第三章 四十二年間
【証拠03】黒瀬恒一・生活史ファイル(捜査本部作成) 出生:1984年3月14日、東京都世田谷区(戸籍記録なし) 出身校:区立桜丘小学校→区立中学校→都立高校→私立商経大学 職歴:東亜物産(2008年〜)経理部 婚姻:2015年入籍、2019年離婚(元妻・水野由紀、40歳) ――以上、すべて周辺一次資料による裏付けあり。ただし公的根本記録は不在。
翌朝、捜査本部は一気に色めき立った。
橋本が興奮気味に会議室へ飛び込んできた。息が上がっている。
「係長、出ました! 同級生です! 当時の卒業アルバムに、黒瀬恒一の名前と写真が載ってます。桜丘小学校、六年二組!」
神谷はアルバムのコピーを受け取った。集合写真の中に、確かに「黒瀬恒一」というキャプションのついた少年がいる。あどけない笑顔。担任教師のコメントには「明るく、友達思いな性格」と書かれている。
「本人に取材できたのか」
「担任だった先生、もう八十近いんですけど、施設に入所してて――会って話、聞いてきました」
橋本はスマートフォンの録音データを再生した。しわがれた老人の声が流れる。
『黒瀬くん? ああ、覚えてますよ。運動会でリレーのアンカーやった子でしょう。まさかあの子が……ニュース見てびっくりして。本当に、優しい子だったんですよ』
神谷はその声を、二度、三度と聞き返した。演技には聞こえない。老人が嘘をついているようには、どうしても思えなかった。
「中学の卒アル、高校の卒業証書台帳、大学の履修記録……全部揃ってます。四十二年分の人生が、ものの一日で全部出てきたんです」
橋本の声には、興奮と同時に、うっすらとした恐怖の色が滲んでいた。
まるで誰かが、待ち構えていたかのように。
その表現が、神谷の頭から離れなかった。
夕方、捜査本部に一人の女性が現れた。憔悴した顔つきをしていたが、その目には、隠しきれない強い意志の光があった。
「水野由紀と申します。黒瀬……恒一の、元妻です」
取調室に通されると、彼女は椅子に座るなり、堰を切ったように話し始めた。
「テレビを見て、信じられなくて。恒一さんが人を殺すなんて、絶対にありえません」
「離婚された理由をお聞きしても」
「性格の不一致です。よくある話です。でも――」
由紀は一瞬、言葉を詰まらせた。目に涙の膜が張っている。
「あの人は、優しい人でした。虫も殺せないような人だったんです。喧嘩したこともほとんどなくて……離婚の話が出たときも、最後まで私を責めませんでした」
「結婚生活は何年でしたか」
「四年です。2015年に結婚して、2019年に別れました」
神谷は写真の束を机に並べた。結婚式らしき写真、旅行先での写真、そして黒瀬恒一の証明写真。
「この人物に間違いありませんか」
由紀はその写真をじっと見つめ、静かにうなずいた。
「はい。間違いなく、恒一さんです」
「彼と最後に会われたのは」
「七年前です。離婚届を出したときが最後で……その後は連絡も取っていません」
取調室を出た後、橋本が神谷に耳打ちした。声が弾んでいる。
「係長、これでほぼ確定じゃないですか。本人の元妻が、写真見て『間違いない』って証言してるんです。存在しないなんてこと、ありえないですよ」
神谷は何も答えなかった。ただ、机の上に残された結婚式の写真を、じっと見つめていた。
タキシード姿の黒瀬恒一。隣で微笑む水野由紀。二人を囲む親族らしき人々の笑顔。
すべてが、あまりにも自然だった。
――自然すぎることが、時に一番不自然なのだと。
神谷はまだこのとき、その違和感を、うまく言葉にすることができずにいた。だが刑事としての第六感が、皮膚の下で、はっきりと警報を鳴らし続けていた。
四十二年間の人生。学校の記憶、同僚の証言、元妻の涙。そのどれもが本物に見える。
だが、たった一つ――戸籍という「根っこ」だけが、存在しない。
まるで、大樹のように枝葉が生い茂っているのに、根っこだけが最初から土に埋まっていない。そんな、あり得ないはずの矛盾が、今、目の前に立っている。




