あなたと私は……。あなたは、私だけのもの。」

そう囁くと、彼女はゆっくりと両手を俺の首へ伸ばした。

「ほら、見て。私たち、そっくりでしょう?

あなたと私は、一つなの。」

「がっ……!」

肺から空気がどんどん奪われていく。

このまま何もしなければ、本当に殺される。

「や……め……ろ……。」

意識が霞み始めても状況は何も変わらない。

俺は必死に手を伸ばし、剣を掴んだ。

どうにか片腕だけを抜け出し、そのまま彼女へ一撃を叩き込む。

俺はその隙に立ち上がった。

「待って!」

「落ち着け! 霧のせいで正気を失ってるんだ!」

「こっちへ来てから、私は何一つ楽しめてない……。」

ノヴァは俯き、小さく震える。

「恋人を奪われて……何も分からないまま、この世界へ連れて来られて……。」

そこで彼女は言葉を切った。

ゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめる。

そして、静かに言った。

「……ニマリなんて、大嫌い。

私の大好きな人を……返して。」

その言葉に、俺は目を見開いた。

胸が締めつけられる。

気づけば涙が込み上げていた。

そして、自分でも気づかないうちに――

身体に入れていた力が抜ける。

その瞬間、霧が再び俺を呑み込んだ。

「……はは。」

笑いが漏れる。

「ははは……ハハハハハッ!!」俺は胸に手を当てる。「さあ、憎しみを吐き出せ。その毒は甘く、醜い。俺が生まれてから出会った連中と同じようにな。……分かっていたさ。お前も結局、俺を弄んでいただけなんだ。」

「……彼は、どこ?」

「会いたいのか?」

「……うん。」

「俺が死んでも、か?」

ノヴァは迷うことなく叫んだ。

「あなたなんか、死んじゃえばいい!」

「そうか。なら、望み通りに。」

俺は静かに剣を抜く。

そして彼女の目の前で、自らの喉を斬り裂いた。

――――

俺は勢いよく目を開けた。

足元には、あの果てしない水面。

見慣れた水鏡の世界だった。

向かいには、《ラヴォワ》が立っていた。

何も言わず、その場に腰を下ろす。

「……まったく。あの霧は、本当に恐ろしいな。」

俺は辺りを見回した。

……そうか。

俺は、今、自殺したのか。

《ラヴォワ》は軽く咳払いをすると、いつもの調子で言った。

「さて。

約束どおり、意識の一〇%をもう一度もらうぞ。」

あまりの衝撃に、俺は言葉を返せなかった。

口から漏れるのは意味を成さない声だけ。

「ぁ……あ……あぁ……。」

「おっと。」

急に吐き気が込み上げ、俺は慌てて口元を押さえる。

そのまま激しく吐いた。

《声》は立ち上がり、俺の背中を優しくさすってくれる。

俺の瞳には、もう何の光も宿っていなかった。

心も身体も、限界だった。

「安心しろ。

あれは本心じゃない。

あの霧は、人の負の感情を何倍にも膨れ上がらせるんだ。」

「……えっ!?」

「霧の中に封じられているものが、誰なのか分かった気がする。」

俺は身体を起こし、その場に座り直した。

「もう大丈夫か?」

「……ああ。悪い。それで、誰だと思う?」

《ラヴォワ》は顎に手を当て、少し考えてから口を開いた。

「お前の母親の授業を思い出せ。魔女にはそれぞれ加護を授ける神がいる。だが、その中には決して善良とは言えない神々も存在する。……特に、その力がな。」

「怒りと何の関係があるんだ?」

「昔、本で読んだことがある。『憤怒の神』は、行く先々に憎悪と戦争をもたらす存在だと。だから考えたんだ。本当は、その力が世界へ溢れ出さないように、この場所へ封印されたんじゃないかってな。」

