第77話 逃げられない
山を下り始めて、十分ほど経った。
レッドドラゴンの姿は、もう木々に遮られて見えない。
このままロゼッタへ戻れば、今回の依頼は終わる。
そう思っていた。
念のため、《魔力感知》に意識を向ける。
「……え?」
思わず足が止まった。
「アレンさん?」
「待ってください」
「どうしました?」
もう一度探る。
間違いない。
さっきまで山の北側にあった巨大な魔力反応。
それが動いている。
しかも。
「来てます」
「え?」
「レッドドラゴンです。こっちに来てる!」
フェリシアの顔色が変わる。
「さっき北へ飛んでいきましたよね?」
「戻ってきたみたいです!」
その直後。
バサッ!
頭上から大きな音が響いた。
「走って!」
「はい!」
二人で山道を駆け下りる。
木々の隙間から空を見る。
赤い影が一瞬だけ見えた。
速い。
あれだけの巨体なのに、あっという間に距離を詰めてくる。
「アレンさん、後ろ!」
フェリシアの声。
振り返る。
木々の向こう。
レッドドラゴンが大きく口を開いていた。
その奥が赤く光る。
「伏せて!」
地面へ飛び込む。
直後。
ゴォォォォォッ!!
「っ!」
熱風が背中を叩いた。
俺たちが数秒前まで走っていた場所を炎が飲み込む。
木の幹が一瞬で黒くなり、枝が激しく燃え上がった。
「今の……」
フェリシアが立ち上がる。
「俺たちを狙った?」
偶然じゃない。
火炎は明らかに、俺たちがいた場所へ向けられていた。
「どうして……?」
「分かりません。でも、止まってる暇はないです!」
また翼の音がする。
「行きましょう!」
「はい!」
走る。
少しでも距離を稼ごうと山を下る。
だが、地上を走る俺たちと空を飛ぶレッドドラゴンでは、速度が違いすぎる。
「もうすぐ広い道に出ます!」
「はい!」
この先の道をそのまま下れば、ロゼッタへ戻れる。
その時。
「待ってください!」
突然、フェリシアが叫んだ。
「え?」
「そっちへ行っちゃ駄目です!」
足を止める。
「どうして?」
「このまま戻ったら、ロゼッタです!」
「……っ」
言われて気づいた。
レッドドラゴンは俺たちを追っている。
このまま村へ向かえば。
「村まで連れていくことになる……」
「はい」
フェリシアの声が強くなる。
「鉱夫もいます。職人もいます。子供だっているんですよ。あれを村まで連れていったら……」
「分かりました」
《収納》に入れた地図を思い出す。
村へ続く道ではなく、西側の斜面へ抜ける細い道があったはずだ。
「進路を変えます。こっちです!」
「はい!」
山道を外れる。
木々の間を抜け、斜面を横へ移動する。
足元の石が転がった。
後ろから、また翼音。
「来ます!」
振り返らない。
「そのまま走って!」
バサッ!
音が近づく。
次の瞬間。
「右です!」
フェリシアに腕を引かれる。
身体を右へ投げた。
ゴォォォォォッ!!
「くっ……!」
前方が炎に包まれた。
熱い。
顔を腕で覆う。
火炎が道を横切り、その先の木々へ燃え移っていく。
進もうとしていた方向が、完全に塞がれた。
「……先回りされた」
フェリシアの声が震えている。
俺も息を整える。
一度なら偶然だと思えたかもしれない。
でも、二度目はない。
「間違いないです」
ミスリルブレードの柄を握る。
「俺たちを狙ってる」
「……はい」
「別の道を探します」
まだ戦うべきじゃない。
依頼は調査。
受付嬢にも、絶対に戦うなと言われた。
可能なら逃げる。
その判断は変わらない。
俺たちは燃えている場所を大きく迂回した。
さらに西へ。
斜面を下り、岩の多い場所へ出る。
「こっちなら木が少ないです!」
「行きましょう!」
でも。
《魔力感知》の巨大な反応は離れない。
むしろ近づいてくる。
「速い……!」
見上げる。
レッドドラゴンが空を旋回していた。
大きな翼が陽を遮り、巨大な影が地面を滑っていく。
赤い瞳。
間違いなく、俺たちを見ている。
「また来ます!」
レッドドラゴンが翼を畳んだ。
落ちるように高度を下げる。
「フェリシアさん!」
「はい!」
二人で左右へ分かれた。
直後。
巨大な身体が地面すれすれまで降りてくる。
前脚が伸びた。
爪。
一本だけでも、俺の腕より太い。
「っ!」
避ける。
だが。
間に合わない。
フェリシアもすぐ近くにいる。
このままなら、二人まとめて薙ぎ払われる。
「下がって!」
俺は前へ出た。
ミスリルブレードを抜く。
両手で構える。
巨大な爪が迫る。
「アレンさん!」
ガァァァン!!
