第112話 フェンリル
ルーメル森林へ向かう途中。
街道を外れ、木々の間を進んでいると、ふと思った。
「なんか変な感じだな」
「何が?」
ルナが振り返る。
「俺たち、今まで魔物をかなり倒してきただろ?」
「うん」
「なのに今日は、怪我した魔物を助けに行ってる」
ルナが少し考える。
「でも、魔物だから倒してたわけじゃないでしょ?」
「え?」
「襲ってくるなら戦う。人を襲ってるなら止める。でも、逃げてるだけなら追いかけて倒す必要ないじゃん」
フェリシアも頷く。
「ロウみたいに、人と一緒に暮らしている魔物もいるしね」
「……確かに」
言われてみればそうだ。
ダンジョンでは向こうから襲ってきた。
街道の魔物も、人や馬車を襲っていた。
討伐依頼を受けたこともある。
でも、ただ森で暮らしている魔物を見つけて、片っ端から倒してきたわけじゃない。
魔物かどうかより何をしているか。
これからは、そこを見るべきなのかもしれない。
「じゃあ今日は助ける」
「うん」
「それでいいと思う」
三人で森の奥へ進んだ。
◇
ルーメル森林は、街道から見たよりずっと深かった。
頭上で枝葉が重なり、昼なのに地面まで届く光は少ない。
湿った土の匂い。
鳥の声。
時折、茂みの奥で何かが動く音がする。
「報告だと、この辺り?」
「もう少し奥だったと思う」
ルナが足を止めた。
耳がわずかに動く。
「……待って」
俺とフェリシアも止まる。
「何か聞こえる?」
「うん」
ルナが目を閉じた。
風が枝葉を揺らす。
その音に混じっている何かを探しているらしい。
「右の奥」
「動いてる?」
「小さい音。多分」
俺も《魔力感知》を広げる。
いくつもの小さな反応。
鳥。
小動物。
その中に、一つだけ周囲より強い魔力があった。
「俺も見つけた」
「どこ?」
「右奥。ルナと同じ方向」
「行こう」
枝を避けながら進む。
やがて。
「あっ」
ルナが声を上げた。
「いた!」
木々の隙間。
白いものが動いた。
一瞬しか見えなかった。
それでもルナは見失わない。
「あの木の向こう!」
俺も《魔力感知》で追う。
小さい。
でも身体の大きさに比べて魔力はかなり強い。
三人が近づいたことに気づいたらしい。
白い影が身体を翻した。
逃げる。
「待って!」
ルナが呼ぶ。
当然、止まらない。
かなり速い。
ただ。
「左脚をかばってる!」
ルナが言う。
報告通りだ。
左の後ろ脚がまともに使えていない。
それでも森の中を駆けていく。
「襲ってくる気はなさそうだね」
フェリシアが言う。
「うん。ただ逃げてる」
このまま逃がせば、治療もできない。
「追いついて止める」
「怪我させないでね!」
「分かってる」
地面を蹴った。
木々が左右へ飛んでいく。
白い魔物も速い。
怪我をしているとは思えない。
でも、今の俺には追いつける。
一気に距離を詰めた。
白い魔物が振り返る。
「キャンッ!?」
目が合った。
驚いたように耳が立つ。
逃げる方向へ回り込み、身体を傷つけないように両腕で抱き上げた。
「捕まえた!」
「キャン! ガウッ!」
「うわっ!」
猛烈に暴れる。
小さいのに思った以上に力が強い。
「大丈夫! 何もしないから!」
「ガウッ!」
牙を見せ、腕の中で必死に身体をよじる。
全然伝わっていない。
「アレン!」
ルナたちが追いついてきた。
「下ろして」
「逃げるよ?」
「追いかけられるでしょ?」
「まあ」
「じゃあ下ろしてあげて」
そっと地面へ下ろす。
「キャンッ!」
すぐ逃げようとした。
だが。
左の後ろ脚をついた瞬間、身体が傾く。
「キュゥ……」
小さな声が漏れた。
やっぱり痛いらしい。
ルナが少し離れた場所でしゃがんだ。
「大丈夫」
近づかない。
「もう捕まえないよ」
白い魔物がルナを見る。
「脚、痛いんでしょ?」
「ウゥ……」
低く鳴く。
耳は伏せられている。
警戒している。
でも逃げなかった。
俺は少し離れた場所から《鑑定》を使う。
表示された文字を見る。
一瞬。
読み間違えたのかと思った。
【フェンリル】
【極めて希少な狼型魔物】
【高い知性と強大な魔力を持つ】
【成体は極めて高い身体能力を有する】
「……フェンリル」
「え?」
ルナがこっちを見る。
「この子、フェンリルだ」
「フェンリル!?」
ルナの声が森へ響く。
白い魔物がびくっと身体を震わせた。
「あ、ごめん!」
慌てて声を小さくする。
