第十三章 存在しない犯人
【証拠13】情報源遡及解析・最終レポート(白石真帆作成) 対象:黒瀬恒一に関する全一次情報、計312件 解析結果:すべての情報が、最終的に7つの「原初ソース」に収斂。さらに遡及した結果、7つの原初ソースはいずれも、単一のサーバーから同時刻に生成されたことが判明。
事件発生から六週間目。神谷と真帆は、それまでに集めたすべてのデータを、もう一度、根本から洗い直す作業に取りかかっていた。
「もう一度、最初からやろう」
神谷は、資料室の壁一面を占領していたホワイトボードを、すべて消した。誰もが息を呑んだ。一ヶ月半かけて積み上げてきた関係図を、跡形もなく消し去ったのだ。
「係長……」
橋本が不安げに声をかけたが、神谷は構わず、新しいマーカーを手に取った。
「黒瀬恒一という人物についての、一つ一つの証拠を、遡る。表面をなぞるんじゃない。根っこまで、全部だ」
真帆が、解析用のサーバーを立ち上げた。
「運転免許証の交付記録から始めましょう」
画面に、データの生成履歴が表示される。真帆は、その記録を、一段階ずつ遡っていった。
「交付記録データ――このデータがシステムに入力された正確な日時が分かります。二〇一九年十一月十四日、午前三時十二分」
「Kurose Projectの発足から、何日目だ」
「三日後です」
橋本が、生唾を飲み込んだ。
「じゃあ、次。銀行口座」
「開設記録は、同年同月十六日。午前三時二十分」
「SNSアカウントは」
「同月十八日。午前三時七分」
すべてのタイムスタンプが、深夜の同じ時間帯に集中していた。人間の手作業とは、到底思えない規則性だった。
「卒業アルバムへの記載は」
「これが、少し特殊です」
真帆の声に、緊張が走った。
「小学校のアルバムデータそのものは、二十年以上前に発行された、本物の紙媒体です。ですが、そこに『黒瀬恒一』という名前と写真が加えられたのは――保管されていたデジタルアーカイブ上でのことでした」
「つまり」
「学校側が保管していたスキャンデータそのものが、後から改竄されていました。改竄日時は、二〇一九年十一月二十日、午前三時四十一分」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
「元同級生の証言は」
「同級生自身は、実在の人物です。噓をついているわけではありません。でも――」
真帆は、担任教師のインタビュー記録の音声解析データを開いた。
「この録音、もう一度よく聞いてください」
『黒瀬くん? ああ、覚えてますよ。運動会でリレーのアンカーやった子でしょう』
「この発言自体は、本物の記憶に基づいています。ただし――」
真帆は、波形データを指し示した。
「『黒瀬くん』という固有名詞の部分だけ、周波数特性が、周囲の発話と、微妙に異なります」
「編集されているということか」
「編集ではありません。これは、老人自身の口から、確かに発せられた言葉です。ただ――質問の誘導によって、別の記憶に、『黒瀬』という名前を、後付けで結びつけさせられた可能性があります」
橋本が、震える声で言った。
「本当にリレーのアンカーをやった、誰か別の子供が、いたってことですか」
「おそらく」
真帆は、静かにうなずいた。
「担任教師は、質問される中で、実在した『誰か』の記憶を呼び起こしました。そして、質問者が――取材者、あるいは事前に接触した何者かが――その記憶に『黒瀬恒一』という名前を、巧妙に結びつけていった」
神谷は、目の前が眩むような感覚を覚えた。
「元妻の証言は。水野由紀は、確かに『間違いなく恒一さんです』と言った」
「それも、同じ構造です」
真帆は、由紀の取調べ映像を再生した。
『この人物に間違いありませんか』
『はい。間違いなく、恒一さんです』
「彼女に見せた写真――あれは、生成AIによる合成写真でした。三十七枚中十四枚が合成だったという、あの解析結果を覚えていますか」
「ああ」
「実写ベースとされた残り二十三枚も、詳しく骨格解析をかけ直しました。その結果、一枚岩ではないことが分かりました」
「一枚岩ではない、とは」
