プロローグ 午前0時17分
証拠00】東京都港区・タワーマンション「アルタイル・レジデンス」防犯カメラ映像/実況見分調書(抜粋) 撮影時刻:8月28日 午前0時09分 映像内容:エントランス、エレベーター、玄関先の三箇所に、同一人物と思われる男性が連続して映り込む。 特記事項:顔認証システムによる照合結果、一致率99.7パーセントで「黒瀬恒一」を検出。 死因:頸部への鋭利な刃物による単一創。即死に近い状態と推定。凶器は現場から発見されず。
雨は降っていなかった。
それだけが、後になって神谷玲司の記憶に、妙な棘となって残ることになる。
事件現場というものは、なぜかいつも天候とセットで語られたがる。土砂降りの中の死体。猛暑の中の腐乱臭。大雪に閉ざされた密室。だが御堂恒一が死んだ夜、東京の空は乾いていて、星さえいくつか見えていた。まるで、これから起きることの異常さとは無関係だとでも言いたげに。
港区南青山、地上四十二階建てタワーマンション「アルタイル・レジデンス」。最上階、ペントハウス。エレベーターの扉が開いた瞬間、神谷はまず匂いを嗅いだ。
血の匂いは、まだ薄い。
死後間もない。長年の勘が、そう告げていた。
リビングの中央、御堂恒一はうつ伏せに倒れていた。首筋に、一箇所だけ、鋭利な刃物によるものと思われる創があった。傷はただ一箇所。迷いのない、正確な一撃だった。オルタナ・テクノロジーズ創業者にして最高経営責任者。時価総額三兆円企業を一代で築き上げた「日本のジョブズ」と呼ばれた男の最期は、拍子抜けするほど静かだった。争った形跡はほとんどない。家具は乱れていない。抵抗した様子すらない。
まるで――来訪者が誰であるか、最後の最後まで、疑ってすらいなかったかのように。
「係長、防犯カメラ、解析終わりました」
若い鑑識係が、タブレット端末を神谷に突きつけるようにして差し出した。指先が震えている。新人ではない。何年もこの仕事をしてきた男が、これほど動揺するのは珍しい。
「どうした」
「見てください。これ……」
画面の中で、映像が再生される。
エントランス。午後十一時五十二分。一人の男が、正面玄関からまっすぐに入ってくる。
エレベーター内。午後十一時五十六分。同じ男が、カメラのレンズを見据えるように、じっと正面を向いている。
まばたきひとつしない。
玄関先。午前零時三分。同じ男が、ペントハウスのドアの前に立っている。
そして――消える。
「顔、鮮明すぎませんか」
鑑識係が言った。
「普通、犯人ってもっと顔を隠すじゃないですか。帽子被るとか、俯くとか、カメラの死角を選んで歩くとか。でもこいつ、まるで――」
「まるで、撮られるために歩いている」
神谷が言葉を継いだ。
画面の中の男は、四十代前半。中肉中背。グレーのコートに黒いバッグ。特徴のない、どこにでもいそうな顔立ち。だが不思議なことに、一度見たら忘れられない何かがあった。
「身元は」
「顔認証、一致率99.7パーセントで出ました」
鑑識係の声が、わずかにかすれた。
「――黒瀬恒一。四十二歳。世田谷区在住」
その名前を、この夜、神谷玲司はまだ知らなかった。
だが、夜が明ける前に、その名前は日本中を駆け巡ることになる。
翌朝七時、テレビの情報番組が顔写真付きで速報を打った。
昼までに、SNSのトレンド一位は「黒瀬恒一」だった。
午後三時、週刊誌のウェブ版が「独占・御堂恒一氏殺害容疑者、黒瀬恒一の全人生」と題する特集記事を公開した。生い立ち、出身校、職歴、家族構成、元妻へのインタビュー未遂の顛末まで――信じがたいほど詳細に、迅速に。
まるで誰かが、ずっと前からこの記事を書く準備をしていたかのように。
そして、警察がその男を探し始めたとき――
すでに日本中が、彼を知っていた。




