第八章 オラクル
【証拠08】オルタナ・テクノロジーズ社内資料(押収) 文書名:「ORACLE 開発概要書 Ver.4.2」 分類:社外秘 記載内容:AIシステム「ORACLE」の機能仕様。個人の情報行動履歴から、その人物が「何を信じるか」を予測するアルゴリズムについての記述。
事件発生から三週間後、捜査本部はオルタナ・テクノロジーズ本社への強制捜査に踏み切った。
御堂恒一の死から時間が経つにつれ、会社側の態度は硬化していた。広報担当も、取締役陣も、判で押したように「捜査には全面協力する」と繰り返しながら、実際にはあらゆる資料の開示を渋っていた。
その姿勢を最初に崩したのは、三枝俊介だった。取締役、御堂の右腕とされる男。物腰は柔らかく、常に微笑みを絶やさない。だがその微笑みの下に、何を隠しているのか、神谷には最初から読めなかった。
「御堂は、私にもすべてを話していたわけではありません」
三枝は応接室で、静かにそう切り出した。
「ですが、彼が最後まで気にかけていたプロジェクトがあります。ご覧になりますか」
差し出されたのは、社内限定の開発資料だった。表紙には、こう書かれていた。
《ORACLE――人間の「信じる」を予測する》
神谷はページをめくった。専門用語の羅列に苛立ちを覚えながらも、要点を掴もうと目を走らせた。
「これは……何のシステムなんですか」
「簡単に言えば」
三枝は、指を組んだ。
「人が、何を信じるかを予測するAIです」
「予測? 犯罪者を特定するとか、そういう話じゃなく?」
「違います」
三枝は首を振った。
「これは犯人を特定するAIじゃありません。もっと言えば、『何が真実か』を判定するAIでもない。人間が――どの情報を、どういう順番で、どんな条件で見せられたら、それを『真実だ』と信じ込むか。その心理的なプロセスを、極めて高精度に予測するシステムです」
会議室に、冷たい沈黙が落ちた。
真帆が、身を乗り出した。
「つまり、事実かどうかとは、無関係だと」
「その通りです」
三枝は、微笑みを崩さないまま答えた。それが余計に、不気味だった。
「ORACLEは、ある情報が『真実であるかどうか』には、一切興味がありません。ただ、ある人物集団に、ある情報を、ある順序と方法で提示したとき、その集団の何パーセントが、それを事実として受け入れるか――その確率を、驚くほど正確に計算します」
橋本が、うわずった声で尋ねた。
「それって……つまり、世論を操作できるってことですか」
「操作、という言葉は正確ではないかもしれません」
三枝は静かに続けた。
「ORACLEは、何かを主張したり、拡散したりする機能は持っていません。それはあくまで『予測モデル』です。ですが――」
「予測できるということは」
神谷が、低く言葉を継いだ。
「使い方次第で、設計できるということだ」
三枝は、初めて微笑みを消した。
「御堂は、その危険性に、誰よりも早く気づいていました」
神谷は資料をめくる手を止めた。ページの片隅に、御堂恒一本人の手書きと思われるメモが残っていた。
《AIが「この人物は犯罪者だ」と判断するのではない。もっと危険だ。――AIは、人間に、そう「信じさせる」ことができる。》
その一文を読んだ瞬間、神谷は、自分の心臓の音を、はっきりと意識した。
これまでの謎が、一本の線でつながろうとしていた。存在しない戸籍。消えた証言者。生成AIで合成された写真。死者のSNS投稿。そして、爆発的に拡散し続ける「黒瀬恒一」というデジタルの怪物。
そのすべての根底に、このORACLEというシステムがある。
「係長」
真帆が、抑えた声で言った。
「もし、このORACLEを使って、実在しない人物の情報を、社会に『信じ込ませる』実験を行っていたとしたら――」
神谷は、資料を強く握りしめた。
「黒瀬恒一という男は、最初から、誰かが『存在すると信じさせるため』に、設計された存在だった、ということになる」
会議室に沈黙が満ちた。窓の外、東京の夜景が、いつもと変わらず輝き続けている。だがその光の一つ一つが、今の神谷には、まるで無数の監視の目のように見えていた。
この事件は、もはや殺人事件ではない。
一つの社会そのものが、実験台にされているのだ。
その夜、神谷は、大学時代の知人である、情報社会学の研究者・矢崎教授のもとを訪ねた。ORACLEの技術的な意味合いを、専門家の視点から理解する必要があると感じたからだ。
矢崎教授は、狭い研究室の中で、コーヒーを淹れながら、神谷の説明に耳を傾けた。
「ORACLE、ですか。似たような研究は、実は、以前から存在していました」
矢崎は、パソコンの画面に、いくつかの論文のタイトルを表示した。
「情報拡散の予測モデル自体は、目新しいものではありません。SNS上の情報の広がり方を、数理モデルで予測する研究は、十年以上前から行われています。ただ――」
矢崎は、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「ORACLEが本当に、神谷さんの説明通りのものだとすれば、それは、既存の研究の延長線上にありながら、一線を越えています」
「一線、とは」
「これまでの研究は、あくまで『観測』でした。ある情報が、どう広がるかを、事後的に分析する。あるいは、事前に予測する。でも、それは『予報』であって、『天気を作る』ことはできない」
矢崎は、身を乗り出した。
「もしORACLEが、単なる予測にとどまらず、『どんな情報を、どんな順序で、どんな形式で投下すれば、社会が最も効率的にそれを信じるか』まで設計できるとしたら――それは、天気予報の技術を使って、実際に、雨を降らせる技術に変わったということです」
「そんなことが、可能なんですか」
「理論上は、可能です。人間の認知バイアスには、極めて再現性の高いパターンがあります。確証バイアス、単純接触効果、社会的証明――こういった心理学的な性質を、精密に組み合わせれば、ある程度の確度で、集団の『信念』を、外部から誘導することができます」
矢崎は、コーヒーカップを両手で包み込むように持ちながら、静かに続けた。
「怖いのは、これが、SF的な未来の話ではなく、現在のAI技術の延長線上に、確かに存在している、ということです。ORACLEが特別なのではありません。似たような技術は、すでに、広告業界や、政治のキャンペーン戦略の中にも、部分的に取り入れられています。ただ、それをここまで純化させ、犯罪に応用した例は――私の知る限り、初めてです」
神谷は、重い沈黙の中、その言葉を噛みしめていた。
「もし、社会が、この技術に対して、無防備なままだったら」
「同じことが、繰り返されるでしょう」
矢崎は、静かに、しかし確信を込めて答えた。
「黒瀬恒一という一人の男に留まらず、もっと大規模な、社会全体を巻き込む形で。次は、一人の犯罪者を作るだけでは、済まないかもしれません」
その言葉は、神谷の胸の奥に、重く沈み込んでいった。
この事件は、終わったとしても、終わらない。桐生修一という一人の男を逮捕したところで、この技術そのものが消えるわけではない。
神谷は、研究室を出て、夜の街を歩きながら、初めて、事件の「解決」という言葉の意味を、根本から問い直さざるを得なくなっていた。




