第89話 ある日の領内
「兄上、それはジーモンさんの方です」
「え?」
僕が手にしていた紙を見直すと、確かに上の方に小さく「畑境」と書いてあった。
向かいではノエルが別の帳面を開いたまま、こっちへ手を伸ばしている。その横ではザイデルさんが三枚の紙を重ね直し、ジーモンさんは椅子に座る前から、自分のところに回ってくるらしい紙を待っていた。
「家の話じゃなかった?」
「家の裏の畑です。家そのものはザイデルさんの方で、昔どこまで誰が使ってたかはジーモンさん。両方見ないと決められないやつです」
「じゃあ、二人で一回見てもらった方がいいかな」
「そのつもりです」
ザイデルさんが僕の手元から紙を取り、ジーモンさんにも見えるように机に置いた。
「今住んでいる家族の人数はこちらで確認します。以前の利用者については、昨日持ち帰った聞き取りに名前が一つ出ていますが、戻ってくる予定があるかまでは分かっていません」
「そこは今日、若い二人に聞いてきてもらいます。境の杭も残っているか確認させましょう。無ければ、勝手に引き直さない方がいいですね」
「それなら、今住んでる人には、畑を広げるのは少し待ってもらう感じ?」
「それで大丈夫だと思います」
ジーモンさんが紙の端に印をつけたところで、扉のそばに立っていたトマが板切れを持ち上げた。
「領主様、こっちもいいですか。南の道なんですが、枝が張り出して荷車の幌に当たるって話が出てます。道を広げるほどじゃないんで、枝だけ落としたいんですが」
「畑には入らない?」
「入りません。道の上に出てる分だけです」
「じゃあ、それでお願い。木そのものを切る話なら、持ち主を確認してからにしてね」
「分かりました。枝だけで済ませます」
トマは板切れを脇へ抱え、そのまま扉の方へ下がった。入れ替わるように、外で待っていた若い男がザイデルさんへ何か耳打ちしている。
朝からずっとこんな調子だった。誰かが来て、何かを置いて、別の誰かが持っていく。昔は、こういう話が出るたびにノエルを見ることが多かった気がする。今も分からないことがあれば見るけれど、全部を見てもらうわけではなくなった。
誰に聞けばいいのかくらいは、少し分かるようになった。
「兄上」
「今度は何?」
「その顔で安心しないでください。まだこれがあります」
ノエルが帳面の下から、もう一枚紙を出した。
「北の小村で、戻ってきた親戚を同じ家に入れたいって話です。人数だけなら入れますけど、今使ってる倉をどうするか決めないと寝る場所が足りません」
「倉って、今は何が入ってるの?」
「種と道具です」
「それ動かしたら、置くところある?」
「あります。ただ、屋根を直してからですね」
「じゃあ、先にそっち直そうよ。人を入れてから道具を外に出すのは嫌だし」
ノエルが少しだけ頷いて、帳面の脇に書き込む。
「では、修繕用の板材は南へ回す分からは取りません。別口で残ってる方を使います」
「足りる?」
「今の予定なら。ただ、また屋根が抜けたって話が来たら知りません」
「それは来てから考えよう」
「最近、それ言えるようになりましたね」
「前は言ってなかった?」
「前は、来る前から全部心配してました」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
僕が返事を考えているうちに、ザイデルさんとジーモンさんはもう次の紙を広げていた。
まだ午前も半分くらいしか過ぎていない。
今日は長そうだった。
*
昼前にようやく領主館を出ると、カインがいつものように僕の少し後ろへついた。
別に逃げ出したわけではない。トマから頼まれていた倉の置き方を一度見ておきたかったし、座り続けていると、紙の字が全部同じに見えてくる。
通りへ出て少し歩いたところで、聞き覚えのある大きな声がした。
「だから、俺に言えばいいだろうが!」
「だから俺は、そうしろと言っている」
「だったら最初から俺んとこへ寄越せよ!」
「寄越しているだろう」
