第180話 初めての海
翌朝。
「アレン、早く!」
宿の食堂へ下りるなり、ルナに呼ばれた。
「まだ朝ご飯も食べてないよ」
「だから早く食べようって言ってるの!」
テーブルには、すでにルナとフェリシアが座っていた。
足元ではテリーが尻尾を振り、ステフが小さな翼をぱたぱたと動かしている。
「二匹も朝から元気だね」
「ルナが何度も海、海って言うから、覚えちゃったんじゃない?」
フェリシアが笑う。
「だって、昨日は遠くから見ただけだよ! 今日は触ってみたいんだもん!」
「分かった、分かった」
席に着き、運ばれてきたパンを手に取る。
窓の外では、魚を積んだ荷車が石畳を鳴らし、海鳥の声が響いていた。
港町の朝は、もう動き始めている。
◇
宿を出て、港へ向かう坂道を下った。
進むにつれ、魚と潮の匂いが濃くなっていく。
「何だか変わった匂いだね」
ルナが鼻をひくひくさせる。
「これが海の匂いなんだろうね」
フェリシアが答えた。
やがて建物の間が開けた。
「うわあ……!」
ルナが足を止める。
港の向こうに、海が広がっていた。
昨日、丘の上から見た時とはまるで違う。
近くの水は緑がかっていて、港を囲む石壁に小さな波がぶつかっている。
少し離れると深い青色に変わり、その先では空の色と溶け合っていた。
風が吹くたびに小さな波が生まれ、その頂が朝日を受けてきらめいた。
「……すごいな」
思わず呟く。
川とは違う。海そのものが呼吸しているように、波が寄せては引いていく。
「ねえ! もっと近くに行こうよ!」
「港の中は船も荷物も多いから、砂浜を探そうか」
フェリシアが言う。
ちょうど近くを通った魚売りの女性に聞くと、港の東に穏やかな入り江があると教えてくれた。
俺たちはそこへ向かった。
◇
入り江に着いた途端、ルナが声を上げた。
「砂だー!」
目の前には、淡い金色の砂浜が弧を描いていた。
波が白い泡を残して引くと、濡れた砂に空が映り、小さな貝殻が顔を出す。
「うわっ、柔らかい!」
ルナが踏んだ砂に、くっきりと足跡が残った。
「これ、歩くだけで面白いね!」
「ルナ、靴の中に砂が入っちゃうよ?」
「そうだね!」
ルナはさっそく靴を脱いだ。
俺とフェリシアも靴を脱ぎ、荷物と一緒に波の届かない場所へ置く。
裸足になると、乾いた砂はさらさらで、水際はひんやりしていた。
「アレン! こっち!」
ルナはもう波打ち際まで走っていた。
「ワフ!」
テリーも追いかける。
ざあっ。
波が二人の足元まで寄せてきた。
「ひゃっ、冷たい!」
ルナが飛び上がる。
「ワフッ!?」
テリーはそれ以上に驚いて、勢いよく後ろへ跳んだ。
「ふふっ。テリー、波にびっくりしたの?」
「ワフ!」
何事もなかったように胸を張るテリー。
でも、次の波が来るとまた一歩下がった。
「怖くないよ。ほら!」
ルナが足首まで海に入る。
波が引くたび、足元の砂がさらわれる。
「わっ! 足が埋まる!」
「本当?」
俺も隣へ行ってみた。
冷たい水が足を包み、引く波と一緒に砂が流れていく。
「……何だこれ。面白い」
「でしょ!」
ルナが水を蹴った。
ぱしゃっ。
「うわっ!」
俺の膝に水が飛んでくる。
「ルナ!」
「あはは!」
「やったな!」
俺も軽く足で水を跳ね上げた。
「きゃっ!」
ルナが逃げる。
「アレンもやった!」
「先にやったのはルナでしょ!」
フェリシアまで笑いながら水を蹴ってきた。
「ちょっと、二人とも!」
気づけば三人で水をかけ合っていた。
波音に笑い声が重なる。
こんなに夢中で遊んだのは、いつ以来だろう。
◇