「……それなら、この霧にも説明がつく。」

「ああ。この霧は、墓を隠すためのものなんだろう。」

俺は頭を掻きむしった。

「つまり、俺たちは偶然ここへ迷い込んだってことか?化け物の口の中に、自分から飛び込んだようなものじゃないか。」

《ラヴォワ》は複雑そうな表情を浮かべた。

「本当なら、中を確かめたいところだ。だが……あの濃さのマナを、俺でも耐えられる自信がない。」

「待て。お前ですら耐えられないってことか?」

《ラヴォワ》は苦笑した。

「俺だって無敵じゃない。」

……そういえば。

肉体的にはほとんど傷つかないくせに、精神面は案外脆かったな。

「分かった。状況は理解した。……じゃあ、戻るよ。」

「ああ。できるだけ穏便にな。」

◇ ◇ ◇

霧の匂いに包まれながら、俺はゆっくりと目を開けた。

地面に倒れていたらしい。

すぐ近くには、あの倒木が見える。

着物は血で真っ赤に染まっていた。

俺は身体を起こし、激しく咳き込む。

喉の奥に残っていた血を吐き出した。

恐る恐る首へ手を伸ばれる。

傷跡は、跡形もなく消えていた。

安堵の息をつき、左へ顔を向ける。

そこには、膝を抱えてうずくまるノヴァの姿があった。

俺は彼女の足首へ目を向ける。

ひどく腫れ上がっている。

倍ほどの太さになっていた。

……おそらく、あの濃密なマナのせいで、さっきまでは痛みすら忘れていたのだろう。

俺は立ち上がり、彼女へ近づいた。

「……少しは落ち着いたか?」

「……」

「俺が眠っている間、《ラヴォワ》と話をした。

どうやら俺たちは、ある種の聖域のすぐ近くまで来ていたらしい。

そこが――」

「……どうして?」

その一言で、俺の動きは止まった。

「どうして…… あんなひどいことを言った私に……何事もなかったみたいに話しかけてくれるの?」

俺は彼女の足をそっと手に取った。

「っ……!」

痛みに耐えきれず、ノヴァの口から小さな呻き声が漏れる。

「……どうしてそんなに、俺に怒ってほしいんだ?」

俺は彼女の下駄を脱がせ、足袋を留めていた紐をほどくと、ゆっくりと足袋を外した。

「普通なら……何もなかったことにして、見て見ぬふりをするものじゃない?」

「そうだな。」

俺はもう一度包帯を手に取り、腫れた足首へ丁寧に巻き直していく。

「でも残念ながら、俺は人に謝罪を求められるような人間じゃない。」

包帯を巻き終えながら、俺は静かに続けた。

「むしろ謝るべきなのは俺のほうだ。

俺は完璧じゃない。

あの聖域で、それを嫌というほど思い知らされた。

……俺たちは二人とも、弱い。」

少し言葉を切る。

「お前が俺を好きになれなくても構わない。

でも……お前が本当に安全だと確信できるまでは、俺は安心できない。」

最後に包帯をしっかりと結び終える。

そして、小さく息を吐いた。

「全部終わったら……

その時は、お前は自由だ。

別の誰かと、新しい人生を歩めばいい。」

「そんなこと……できるわけないでしょ!?」

俺は顔を上げ、不器用に笑った。

「ほら。

ちゃんと人生をやり直せた人もいるじゃないか。

書き換えのあと、まるで前の宿主との生活なんて地獄だったみたいに。」

俺は立ち上がり、そのまま背を向ける。

ノヴァは慌てて手を伸ばした。

だが、その指先は俺には届かなかった。

……少なくとも、今は。

「少し休んだら、また出発しよう。」

◇ ◇ ◇

休憩を終え、俺はノヴァの前へ歩み寄った。

彼女の目は泣き腫らして赤くなっている。

……俺だって辛くないわけじゃない。

それでも、距離を置かなければならなかった。

俺は、前の宿主と同じ過ちを繰り返しているのかもしれない。

それでも――

この子まで俺のせいで苦しませるわけにはいかない。

俺が望む穏やかな人生には、まだ早すぎる。

「足を貸せ。これ以上悪化させないように、俺がおぶっていく。」

「……一人で歩ける。」

鼻をすすりながらそう言うと、ノヴァは立ち上がった。

下駄を履き直し、そのまま歩き始める。

一歩踏み出すたびに、痛みに耐えるような声が漏れた。

そのまま俺の横を通り過ぎていく。

俺は歯を食いしばり、勢いよく振り向いた。

「頼む…… これ以上、面倒なことにしないでくれ。」

ノヴァはゆっくりと足を止める。

そして振り返った。

「……本当に何も分かってないんだね。」

「分からない。

いや、知りたくもない。

俺は……もう傷つきたくない。」

彼女は悔しそうに歯を食いしばる。

「どうして……!

どうしてなの!?

