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第6話  婚姻を白紙にしたと言い張る第一王子ですが、封蝋も証書箱も雑すぎました

いざ、クレマチス侯爵家へ――


なわけない。


相手は高位貴族。


しかもこちらは、プラチナ帝国内務省に勤めているとはいえ、グレープ王国所属の伯爵令嬢である。


前回の件で手がかりは見つかった。


クレマチス侯爵家に返却されたという図鑑。


おそらく、あの小ぶりの宝石を突き止める手掛かりになる。


けれど、だからといって、


『少し気になることがあるので見せてくださいませ』


で通るような相手ではない。


紹介か。


招待か。


あるいは、向こうから接触してくるだけの理由か。


そういう“機会”を待つしかなかった。


私はバーントシェンナ伯爵家の帝都タウンハウス、その自室で机に肘をつき、小さくため息をついた。


「焦っても仕方ない、か」


クレマチス侯爵家に近づく道がない以上、今は目の前の仕事を片づけるしかない。


そう思った矢先だった。


扉の向こうで、使用人がひどく困った声を上げた。


「で、ですが殿下、少々お待ちを――」


嫌な予感がした。


こういう時の予感は、まず外れない。


扉が開く。


そして、予想どおりの厄介者が現れた。


グレープ王国第一王子。


かつて王太子だった男だ。


「久しいな、ミント」


久しくなどなくていい。


やむなく、私は椅子から立ち上がり、形だけの礼をとった。


「第一王子殿下。突然のご来訪、どういったご用件でしょうか」


第一王子は勝手知ったる顔で部屋を見回し、そのまま当然のように応接用の長椅子へ腰を下ろした。


相変わらずだ。


グレープ王国の貴族は、原則として帝都に屋敷を持つことを許されていない。


その中で、バーントシェンナ伯爵家だけは古い縁によって、例外的にタウンハウスを持つことを認められている。


だからこそ、こういう迷惑な連中にまで目をつけられるのだ。


本来なら、王族がこんなふうに気軽に訪れていい場所ではない。


しかも第一王子には前科がある。


あまりに堂々と振る舞えば、魔法騎士団に目をつけられてもおかしくない。


けれど本人は、そういう自分の立場というものがまるで分かっていないふうだった。


「喜べ」


第一王子は、得意満面で顎を上げた。


「お前を、私の正式な妃にしてやる」


・・・・何を言い出すのかと思えば。


私は数秒ほど無言になった。


「お断りいたします」


「まだ最後まで聞いていないだろう!」


聞かなくても嫌です。


第一王子は腹立たしげに鼻を鳴らすと、懐から細長い箱と、数枚の書類を取り出した。


箱は艶のある濃紺。


縁には金が流され、蓋にはグレープ王家の紋章が刻まれている。


書類には赤い封蝋。


そして王家の印章。


・・・・あら。


私は、その瞬間に少しだけ興味を引かれた。


「前の夫との婚姻は、こちらで白紙にしてやった」


第一王子は勝ち誇ったように言う。


「記録も残らないようにしてやったぞ。感謝するがいい」


私はゆっくりと瞬きをした。


今、何と言った?


