第五章 二人目の被害者
【証拠05】水野由紀・実況見分調書(抜粋) 発見日時:9月6日 午前6時40分 発見場所:世田谷区・自宅マンション敷地内、駐輪場 死因:頭部外傷(転落による受傷と推定) 特記事項:死亡推定時刻の3分前、被害者名義のSNSアカウントより投稿あり。
水野由紀が死んだのは、彼女が捜査本部を訪れてから、わずか五日後のことだった。
発見したのは、同じマンションの住人だった。早朝、ゴミ出しに出た初老の男性が、駐輪場の脇に倒れている由紀を見つけ、悲鳴を上げた。救急隊が到着したときには、すでに息はなかった。
現場は五階の自室ベランダの真下だった。転落死。当初、所轄署は事故か自殺の両面で捜査を始めていた。
だが神谷は、報告を受けた瞬間、椅子から立ち上がっていた。
「所轄に連絡しろ。現場を触るなと伝えてくれ」
橋本が驚いた顔をした。
「係長、まだ黒瀬事件との関連は――」
「ある」
神谷は言い切った。理屈ではなかった。刑事としての、皮膚感覚に近い確信だった。
現場に到着した神谷は、まず被害者のスマートフォンを確認させた。ロック画面には、最後に開かれたアプリの通知が並んでいる。その中に、見慣れた青いアイコンがあった。
Xのアプリ。
「開いてみろ」
真帆が手袋をはめた手で、慎重に画面をタップした。表示された投稿履歴に、全員の視線が集中した。
死亡推定時刻の三分前、水野由紀のアカウントから、こう投稿されていた。
《彼女は嘘をついた。》
短い一文。主語がない。誰が、誰について言っているのかも分からない。
「これ……由紀さん本人が書いたものですか」
橋本の声が震えていた。
「投稿元のIPアドレスは」
神谷が尋ねると、真帆はすでに端末を操作していた。
「このマンションの自室からです。本人の携帯回線経由」
「本人の指紋か顔認証でロックが解除されていたのか」
「記録上はそうなっています」
「記録上は、な」
神谷は苦々しくつぶやいた。御堂恒一のときと、まったく同じパターンだった。死者、あるいは死の直前の人間が、自分の意思とは思えない言葉を、自分のアカウントから発信する。
「彼女は嘘をついた」
その一文が、神谷の脳裏で何度も繰り返された。
――嘘をついた、とはどういう意味だ。
「係長」
真帆が、水野由紀自身の、元夫についての事情聴取記録を差し出した。捜査本部で聞いた証言。あの日、彼女は取調室でこう語っていた。
『あの人は、優しい人でした。虫も殺せないような人だったんです』
『はい。間違いなく、恒一さんです』
「証言は取り消された、ということですか」
橋本が困惑した表情で言った。
「取り消されたんじゃない」
神谷は首を振った。
「消された、んだ」
その言葉の意味を、その場にいた誰もが、すぐには理解できなかった。だが数時間後、その意味が、恐ろしい形で明らかになる。
所轄署の刑事課で、水野由紀の司法解剖結果が届いたのは、その日の夕方だった。神谷は真っ先に、死亡推定時刻を確認した。
午前六時三十七分前後。
発見時刻の三分前。
つまり――投稿されたのは、彼女がベランダから転落する、まさにその瞬間だった。
「自殺の可能性は」
「解剖医の見解では、転落時の姿勢に不自然な点があります。自ら飛び降りたにしては、身体の向きが逆です。何者かに突き落とされた可能性が高い、と」
真帆が淡々と報告した。だが、その声にはわずかな緊張が滲んでいた。
「防犯カメラは」
「マンションのエントランス、廊下、エレベーター――すべて確認しました。事件発生時刻の前後三十分間、彼女の部屋がある五階に出入りした人物は、映っていません」
「誰も入っていないのに、突き落とされた」
橋本が呆然とつぶやいた。
「密室、ってことですか」
「密室殺人、なんて言葉で片づけるな」
神谷は珍しく声を荒げた。
「これは古典的なトリックの話じゃない。誰かが――あるいは何かが、防犯カメラに映らない方法で、彼女を殺した。それだけの話だ」
会議室に沈黙が落ちた。誰も、その先を口にできなかった。
神谷は資料室の壁に貼られたホワイトボードの前に立った。そこには、この五日間で積み上がった関係図が描かれている。御堂恒一。黒瀬恒一。水野由紀。矢印と付箋が入り乱れている。
「これは御堂殺害だけの事件じゃない」
神谷は低く言った。
「誰かが、証言そのものを消しにかかっている。水野由紀は、黒瀬恒一の実在を証言した、ほとんど唯一の人間だった」
「それが、殺された」
真帆が静かに続けた。
「証言者を消せば、黒瀬恒一が実在した根拠が、また一つ消える」
「つまり」
橋本が、恐る恐る言葉を継いだ。
「黒瀬恒一が実在しないことにしたい何者かが、彼を『実在させていた証拠』を、一つずつ消しているってことですか」
神谷は答えなかった。ただ、ホワイトボードの「水野由紀」の名前に、大きく赤いバツ印を書き加えた。
これで二人目だ。
御堂恒一――黒瀬恒一を作った人物。
水野由紀――黒瀬恒一を証言した人物。
次に消されるのは、誰だ。
その問いが、神谷の中で、冷たく響き続けていた。
水野由紀の通夜には、神谷も焼香に訪れた。捜査上の配慮からではない。個人的な、けじめのようなものだった。
会場は、思いのほか閑散としていた。参列者は数えるほどしかいない。彼女の両親と思われる高齢の夫婦が、憔悴しきった様子で、遺影の前に座っていた。
「刑事さん」
由紀の母親が、神谷に気づき、震える声で話しかけてきた。
「娘は……本当に、あの黒瀬とかいう男の、元奥さんだったんでしょうか」
神谷は、言葉に詰まった。今この段階で、確定的なことは、何も言えなかった。
「捜査中です。まだ、はっきりしたことは申し上げられません」
「娘は、警察に協力しようとして……それで、殺されたんですよね」
母親の目に、涙があふれた。
「もしそうなら……娘は、どうして、そんな目に遭わなきゃいけなかったんでしょうか」
神谷は、何も答えられなかった。ただ、深く頭を下げることしかできなかった。
会場を出た後、神谷は一人、駐車場でしばらく立ち尽くしていた。
水野由紀は、黒瀬恒一という虚像に、記憶を書き換えられた、被害者の一人だった。だがそれ以前に、彼女は、確かにこの世に生きていた、一人の人間だった。両親がいて、涙を流し、娘の死を悼んでいる。
その事実だけは、どれほど情報が錯綜しても、揺るがない。
「証拠は真実じゃない、証拠は真実に見えるものだ、か」
神谷は、自分の口癖を、初めて苦く感じた。
証拠がどうであれ、水野由紀という一人の女性が死んだという事実だけは、動かしようのない、本物の真実だった。
その夜、神谷は捜査本部に戻り、これまで以上の執念で、資料の山に向き合った。
――もう、これ以上、誰も死なせない。
その決意だけが、この先の長く困難な捜査を、神谷に支え続けさせることになる。




