第90話 聖教領ミラディア
ベルガントを出て、南へ向かう。
朝の街道にはまだ薄く霧が残っていた。
城壁の周囲に広がる畑では、農民たちが早くも働き始めている。
湿った土の匂いに刈った草の青臭さが混じり、荷車の車輪が石混じりの道をゴトゴトと鳴らしながらベルガントへ向かっていく。
「何だか変な感じですね」
隣を歩くフェリシアが、少しずつ小さくなっていくベルガントの城壁を振り返った。
「分かります」
「依頼で出る時とは違いますね」
「今日は帰る日が決まってませんからね」
「そうですね」
いつ戻ってくるのかは分からない。
もしかしたら、かなり先になるかもしれない。
それでも不安より、これから何があるのかという楽しみの方が大きかった。
街道を南へ進むにつれて、周囲の景色が変わっていく。
畑が減り、代わりに背の高い草と低木が増える。
さらに進むと道の左右を大きな木々が囲み始め、昼前には頭上のほとんどが枝葉に覆われていた。
「ここ、覚えてます」
「俺もです」
以前、ベルガント伯爵から頼まれて森林調査をした場所だ。
あの時、小高い丘から南を見た。
どこまでも続く大森林。そのさらに向こう、霞んだ景色の中に白い塔が小さく見えていた。
聖教領ミラディア。
あの時は、いつか行ってみたいとフェリシアと話しただけだった。
「本当に行くことになるとは思いませんでした」
「俺もです。しかも、こんなに早く」
森へ入る。
前に調査した獣道とは違い、南へ向かう街道は二台の荷馬車がすれ違えるくらいの幅があった。
土は何度も踏み固められ、ところどころに深い轍が残っている。
森の中は外より少し涼しい。
頭上では重なった葉の隙間から細い光が何本も差し込み、風が吹くたび、光の形が地面の上で揺れた。
鳥の声も多い。
遠くから聞こえる高い鳴き声。
枝から枝へ飛び移る羽音。
時折、街道脇の茂みが揺れるたびに小動物が顔を出し、俺たちを見るとすぐ森の奥へ消えていった。
「前に来た時より、森を見てる余裕がありますね」
「調査の時は何が出るか分かりませんでしたから」
「今も何が出るかは分かりませんよ?」
「それはそうですけど」
《魔力感知》を使っている。
街道の近くに強い反応はない。
それに、以前とは俺たち自身が違う。
普通の魔物が出てきたくらいなら、今はそれほど警戒する必要もない。
昼は街道沿いの開けた場所で簡単に済ませ、そのまま南へ進んだ。
すれ違う人も変わってきた。
ベルガントへ向かう商人。
荷を積んだ馬車。
白い服を着た数人の旅人。
胸元には、円を二枚の翼が囲むような紋章が下がっていた。
「あの人たち、ミラディアの人でしょうか」
「多分」
さらに進むと、木の枝に白い布が結ばれている場所が増えてきた。
ただの目印ではないらしい。
布には小さく同じ紋章が描かれている。
「国境が近いのかもしれませんね」
「はい」
日が傾き始める頃、街道脇に石造りの小さな建物が現れた。
白い壁。
尖った屋根。
入口の上には、さっきの旅人たちが身につけていたものと同じ紋章。
中から微かに香の匂いが漂ってくる。
「礼拝堂でしょうか」
「みたいですね」
その隣には井戸と屋根付きの休憩場所まであった。
何人かの旅人が水を汲み、長椅子で休んでいる。
今夜はそこを使わせてもらうことにした。
◇
翌朝。
森には白い靄が薄く残っていた。
朝露を乗せた葉が光を受けるたびに小さく輝き、昨日より澄んだ鳥の声があちこちから聞こえてくる。
街道を歩き始めてしばらくすると、遠くから鐘の音が聞こえた。
ゴーン。
低く、長い音。
「鐘?」
「ですね」
もう一度。
木々の間を抜けるように響いてくる。
森の匂いに、昨日の礼拝堂でも嗅いだ香の匂いが少しずつ混じり始めた。
やがて前方が明るくなる。
木々が途切れ、開けた場所へ出た。
「……あ」
白い壁があった。
森の中を横断するように石壁が続き、その中央に大きな門が開いている。
壁の向こうには白い塔が一本見えた。
前に丘の上から遥か遠くに見たものとよく似ている。
「ミラディアですね」
「はい」
門の上には、円を二枚の翼で包んだ大きな紋章。
その下を商人や旅人が行き来している。
