第六章 ネットの探偵たち
【証拠06】SNS投稿集計データ(捜査本部解析班作成) 対象キーワード:「黒瀬恒一」「黒瀬 目撃」「黒瀬 同級生」 期間:事件発生から10日間 該当投稿数:約48万件 特記事項:全投稿のうち、一次情報を伴うものは推定0.3パーセント未満。
事件発生から十日が経つ頃には、黒瀬恒一という名前は、もはや個人の名前ではなく、一つの現象になっていた。
《黒瀬恒一、小学校の頃の同級生だった。おとなしいけど優しい奴だった》 《俺、前の会社で黒瀬さんと同じ部署だったことある。まさかあの人が》 《去年、渋谷で見かけた気がする。地味な感じの人だった》 《黒瀬恒一、今は名古屋に潜伏してるって噂》 《いや大阪で見たって人もいるぞ》
来る日も来る日も、新しい「証言」がタイムラインに積み重なっていった。目撃情報。同級生の思い出。元同僚のエピソード。誰も裏を取っていない。誰も本人確認をしていない。それでも、投稿は雪だるま式に増え続けた。
捜査本部には、連日、匿名の「目撃情報」が寄せられていた。橋本を中心とした若手チームが、その一つ一つを追う羽目になっていた。
「係長、これ見てください」
橋本が疲れた顔で、大量のスクリーンショットをプリントアウトしたものを机に広げた。
「黒瀬恒一のことを『知ってる』って言ってる人間、この十日間で三百人以上出てきてます。でも――」
「本人と直接話したという人間は」
「ゼロです」
「同級生だった、同僚だった、と主張する人間の中で、実際に写真や当時の記録を持っている人間は」
「二人だけです。あとは全員、『そう思う』『たぶん』『友達がそう言ってた』のレベルです」
神谷はうなずいた。予想していた答えだった。
「これが、集合知の正体だ」
「集合知?」
「一人一人は、確たる根拠なんて持っていない。誰かがそう言った。だから自分もそう言う。それが何万件も積み重なると、まるで『大勢が知っている事実』みたいに見えてくる。だが実際には――」
神谷はプリントアウトの束を指で叩いた。
「一次情報は、この中に、ほとんど存在しない」
真帆が会議室に入ってきた。手にしたタブレットを、神谷たちに見せる。
「投稿の拡散経路を追跡しました。面白いことが分かります」
画面には、複雑に絡み合ったネットワーク図が表示されていた。無数のノードが、線で結ばれている。
「見た目は、ものすごく複雑な情報網に見えます。でも、その根っこを辿っていくと――」
真帆が図の中心を拡大した。そこに、たった数個のアカウントが浮かび上がる。
「最初の数十件の投稿に、他のすべての情報が行き着きます。この数個のアカウントが、実質的な『震源地』です」
「その震源地は誰なんだ」
「特定できていません。すべて捨てアカウント。作成されたのは、事件発生の直前です」
橋本が息を呑んだ。
「事件が起きる前から、アカウントが用意されてたってことですか」
「はい」
真帆は淡々と答えた。だが、その淡々とした声の下に、隠しきれない緊張があった。
「まるで、事件が起きることを、あらかじめ知っていたかのように」
神谷は窓の外を見た。夜のオフィス街は、いつもと変わらず光を放っている。だがその光の一つ一つの向こうで、今この瞬間も、誰かが「黒瀬恒一を知っている」という投稿を続けているのだと思うと、胃の底が、すっと冷えるのを感じた。
「面白い実験がある」
神谷が唐突に言った。
「何ですか」
「架空の噂を流して、それが広がるまでの時間を測る実験だ。学生の頃、社会心理学の授業で聞いた話だが……その実験結果よりも、今回のスピードは、明らかに速い」
「作為的、ということですか」
「作為的、あるいは」
神谷は言葉を切った。
「最初から、そのために設計されている、ということだ」
その夜、神谷は自宅アパートに戻り、久しぶりに一人で酒を飲んだ。手元のスマートフォンには、絶え間なく「黒瀬恒一」に関する新しい投稿の通知が届いていた。
目撃情報。噂。憶測。悪意。
そのどれもが、まるで本物の証言のように見える。だが本物の証言は、たった一人しか存在しなかった。そして、その一人は、もう死んでいる。
神谷はスマートフォンをテーブルに伏せた。
これ以上、この現象を追いかけていたら、自分自身の思考すら、この「集合知」とやらに侵食されてしまいそうな気がした。