「居酒屋の写真をはじめ、東亜物産関係の写真群に写る『黒瀬』の骨格データは、ある一人の人物と一致します。おそらく、実在する東亜物産の元社員か、それに準ずる人物です。一方、水野由紀に見せた結婚式や旅行の写真群――彼女の私生活に関わる写真の『黒瀬』の骨格データは、それとはまったく別の、もう一人の人物と一致しました」
神谷は、息を止めた。
「別々の人間の顔を、同じ『黒瀬恒一』という名前のもとに、貼り合わせていたということか」
「はい」
真帆は、一語ずつ確かめるように続けた。
「『黒瀬恒一』は、単一の実在人物の顔を土台にしていたわけではありません。少なくとも二人――おそらくそれ以上の、互いに面識もない実在の人間たちの、人生の断片を、場面ごとに使い分けながら、縫い合わせていた。会社の同僚たちは、本物の誰かと、本物の記憶の中で酒を飲んでいた。水野由紀は、本物の誰かと、本物の記憶の中で結婚していた。ただ、その二人は、まったくの別人です」
「誰の骨格だ、私生活の方は」
真帆は、画面に、二つの顔を並べて表示した。一つは、黒瀬恒一とされる顔。もう一つは――
水野由紀の元夫として、彼女自身が当初、離婚届を提出した、別の人物の写真だった。
戸籍上は、まったく別の名前を持つ、実在の男性。
「水野由紀の本当の元夫は、この人物です。名前は――伏せますが、地方都市で、平凡な生活を送っている、無関係な一般人です」
「じゃあ、由紀の証言は」
「彼女は、本物の元夫の記憶に、『黒瀬恒一』という虚像を、上書きされていました。おそらく、事件の数ヶ月前から、彼女に接近した何者かによって、日常的な会話や、SNSでのやり取りを通じて、少しずつ、記憶が誘導されていったのだと思います」
神谷は、その場に立ち尽くした。
四十二年分の人生。同級生の証言。元妻の涙。それらはすべて――複数の、互いに無関係な本物の人間の、本物の記憶を素材にした、精緻な「上書き」の集合体だった。
「最後に、これを見てください」
真帆は、七つの「原初ソース」――すべての情報が最終的に行き着く、最初の投稿群のデータを、画面に表示した。
「このデータの生成元、サーバーの物理的な設置場所を特定しました」
神谷は、その住所を見た瞬間、言葉を失った。
そこは――ORACLEの開発サーバーが設置されている、オルタナ・テクノロジーズの、社内研究施設だった。
「すべての情報が、最終的に、たった一つの場所に行き着く」
真帆は、静かに、しかし確信を込めて言った。
「そして、その場所には――何もありません」
「何もない、とは」
「元となる、最初の『黒瀬恒一』の写真、動画、記録――一次情報の、さらに一次情報。それを探しましたが、見つかりませんでした」
真帆は、ゆっくりと、その言葉を口にした。
「最初の黒瀬恒一は、存在しません」
その一言が、静まり返った会議室に、重く響いた。
四十二年の人生。無数の証言。数十万件のSNS投稿。数えきれない証拠。そのすべてが、最終的には、何もない場所に行き着く。
証拠は、真実に見えるものだ。神谷が長年、自分に言い聞かせてきた言葉が、今、これほど恐ろしい形で証明されるとは、思ってもみなかった。
「係長」
真帆が、ふと、話題を変えるように言った。
「もう一つ、気になっていることがあります」
「何だ」
「係長自身についてです」
神谷は、思わず真帆の顔を見た。
「私が? どういうことだ」
「捜査の過程で、係長の過去の記録も、システム上、何度か照会しています。その際に気づいたのですが……係長の学生時代の写真データに、一部、不自然な欠落があります」
神谷は、しばらく黙っていた。
「昔から、時々、言われることがある。昔の同僚が、俺の学生時代の話を、覚えていないことがあると」
「母親の証言と、公的記録に、微妙なズレがあることも確認しています」
真帆の声は、慎重だった。
「係長ご自身が、何かの実験の対象になった可能性を、疑ったことは」
神谷は、しばらく答えなかった。
やがて、低く笑った。自嘲するような、乾いた笑いだった。
「もしそうだとしても」
神谷は言った。
「俺は、俺として、ここに立っている。それだけは、確かなことだ」
だがその夜、一人になったとき、神谷は初めて、自分の古いアルバムを引っ張り出し、指先が微かに震えるのを感じながら、一枚一枚、写真を見返していた。
自分は、本当に、自分の記憶通りの人生を、歩んできたのだろうか。
その問いに、明確な答えは、まだ出せなかった。