私はあんなに、話を聞いてってお願いしたのに!」

「話してどうなるっていうんだ!?答えろよ!話したいのか!?いいさ、話そうじゃないか!――お前の目の前にいるのは、一体誰なんだ!!」

「それは……」

俺はゆっくりと顔を上げた。

「……分かるだろ。だから言ったんだ。そんなことをしても意味はないって。」

俺は立ち止まり、静かに彼女を見つめた。

「お前は、まだあいつの死を受け入れていない。だから――お前の目の前にいる俺を見ていない。……見ているのは、あいつなんだ。」

少しだけ視線を落とす。

「その涙が、何よりの証拠だ。」

「……本当に、残酷。」

俺は拳を強く握り締めた。

「違う。」

喉の奥から押し出すように言葉を紡ぐ。

「もう、仮面を被るのはうんざりなんだ。お前のおかげで、ようやく分かった。俺には誰もいない。」

笑いにもならない笑みが漏れる。

「みんな、あいつの話ばかりする。

何度も、何度も。

……誰一人として、俺を見ようとはしない。」

俺は胸へ手を当てた。

「俺は、真っ黒なページに落ちた黒い染みみたいな存在だ。」

「でも……私は……」

「もういい。」

俺は首を横に振った。

「信じられない。最初から、一度も信じてなんかいなかった。」

静かに息を吐く。

「俺は、お前が一番苦しかった時に手を貸しただけだ。だから、お前が安全な場所へ辿り着いたら…… 俺は、お前の人生から消える。」

少し間を置き、最後に付け加える。

「そして…… 俺のことなんて忘れてくれ。」

「……分かった。」

その返事を聞き、俺は小さく笑った。

そのまま彼女の方へ歩き出し、何も言わずに横を通り過ぎる。

……分かっている。

俺たちは生きてきた世界が違う。

共通するものなんて、一つもない。

何もかもが違う。

だからこそ――

彼女は、前の宿主から離れなければならない。

静かな人生を歩んでほしい。

誰か別の人と出会い、結婚して、自分だけの家族を築いてほしい。

……勝手な願いなのは分かっている。

それでも。

それくらいは、俺が彼女に返さなければならないものだから。

この物語の化け物は――

俺なのだから。

◇ ◇ ◇

ノヴァを背負ってから、一週間が過ぎた。

霧はますます濃くなり、果実のなる木を見つけることさえ運任せになっていた。

……よく生き延びられたものだ。

ある日、腹を裂かれたまま息のあったイノシシを見つけた。

あれを殺しかけた何者かは、食べるために襲ったわけではない。

俺たちは理解した。

この森には、とんでもない化け物が潜んでいる。

そして今まで遭遇しなかったのは――

ただ運が良かっただけだと。

だが。

幸運は永遠には続かない。

「……静かに。気づかれる。」

白い皮膚をした人型の化け物たちが、とてつもない速さで森を駆け抜けていく。

俺とノヴァは、巨大な樹洞の中へ身を潜めていた。

入口を塞ぐように俺が前へ立ち、彼女の口を手で押さえる。

その頭上を、無数の足音が駆け抜けていった。

怖かった。

息をすることすらできない。

身体は恐怖で完全に硬直していた。

ノヴァは震えながら俺の指を強く噛んでいる。

……責める気にはなれなかった。

彼女は恐怖に支配されていた。

足を負傷した今の自分が、格好の獲物だと理解していたからだ。

その時だった。

頭上の足音が、一斉に止まる。

直後――

森全体を揺るがすような咆哮が響いた。

人の叫びとも、牡鹿の鳴き声ともつかない異様な声。

あまりの轟音に、俺は思わず耳を塞ぐ。

すると次の瞬間。

数え切れないほどの足音が、一斉に走り出した。

ノヴァは怯えて俺へしがみつく。

俺は反射的に剣を抜いた。

樹洞の入口。

濃い霧の向こうから、一つの黒い影がゆっくりと姿を現す。

大きい。

いや――

二メートルを優に超える巨体。

その頭には、鹿の面。

……見間違えるはずがなかった。

忘れられるはずがない。

あいつだ。

「……やはり、お前がこの森の守り手か。」

俺はノヴァからそっと離れ、樹洞の外へ出た。

立ち上がった瞬間、風が吹き抜ける。

髪が風に揺れる。

それでも呼吸は乱れたままだった。

……あれは、以前とは何かが違っている。

「ウルラク……久しぶりだな。」

黒い影はゆっくりとこちらを向いた。

そして近づくと、四つ足になって身を低くする。

その口から響いた声は、男とも女ともつかない。

幾重もの声が重なり合い、不気味な響きを帯びていた。

「……彼女は……どこだ……?」

「主人のことか……。」

「…………」

「分からない。

俺がその事実に気づいたのは、あまりにも遅すぎた。」

その瞬間、俺自身でも声色が変わったことに気づく。

《ラヴォワ》が、あまりにも自然に身体の主導権を奪っていた。

……たった二〇%の意識を預けただけで、ここまでできるのか。

もっとも、この会話は俺には理解できそうになかった。

「お前の中には《創造》が宿っている。だが、お前はその父ではない。……なぜだ?」

「イオは死んだ。」

ウルラクは自らのこめかみに人差し指を当てる。

「その力は……継承された。」

「俺の前にいる者は、もはや俺の知る男ではない。万物の父は死に、新たな《創造》が生まれた。」