「そんなに珍しいの?」
フェリシアが聞く。
「珍しいなんてもんじゃないよ」
ルナは信じられないものを見るようにフェンリルを見つめている。
「ミラディアでは、神様の使いだって伝えられてるの」
「神の使い?」
「うん。エルフの森でもフェンリルを見たことがある人なんて、ほんの数人しかいないよ」
「ルナは?」
「ないよ。初めて」
それほどの魔物なのか。
改めて見る。
白い毛。
少し大きめの耳。
今は怪我をした脚をかばいながら、小さく身体を丸めている。
「まだ子供なのかな」
「そうね」
ルナが言う。
「成体なら、もっとずっと大きいはず」
少しずつ身体を近づける。
途中で止まる。
また少し。
「キュゥ……」
「怖いよね」
ルナが手を地面へ置いた。
「でも、脚を治したいだけ」
フェンリルの耳が動く。
ルナを見ている。
「触ってもいい?」
「…………」
返事はない。
当然だ。
でも逃げもしない。
ルナがゆっくり手を伸ばす。
フェンリルが鼻を近づけた。
匂いを嗅ぐ。
「キュ……」
「大丈夫?」
そっと頭へ触れる。
身体が少し強張った。
それでも逃げなかった。
「いい子」
そのまま傷ついた後ろ脚を見る。
毛に乾いた血がこびりついている。
「切れてる。でも骨は大丈夫そう」
ルナが傷の周りを確認していると。
「あれ?」
「どうした?」
「首」
白い毛を指でかき分ける。
皮膚に赤い擦れ跡が残っていた。
一部分ではない。
首を一周するように。
「これ……首輪の跡じゃない?」
フェリシアもしゃがみ込む。
「そう見えるね」
「野生のフェンリルが首輪?」
ルナの表情が曇る。
「誰かに捕まってたのかな」
「可能性はあると思う」
フェンリルほど珍しい魔物なら、高値で売れるのかもしれない。
どこかで捕まえられた。
セルヴァンへ運ばれてきた。
そして逃げた。
それなら、こんな場所にいることにも説明はつく。
「ラグナ河を自分で渡ってきたとは思いにくいよ」
ルナが首元を撫でる。
「まだこんなに小さいし」
詳しいことは分からない。
首輪の跡だけでは断定もできない。
「とりあえず脚を治そう」
「うん」
ルナが両手を傷口の近くへ添える。
「少し温かくなるよ」
「キュ?」
淡い光が灯った。
回復魔法。
傷の周りを柔らかな光が包む。
最初、フェンリルは身を固くした。
「大丈夫」
ルナが静かに声をかけ続ける。
「痛くしないからね」
「キュゥ……」
次第に身体から力が抜けていく。
鼻先がルナの腕へ触れた。
傷口が塞がる。
乾いた血の下にあった裂け目も消えていく。
「これで大丈夫」
ルナが手を離した。
フェンリルが立ち上がる。
左の後ろ脚を地面につける。
一歩。
もう一歩。
「治ったみたい」
その瞬間。
「キュッ!」
フェンリルが飛びついた。
「わっ!」
ルナの胸へ前脚をかける。
白い尻尾が勢いよく左右へ動く。
「キュウッ!」
ぺろっ。
「ちょっ!」
さらに舐める。
「テ、待って! くすぐったい!」
「キュッ! キュウッ!」
「すごいな」
さっきまで逃げ回っていた魔物とは思えない。
フェリシアも笑っている。
「治してくれたのが分かったのかな」
「多分……分かってると思う」
ルナがフェンリルを抱きながら答える。
「分かるの?」
「言葉が聞こえるわけじゃないよ」
フェンリルの耳へ目を向ける。
「でも、耳とか目とか鳴き方とか……なんとなく気持ちが分かる気がする」
「キュッ」
「今のは?」
「嬉しい」
「本当に?」
「だから言葉じゃないって」
ルナが笑う。
フェンリルはまた顔を舐めた。
「キュウッ」
「はいはい」
完全に懐いている。
「お母さんはいるのかな」
俺が言う。
ルナの表情が少し変わった。
「そうだね」
フェンリルの頭を撫でる。
「お母さんのところに帰らないとね」
「キュ……」
それまで激しく動いていた尻尾が止まった。
耳も下がる。
ルナがフェンリルを見る。
「お母さん?」
「キュゥ……」
白い身体がルナへ寄る。
胸元へ顔を押しつけた。
「…………」
「分かる?」
フェリシアが聞く。
「ちゃんとは分からない」
ルナが小さく答える。
「でも……お母さんのところへ帰りたい、って感じじゃない」
「いないってこと?」
「分からない。でも」
優しく白い背中を撫でる。
「帰る場所がある子の反応には見えない」
それ以上は聞けない。
フェンリルがどうやってここまで来たのか。