少し遊び疲れて、温かな砂の上に腰を下ろした。
「見て、アレン!」
ルナが手のひらを差し出す。
小さな貝殻が三つ載っていた。
白、桃色、内側が真珠のように光るもの。
「きれいだね」
「でしょ! 海って宝物だらけだね!」
フェリシアも波打ち際で何かを探している。
「あ、こっちにもあるよ」
「本当!?」
ルナが駆け出す。
その時だった。
「ワフ?」
テリーが砂の上に鼻を近づけている。
よく見ると、小さなカニがいた。
横向きに、せわしなく歩いている。
「何これ!?」
戻ってきたルナがしゃがみ込む。
「カニかな?」
「横に歩いてる!」
「そういう生き物なんだと思うよ」
カニが小さなはさみを持ち上げた。
「ワフッ!」
テリーが一歩下がる。
するとカニは、その隙に砂の小さな穴へ潜ってしまった。
「あはは! テリー、負けちゃった!」
「ワフ!」
テリーが不満そうに鳴く。
「キュ?」
ステフが首を傾げ、砂の上をちょこちょこと横歩きした。
「……ステフ、カニの真似?」
「キュ!」
フェリシアが吹き出した。
俺も笑ってしまった。
海には知らない生き物がたくさんいるらしい。
◇
「ステフも飛んでみる?」
ルナが海を指差した。
「キュ!」
ステフが翼を広げる。
旅の間に、随分と長く飛べるようになった。
ふわりと浮かんだステフは、砂浜の上を進んでいく。
そして、浅瀬の上へ出た。
「おお……」
透き通った浅瀬の上を、ステフの小さな影が滑っていく。
翼を傾けて旋回すると、朝日を受けた緑の鱗がきらりと光った。
「すごい! 海の上を飛んでる!」
ルナが両手を振る。
「キュウ!」
ステフが嬉しそうに鳴いた。
ところが、沖から強い風が一度吹いた。
「キュッ!?」
小さな身体が横へ流される。
「ステフ、無理しないで!」
フェリシアが声をかけた。
ステフは何度か羽ばたき直し、向きを変える。
そのまま砂浜まで戻ってきて、俺たちの前に降り立った。
「やった!」
ルナが拍手する。
「上手だったよ!」
「キュ!」
「でも海の風は強いから、遠くへは行かないようにね」
俺が言うと、ステフは翼を畳んだ。
今度はテリーが駆け出した。
「ワフ!」
水際を走り、波が来るたび軽々と跳び越えた。
「テリー、上手!」
ルナが笑う。
◇
「ねえ、砂でお城を作ろうよ!」
ルナの提案で、三人で砂を積み上げた。
水を混ぜて固め、塔や堀を作る。フェリシアは小枝で窓を描いていた。
「結構それっぽくなったね」
「でしょ! ここが王様の部屋!」
「ずいぶん小さい王宮だな」
「砂のお城なんだからいいの!」
「キュ?」
ステフが興味深そうに近づいた。
ぱさっ。
翼の先が塔に触れ、崩れてしまう。
「あっ!」
「……キュウ」
しょんぼりするステフを見て、ルナが笑った。
「大丈夫! また作ればいいよ!」
「キュ!」
ステフは少し離れて見守り、俺たちはもう一度砂を積んだ。気づけば昼になっていた。
◇
「お腹空いたー!」
ルナが立ち上がった。
「さっきからずっと動いてたもんね」
フェリシアが笑う。
靴を履いて港へ戻ると、食堂の店先から焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきた。
「ここにしよう!」
ルナが迷わず一軒を指差した。
中に入ると、窓から港が見えた。
俺は焼き魚とスープ、フェリシアは蒸し貝を注文した。
ルナは魚の切り身に加え、足が何本もある不思議な海の生き物まで頼んでいる。
「それ、何?」
「分かんない!」
「分からないのに頼んだの?」
「だって美味しそうだったんだもん!」