鹿の面がゆっくりと左へ傾く。

「一つだけ聞こう、《創造》よ。……己の敵を覚えているか?」

「敵……?」

その時だった。

左側から勢いよく駆けてくる足音が聞こえる。

何者かが全速力で俺へ向かってくる。

魔物か。

そう思い、俺は反射的に振り向きながら剣を抜いた。

――だが。

振り向いた瞬間。

俺はまったく別の場所に立っていた。

一面に広がる麦畑。

剣は消えている。

世界から色が失われていた。

すべてが白と黒だけで描かれている。

身体が重い。

まるで空そのものを背負っているようだった。

ゆっくりと空を見上げる。

そこには――

白い日蝕。

理解できない光景。

本能が恐怖を叫んでいた。

その時。

どこか遠くから、男の絶叫が響く。

拷問でも受けているかのような悲鳴。

全身の毛が逆立つ。

震えながら振り返る。

そこには黒い影が立っていた。

白く光る二つの瞳だけが、じっと俺を見つめている。

さらに遠くから響く悲鳴が、背筋を凍らせる。

恐る恐る影へ近づく。

すると麦畑の中央に、小さな池があることに気づいた。

真っ黒な池。

底は見えない。

水は粘液のようにどろりとしている。

深さという概念すら感じられなかった。

その異様な池を見つめた次の瞬間――

黒い影が、いつの間にか俺の右隣に立っていた。

息遣いが聞こえるほど近い。

影の目が大きく見開かれる。

口も裂けるように広がり、

絶叫が放たれた。

思わず振り向く。

だが、そこにはもう誰もいない。

影は再び池の向こう岸へ戻っていた。

そして静かに、白い日蝕を指差す。

……何をすべきか。

なぜか俺には分かっていた。

池へ入らなければならない。

俺は一歩、足を踏み入れる。

粘液はあまりにも重く、

足が沈んでいかない。

身体を押し込むたび、

息ができなくなっていく。

苦しみ。

憎しみ。

怨み。

あらゆる負の感情が、

この小さな池の中へ封じ込められていた。

そして、そのすべてを――

死そのものが見張っている。

「神は、お前を救わない。」

その声が響く。

「なぜなら―― 神など、存在しないのだから。」

俺は黒い池の中に立っていた。

白い日蝕が、ときおり赤い閃光を放つ。

そのたびに、水面へ無数の紋様が浮かび上がる。

意味を持たないはずの。

理解してはならないはずの。

無秩序な記号だけが、静かに揺れていた。

一つの言葉だけが、頭の中で延々と反響していた。

作者。

作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者。

作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者。

作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者。

作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者。

作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者、作者――。

幻覚へ引き込まれた時と同じように、俺は現実へ引き戻された。

目の前には、あの異形が立っている。

「……いつから、そんな精神世界に干渉するような力まで手に入れた?」

「時は、無知なる者にも学びを与える。」

男とも女ともつかない声が重なる。

「俺は主を探す、ただの使者。

そして我が盟友は、実に便利な杖なのだ。」

「……その盟友、とんでもない化け物だな。」

「彼女のおかげで、己の敵を思い出せたか?」

「……ああ。

助かったよ。」

俺は一つ息を吐く。

「頼みがある。この地を抜ける道を教えてくれないか。」

霧の向こうで、痩せ細った異形の前脚がゆっくりと持ち上がる。

骨ばったその腕は、ある一点を静かに指し示した。

「あちらへ進め。

やがて村へ辿り着く。」

「……お前は来ないのか?」

「まだ、その時ではない。」

鹿の面がわずかに揺れる。

「我が主は、まだ姿を現していない。」

そう言い残し、異形は霧の中へ溶け込もうとする。

「待ってくれ!! ウルラク!」

思わず叫ぶ。

「あんたは…… この土地に、一体どれだけいたんだ?」

影は足を止め、静かにこちらを振り返った。

「長い……長い時だ、友よ。」

少しだけ間を置く。

「己の主の顔すら思い出せなくなるほどにはな。」

俺は俯き、拳を握り締める。

「……顔すら思い出せない相手を探し続けるなんて。

狂ってる。」

鹿の面の奥から、小さな笑い声が漏れた。

「ありがとう、友よ。」

そのまま影は完全に霧へ溶け込み、姿を消した。

樹洞からノヴァが出てきて、その後ろ姿を見送る。

「……ニマリ?」

「悪い。

昔の知り合いに会ってな。」

「主人って……

いや、やっぱり聞かない。」

俺は霧の奥を見つめ続けた。

あの異形の精神への干渉能力。

……恐ろしい。

そして、あれと手を組んでいる存在。

何者であろうと――

決して敵に回してはいけない。

「……よし!」

パンッ!