親はどうしたのか、誰が首輪をつけたのか。
今は何一つ分からない。
ただ。
「キュゥ」
フェンリルはルナから離れなかった。
「……ねえ、アレン」
「何?」
「私、この子と従魔契約したい」
少し驚いた。
セルヴァンへ来る前から従魔に興味を持っていたのは、俺の方だった。
目の前を見る。
ルナへ身体を寄せている白いフェンリル。
この二人なら。
「もちろん」
「いいの?」
「俺が止めることじゃないから」
ルナが笑った。
「ありがとう」
「ただ、ちゃんと調べないとね」
「何を?」
「フェンリルが何を食べるのか。どういう場所で育つのか。どのくらい大きくなるのか」
「あ」
「《鑑定》じゃそこまでは分からないし」
「そうだね」
ルナが真面目な顔で頷く。
「ちゃんと調べる」
「従魔師組合なら何か資料があるかもしれないね」
フェリシアが言う。
「戻ったら聞いてみよう」
「うん」
ルナがフェンリルを見る。
「その前に」
「キュ?」
「名前がいるよね」
「もう決めるの?」
「いつまでもフェンリルって呼べないでしょ」
少し考える。
「……テリー」
「テリー?」
「うん」
ルナが白い頭を撫でる。
「今日からテリー。どう?」
一瞬。
フェンリルがルナを見た。
「ワフッ!」
尻尾が大きく振られる。
「気に入った?」
「キューン」
甘えるように鳴き、再びルナの顔を舐め始める。
「わっ! テリー!」
ルナが笑う。
「どうやら気に入ったみたいだね」
フェリシアも笑っている。
◇
「でも」
そこで一つ思い出した。
「ルナ、まだ《従魔契約》の術式を習ってないよね」
「あ」
ルナの動きが止まる。
「今日やったの、魔力を流す練習までだった」
「そうだった……」
嬉しそうだった顔が少し曇る。
「じゃあ契約は組合に戻ってからかな」
「キュ?」
テリーが首を傾げた。
「ごめんね。もうちょっと待って」
「キュゥ……」
テリーがルナの手へ鼻先を押しつける。
「どうしたの?」
次の瞬間。
ルナの表情が変わった。
「……あれ?」
「どうした?」
「テリーから何か……」
俺も《魔力感知》を使う。
確かに。
テリーの魔力が、触れている鼻先からルナへ伸びていた。
「魔力?」
フェリシアも気づく。
「ルナ、受け取ってみて」
「どうやって?」
「今日やったのと同じ。押し返さないで、細く魔力を返してみて」
「分かった」
ルナが目を閉じる。
テリーの魔力を受ける。
そして、ゆっくりと自分の魔力を流した。
「キュゥ……」
テリーが目を閉じる。
ルナからテリーへ。
テリーからルナへ。
二つの魔力が行き来する。
最初は別々だった。
でも、何度か往復するうちに、境目が分からないほど自然に馴染んでいく。
しばらくして、ルナが目を開けた。
「……すごい」
「何が?」
「分かる」
「何が?」
ルナがテリーを見る。
「テリーがここにいるのが分かる」
「見えてるからじゃなくて?」
「違う」
胸元へ手を当てる。
「目を閉じても、少し離れても、多分分かる」
フェリシアが二人の魔力をじっと見ている。
「……繋がってる」
「やっぱり?」
「うん。昨日説明してもらった《従魔契約》の状態にすごく近いと思う」
「でも私、術式知らないよ?」
三人でテリーを見る。
「キュ?」
当の本人だけが首を傾げていた。
「もしかして」
フェリシアが言う。
「テリーの方から繋いだのかな」
「フェンリルだから?」
「分からない。組合で聞いてみないと」
「……そっか」
ルナがテリーを見る。
「私を選んでくれたの?」
「ワフッ!」
テリーが嬉しそうに尻尾を振り、勢いよくルナへ飛びついた。
「わっ!」
頬を舐める。
「ワフッ! ワフッ!」
「ちょっと、テリー! くすぐったい!」
ルナが笑う。
テリーの尻尾も止まらない。
契約が本当に成立しているのかは、まだ分からない。
帰ったら従魔師組合で確認しないといけない。
でも、少なくともテリーは嬉しそうだった。
「まさか」
思わず笑う。
「俺が従魔を見たくてセルヴァンまで来たのに」
「うん?」
「ルナに先を越されるとは思わなかった」
ルナがテリーを抱いたまま笑った。
「ごめんね?」
「謝らなくていいよ」
「キュッ!」
森へ来た時は三人だった。
帰りは。
どうやら一匹増えそうだった。
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