武装した兵士もいたが、サハル王国の騎士とは少し違った。
銀色の胸当ての上から白い外套を羽織り、胸元には同じ聖印をつけている。
列へ並ぶ。
近づくと、門の横にも小さな礼拝堂があることに気づいた。
扉は開かれていて、中では白い衣を着た女性が旅人の足に包帯を巻いている。
「治療してますね」
「国境にも治療院があるんですね」
やがて俺たちの番になった。
「次」
兵士の前へ出る。
「サハル王国から?」
「はい」
「目的は?」
「セルヴァン王国へ向かう途中です」
「冒険者か?」
「はい」
冒険者証を渡す。
兵士が二枚を確認し、少し眉を上げた。
「二人ともAランクか」
「はい」
「若いな」
「よく言われます」
兵士が少し笑った。
「冒険者証は身分証としてそのまま使える。ミラディアで依頼を受けるなら、現地の冒険者ギルドで登録確認だけしてくれ」
「分かりました」
「セルヴァンへ抜けるなら南街道を進めばいい。森の中にも道標があるから、普通に進めば迷わん」
そこで兵士の表情が少しだけ真面目になった。
「ただし、街道から大きく東へ入るのはやめておけ」
「何かあるんですか?」
「エルフたちの森がある」
「エルフ?」
フェリシアも兵士を見る。
「ああ。東の森にはエルフの集落がある。昔から自治を認められている場所もあるから、勝手に入るな」
「今もかなりいるんですか?」
「国全体から見れば少数だよ。ミラディアに住んでるのはほとんど人間だ」
兵士が門の向こうを見る。
「ただ、この辺りじゃエルフやハーフエルフを見かけることもある。別に珍しいことじゃない」
「ハーフエルフも?」
「ああ」
俺はフェリシアを見る。
フェリシアも少し興味を持った顔をしていた。
「ありがとうございます」
「良い旅を」
門を抜ける。
聖教領ミラディア。
初めて、自分の意思で国境を越えた。
◇
国境の向こう側にも森は続いていた。
でも、不思議と雰囲気は違う。
街道は白っぽい細かな石で整えられ、ところどころに聖印を刻んだ石柱が立っている。
一定の距離ごとに小さな礼拝堂があり、その隣には井戸や休憩所が設けられていた。
行き交う人のほとんどは普通の人間だ。
商人。
農民。
冒険者。
子供を連れた家族。
杖を持った神官らしい人もいるけど、国中が神官だらけというわけではない。
「思ってたより普通ですね」
フェリシアが小声で言う。
「俺も同じこと考えてました」
「聖教領って名前なので、もっとどこを見ても神官ばかりなのかと思ってました」
「礼拝堂はすごく多いですけどね」
森が開けた場所には小さな畑があり、薬草らしい植物が列を揃えて植えられている。
白い建物の前では、年老いた神官が子供たちに文字を教えていた。
その少し先では、腕に布を巻いた男が治療院から出てくる。
神殿というより、生活の中に宗教が入り込んでいる。
そんな国なのかもしれない。
「セルヴァンまで、この国をずっと南へ抜けるんですよね」
「はい。せっかくだから、少しくらいミラディアも見ていきたいですね」
「私もそう思います」
そんな話をしながら森の街道を進んでいた時だった。
《魔力感知》に反応が入る。
前方。
三つ。
それとは別に、少し高い場所にも一つ。
「止まってください」
フェリシアがすぐ杖へ手を伸ばした。
「魔物ですか?」
「前に三体。それと……木の上にも誰かいます」
「人?」
「多分」
その直後、街道の向こうから男の叫び声が聞こえた。
「うわっ!」
俺たちは走り出す。
曲がり角を抜けると、一台の荷馬車が道の中央で止まっていた。
馬が怯えていななき、商人らしい男が荷台の陰に隠れている。
護衛らしい男が一人、剣を構えていた。
その周囲に三体の魔物。
狼に似ているが、一回り大きい。
灰色の毛の間から、背中に黒い棘が何本も伸びている。
護衛の左腕から血が流れていた。
「フェリシアさん」
「はい!」
竜爪剣へ手をかける。
同時に、木の上にいた反応が動いた。
「……来ます」
敵意はこちらへ向いていない。
次の瞬間、矢が飛んだ。
一本の矢が魔物の眉間へ突き刺さる。
「ギャンッ!」
一体がその場へ倒れた。
続けて二本。
ヒュッ、ヒュッ!