曲がり角の向こうに、ブルーノとハイデルさんがいた。
その間に旧灰衣の元兵らしい男が一人立っていて、困った顔で二人を見比べている。少し離れたところではベルントが紙を片手に、もう話が終わるのを待っているようだった。
「何してるの?」
僕が近づくと、男の方が先に頭を下げた。
「領主様。いや、ちょっと巡回のことで聞きたいことがあって……」
「それをこいつが、またハイデルに持ってきたんですよ」
ブルーノが男を指す。
「だって、前はハイデルさんに聞いたら――」
「前も俺はブルーノへ聞けと言った」
「そうでしたっけ?」
「言った」
ハイデルさんが即答すると、男は少し考えてから、今度はブルーノへ向き直った。
「じゃあ、ブルーノ隊長。明日の朝、畑の方へ回るなら俺も一緒でいいですか。北側の道、俺の方が分かります」
「最初からそう聞け。ベルント、明日の組どうなってる?」
「一人替えられます。畑へ行くなら、その方が早いでしょう」
「じゃあ、お前入れ。朝の鐘が鳴る前に来いよ。遅れたら置いてくからな」
「分かりました。じゃあ明日の朝、詰所へ行きます」
男は返事をすると、僕たちにもう一度頭を下げて走っていった。姿が見えなくなるまで見送ってから、ブルーノがハイデルさんを見る。
「お前が来てから、あいつら妙に俺のこと隊長って呼ぶようになったんだけど」
「元から隊長なんだろう」
「そうだよ」
「なら、何もおかしくない」
「そうなんだけど、何か腹立つんだよな」
「隊長と呼ばれて腹を立てる隊長は、あまり見たことがない」
ベルントが紙に何か書きながら言う。
「私も初めて見ました」
「お前までそっちにつくなよ」
「どっちにもついてません。明日の組を直してるだけです」
ハイデルさんがベルントの紙を覗き込んだ。
「そいつを入れるなら、昨日夜番だった奴を外せ。朝から畑まで歩かせる必要はない」
「もう外しました」
「ならいい」
ブルーノが二人を見比べて、今度は僕に顔を向けた。
「領主様、こいつら最近、俺抜きで話進めるんですよ」
「でも、最後に決めてるのはブルーノなんでしょう?」
「まあ、そうですけど」
「じゃあいいんじゃない?」
「領主様まで同じこと言うなあ……」
ハイデルさんは何も言わなかったけれど、少しだけブルーノの方を見た。
「そういや、お前。この前言ってた夜番のやつ、ちゃんと休ませたぞ」
「俺に報告してどうする」
「お前が休ませろって言ったんだろうが」
「俺はそうした方がいいと言った。決めたのはお前だ」
「その言い方がいちいち腹立つんだよ」
「聞かれたから答えているだけだ」
「誰も今は聞いてねえよ」
「今、自分から報告しただろう」
ベルントが紙を折り畳む横で、僕は笑ってしまった。
一週間前、二人が初めてまともに話していた時より、ずいぶん遠慮がなくなっている。喧嘩しているようにも聞こえるけれど、ブルーノはハイデルさんの言ったことをちゃんと試しているし、ハイデルさんも隊長の仕事を奪う気はないらしい。
そこへ、向こうから荷車を押してきた男がハイデルさんに気づいた。
「ハイデルさん! あとで時間ありますか。ちょっと聞きたいことが――」
「治安維持隊の話なら、まず隊長に聞け」
「あ、分かりました。ブルーノ隊長、あとで詰所行っていいですか?」
「おう。昼過ぎならいる」
「じゃあ、その頃に行きます」
男は嬉しそうに返事をして、そのまま荷車を押していった。ブルーノはしばらくその背中を見ていた。
「……ほんとに素直だな、あいつら」
「悪いことか?」
「悪くねえけどよ。俺が半年前から言ってたことまで、お前が来たら急に聞くのが腹立つんだよ」
「なら、半年かけて聞かせられなかったお前の問題だろう」
「やっぱり一回殴っていいか?」
「隊長、午後の巡回があるので駄目です」
「ベルント、お前は止める理由がそこなのかよ」
カインが僕の後ろで小さく息を漏らした。たぶん笑ったんだと思う。僕も、そのまま笑っておくことにした。
*
