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存在しない犯人  作者: キロヒカ.オツマ―


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第一章 犯人の住所

【証拠01】黒瀬恒一・運転免許証(写し) 本籍:非公開/住所:東京都世田谷区桜新町三丁目××番地 発行日:平成16年4月/更新履歴:3回(直近平成28年) 交付警察署:世田谷警察署


世田谷区、桜新町。閑静な住宅街の一角。築十五年ほどの二階建て住宅の表札には、確かに「黒瀬」の文字があった。


神谷玲司は、パートナーの若手刑事・橋本とともに、そのインターホンを押した。応答があるまで、わずかな間があった。


「はい……」


出てきたのは、六十代とおぼしき女性だった。神谷が警察手帳を提示し、「黒瀬恒一さんはご在宅でしょうか」と尋ねると、女性は明らかに戸惑った顔をした。


「黒瀬? うちは田村ですけど」


「こちらの住所で間違いございませんか」


神谷は住民票の写しを取り出し、番地を指し示した。運転免許証に記載された住所と、一文字違わず一致している。


「間違ってませんよ。私たち、ここに二十三年住んでます。黒瀬なんて人、聞いたこともない」


「郵便物などが届いたことは」


「ないですねえ。……ああ、そういえば」


女性が思い出したように言った。


「半年くらい前、宅配便の再配達で『黒瀬様』って書いた不在票が、間違ってうちのポストに入ってたことがあったかしら。でも、それだけです。会ったこともないし、住んでるところも知りません」


神谷は隣家、向かいの家、さらに三軒先まで聞き込みの範囲を広げた。だが結果は同じだった。誰一人として、黒瀬恒一という人物を知らない。


「係長」


橋本が、スマートフォンの画面を突き出してきた。指先が興奮で震えている。


「もうネットで『特定班』が動いてます。黒瀬の勤務先、学歴、SNS……全部拾い上げられてます。しかもここに書いてある住所、免許証の住所とばっちり一致してますよ」


「一致しているのに、本人はいない」


神谷はつぶやいた。空気が、ひどく粘着質に感じられた。


「引っ越したんじゃないですかね」


「住民票は動いていない。田村さんは二十三年住んでいると言っている。二十三年前から、この番地に黒瀬恒一という人間が住んでいた形跡は、どこにもない」


橋本は首をかしげた。


「じゃあ、免許証が偽造ってことですか」


「それなら話は早い」


神谷は住宅街を見渡しながら、低く言った。


「だが免許証には交付履歴がある。更新記録もある。役所のデータベースにも登録がある。――偽造にしては、手が込みすぎている。素人の仕事じゃない」


その日の夕方までに、捜査本部は黒瀬恒一に関するあらゆる公的記録を照会した。運転免許、健康保険証、勤務先の雇用保険記録、銀行口座、携帯電話契約――すべてが実在していた。すべてが、桜新町のこの住所を指していた。


ただ、本人だけが、どこにもいなかった。


夜、捜査会議が終わった後。神谷は一人、資料室に残り、写真の束を見返していた。


黒瀬恒一、四十二歳。証明写真らしい硬さがありながら、どこか自然な、生活の匂いのする顔をしている。無害そうな笑い皺。少し垂れた目尻。


こういう顔を、神谷はこれまでの刑事人生で、何百人と見てきた。ごくありふれた、隣人の顔だ。


「こんなに揃っていて、存在しないなんてあり得るのか」


誰に言うともなく、そうつぶやいた声が、無人の資料室に虚しく反響した。


窓の外、遠くのビル群が、無数の光を放っている。あの光の中のどこかに、この男は本当にいるのだろうか。それとも――


神谷はその夜、初めて、ある予感に襲われた。


この事件は、自分がこれまで解決してきたどの事件とも違う。


証拠が足りないのではない。証拠が、多すぎるのだ。


翌朝、捜査本部に出勤した神谷を待っていたのは、想像以上の喧騒だった。


会議室のテレビには、朝の情報番組が映し出されていた。コメンテーターが、したり顔で語っている。


『今回の事件、非常に不可解ですよね。防犯カメラにあれだけ鮮明に映っているのに、警察はまだ容疑者の身柄を確保できていない』


『黒瀬容疑者、いったいどこに潜伏しているんでしょうか』


神谷は、テレビの電源を切ろうとして、思わず手を止めた。画面の下に流れるテロップに、目を奪われたからだ。


《速報 御堂恒一氏殺害事件 容疑者・黒瀬恒一の実家に取材班殺到》


「もう実家まで割れてるのか」


橋本が、苦い顔でうなずいた。


「実家、というか……住民票上の実家です。行ってみたら、そこにも黒瀬なんて家族、住んでませんでした。でも近所の人が、テレビの取材に、なぜか『昔そういう家族がいた気がする』って答えてるんです」


「気がする、で全国放送するのか」


「今の時代、そういうものみたいです」


橋本は力なく笑った。神谷は、テレビの中で語られる「黒瀬恒一像」が、時間が経つごとに、少しずつ肉付けされていくのを、複雑な思いで眺めていた。


昼過ぎ、捜査一課長からの呼び出しがあった。


「神谷、上からのプレッシャーがすごい。マスコミも世論も、『なぜまだ捕まえられないんだ』の一色だ。もう黒瀬の顔は、日本中に知れ渡っている。逃げ場なんてないはずだろう」


「課長」


神谷は、慎重に言葉を選んだ。


「逃げ場がない、というより――そもそも、逃げている本人が、見つからないんです」


「どういう意味だ」


「住所は空き家同然でした。勤務先とされる会社にも、本人の在籍記録はあるのに、実際に彼を見たという同僚が、まだ一人も見つかっていません」


課長は、眉間に皺を寄せた。


「まさか、替え玉が使われてるとか、そういう話か」


「まだ、何とも言えません。ただ――」


神谷は、慎重に言葉を継いだ。


「この事件は、通常の逃亡犯捜査とは、根本的に性質が違う気がしています」


課長は、しばらく神谷の顔を見つめていたが、やがて、ため息をついた。


「分かった。だが、時間をかけすぎるな。世間は、待ってくれない」


その言葉の通り、世間は、待ってはくれなかった。


その日の夜、桜新町の「黒瀬邸」とされる住宅に、興味本位の野次馬が押し寄せているという通報が入った。田村さん夫婦は、突然の騒動に、ひどく困惑していた。


「うちは、関係ないのに」


電話口で、田村夫人が、涙声で訴えていた。


「表札を勝手に写真に撮られて、ネットに晒されて……もう、怖くて外にも出られません」


神谷は、パトカーを手配し、警備を強化させながら、ある不快な確信を強めていた。


この事件において、傷つけられているのは、御堂恒一を殺した犯人を捜すという、捜査本部の任務の対象者だけではない。


存在すらしない男の「実家」とされてしまった、無関係の夫婦もまた、静かに、この現象の犠牲者になりつつあった。

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