「ぐっ……!」
腕が痺れた。
肩まで衝撃が突き抜ける。
足が地面を削った。
一メートル。
二メートル。
さらに後ろへ押される。
「うっ……!」
それでも。
倒れなかった。
ミスリルブレードも折れていない。
レッドドラゴンの爪を、受け止めた。
「アレンさん!」
フェリシアが駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
ドラゴンから目を離さない。
前脚を引き、再び翼を広げている。
「怪我は!?」
「大丈夫です!」
「大丈夫な音じゃなかったですよ!」
「でも……」
痺れた両手で柄を握り直す。
受けられた。
もちろん、何度もまともに受けられるような威力じゃない。
次も同じように止められる保証なんてない。
それでも。
「一撃でやられる相手じゃない」
「え……?」
フェリシアが俺を見る。
「腕は痺れてます。でも、動けます」
「それって……」
「勝てるとは言いません」
そこは間違えちゃいけない。
相手はドラゴンだ。
今の一撃だって、剣が少しでも弱ければどうなっていたか分からない。
「でも、戦うことすらできない相手ではないと思います」
レッドドラゴンが低く唸る。
赤い瞳が、はっきり俺たちを捉えている。
「逃げても追ってくる」
「……はい」
「道を変えても先回りされる」
「はい」
「村へ戻るわけにもいかない」
フェリシアが唇を結ぶ。
このまま逃げ続ければいい。
もう、そう言える状況じゃない。
空から追われ続ければ、いつか俺かフェリシアのどちらかが攻撃を受ける。
今まで避けられたのは運がよかっただけかもしれない。
「フェリシアさん」
「はい」
「このまま背中を向けて逃げ続ける方が危ないです」
少しだけ間があった。
「……私も、そう思います」
フェリシアがミスリルロッドを構える。
顔には緊張がある。
それでも、その手は震えていなかった。
「本当に、とんでもない旅行になりましたね」
「帰ったら文句言ってください」
「じゃあ、絶対帰らないと駄目ですね」
「はい」
レッドドラゴンが翼を動かした。
強い風が吹き荒れる。
「アレンさん」
「はい」
「空にいる間は、私たちが圧倒的に不利です」
フェリシアがミスリルロッドを握り直す。
「次に降りてきたところを狙いましょう」
「分かりました」
俺が前。
フェリシアが後ろ。
いつも通りだ。
「俺が引きつけます」
「援護します」
「お願いします」
レッドドラゴンが上昇する。
一度、大きく旋回。
こちらへ身体を向けた。
「来ます!」
今度は正面から降下してくる。
大きな口を開く。
火炎か?
違う。
前脚を突き出している。
「右へ!」
フェリシアの声に合わせて身体を動かす。
爪が地面を抉った。
土と石が飛ぶ。
その横。
赤い前脚が目の前にある。
今だ。
一歩踏み込む。
ミスリルブレードを振った。
「はあっ!」
ザンッ!
手応え。
赤い鱗が何枚か宙へ飛ぶ。
「……硬っ!」
刃は入った。
でも、浅い。
岩をほとんど抵抗なく斬ったミスリルブレード。
それを全力で振った。
なのに。
レッドドラゴンの前脚には、浅い傷しか残っていない。
「アレンさんの剣でも……!」
後ろでフェリシアが息を呑む。
レッドドラゴンが傷ついた前脚を見る。
一瞬、動きが止まった。
そして。
巨大な頭がゆっくり俺へ向く。
「……まずい」
赤い瞳が細くなる。
次の瞬間。
「グオオオオオオオオオッ!!」
怒りの咆哮が山を揺らした。
「アレンさん、来ます!」
「分かってます!」
ミスリルブレードを構え直す。
逃げるのは終わりだ。
倒せるかどうかなんて、まだ分からない。
それでも。
ここからは――。
生きて帰るために、戦う!
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