俺は両頬を思い切り叩いた。

そしてノヴァへ向き直る。

「行こう。先へ進むぞ。」

ノヴァは静かに俺の背中へ乗る。

俺は彼女を背負い、ウルラクが示した方向へ歩き始めた。

どれほど歩いただろう。

もう覚えていない。

喉は渇ききり、脚は鉛のように重い。

疲労が全身を蝕み始めた、その時だった。

背中のノヴァが、小さな声で俺に話しかけた。

「……聞こえる?」

ノヴァが小さな声で囁いた。

俺は音のする方へ歩き始める。

近づくにつれ、その音にはどこか聞き覚えがあるような気がしてきた。

「ああ…… 聞こえる。」

やがて俺たちの前に、一筋の水の流れが姿を現した。

「……水だ。」

そう認識した瞬間。

俺の身体は限界を迎えた。

力が抜け、その場へ膝をつく。

一日中、ノヴァを背負ったまま歩き続けた。

しかも水を一滴も飲まずに。

限界が来るのも当然だった。

ノヴァは慌てて俺のそばへ来ると、革製の水筒を差し出した。

「はい。」

「……ありがとう。」

俺は夢中で水を飲み干す。

喉を潤したあと、そのまま頭から水を浴びた。

冷たい水が火照った身体を冷やしていく。

「少しは楽になった?」

「ああ。

ただ疲れてるだけだ。

それにしても、この川は本当に助かった。」

「うん。」

俺は川の流れを見つめながら首を傾げる。

「待てよ……

ミオリの近くって、確か川が流れてなかったか?」

ノヴァは黙ったまま俺を見る。

……そうか。

この世界の地理を知っているとは限らない。

俺は小さく息を吐いた。

「とりあえず、この川に沿って進もう。探している村へ繋がっているかもしれない。」

「分かった。」

俺は苦労しながら立ち上がる。

そして腰を落として背を向けた。

ノヴァは静かに背中へ乗り、俺へ身を預ける。

「……痛くないの?」

「いや。聖域で一度死んでから、身体が少し丈夫になった気がする。」

その言葉を聞いた途端、ノヴァの表情が曇る。

何も言わず、そっと俺の背中へ顔を埋めた。

「そんな細い身体なのに…… 背中だって全然大きくないのに…… もう何時間も私を背負って歩けるなんて。」

「俺は…… 普通じゃないからな。」

ノヴァはくすっと笑った。

「私たち、二人とも普通じゃない。」

……その通りだ。

俺たちは同じ船に乗っている。

だからこそ。

俺は彼女だけは必ず安全な場所まで連れて行く。

もう二度と。

俺のせいで誰かが傷つく姿なんて見たくない。

それから二時間以上歩き続けた。

川は終わる気配すら見せない。

空気はどんどん冷え込み、ノヴァは俺の背中で静かな寝息を立て始めた。

俺は足を止め、空を見上げる。

濃い霧の向こうで、白く眩しい光の球がかすかに姿を覗かせていた。

「……夜か。」

俺は再び前を向き、歩き出す。

その時だった。

――ゴゴッ……

前方から低く重い音が響く。

不思議に思い、その音のする方へ近づいていく。

だが。

近づけば近づくほど、その音は不気味さを増していった。

説明なんてできない。

それでも全身が警鐘を鳴らしている。

――これ以上進めば、もう引き返せない。

本能がそう叫んでいた。

それでも俺は歩みを止めなかった。

霧の向こうに、一つの巨大な影が浮かび上がる。

三メートル――いや、四メートルはある。

その影からは、

骨が砕け、引き裂かれるような

嫌な軋み音が絶えず響いていた。

俺はごくりと唾を飲み込む。

それでも一歩ずつ近づいていく。

敵意があるのか。

人を襲う存在なのか。

……それだけは確かめなければ、安心して休むことなどできなかった。

その異形のすぐそばまで歩み寄った、その瞬間だった。

頭上を激しい風が吹き抜ける。

反射的に見上げる。

巨大な尾。

無数の棘に覆われたそれが、俺のすぐ横へ叩きつけられた。

轟音とともに大地が揺れる。

異形が低く唸った。

その一撃で霧が吹き飛ぶ。

そして――

その姿が、完全に現れた。

ゆっくりと首がこちらを向く。

赤い双眸。

口いっぱいにこびりついた血肉。

裂かれた肉片が牙の間から垂れている。

奴は身体をこちらへ向け、喉の奥から不吉な唸り声を漏らした。

その巨体はあまりにも巨大で、

月の光さえ完全に隠してしまう。

