幕間 六年前の誤認
【証拠・幕間】警視庁人事記録(抜粋・非公開) 記載内容:6年前、神谷玲司が主任として担当した強盗殺人事件において、当初の逮捕者が後に釈放された経緯についての内部報告書。処分:厳重注意。
その夜、神谷は帰宅せず、捜査本部の隅にある仮眠室で、天井を見つめていた。
六年前のことを、思い出していた。
思い出したくて思い出しているわけではない。むしろ、この十年、意識的に蓋をしてきた記憶だった。だが黒瀬恒一という男の輪郭が、あまりにも精巧に「実在」を装っていることに触れるたび、あの夜の記憶が、否応なく引きずり出されてくる。
当時、神谷はまだ主任になったばかりだった。江東区で起きた強盗殺人事件。被害者は一人暮らしの老人。現場に残された防犯カメラの映像、指紋、目撃証言――そのすべてが、一人の男を指し示していた。
近所に住む、無職の中年男。前科はなかったが、日頃から素行に問題があると、近隣住民の間で噂されていた男だった。
「間違いない」
当時の神谷は、そう確信していた。証拠は揃っていた。目撃者は複数いた。指紋も一致した。何より、その男自身が、取調べの中で、曖昧な供述を繰り返した。
「やったかもしれない……よく、覚えていないんです」
その言葉を、神谷は「自白に近いもの」として受け取った。上司も、検察官も、同じ判断を下した。逮捕、送検。世間は、事件が解決したと信じた。
だが起訴の直前、決定的な事実が判明した。
真犯人が、別に存在した。真犯人の携帯電話の位置情報が、事件発生時刻に、現場から遠く離れた場所にあったはずの「逮捕された男」のものと、実は入れ替わっていたことが分かったのだ。通信会社側のシステムエラーによる、記録の混線。
逮捕された男は、無実だった。
彼の「やったかもしれない」という曖昧な供述は、精神的に追い詰められた末の、パニックに近い状態での発言に過ぎなかった。彼は元々、軽度の認知の偏りを抱えており、強い圧力の下で、自分の記憶そのものに、確信が持てなくなっていたのだ。
男は釈放された。だが、その頃にはすでに、彼の名前と顔写真は、報道によって広く知れ渡っていた。
真犯人が別にいたという訂正報道は、最初の「逮捕」の報道の、十分の一にも満たない扱いだった。
男は、その後、故郷に戻ることも、元の職場に戻ることもできなかった。神谷が最後に彼の消息を聞いたのは、三年前のことだ。人づてに聞いた話では、名前を変え、誰も自分を知らない土地で、ひっそりと暮らしているという。
神谷はあのとき、上司に呼び出され、こう言われた。
「証拠が揃っていた。誰が見ても、あの男が犯人だと判断しただろう。お前のミスじゃない」
だが神谷は、その言葉を、一度も心から受け入れたことはなかった。
証拠は、揃っていた。だが、それは真実ではなかった。
指紋は本物だった。だが、その指紋がついた経緯には、別の説明があった。目撃証言も本物だった。だが、目撃者の記憶自体が、事件後の周囲の噂によって、少しずつ書き換えられていたことが、後の調査で判明した。
――証拠は真実ではない。証拠は、真実に見えるものだ。
その言葉は、あの事件の後、神谷が自分自身に刻みつけた、たった一つの教訓だった。以来、神谷は、どれほど証拠が揃っていても、最後の一線で、必ず立ち止まるようになった。同僚からは「慎重すぎる」「疑り深い」と評されることも多かったが、神谷はその評判を、甘んじて受け入れてきた。
仮眠室の天井を見つめながら、神谷は思う。
黒瀬恒一の事件は、あの六年前の事件の、拡大鏡のような姿をしている。
あのときは、一人の無実の男が、証拠の重みに押しつぶされかけた。今回は――存在すらしない男が、証拠という証拠を、その身にまとわされている。
規模も、手口も、まるで違う。だが根底にある恐怖は、同じだった。
人は、証拠の量に、簡単に呑まれる。
神谷は、天井を見つめたまま、拳を握りしめた。
今度こそ、間違えるわけにはいかない。
たとえ相手が、存在しない男であっても――いや、存在しない男だからこそ、なおさら。
その夜、神谷は一睡もできなかった。




