第九章 信じたいもの
【証拠09】ネット世論分析レポート(捜査本部解析班作成) 対象:「黒瀬恒一」関連投稿、約62万件(4週間累計) 分類結果:一次情報0.2パーセント/引用・転載62.1パーセント/感想・憶測37.7パーセント 特記事項:最初期の「震源」投稿20件のうち、発信元が特定できたものはゼロ。
事件発生から一ヶ月が経つ頃には、黒瀬恒一という男は、もはや「容疑者」の域を超えていた。
彼は、悪の象徴になっていた。
《黒瀬恒一、実は過去にも余罪があるらしい》 《黒瀬恒一の実家、近所じゃ有名な問題児だったって》 《黒瀬恒一、学生時代にいじめの主犯格だったって噂》
投稿は、日を追うごとに過激さを増していった。当初は「同級生だった」「見かけた気がする」程度だった曖昧な証言が、いつの間にか、具体的な「悪行」のエピソードへと変貌していく。
神谷は、その変化の速度に、強い違和感を覚えていた。
「橋本、この『いじめの主犯格』って話、出所は」
「調べてます。でも……」
橋本は疲れた顔で、モニターの画面をスクロールした。
「辿っていくと、最初は匿名掲示板の書き込みなんです。それを、別のまとめサイトが引用して、そのまとめサイトを、SNSアカウントがさらに引用して……」
「一次情報は」
「ないです。誰も、本人から直接聞いた話じゃない。全部、又聞きの又聞きです」
神谷は、資料室の壁に貼られたホワイトボードを見つめた。もはや関係図というより、蜘蛛の巣のような有様になっている。無数の矢印が絡み合い、その中心には「黒瀬恒一」という名前だけが、異様な存在感を放っていた。
「証拠が増えてるんじゃない」
神谷は、誰に言うともなくつぶやいた。
「同じ嘘が、コピーされているだけだ」
真帆が、コーヒーを片手に会議室に入ってきた。
「面白いデータがあります」
「聞かせてくれ」
「投稿の『確信度』を分析しました。文末表現――『らしい』『かもしれない』『たぶん』といった曖昧な表現の比率です」
真帆はタブレットの画面を見せた。折れ線グラフが表示されている。
「事件発生直後は、九割以上の投稿が、曖昧な推測表現を使っていました。でも、二週間を過ぎたあたりから、その比率が急激に下がっています」
「つまり」
「同じ根拠のない話でも、繰り返し引用されるうちに、『らしい』が取れて、『黒瀬恒一はこういう人間だ』という断定表現に変わっていく、ということです」
橋本が、ぞっとしたように言った。
「それって……嘘が、繰り返されるうちに、本当のことみたいになっていくってことですか」
「心理学では、これを『真実性の錯覚』と呼びます」
真帆は淡々と説明した。
「人間の脳は、同じ情報に繰り返し触れると、それを『信頼できる情報』だと錯覚する性質を持っています。情報源の質や、一次情報の有無とは、無関係に」
神谷は、腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「その性質を、誰かが利用している、ということか」
「利用というより」
真帆は、慎重に言葉を選んだ。
「設計している、と言った方が正確かもしれません」
その日の午後、神谷は自らSNSを開き、黒瀬恒一に関する投稿を、一つ一つ丹念に読んでいった。膨大な量だった。何百件、何千件と読み進めるうちに、奇妙な感覚に襲われた。
読めば読むほど、自分自身の中にも、黒瀬恒一という人間の輪郭が、確かに形作られていくのだ。
――ああ、そういう人間なんだな。
そう思ってしまう瞬間が、何度もあった。証拠として扱うべき情報のはずなのに、いつの間にか、ただの「印象」として、自分の中に沈殿していく。
神谷はスマートフォンを閉じた。手のひらに、じっとりとした汗をかいていた。
これは、危険だ。
捜査官である自分でさえ、この現象に呑まれかけている。ましてや、何の予備知識もなく、日常の中でこの情報の奔流に触れ続ける、一般の人々は――
その先を考えると、神谷は言いようのない恐怖を覚えた。
「係長」
真帆が、静かに声をかけた。
「もう一つ、報告があります」
「何だ」
「震源となった最初の投稿群――あれを分析すると、投稿のタイミングが、極めて精密です。ある情報が拡散のピークを迎えたタイミングを見計らって、次の『新しい証言』が投入されています」
「意図的に、拡散のタイミングを調整している、ということか」
「はい。しかも」
真帆は、少し声を落とした。
「これは、人間の手作業でやるには、あまりにも精密すぎるタイミングです」
神谷は、その言葉の意味を、しばらく噛みしめていた。
人間の悪意ではなく――もっと精密で、もっと非人間的な何かが、この現象の背後で、静かに計算を続けている。
その予感は、次の章で、決定的な形をとることになる。
その週末、思わぬ形で、事態は新たな局面を迎えた。
神奈川県内に住む、四十代の会社員男性が、何者かにネット上で「黒瀬恒一ではないか」と名指しされ、自宅に投石されるという事件が発生した。
被害者の男性は、たまたま黒瀬の顔写真と、顔立ちがどこか似ていたというだけの、まったくの無関係人物だった。何者かが、その男性のSNSアカウントを見つけ出し、「これが本物の黒瀬恒一だ」という投稿とともに、勤務先や自宅の住所を、ネット上に晒したのだ。
「係長、これはさすがに看過できません」
橋本が、憤りを隠せない様子で報告書を差し出した。
「男性は現在、会社を休職し、家族とともに、実家に避難している状態です。子供が二人いるんですが、上の子は、学校でいじめの対象になっているそうです」
神谷は、報告書を読みながら、拳を握りしめた。
「特定した人間は」
「複数のアカウントが関わっています。すべて匿名で、身元の特定は難航しています」
「サイバー犯罪対策課と連携して、徹底的に洗い出せ」
「はい。ただ、係長」
橋本は、言いにくそうに続けた。
「一つ、気になることがあります。この男性を『黒瀬恒一だ』と最初に名指しした投稿、その拡散パターンが……」
「震源地と、同じ構造か」
「はい。極めて精密なタイミングで、複数のアカウントから、ほぼ同時に、同じ内容の投稿がなされています」
神谷の背筋に、冷たいものが走った。
黒瀬恒一という虚像を作り出した何者かは、単に一人の人物を犯人に仕立てただけでは、飽き足らないのかもしれない。存在しない男の顔を、実在する誰かに重ね合わせ、次々と、新たな「犠牲者」を生み出し続けている。
まるで、実験の対象が、無限に広がっていくかのように。
神谷は、その男性のもとを、自ら訪ねることにした。
「刑事さん」
憔悴しきった様子の男性は、玄関先で、力なく言った。
「僕は、本当に、何もしていません。顔が似てるってだけで、なんで、こんな目に……」
「申し訳ありません」
神谷は、深く頭を下げた。頭を下げること以外、今の自分にできることは、ほとんどなかった。
「必ず、あなたの潔白を証明します。それだけは、お約束します」
男性は、疲れ切った目で、神谷を見つめていた。その目の中に、微かな、しかし確かな不信の色があるのを、神谷は見て取った。
――一度失われた信頼は、簡単には戻らない。
その現実の重さを、神谷はこの日、あらためて痛感することになった。




