↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
89/91

第89話 ある日の領内


「兄上、それはジーモンさんの方です」


「え?」


 僕が手にしていた紙を見直すと、確かに上の方に小さく「畑境」と書いてあった。


 向かいではノエルが別の帳面を開いたまま、こっちへ手を伸ばしている。その横ではザイデルさんが三枚の紙を重ね直し、ジーモンさんは椅子に座る前から、自分のところに回ってくるらしい紙を待っていた。


「家の話じゃなかった?」


「家の裏の畑です。家そのものはザイデルさんの方で、昔どこまで誰が使ってたかはジーモンさん。両方見ないと決められないやつです」


「じゃあ、二人で一回見てもらった方がいいかな」


「そのつもりです」


 ザイデルさんが僕の手元から紙を取り、ジーモンさんにも見えるように机に置いた。


「今住んでいる家族の人数はこちらで確認します。以前の利用者については、昨日持ち帰った聞き取りに名前が一つ出ていますが、戻ってくる予定があるかまでは分かっていません」


「そこは今日、若い二人に聞いてきてもらいます。境の杭も残っているか確認させましょう。無ければ、勝手に引き直さない方がいいですね」


「それなら、今住んでる人には、畑を広げるのは少し待ってもらう感じ?」


「それで大丈夫だと思います」


 ジーモンさんが紙の端に印をつけたところで、扉のそばに立っていたトマが板切れを持ち上げた。


「領主様、こっちもいいですか。南の道なんですが、枝が張り出して荷車の幌に当たるって話が出てます。道を広げるほどじゃないんで、枝だけ落としたいんですが」


「畑には入らない?」


「入りません。道の上に出てる分だけです」


「じゃあ、それでお願い。木そのものを切る話なら、持ち主を確認してからにしてね」


「分かりました。枝だけで済ませます」


 トマは板切れを脇へ抱え、そのまま扉の方へ下がった。入れ替わるように、外で待っていた若い男がザイデルさんへ何か耳打ちしている。


 朝からずっとこんな調子だった。誰かが来て、何かを置いて、別の誰かが持っていく。昔は、こういう話が出るたびにノエルを見ることが多かった気がする。今も分からないことがあれば見るけれど、全部を見てもらうわけではなくなった。