倉を見た後、村の外れまで行くと、今度は木の棒がぶつかる乾いた音が何度も聞こえてきた。
開けた場所で領兵隊が訓練をしている。前の列が下がると、後ろにいた列が入れ替わるように前へ出る。その横ではエルヴィンさんが遅れた二人を止め、元の位置へ戻していた。
「そこで詰めるな。前が下がれなくなる。半歩空けろ」
少し離れたところからガレスが全体を見ていて、マルクが正面側の列を動かし、セオはさらに外側で何人かを連れて走らせている。
僕が見ても、前よりずっと忙しそうだった。ただ並んで槍を構えるだけじゃない。一度前へ出た人たちが戻り、別の人たちが出て、崩れたところを直してからまたやり直す。
「前より、ちゃんとしてるね」
声をかけると、ガレスがこちらへ歩いてきた。
「領主様から見ても分かるなら、多少は形になってきたんでしょうね」
「それ、僕が見る目ないみたいじゃない?」
「軍の訓練を細かく見られても困ります。こっちはこっちで仕事してるんで」
「それもそうか」
ガレスの後ろでは、マルクが一列を止めて向きを直していた。エルヴィンが別の列との間を広げ、セオの組は外側から戻ってくる。
「みんな慣れた?」
「慣れた奴は増えました。元兵もいますし。ただ、昔どう戦ってたかは人によって違います。そこを揃えるのに時間がかかる」
「ハイデルさんに見てもらったりはしないの?」
「頼めば見るでしょうけど、今のところ必要ありませんよ」
ガレスは訓練場へ目を戻した。
「ハイデル殿は治安維持隊の顧問でしょう。こっちで困ったら話は聞きますが、最初から何でも任せるつもりはありません」
「うん。その方がいいよね」
「本人もそう言うと思いますよ」
ちょうどその時、前の列で一人が足をもつれさせた。倒れはしなかったけれど、その後ろにいた二人まで詰まり、エルヴィンの声が飛ぶ。
「止まれ。そこだけやり直す。急ぐ必要はないから、前を見ろ」
ガレスはそちらへ戻りながら、
「領主様も、見てる分にはいいですが、前へ出ないでくださいよ。棒でも当たれば痛いですから」
と言った。
「それくらい分かってるよ」
「前に出る人は大体そう言います」
「僕、そんなに信用ない?」
返事はなかった。ガレスはもう訓練の方を向いていた。隣でカインが何も言わないので、たぶん同じことを考えている。
*
午後に領主館へ戻ると、朝の紙の山が少し減っていた。ザイデルさんとジーモンさんが並んで座り、戻ってきた若い二人から話を聞いている。
「杭は一本だけ残っていました。もう一本は見つかりません」
「周りの家から聞いた話は?」
「昔は溝のところまでだったと言う人と、もっと先まで使っていたと言う人がいます」
ジーモンさんはその場で決めず、紙の端に聞き取りの違いを書き足した。
「では、広げるのは待ってもらいましょう。今使っている範囲はそのまま。戻る予定の人がいるかも、もう少し確認してください」
「分かりました。明日は隣の村まで行って聞いてきます」
別の机では、朝ノエルと話していた倉の件も進んでいた。
「屋根の板、足りた?」
「足ります。トマさんが別のところから二枚回してくれました。明日には塞げます」
「じゃあ、人を移すのはその後でいいね」
「兄上が決める前に入れたりしませんよ」
「最近はそれも分かってるよ」
「なら大丈夫です」
ノエルはそう言いながら、次の帳面へ手を伸ばした。朝に出ていた話のいくつかは、僕が戻ってくるまでにもう片づいていた。全部が僕のところへ戻ってくるわけじゃない。どこまで畑を使っていいか分からない話みたいに、まだ待った方がいいものもある。倉のように、順番だけ決めれば進むものもある。
それぞれが、自分の分かるところを進めている。
ガレスたちは兵を鍛えていた。ブルーノたちは巡回を回していた。ハイデルさんまで、来て一週間なのにもう普通に働いている。
僕は何をしてるんだろう、とまでは思わなかった。朝から僕も結構働いている。ただ、もう少し分かることが増えた方がいいな、とは思った。
「ノエル、何か勉強するものない?」