「婚姻を白紙に?」


「そうだ。お前のような女でも、私が拾ってやると言っているのだ。ありがたく思え」


私は書類へ視線を落とした。


封蝋の赤。


押された印章の深さ。


紙の質。


紐の結び方。


文書を収めていた箱の留め具。


見れば見るほど、おかしい。


第一王子はそんな私の様子を、感激して言葉もないのだと受け取ったらしい。


「ようやく分かったか。お前のような離縁された傷物女を妃にしてやろうと言うのだ。破格の温情だぞ」


・・・・よくそこまで自信満々でいられるものだわ。


「殿下」


私は静かに言った。


「こちらの書類、拝見しても?」


「ふん。いいだろう。どうせお前には価値が分からんだろうがな」


分かるのよ。


嫌になるほど。


私はまず、細長い箱を手に取った。


見た目は立派だ。


けれど、蓋の内側に使われている布地が新しすぎる。


角の磨耗と釣り合っていない。


それに、金具の彫りも浅い。


王家の正式な保管具なら、こんな甘い仕事はしない。


私は次に書類を見た。


封蝋は王家の紋章を模している。


だが、縁のつぶれ方が不自然だった。


本物の印章より、少しだけ線が太い。


いや、印章そのものが違うのではない。


押し方が雑なのだ。


それだけではない。


羊皮紙の質も気になる。


正式な婚姻無効文書に使うなら、もっと保存性の高いものが用いられるはずだ。


少なくとも、こんな薄い質感ではない。


私は指先で書類の端をなぞった。


「殿下。これは、どなたが作成なさったものですか?」


第一王子が鼻で笑う。


「知れたこと。王家の権限で作成させた」


「どなたの立ち会いで?」


「は?」


「婚姻の無効化には、王家だけでなく、記録局と宰相府の照合が必要なはずです」


「少なくとも、婚姻台帳に残る記録をグレープ王家だけで消すことはできません」


第一王子の眉がぴくりと動いた。


ああ、やっぱり。


「何を知ったような口を・・・・」


「知っていますわ」


私は文書をそっと机に置いた。


グレープ王国がプラチナ帝国傘下に入る際、婚姻や相続をはじめとする各種手続きは、王の一存ではなく法と記録に従う形へ改められた。


我がバーントシェンナ家は、その実務にも関わっている。


知らないはずがない。


「こちらの封蝋、王家の正式な婚姻関連文書に使われる押し方ではありません」


「印影が潰れていますし、紋の輪郭も甘い。慣れた書記官の仕事ではないでしょう」


「そ、それくらい、たまたまだ!」


「次にこの羊皮紙。正式な婚姻記録に準じる文書にしては質が低いです。保存文書ではなく、見せるためだけに作成された書類のように見えます」


第一王子の顔がだんだん険しくなる。


私はさらに、箱を軽く持ち上げた。


「証書箱もおかしいですね」


「何?」


「王家の紋章を使っていますけれど、金具の意匠が新しすぎます。箱そのものは古い形を真似ていますが、後からそれらしく仕立て直した品です」


「少なくとも、王家の正式な文書保管具とは思えません」


第一王子は、しばらく口を開けたまま固まっていた。


私は小さく息をついて、結論を言う。


「殿下。これ、正式な婚姻無効手続きではありませんね?」


部屋の空気が止まった。


第一王子は一瞬だけ目を逸らした。


その反応だけで、もう十分だった。


「記録を握りつぶしたつもりか、あるいは王家の名を使って勝手に文書を作らせたか・・・・どちらにせよ、雑です」


「貴様!」


「そもそも、前の婚姻が“白紙”になったというのなら、なぜ記録局の副本がないのです?」


私は書類の枚数を数えた。


「婚姻の無効化は、当事者に渡す文書だけでは済みません。保存台帳、照合控え、封印記録――最低でも複数残ります」


「そのように、法律に定められているのですから」


「なのに、こちらにはそれを示すものがひとつもない」


第一王子のこめかみに血管が浮いた。


「あの無能ども!」


あ、口が滑った。


私は心の中で、静かに拍手を送った。


ずいぶん助かる自白ね、それ。


「つまり殿下は、正式な手続きを経たわけではなく、勝手に文書を作らせたのですね」


「違う!私は王子だぞ!それくらいのこと、やろうと思えば――」


「できませんわ」


きっぱり言うと、第一王子は言葉を詰まらせた。


「できたとしても、それは正式な無効化ではありません。権限の濫用か、文書偽装です」


どちらにしても、まともな話ではない。


「偽装だと!?」


「少なくとも、これを本物だと言って私を納得させられるほどの出来ではない、ということです」


私は箱の蓋を閉じた。


ことり、と静かな音がした。


「工芸品として見ても雑ですし、文書として見ても穴だらけです」


「恩を売るつもりで持ってこられたのでしょうけれど、むしろ自分で証拠を運んできただけですわね」


第一王子の顔がみるみる赤くなる。


「き、貴様ぁ!!」


「それに」


私は首を傾げた。


「たとえ婚姻が正式に解かれていたとしても、あなたの妃になる理由にはなりませんけれど」


第一王子は机を叩かんばかりの勢いで立ち上がった。


「女の分際で、私を愚弄するか!」


「しておりません。事実を申し上げただけです」


「この恩知らずが! 誰のおかげで前の婚姻が消えたと思っている!」


「消えておりません」


私はにっこり笑った。


