第二章 存在する男
【証拠02】黒瀬恒一・戸籍照会結果(世田谷区役所) 照会日:8月29日 結果:該当する戸籍情報、出生届記録、住民票除票、いずれも「該当なし」 特記事項:住民票原本データは存在するが、その根拠となる戸籍情報との照合が不能。
翌日、神谷は警察庁のデジタル・フォレンジックチームに緊急の協力要請を出した。担当として派遣されてきたのは、白石真帆という女性だった。三十一歳。ロジカルで感情を表に出さない、と事前に聞いていた通りの人物だった。
「黒瀬恒一に関する全データを、時系列で洗い出しました」
真帆はノートパソコンの画面を神谷に向けた。整然と整理されたタイムラインが表示されている。無駄のない、機械的なまでの正確さ。
「まず基本情報から。運転免許証、平成十六年交付。以後、三回の更新履歴あり。勤務先は都内の中堅商社、東亜物産。入社は二〇〇八年、経理部配属。二〇一五年に結婚、二〇一九年に離婚。元妻の名前は水野由紀、四十歳」
「銀行口座は」
「三菱UFJに給与振込口座。過去五年分の入出金記録があります。家賃、光熱費、携帯電話料金、コンビニでの少額決済まで――生活実態としては、極めて自然です」
「SNSは」
「XとInstagram、両方にアカウントがあります。投稿は五年前から。友人と思われるアカウントとの相互フォロー、コメントのやり取りも確認できます。写真も複数枚――旅行先、飲み会、職場らしき場所」
神谷は腕を組んだ。額に、じっとりとした汗がにじんでいる。
「これで、存在しないと言われてもな」
「ただし」
真帆の声のトーンが、わずかに低くなった。
「一つだけ、決定的に奇妙な点があります」
「言ってくれ」
「戸籍だけが、どこにもありません」
その一言で、会議室の空気が凍りついた。
「戸籍が」
「本籍地として届け出られている世田谷区の役所に照会しましたが、黒瀬恒一という人物の戸籍謄本は存在しません。出生届の記録もない。住民票の除票も、転入転出の履歴も、一切ない」
「住民票そのものは実在してるんだろう」
「実在します。でも、それは『住民票という形式のデータ』が存在しているというだけです。その根拠となるべき戸籍という、もっと上位の記録が――どこにも、ない」
真帆は淡々と続けた。感情の起伏がまったく見えない。だからこそ、その言葉には異様な説得力があった。
「家で言うなら、二階だけがあって、一階と基礎がないような状態です」
橋本が横から口を挟んだ。
「免許証の交付記録は、警察のデータベースにあるものですよね。それも怪しいってことですか」
「調べています。ただ、平成十六年当時の紙台帳との照合ができていません。当時の記録は、後年になってデジタル化された際のものです。デジタル化の過程で、どこかのタイミングで、このデータが――」
「挿入された、と」
神谷が代わりに言葉を継いだ。真帆はうなずかなかった。
「まだそこまでは断定できません。可能性の一つとして提示しているだけです」
「データを疑え、というのが俺の持論だ」
「データまで疑ったら、何も捜査できません」
これが二人の初めての、そして最後にはならない衝突だった。
真帆は画面をスクロールし、黒瀬のSNSに投稿された写真の一枚を拡大した。居酒屋らしき店内で、複数の人物と笑い合う黒瀬恒一。
「この写真に写っている、他の三人。全員、実在の人物として確認が取れています。うち二人には直接接触し、『黒瀬という同僚と何度か飲みに行った』という証言も得ています」
「本人に会ったことのある人間が、複数いるということか」
「はい。ですから」
真帆は画面を閉じた。
「黒瀬恒一が完全な虚構だとは、まだ言い切れません。少なくとも写真の中では、複数の実在人物とともに、実在する形で存在していました」
神谷は窓の外を見た。日はすでに落ち、街の明かりが無数に瞬いていた。
「存在するのに、存在しない」
「矛盾しているように聞こえますが」
「いや」
神谷は首を振った。喉の奥が、妙に渇いていた。
「一番怖いのは、その両方が同時に成立するケースだ」
その言葉が、まだこのとき自分でも、どこまで正しいのか分からなかった。だが刑事としての本能が、確かに警鐘を鳴らしていた。
――これは、殺人事件などという、単純な話じゃない。