「……こんな場所に、ドラゴン……?」

見上げた先で、さらに異様なものが目に入る。

肩へ二本。

巨大な腕が生えていた。

その腕からは黒い膜が垂れ下がり、

まるで死神の外套のように揺れている。

――翼だ。

さらに頭からは漆黒の角が夜空へ突き刺さっていた。

漆黒の竜。

それが俺の前に立っていた。

「……ノヴァ。起きろ。」

「ん……!?」

「声を出すな。お前を川へ投げる。その間に、俺が奴を引きつける。」

ノヴァの身体が強張る。

黒竜は低く唸りながら、一歩、また一歩と近づいてくる。

その時。

肩の二本の腕が高く持ち上がった。

それを見た瞬間、

全身の血が凍りつく。

「……か……母さん……。」

「GRRRROOOOOAAAAAAAAッ!!」

咆哮。

世界そのものが震えた。

大地が唸る。

俺は静かに一歩、足を引く。

そして次の瞬間、

川へ向かって全力で駆け出した。

黒竜は追加の二本腕を地面へ突き立て、

四肢と合わせた六点で地を這うように疾走する。

速い。

あまりにも速すぎる。

心臓が跳ね上がった。

「追いつ――」

俺は急停止する。

その勢いのままノヴァを川へ放り投げた。

水しぶきが上がる。

俺は振り返り、

刀を抜き放つ。

黒竜と正面から向き合った。

奴は前脚を振るうたび、

大地そのものを抉り取って迫ってくる。

大口を開け、

そのまま俺へ飛びかかった。

紙一重。

俺は身を捻ってかわす。

腕一本が、

あと数センチで喰いちぎられるところだった。

着地した瞬間、

黒竜は追加の腕で身体を支え、

止まることなく再び襲いかかる。

俺は横へ転がる。

牙が鼻先を掠める。

だが次の瞬間、

四本ある脚の一本が俺を捉えた。

衝撃。

身体が宙を舞う。

そのまま大木へ激突した。

激痛に耐えながら身体を起こす。

目の前。

あと数センチ。

追加の腕が俺の頭上へ振り下ろされる。

反射的に右へ飛ぶ。

直後。

背後で大木が轟音とともに倒れた。

……恐ろしい。

あの二本腕の一撃を受ければ、

間違いなく即死だ。

俺は一瞬だけ川を見る。

ノヴァは流れに飲まれながらも、

枝へ必死にしがみついていた。

「……よし。」

俺は口元を吊り上げる。

「これで…… 俺とお前だけだ。」

ノヴァは助ける。

その約束は果たした。

ならば。

もう遠慮する理由はない。

俺は笑う。

「来いよ…… 黒竜。」

黒竜は再び天を裂くような咆哮を放った。

その振動は地面だけではなく、

川の水面までも激しく震わせる。

次の瞬間。

黒い霧が噴き出した。

俺の霧とまったく同じ、

濃密な黒霧。

翼はその闇へ溶け込み、

輪郭さえ見えなくなる。

左の腕が振り下ろされる。

俺は右へ転がって回避。

続けざまに右腕。

さらに左。

右。

容赦ない連撃。

俺は何度も地面を転がりながら避け続ける。

そして。

ついに黒竜の顎が目前まで迫った。

その巨大な口が、

俺を噛み砕こうと開かれる。

――だが。

ぴたりと止まった。

黒竜の身体が、

理由もなく震え始める。

同時に、

俺の髪が白く染まっていく。

地面を覆っていた黒い霧が一斉に刀へ吸い込まれる。

折れていた刃が再生し、

完全な姿を取り戻す。

そして、

黒竜の顎を真正面から受け止めた。

「どけぇぇぇぇッ!!」

俺は右手で柄を握り締め、左手を刀身の峰へ添える。

黒竜の顎を押し返そうと、全身の力を振り絞った。

腕の筋肉が悲鳴を上げ、裂けそうになる。

それでも――

相手は竜だ。

力比べになるはずもない。

俺はそのまま押し切られた。

両足が地面を十メートル以上も削りながら後退し、

最後は背中から巨大な岩へ叩きつけられる。

その瞬間、黒竜は顎の力を抜き、

追加の二本腕を振り下ろしてきた。

紙一重でかわす。

反撃に刃を走らせる。

だが。

硬い。

鱗が厚すぎる。

まるで刃が通らない。

押され続ける中、

視界の端で何かが光った。

俺は一瞬だけそちらへ意識を向ける。

そして正体を理解した。

「……いける!」

再び迫る巨大な腕。

連続で叩きつけられる攻撃をぎりぎりで避け続け、

その一本へ飛びついた。

腕へしがみつく。