 誰に聞けばいいのかくらいは、少し分かるようになった。


「兄上」


「今度は何?」


「その顔で安心しないでください。まだこれがあります」


 ノエルが帳面の下から、もう一枚紙を出した。


「北の小村で、戻ってきた親戚を同じ家に入れたいって話です。人数だけなら入れますけど、今使ってる倉をどうするか決めないと寝る場所が足りません」


「倉って、今は何が入ってるの?」


「種と道具です」


「それ動かしたら、置くところある?」


「あります。ただ、屋根を直してからですね」


「じゃあ、先にそっち直そうよ。人を入れてから道具を外に出すのは嫌だし」


 ノエルが少しだけ頷いて、帳面の脇に書き込む。


「では、修繕用の板材は南へ回す分からは取りません。別口で残ってる方を使います」


「足りる?」


「今の予定なら。ただ、また屋根が抜けたって話が来たら知りません」


「それは来てから考えよう」


「最近、それ言えるようになりましたね」


「前は言ってなかった?」


「前は、来る前から全部心配してました」


 言われてみれば、そうだったかもしれない。


 僕が返事を考えているうちに、ザイデルさんとジーモンさんはもう次の紙を広げていた。


 まだ午前も半分くらいしか過ぎていない。


 今日は長そうだった。


*


 昼前にようやく領主館を出ると、カインがいつものように僕の少し後ろへついた。


 別に逃げ出したわけではない。トマから頼まれていた倉の置き方を一度見ておきたかったし、座り続けていると、紙の字が全部同じに見えてくる。


 通りへ出て少し歩いたところで、聞き覚えのある大きな声がした。


「だから、俺に言えばいいだろうが!」


「だから俺は、そうしろと言っている」


「だったら最初から俺んとこへ寄越せよ!」


「寄越しているだろう」


 曲がり角の向こうに、ブルーノとハイデルさんがいた。


 その間に旧灰衣の元兵らしい男が一人立っていて、困った顔で二人を見比べている。少し離れたところではベルントが紙を片手に、もう話が終わるのを待っているようだった。


「何してるの?」


 僕が近づくと、男の方が先に頭を下げた。


「領主様。いや、ちょっと巡回のことで聞きたいことがあって……」


「それをこいつが、またハイデルに持ってきたんですよ」


 ブルーノが男を指す。


「だって、前はハイデルさんに聞いたら――」


「前も俺はブルーノへ聞けと言った」


「そうでしたっけ?」


「言った」


 ハイデルさんが即答すると、男は少し考えてから、今度はブルーノへ向き直った。


「じゃあ、ブルーノ隊長。明日の朝、畑の方へ回るなら俺も一緒でいいですか。北側の道、俺の方が分かります」


「最初からそう聞け。ベルント、明日の組どうなってる?」


「一人替えられます。畑へ行くなら、その方が早いでしょう」


「じゃあ、お前入れ。朝の鐘が鳴る前に来いよ。遅れたら置いてくからな」


「分かりました。じゃあ明日の朝、詰所へ行きます」


 男は返事をすると、僕たちにもう一度頭を下げて走っていった。姿が見えなくなるまで見送ってから、ブルーノがハイデルさんを見る。


「お前が来てから、あいつら妙に俺のこと隊長って呼ぶようになったんだけど」


「元から隊長なんだろう」


「そうだよ」


「なら、何もおかしくない」


「そうなんだけど、何か腹立つんだよな」


「隊長と呼ばれて腹を立てる隊長は、あまり見たことがない」


 ベルントが紙に何か書きながら言う。


「私も初めて見ました」


「お前までそっちにつくなよ」


「どっちにもついてません。明日の組を直してるだけです」


 ハイデルさんがベルントの紙を覗き込んだ。


「そいつを入れるなら、昨日夜番だった奴を外せ。朝から畑まで歩かせる必要はない」


「もう外しました」


「ならいい」


 ブルーノが二人を見比べて、今度は僕に顔を向けた。


「領主様、こいつら最近、俺抜きで話進めるんですよ」


「でも、最後に決めてるのはブルーノなんでしょう?」


「まあ、そうですけど」


「じゃあいいんじゃない?」


「領主様まで同じこと言うなあ……」


 ハイデルさんは何も言わなかったけれど、少しだけブルーノの方を見た。


「そういや、お前。この前言ってた夜番のやつ、ちゃんと休ませたぞ」


「俺に報告してどうする」


「お前が休ませろって言ったんだろうが」


「俺はそうした方がいいと言った。決めたのはお前だ」


「その言い方がいちいち腹立つんだよ」


「聞かれたから答えているだけだ」


「誰も今は聞いてねえよ」


「今、自分から報告しただろう」


 ベルントが紙を折り畳む横で、僕は笑ってしまった。


 一週間前、二人が初めてまともに話していた時より、ずいぶん遠慮がなくなっている。喧嘩しているようにも聞こえるけれど、ブルーノはハイデルさんの言ったことをちゃんと試しているし、ハイデルさんも隊長の仕事を奪う気はないらしい。