「急にどうしたんですか」
「みんなちゃんと自分の仕事してるでしょう。僕も領主として、もう少し分かること増やした方がいいかなって」
「兄上、熱でもあります?」
「ないよ」
「じゃあ、どうしようかな……」
本気で考え始めたので、僕は少し嫌な予感がした。
「難しすぎるのはやめてね」
「今から弱気にならないでください」
「読めるのと分かるのは違うから」
「それは知ってます」
しばらくしてノエルが持ってきたのは、新しい帳面ではなかった。紙の端が擦れて、何度も開かれた跡のある古い帳面が二冊。
「これ、何?」
「前に使われてたやつです。一つは村ごとの負担や納め物。もう一つは、領主側で売ったものと買ったものの記録。全部揃ってるわけじゃないですけど、昔どうしてたかを見るなら分かりやすいと思います」
「へえ」
思っていたより面白そうだった。
*
夕方になっても、僕はその二冊を机の上に広げていた。
カインは窓際にいて、ノエルは向かいで今日の数字を別の帳面へ移している。ザイデルさんとジーモンさんもまだ残っていたので、分からないところが出るとその都度聞いた。
「これ、麦で納めてるってこと?」
「そうですね。その村は、その年はそうなっています」
ザイデルさんが僕の指した行を見る。
「こっちは?」
「こちらは別の負担です。全部を同じ形で納めていたわけではありません」
「じゃあ、この村はお金で、この村は物?」
「そう単純でもないですね。年によって違うところもありますし、記録が抜けているところもあります」
「なるほど……」
分かったような、分からないような感じだった。
もう一冊には、買ったものと売ったものが並んでいる。穀物や家畜、道具、布、鉄具。何をいくらで、というところまで読める箇所もあれば、品物だけ書かれているところもある。
「鉄って結構するんだね」
「鉄具は、壊れたからその辺で拾ってくる、というわけにはいきませんからね」
ノエルは自分の帳面から顔を上げずに答えた。
「荷車の金具とかも?」
「当然です。トマさんが車輪を大事にしろってうるさいのは、その辺もあります」
「そうだったんだ」
「兄上、まさか無料で直ってると思ってませんでしたよね」
「そこまでは思ってないよ」
笑われる前に答えておいた。
最初のうちは、昔の帳面を読むのは本当に面白かった。
この村では何を作っていたのか。どこから何を買っていたのか。何を納め、何を売っていたのか。分からない言葉があっても、聞けば誰かが教えてくれる。
そうして何頁か進んだところで、僕は一つ前の頁へ戻った。もう一度読んでも、書いてあることは変わらない。
「ねえ、これ」
「今度は何ですか?」
ノエルが顔を上げる。
「昔はこうしてたっていうのは分かるんだけど、今もこれでいいの?」
ノエルはすぐには答えず、僕の開いている頁を覗いた。
「良くないでしょうね」
「やっぱり?」
「人が違いますから」
ジーモンさんも椅子を少し寄せた。
「土地も同じではありません。昔使われていた畑が全部戻っているわけではないですし、昔とは違う家が使っているところもあります。水の順番も、まだ仮のままの場所があります」
「じゃあ、この帳面にある通りに、昔これだけ取ってたから同じだけ、っていうのはできない?」
「私はやらない方がいいと思います」
「僕も嫌だな」
今の暮らしが昔と同じじゃないのは、僕でも分かる。
帰ってきた人もいる。帰ってこなかった人もいる。後からここへ住むようになった人もいる。畑を戻している途中のところもあれば、家を直している途中のところもある。
そもそも今は、復旧の支援を受けている間は税を取らないことになっている。
「今すぐ決める話じゃないんですよね」
「そうです」
ノエルが答える。
「支援の期間中ですから、明日から税を取るわけじゃありません」
「じゃあ、まだ考えなくてもいい?」
「それは違うと思います」
「だよね」
言ってみただけだった。
ノエルは机の上の古い帳面を引き寄せた。