ほとんど間がない。
二体目は喉。
三体目は目から頭を射抜かれ、そのまま地面へ転がった。
「……三本とも急所」
フェリシアが呟く。
「ですね」
俺は魔力を感じていた場所を見上げた。
街道脇の大木。
太い枝の上に一人の少女が立っている。
こちらを見下ろしていた。
淡い金色の髪が、木漏れ日の中で明るく見える。
深い緑色の上着。
腰には小さな革袋がいくつも下がり、背中には白っぽい木で作られた弓と矢筒。
そして、髪の間からのぞく耳の先が少し尖っていた。
少女は枝を蹴る。
軽く身体が浮き、そのまま地面へ降り立った。
「間に合ったみたいね」
俺たちではなく、まず荷馬車の方を見る。
「怪我は?」
「お、俺は大丈夫だ」
商人が答える。
少女の視線が護衛へ移った。
「あなたは大丈夫じゃないでしょ」
「あ……」
「腕、見せて」
「いや、これくらいなら――」
「いいから」
少し強い口調で言い、護衛の前へしゃがみ込む。
少女が血の流れている左腕へ手をかざした。
淡い緑色の光が灯る。
「回復魔法」
フェリシアが一歩前へ出た。
裂けていた皮膚がゆっくり閉じていく。
血も止まった。
「これで大丈夫。でも今日はあんまり左腕使わない方がいいよ」
「……ありがとう」
「次から三体相手に一人で前へ出ないこと。護衛が倒れたら、後ろの人まで危ないから」
「はい……」
言い方は少しきつい。
でも、言っていることは間違っていない。
少女が立ち上がり、そこで初めて俺たちをまともに見る。
「そっちも冒険者?」
「はい」
「助けに来たの?」
「そのつもりでした」
「ふーん」
少女の視線が俺の腰の竜爪剣から、フェリシアの杖へ移る。
「装備は結構いいの使ってるんだ」
「分かるんですか?」
「それくらい見れば分かるよ」
少女が少しだけ口元を上げる。
「でも、さっきの三体くらいなら放っておいても大丈夫そうだったね」
「多分、大丈夫だったと思います」
「自信あるんだ」
「それなりには」
少女が少しだけ目を細めた。
「意外と言うね」
「そっちも結構言いますよね」
「アレンさん」
フェリシアが小声で呼ぶ。
「何です?」
「初対面ですから」
「俺だけですか?」
少女が吹き出した。
「面白いね、あなた」
「そうですか?」
「うん。もう少し怒るかと思った」
どうやら最初から少しからかわれていたらしい。
フェリシアが少女の耳へ目を向ける。
すぐに気づいたようだ。
「耳、気になる?」
「あ……すみません。エルフの方に会うのが初めてなので」
「別に謝らなくていいけど、私、エルフじゃないよ」
「違うんですか?」
「半分だけ。母さんがエルフで、父さんが人間」
自分の耳を指先で軽く触る。
「ハーフエルフ」
「ハーフエルフ……」
国境の兵士が言っていたばかりだ。
本当に会うとは思っていなかった。
「そんな珍しそうな顔しなくても、この辺なら時々いるよ」
「サハル王国では見たことがなかったので」
「そっちは少ないからね」
「俺はアレンです。アレン・ヴァルディス」
「フェリシア・ロートです。先ほどの弓も回復魔法も、とても見事でした」
フェリシアが頭を下げる。
少女は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「別に、これくらい普通」
そう言いながら、さっきより声が小さい。
褒められるのには弱いのかもしれない。
「私はルナ。ルナ・アルヴェイン」
「ルナさんですね」
「さんはいらない。ルナでいいよ」
ルナはそう言うと、倒れた魔物の方へ歩いていき、一本ずつ矢を回収し始めた。
矢尻を確認し、使えるものだけを矢筒へ戻していく。
手慣れている。
「二人、どこまで行くの?」
「セルヴァン王国です」
ルナの手が止まった。
「セルヴァン?」
「はい」
「じゃあ、しばらく同じ方向だ」
「ルナも南へ?」
「うん」
最後の矢を抜き、立ち上がる。
「この先、森がもっと深くなるところがあるから、街道から外れない方がいいよ」
「ありがとうございます」
「別に。迷われると面倒だから言っただけ」
やっぱり少し生意気だ。
でも、魔物に襲われていた人を迷わず助け、怪我まで治した。
弓の腕も間違いなく高い。
ルナが俺たちの横を通り過ぎる。
「じゃあね、サハルの冒険者さんたち」
「はい。また」
数歩進んだところで、ルナが振り返った。
「……何で別れる感じになってるの?」
「え?」
「同じ道行くんでしょ?」
「そうでしたね」
「変なの」
ルナは呆れたように言うと、そのまま南へ歩いていった。
フェリシアと顔を見合わせる。
「一緒に行くってことですかね?」
「多分」
「かなり個性的な人ですね」
「ですね」
聖教領ミラディアへ入ったその日、俺たちは一人のハーフエルフと出会った。
弓が得意で、回復魔法まで使える。
そして、かなり生意気な少女。
名前は、ルナ・アルヴェイン。
どうやらセルヴァンへ向かう旅は、二人だけではなくなりそうだ。
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