黒竜がわずかに驚く。

そのまま俺は空高く振り回された。

「うわあああぁぁぁっ!!」

あまりにも激しい動きだった。

今手を離せば、

どこへ吹き飛ぶか分からない。

その時。

暴れ回る黒竜の腕が一本の大木へ激突した。

その反動を利用する。

俺は手を離し、

そのまま黒竜の背中へ飛び乗った。

「グルルルルッ!!」

まるで暴れ馬のように身体を激しく揺らす。

「少しは大人しくしろ!」

悲鳴を上げる両腕で必死に鱗へしがみつく。

痛みで指の感覚が消えかけていた。

やがて黒竜の動きが一瞬だけ止まる。

息を吸った、その刹那。

俺は刀を鞘へ納め、

さっき見つけた"あれ"へ飛びついた。

だが――

届く寸前。

一本の腕が俺を横から殴り飛ばす。

身体は再び竜の頭上へ。

黒竜は追加の腕で、

自分の頭を容赦なく殴り始めた。

一撃でもまともに食らえば、

人間の形など残らない。

俺は必死にかわし、

首筋へ飛び移る。

「くそったれぇぇ!!」

目当ての場所へ進もうとしても、

黒竜は岩へ、

木へ、

あらゆるものへ身体をぶつけ続ける。

その途中、

俺の脚が岩壁との間へ挟まれた。

「ぐあああぁぁぁっ!!」

骨が軋む。

もう限界だった。

こんなもの、

人間にどうこうできる相手じゃない。

それでも。

最後の力を振り絞る。

俺は黒竜の背中へ立ち上がり、

腹の底から叫んだ。

「もう、うんざりなんだよぉぉぉぉぉぉッ!!」

前方へ飛び込む。

そのまま地面へ転がり落ちた。

黒竜がゆっくりとこちらを向く。

俺は拾い上げた"それ"を杖代わりにして立ち上がった。

手に握られていたのは、

どこにでもありそうな一本の剣。

だが。

完全な姿を保った剣だった。

俺は静かに抜き放ち、

黒竜へ切っ先を向ける。

その瞬間。

黒竜の動きが止まった。

頭を激しく左右へ振る。

まるで現実そのものを見失ったように。

追加の腕で何度も何度も自分の頭を殴りつける。

「……完全に狂ってるな。」

黒竜は二本の巨大な腕を地面へ叩きつけ、

全身全霊で咆哮した。

顎があり得ないほど大きく開く。

その光景だけで首筋を冷たい汗が伝う。

それでも俺は笑った。

「……やっと、その気になったか。」

剣を構える。

黒竜は天へ向かって首を反らし、

世界を引き裂くほどの声で叫んだ。

「俺を見るなぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

「……えっ!?」

その瞬間。

俺には、一人の少年の悲鳴が聞こえた気がした。

あまりにも突然のことで思考が止まる。

その隙だった。

黒竜の前脚が横から襲いかかる。

咄嗟に剣を構えて受け止める。

だが。

衝撃が桁違いだった。

剣ごと弾き飛ばされる。

辛うじて柄だけは握り続けていた。

「……お前も聞こえたか?」

「……ああ。」

《ラヴォワ》が低く答える。

「ドラゴンの中から聞こえた。」

俺は目を細める。

そして、最悪の可能性を口にした。

「……あいつ。竜人ハーフドラゴンか。」

「……そのようだな。」

俺は舌打ちする。

「最悪だ。」

父の執務室で読んだ資料が脳裏をよぎる。

「半竜は、本能を抑え込めなくなることがあるって記録があった。」

《ラヴォワ》は小さく息を吐いた。

「状況が一変したな。」

考える暇すらない。

巨大な腕が再び振り下ろされる。

俺は剣を正面へ構え、その一撃を受け止めた。

力比べになる。

「止まれぇぇぇッ!!」

両腕の傷口が再び裂ける。

激痛が走る。

それでも押し返す。

足を滑らせながら後退し、

踏み止まる。

今度は逆に一歩ずつ押し返した。

全身全霊を込める。

そして――

奇跡だった。

ほんのわずかに、

その腕を逸らすことができた。

黒竜の動きが乱れる。

攻撃が支離滅裂になる。

まるで何かに苦しめられているように。

次の瞬間。

黒竜は自分の頭を激しく殴り始めた。

「フェイト!!」

背後から野太い声が響く。

俺は振り返る。

そこには、一人の男が立っていた。

黒髪に白髪が混じった髪。

立派な髭を蓄えた老人だ。

男は俺へ視線を向けながら近づいてくる。

「坊主、大丈夫か?

