第十章 最初の黒瀬
【証拠10】オルタナ・テクノロジーズ社内サーバー押収資料 文書名:「プロジェクト管理台帳 2019年度」 記載内容:「Kurose Project」という名称のプロジェクトが、2019年11月に発足していた記録。プロジェクトリーダー:桐生修一。目的欄は削除済み(復元不能)。
強制捜査で押収したサーバーの解析が進むにつれ、捜査本部は、決定的な文書にたどり着いた。
「係長、見つけました」
真帆が、青ざめた顔で資料を持ってきた。彼女がこれほど動揺した表情を見せるのは、初めてのことだった。
「これを」
差し出された文書には、こう記されていた。
《プロジェクトコード:Kurose Project》 《発足日:2019年11月》 《プロジェクトリーダー:桐生修一》 《目的:[削除済み]》
「Kurose……」
橋本が、声を震わせながら文書を読み上げた。
「黒瀬、ですか」
「発足が2019年11月。黒瀬恒一の『離婚』とされる時期と、ほぼ一致します」
真帆が、淡々と、しかし確実に核心を指し示した。
「つまり、こういうことです」
神谷は、ゆっくりと文書を手に取った。指先が、微かに震えていた。
「黒瀬恒一という人物の『人生』が、実際には、このプロジェクトの中で、作られ始めた時期と一致する」
「はい」
真帆は続けた。
「小学校時代の記録、中学、高校、大学の経歴――これらは、後になって、あたかも四十二年間の人生があったかのように、遡って『埋め込まれた』可能性があります」
「四十二年分の過去を、たった数年で作り上げた、というのか」
「AIによる文書生成、画像合成、そして人的なネットワークへの巧妙な介入があれば――不可能ではありません」
橋本が、困惑した様子で尋ねた。
「桐生修一って、誰ですか」
真帆が、社員名簿のコピーを差し出した。写真には、白髪交じりの、理知的な顔立ちの男が写っている。
「ORACLE開発責任者です。御堂とは、共同創業者に近い立場にありました」
神谷は、その写真を、じっと見つめた。
「会って話を聞く必要があるな」
「本人は、事件発生の直後から、行方が分かっていません」
真帆の言葉に、会議室の空気が、一気に緊張した。
「失踪しているのか」
「会社側は、『体調不良による長期休養』と説明していますが……本人の自宅にも、この一ヶ月、誰も出入りした形跡がありません」
神谷は、Kurose Projectの文書を、もう一度読み返した。
黒瀬は、御堂が最初に作った。
その事実が、今、はっきりと文書の上に刻まれていた。だが同時に、新たな疑問が浮かび上がる。
「御堂は、なぜこんなものを作った」
「その答えは、もう少し先の資料にあります」
真帆が、別のファイルを取り出した。日付は、より新しいものだった。
「御堂が残した、暗号化されたメモリーカードです。パスワード解析に、少し時間がかかりましたが――」
「開けたのか」
「はい。これを見てください」
画面に映し出されたのは、御堂恒一自身が記したと思われる、私的なメモだった。
《ORACLEの危険性を、言葉で説明しても、誰も理解しない。実際に見せるしかない。存在しない人間でも、情報さえ積み重ねれば、社会は「実在する」と認識してしまう――その事実を、証明する。》
《これは、警告のための実験だ。誰も傷つけるつもりはない。》
神谷は、その文章を、何度も読み返した。
「御堂は、危険性を証明するために、黒瀬という架空の人物を作った、ということか」
「はい。おそらく、当初の目的は、社会への警鐘でした。ORACLEというシステムが、いかに危険な力を持っているか――それを実証するための、実験でした」
橋本が、恐る恐る口を開いた。
「でも……その実験が、暴走したってことですか」
神谷は、答えなかった。ただ、頭の中で、一つの疑問が、大きく渦を巻いていた。
御堂自身が黒瀬を作ったのだとしたら――
なぜ、その黒瀬に、御堂自身が殺されたのか。
作り主が、自分の作った架空の存在に、殺される。そんな馬鹿げた話が、あり得るのか。
いや――と、神谷は思い直した。
黒瀬恒一は、実在しない。ならば、黒瀬恒一が御堂を殺すことなど、物理的に不可能だ。
つまり、事件の構造そのものが、まだ根本から間違っている。
桐生修一という人物について、神谷はさらに調べを進めた。
彼のキャリアは、華々しいものだった。国内トップの理系大学院を修了後、大手電機メーカーの研究職を経て、御堂に見出される形で、オルタナ・テクノロジーズの立ち上げに参加した。ORACLEの中核アルゴリズムは、そのほとんどが、桐生一人の頭脳から生み出されたと言われている。
「桐生さんは、変わった人でした」
かつての大学時代の指導教官が、神谷の取材に応じて語った。
「非常に優秀でしたが、どこか、人間そのものに対して、冷めた見方をしているところがありました。彼はよく、こう言っていましたね。『人間の意思決定なんて、しょせん、確率の積み重ねに過ぎない』と」
「人間味がない、ということですか」
「いや、そういうわけでもないんです。彼は、驚くほど、他人の感情の機微に敏感でした。誰かが少し落ち込んでいるだけで、すぐに気づく。でも、その敏感さが、逆に、彼を人間不信にさせていたのかもしれません」
教官は、しばらく考え込んだ後、続けた。
「彼は昔、こんな研究をしていました。『噂が広まる速度と、その噂の真偽の関係性』についての、実験心理学の研究です。結論は、単純明快でした。噂の広まる速度は、その真偽とは、まったく無関係だった。むしろ、噂が『面白いかどうか』『感情を刺激するかどうか』の方が、遥かに大きな影響を持っていた」
「その研究が、ORACLEの原型になった、と」
「おそらく、そうでしょう。彼にとって、人間の『信じる』という行為は、ずっと以前から、研究対象だったんです。データとして、観察する対象。彼はそれを、決して、悪意で見ていたわけではないと思います。ただ――」
教官は、寂しげに笑った。
「彼にとって、人間は、いつからか、『理解する対象』ではなく、『予測する対象』になってしまったんでしょうね」
その言葉が、神谷の中に、長く残った。
人間を、理解するのではなく、予測する。信じるのではなく、設計する。
桐生修一という男の中で、いつしか、その境界線が、完全に消えてしまったのかもしれない。
神谷は、資料に添えられた桐生の顔写真を、もう一度見つめた。理知的な、穏やかな顔立ち。だがその奥に、底の見えない、深い虚無が広がっているような気がしてならなかった。