「僕なら、今ある食料がどれくらいで、どこへどれだけ回せるかは見られます。今月どれだけ使ったとか、倉にどれだけ残ってるとかも。でも、支援が終わった後に、どの村からどういう形でどれだけ取るのがいいかってなると、同じ話じゃないです」
「ザイデルさんは?」
「今いる人数や家族、どこに住んでいるかは整理できます。ただ、その人たちがどの程度なら無理なく負担できるかとなると、私は簡単には言えません」
「ジーモンさんは?」
「昔どういう負担があったか、どの土地に何が付いていたかは調べます。ただ、昔そうだったから今もそうする、とは言えませんね」
三人とも、分からないと言っているわけではない。むしろ、それぞれ分かるところはちゃんと分かっている。だから余計に、その間にあるものが見えた。
「……じゃあ、こういうのを考える人って、うちにいない?」
ノエルが少し考えてから、帳面を閉じた。
「今のところ、専門に見られる人はいないですね」
「お金の計算はノエルがしてるよね」
「今ある金を数えたり、何に使ったか記録したりはできます。兄上が勝手に使いすぎないようにもできます」
「最後いらなくない?」
「必要です」
ザイデルさんが少し笑って、手元の紙をまとめ始めた。
「領地全体でどう収入を作るか、税をどの形にするか、商いをどう増やすか、というところでしょうか」
「そう、それ」
言われると、急に分からないことが増えた。
もう一冊の売買帳を開き直す。
「これも、昔ここで売ってたからって、今も売れるとは限らないよね?」
「作っている量も違いますしね」
ノエルが答える。
「じゃあ、今は何なら売れるの?」
今度は誰もすぐに答えなかった。ジーモンさんが、古い帳面の一行を指でなぞる。
「昔何が作られていたかなら、調べられます」
「今、何を余らせられるかは別ですね」
ザイデルさんが続ける。
「人が増えた分、自分たちで使う量も変わっていますから」
「外で何が欲しがられてるかは?」
ノエルが僕を見る。
「それは、僕たちより商人に聞いた方が早いと思います」
「商人かあ」
そう言われて、僕は帳面の端に指を置いたまま考えた。
何を作れるか。何を自分たちで使うか。何を外へ売れるか。足りない物をどこから買うか。それが分からないまま、税だけ決めてもたぶん駄目なんだろう。
「困ったね」
「今すぐ困る話ではありませんよ」
ノエルが言った。
「だから、今のうちに考え始めればいいんです」
「じゃあ、勉強するしかないか」
「そうですね。兄上が自分で言い出したんですから」
「そうだった」
少し後悔した。
*
外が暗くなってから、ザイデルさんとジーモンさんは先に帰った。ノエルも一度別の部屋へ帳面を取りに行き、机には僕と古い帳面が残った。
カインはまだ近くにいる。
さっきから同じ頁を読んでいる気がして、僕は指で行を追い直した。
「カイン」
「どうしました、アズール様」
「これ、同じところを何回読んでも分からないんだけど」
「私に聞かれても、アズール様より分からないと思います」
「だよね」
「ただ、先ほどから同じ頁を見ていることだけは分かります」
「やっぱり?」
「かなり長いです」
帳面を閉じようか迷っていると、ノエルが戻ってきた。
「兄上、まだ読んでたんですか」
「みんな自分の仕事ちゃんと分かってるでしょう。僕ももう少し領主として分からないと駄目かなと思って」
「一晩で分かるようになるなら、僕も最初から苦労してませんよ」
「それもそうなんだけどさ」
ノエルは新しい帳面を机の端に置き、僕が閉じかけた古い方を見た。
「今日はもういいんじゃないですか。明日また読めば」
「じゃあ、明日は売った方から読もうかな」
「その前に、朝の配給の確認があります」
「……それ終わってから?」
「それならいいです」
僕は古い帳面を二冊重ねて、机の端に寄せた。明日の仕事が一つ増えた気がする。でも、誰かに言われて増えたわけじゃない。
それなら、まあ仕方ないかと思った。