「少なくとも、この雑な封蝋と浅い印章では」


・・・・言ってから、少しだけ気分が良くなった。


第一王子は怒りで震えながら、書類と箱を乱暴につかみ取った。


「覚えていろ!お前のような女、私の一言でどうにでも――」


「できるなら、もうなさっているでしょう?」


思わず、口が先に出た。


第一王子が凍りつく。


「いまのあなたは、王太子ではありません。ただの第一王子です。しかも、国を傾けた張本人」


沈黙。


それから第一王子は、憎々しげに私を睨みつけた。


「・・・・後悔させてやる」


捨て台詞を吐いて、部屋を出ていく。


扉が荒々しく閉まる音が響いたあと、私はようやく息を吐いた。


「疲れた」


応接間の外で控えていた家人たちも、そろって青い顔をしている。


まあ、そうでしょうね。


私だって疲れたもの。


けれど、改めて分かったことがある。


第一王子が、王家の文書や印章を軽く扱っていること。


そして、あの男の頭の中では、権力を振りかざせば何でもできることになっているらしいこと。


本当に救いがたい。


まあ、そんな思考の持ち主だからこそ、あんな大それた恐ろしい所業にも及べたのだろうけど。


私は机に残った封蝋の欠片をもう一度見た。


押しが甘い。


縁の処理も雑。


たぶん、正式な書記官ではない。


第一王子に尻を叩かれた誰かが、慌ててそれらしく整えたのだろう。


王家の権威とは、本来こういうふうに振り回すものではない。


それを、あの男はまるで分かっていない。



数日後。


今度は、第一王子とは別の客がやってきた。


同じくグレープ王国の王子。


側室腹の第二王子である。


こちらは第一王子と違って、訪問の打診も、礼状も、すべてきちんとしていた。


・・・・そこが逆に怖いのだけれど。


応接間で向かい合った第二王子は、穏やかそうな微笑みを浮かべていた。


「突然の訪問、失礼いたします。先日は、兄がご迷惑をおかけしたようで」


「いえ」


大ありだけど。


第二王子は、こちらの内心など承知のうえで、柔らかく続けた。


「兄は昔から、少々思い込みが激しいところがありまして」


少々、で済むのかしら。


けれど、この人は第一王子と違って、少なくとも外向きの顔は整っている。


そしてたぶん、頭も回る。


その証拠に、彼が差し出したのは、妙な権威づけの婚姻書類ではなかった。


古い革表紙の記録帳と、一つの包み。


「これは?」


「王家の古い印章と婚姻に関する記録の写しです。兄がお見せしたような雑なものではありません」


雑って言ったわ、この人。


「そしてこちらは、錬金術に使う希少な素材です」


「母方のつてで手に入れたものですが、当代のクレマチス侯爵が関心を示していた素材のひとつだそうです」


「クレマチス侯爵は、変わった家です。百年ほど前から代々、錬金術に興味を持っている」


「当代の侯爵は、自らエリクサーの素材を求めて、龍族の集落まで出向いたそうですね」


「あの方が錬金術狂いの変人だという話は、冒険者ギルドでも有名です」


私は思わず相手の顔を見た。


この人、調べるべきことをきっちり調べてくるタイプね。


第二王子は、にこりと笑う。


「あなたは今、クレマチス侯爵家に御用がおありなのでは?」


ぞくり、とした。


やっぱり、この人も別方向に危険だわ。


第一王子とは比べものにならないほど厄介だ。


自分の狙った獲物は、きっと逃がさない。


私は記録帳へ目を落とした。


古い印章の押し方。


婚姻に使われた証書箱の意匠。


王家の工芸品としての格。


これは本物だ。


少なくとも、兄王子が持ってきた雑な箱とは比べものにならない。


そして、この包み。


希少な素材を持っていけば、クレマチス侯爵は会ってくださるかもしれない。


ここまで整えてくるとは・・・・。


「ずいぶん詳しく私のことをご存知なんですね。恐ろしい方ですわ」


私がそう言うと、第二王子は穏やかに首を傾げた。


「恐ろしい?何か勘違いをしておられる。私はただ、王家の失礼を謝罪したかっただけです」


しょぼんとした顔をする。


そんなわけないでしょうに。


「それに、前から、あなたとお話をしてみたかったのです」


そんな熱のこもった視線を向けないでよ。


こちらは、そういうのに耐性がないんだから。


くそう。


第一王子といい、この第二王子といい、外側は悔しいぐらい整っている。


第一王子の自信の根拠も、たぶんあの顔なのだろう。


けれど目の前の第二王子は、兄のように顔と立場だけで押し切ろうとはしない。


こちらに必要なものを正確に読んで、手土産にして持ってくる。


私にそんなことを言いながらも、こちらを味方につけようという思惑があるのだろう。


希少な素材という手土産。


これを私が使えば、借りを作ることになる。


いずれは第一王子を切り捨てる。


そして、自分に有利な形で王家を継ぐ。


そのために、私が使えるかどうか見に来たのだ。


第一王子ほど露骨ではない。


でも、だからこそ厄介だ。


私は包みを見つめながら、心の中で小さく息をついた。


クレマチス侯爵家へ近づく“手土産”は、思わぬ形で転がり込んできた。


けれど、その差し出し手がグレープ王国第二王子だなんて――


まったく、面倒な話だわ。



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