ずいぶんひどい怪我じゃねぇか。」

「俺はいいです。

……あなた、あの竜人を知っているんですか?」

「ああ。」

老人は迷わず頷いた。

「あいつは、わしの孫だ。」

俺は目を見開く。

老人は黒竜を見つめながら続けた。

「どうやら、自分が一番嫌っている"もう一人の自分"に飲み込まれちまったらしい。」

「……どうやって俺たちを見つけたんです?」

「赤毛の娘さんが村の水源へ流れ着いてな。

『ドラゴンに襲われた!』って泣きながら叫んどった。

それで川沿いに駆けつけたんじゃ。」

「……そういうことか。」

立ち上がろうとした瞬間、

傷口が軋む。

「っ……!」

「ほら見ろ。」

老人は苦笑した。

「ここは休め。あとはわしがやる。」

それでも俺は立ち上がる。

血は止まっていなかった。

「……大丈夫です。それより。」

俺は老人を見た。

「彼を正気に戻す方法はあるんですか?」

老人は少し考え、

静かに頷く。

「ある。」

そして真っ直ぐ俺を見据えた。

「だが…… わしを信じてもらうしかない。」

俺は苦く笑う。

「今の俺に、断れる立場なんてありません。」

俺は老人の話に耳を傾けながら、

目だけは決して黒竜から逸らさなかった。

狂気に呑まれた竜人は、

今もなお俺たちの前で荒々しく息を吐いていた。

「……あんた、正気か!?」

「竜と戦うなら、狂ってるくらいでちょうどいい。」

そう言い残すと、老人は身を翻し、霧の中へ消えた。

俺はすぐさま左手にあった大岩を渾身の力で叩く。

轟音が森に響いた。

黒竜の視線がこちらへ向く。

咆哮。

そして一直線に突っ込んできた。

巨大な腕が振り下ろされる。

俺は剣を両手で握り締め、真正面から受け止めた。

衝撃で全身が軋む。

それでも踏みとどまり、

叫ぶ。

「今だぁぁぁッ!!」

その瞬間。

左側の霧の中から老人が飛び出した。

黒竜は俺しか見ていない。

老人は一気に頭部まで駆け上がる。

首に巻かれていた縄を掴む。

先端には石が結ばれていた。

それを右側へ投げ放ち、

自らは黒竜の前方へ飛び出す。

重りの反動で縄が大きく弧を描き、

再び老人の手へ戻ってきた。

「もう終わりだぁぁッ!!」

縄が巨木を一周していた。

老人はそれを一気に引く。

ぐんっ、と黒竜の首が跳ね上がった。

「嘘だろぉ!?」

それでも黒竜は止まらない。

老人は縄をまるで手綱のように操りながら、

その巨体を川へと誘導していく。

黒竜は俺のすぐ横を駆け抜け、

そのまま激流へ飛び込んだ。

俺も振り返り、

迷わず川へ身を投げる。

激流に飲み込まれる。

身体は川底の岩へ何度も叩きつけられた。

必死にもがき、

ようやく水面へ顔を出す。

黒竜のいる方では、

巨大な身体が暴れるたび、

滝のような水飛沫が舞い上がっていた。

それでも老人は、

まだ背中へしがみついている。

「ぶはっ!!くそっ!!」

息をするだけで精一杯だ。

流れが強すぎる。

その時。

遠くから豪快な笑い声が聞こえた。

「はっはっはっは!!」

……あの爺さん、

本当に頭がおかしい。

「滝だぁぁぁ!!」

「なっ!?」

顔を上げる。

目の前には、

巨大な滝。

俺たちはそのまま放り出された。

真っ先に宙へ投げ出される。

次の瞬間、

水面へ叩きつけられた。

水中で目を開く。

そこへ、

黒竜の腕が一直線に迫る。

俺は水の中で身体をひねり、

紙一重でかわした。

勢いよく水面へ浮上する。

ここは足がつく深さだった。

俺はすぐに黒竜へ向き直る。

右を見る。

老人も無事だ。

「坊主!! 剣を貸せぇ!!」

俺はすぐ意味を理解した。

手にしていた剣を投げる。

老人は見事に空中で受け取った。

「GRRRRRAAAAAAAッ!!」

黒竜の咆哮が湖面を震わせる。

「ニマリ!」

聞き慣れた声。

俺は勢いよく振り向いた。

ノヴァだった。

……だが、

彼女は一人ではない。

「お前は……!」

車椅子に座る一人の女性。

右目には白い包帯。

そして――

両脚は脛の途中から失われていた。

「……そんな、まさか。」

「坊主!!」

「カリュケ!!」

老人は目を見開き、

次の瞬間には鋭く目を細めた。

「坊主、危ねぇ!!」

「っ!?」

老人の視線を追った瞬間、

黒竜の鉤爪が俺へ振り下ろされる。

間一髪。

後方へ飛び退いてかわした。

数本の髪だけが宙を舞う。

――ピィィィッ!!

老人が鋭く指笛を鳴らした。

黒竜の意識がそちらへ向く。

咆哮とともに突進。

老人は横へ転がり、

その腕へ渾身の一撃を叩き込んだ。

――ガキィン!!

刃は鱗に弾かれ、

火花だけが散る。

その瞬間。

車椅子の女性が叫んだ。

「だめ……! ああっ!!」

老人は舌打ちする。

「悪ぃな。少し弱らせるしかねぇ。」

そして俺へ叫ぶ。

「坊主!!今だ!」

「ああ!」

老人は剣を水面へ突き立てた。

続いて短剣を抜き、

自らの掌を切り裂く。

血が水へ滴り落ちる。

老人は高らかに詠唱した。

「泉に宿る精霊よ。我が名はラプラス。戦の魔術師。この血を代価として捧げる。対価は―― 竜の子のマナ、三割。」

血が泉へ溶け込む。

次の瞬間。

水面が蒼く輝いた。

一輪の花が咲く。

青い花。

それは瞬く間に泉全体、

そして庭園いっぱいへ咲き広がった。

さらに。

老人の左肩へ、

一匹の妖精が舞い降りる。

鷲の脚を持ち、

黒い瞳。

頭には二本の触角。

幻想的でありながら、

どこか不気味な姿だった。

妖精は老人を見つめ、

笑う。

「その竜は、あなたにとって何?」

「……孫だ。」

妖精はくすくすと笑った。

「ふふふ。破壊を司る者たち。互いに傷つけ合う姿ほど、美しいものはないわ。」

妖精たちは一斉に舞い上がり、

黒竜の身体へ降り立つ。

効果はすぐに現れた。

黒竜の身体が大きく揺れる。

平衡感覚を失いながら、

車椅子の女性へ近づいていく。

妖精たちがマナを吸い上げるたび、

空には巨大な一本の樹が姿を現した。

その大樹は霧を押しのけるように天へ伸びていく。

やがて。

黒竜は力尽きたように女性の前へ倒れ込んだ。

女性は車椅子から身を投げ出す。

ノヴァが止めようとする。

それでも彼女は這うように進み、

黒竜の鼻先へ手を添えた。

その瞬間。

黒竜の身体が急速に縮み始める。

巨大な鱗も、

翼も、

角も、

すべてが消えていく。

やがてそこには、

裸の少年が横たわっていた。

小さく震えながら、

涙を流している。

カリュケは震える両手で、

その子を優しく抱きしめた。

一方で俺は――

すべてが終わった安心感からか、

その場で力尽き、

泉へ倒れ込んだ。

一匹の妖精が、

そっと俺の膝へ降り立つ。

そして、

不思議な響きの言葉を囁いた。

「Ο Θεός έχει χαρίσει δύναμη.」

そう告げると、

妖精はくすくすと笑いながら空へ飛び去っていった。

やがてノヴァが俺のもとへ駆け寄り、

心配そうに声をかけた。

「ニマリ……!大丈夫?」

俺の身体から流れ出た血が、

泉の水をゆっくりと赤く染めていく。

空一面に張り巡らされていたマナの根は、

役目を終えたように静かに消え去っていった。

何が起きたのか理解する暇もない。

意識は急速に遠のいていく。

そして――

俺は、そのまま静かに意識を失った。

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