運ばれてきた魚の皮はこんがり焼けていて、ほぐすと白い身から湯気が上がった。
一口食べる。
「……うまい!」
柔らかい身に塩が利いている。貝と野菜のスープも旨かった。
「この貝も美味しいよ!」
フェリシアが笑う。
「こっちも!」
ルナが皿を持ち上げる。
「アレン、一口食べる?」
「もらおうかな」
少し分けてもらうと、歯ごたえがあって、噛むほど旨みが出てきた。
「これも美味しいね」
「でしょ!」
「ワフ!」
「キュ!」
足元からも催促の声が上がった。
二匹には骨を取り除いた、味付けの薄い魚を分けてもらった。
テリーはあっという間に平らげ、ステフも満足そうに鳴いた。
「海って、遊べるし美味しいし、最高だね!」
ルナが言う。
「まだ半日しか過ごしてないけどね」
フェリシアが笑う。
「じゃあ午後も遊ぼう!」
もちろん異論はなかった。
◇
午後は港を見て回った。
岸壁には、何隻もの船が並んでいる。
船腹に波が当たって木がきしみ、船員たちの掛け声に合わせて荷箱が運び込まれている。
頭上では白い帆が風を受け、ゆっくり膨らんだ。
「うわあ、大きい!」
ルナが船を見上げる。
「よくこんなものが水に浮くね」
俺も感心した。
「ねえ、あれってどうやって進むんだろう?」
フェリシアが帆を指差した。
「風を受けて進むんじゃない?」
「でも、風が横から吹いたら?」
「……どうなるんだろう」
近くで作業していた船乗りが笑った。
「帆の向きと舵を調整するんだよ。風の吹く方へしか進めないわけじゃない」
「へえ!」
フェリシアが目を輝かせる。
「お前さんたち、船は初めてか?」
「はい! 海も今日が初めてなんです!」
ルナが答えた。
「そいつはいい日だな!」
船乗りが笑う。
「港の外から見るミナリアもきれいだぞ。岸沿いを回る小舟も出ているから、乗ってみるといい」
「船に乗れるの!?」
「ああ。ただし風の強い日はやめときな」
「ありがとうございます!」
ルナは早速こちらを振り向いた。
「ねえ、明日乗ろうよ!」
「まずはどこで乗れるか聞いてからだね」
フェリシアが笑う。
「じゃあ明日の朝、探そう!」
「気が早いなあ」
そう言いながら、俺も楽しみだった。
◇
夕方、俺たちはもう一度砂浜へ戻った。
朝は青かった海が、夕日を受けて黄金色に輝いていた。
沖を進む帆船は黒い影となり、波が静かに砂を撫でている。
「今日、楽しかったね」
フェリシアが言った。
「うん!」
ルナがすぐに答える。
「明日は船! その次は何しよう?」
「まだ明日にもなってないよ」
「だって、やりたいことがいっぱいあるんだもん!」
テリーは砂浜に腹をつけて休んでいる。
ステフもその隣で翼を畳んでいた。
朝から遊び通しで、二匹とも満足そうだ。
「アレンは?」
フェリシアが聞いた。
「うん?」
「今日、楽しかった?」
「もちろん」
俺は笑った。
「すごく楽しかったよ」
「よかった!」
ルナが立ち上がる。
「じゃあ、明日はもっと楽しもうね!」
「うん」
俺も立ち上がった。
帰り道、靴の中に入った砂が足に当たった。
「……結構入ってるな」
「あ、私も!」
ルナが靴を逆さにする。
さらさらと砂が落ちた。
「今日の思い出だね!」
「宿まで持って帰らなくてもいいと思うけど」
フェリシアが笑う。
俺たちも笑いながら、港町の通りへ戻っていった。
明日は、海の上からこの町を見てみたい。
そう考えるだけで、また楽しみが一つ増えた。
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