 そこへ、向こうから荷車を押してきた男がハイデルさんに気づいた。


「ハイデルさん! あとで時間ありますか。ちょっと聞きたいことが――」


「治安維持隊の話なら、まず隊長に聞け」


「あ、分かりました。ブルーノ隊長、あとで詰所行っていいですか?」


「おう。昼過ぎならいる」


「じゃあ、その頃に行きます」


 男は嬉しそうに返事をして、そのまま荷車を押していった。ブルーノはしばらくその背中を見ていた。


「……ほんとに素直だな、あいつら」


「悪いことか?」


「悪くねえけどよ。俺が半年前から言ってたことまで、お前が来たら急に聞くのが腹立つんだよ」


「なら、半年かけて聞かせられなかったお前の問題だろう」


「やっぱり一回殴っていいか?」


「隊長、午後の巡回があるので駄目です」


「ベルント、お前は止める理由がそこなのかよ」


 カインが僕の後ろで小さく息を漏らした。たぶん笑ったんだと思う。僕も、そのまま笑っておくことにした。


*


 倉を見た後、村の外れまで行くと、今度は木の棒がぶつかる乾いた音が何度も聞こえてきた。


 開けた場所で領兵隊が訓練をしている。前の列が下がると、後ろにいた列が入れ替わるように前へ出る。その横ではエルヴィンさんが遅れた二人を止め、元の位置へ戻していた。


「そこで詰めるな。前が下がれなくなる。半歩空けろ」


 少し離れたところからガレスが全体を見ていて、マルクが正面側の列を動かし、セオはさらに外側で何人かを連れて走らせている。


 僕が見ても、前よりずっと忙しそうだった。ただ並んで槍を構えるだけじゃない。一度前へ出た人たちが戻り、別の人たちが出て、崩れたところを直してからまたやり直す。


「前より、ちゃんとしてるね」


 声をかけると、ガレスがこちらへ歩いてきた。


「領主様から見ても分かるなら、多少は形になってきたんでしょうね」


「それ、僕が見る目ないみたいじゃない?」


「軍の訓練を細かく見られても困ります。こっちはこっちで仕事してるんで」


「それもそうか」


 ガレスの後ろでは、マルクが一列を止めて向きを直していた。エルヴィンが別の列との間を広げ、セオの組は外側から戻ってくる。


「みんな慣れた?」


「慣れた奴は増えました。元兵もいますし。ただ、昔どう戦ってたかは人によって違います。そこを揃えるのに時間がかかる」


「ハイデルさんに見てもらったりはしないの?」


「頼めば見るでしょうけど、今のところ必要ありませんよ」


 ガレスは訓練場へ目を戻した。


「ハイデル殿は治安維持隊の顧問でしょう。こっちで困ったら話は聞きますが、最初から何でも任せるつもりはありません」


「うん。その方がいいよね」


「本人もそう言うと思いますよ」


 ちょうどその時、前の列で一人が足をもつれさせた。倒れはしなかったけれど、その後ろにいた二人まで詰まり、エルヴィンの声が飛ぶ。


「止まれ。そこだけやり直す。急ぐ必要はないから、前を見ろ」


 ガレスはそちらへ戻りながら、


「領主様も、見てる分にはいいですが、前へ出ないでくださいよ。棒でも当たれば痛いですから」


と言った。


「それくらい分かってるよ」


「前に出る人は大体そう言います」


「僕、そんなに信用ない?」


 返事はなかった。ガレスはもう訓練の方を向いていた。隣でカインが何も言わないので、たぶん同じことを考えている。


*


 午後に領主館へ戻ると、朝の紙の山が少し減っていた。ザイデルさんとジーモンさんが並んで座り、戻ってきた若い二人から話を聞いている。


「杭は一本だけ残っていました。もう一本は見つかりません」


「周りの家から聞いた話は?」


「昔は溝のところまでだったと言う人と、もっと先まで使っていたと言う人がいます」


 ジーモンさんはその場で決めず、紙の端に聞き取りの違いを書き足した。


「では、広げるのは待ってもらいましょう。今使っている範囲はそのまま。戻る予定の人がいるかも、もう少し確認してください」


「分かりました。明日は隣の村まで行って聞いてきます」


 別の机では、朝ノエルと話していた倉の件も進んでいた。


「屋根の板、足りた?」


「足ります。トマさんが別のところから二枚回してくれました。明日には塞げます」


「じゃあ、人を移すのはその後でいいね」


「兄上が決める前に入れたりしませんよ」


「最近はそれも分かってるよ」


「なら大丈夫です」


 ノエルはそう言いながら、次の帳面へ手を伸ばした。朝に出ていた話のいくつかは、僕が戻ってくるまでにもう片づいていた。全部が僕のところへ戻ってくるわけじゃない。どこまで畑を使っていいか分からない話みたいに、まだ待った方がいいものもある。倉のように、順番だけ決めれば進むものもある。


 それぞれが、自分の分かるところを進めている。


 ガレスたちは兵を鍛えていた。ブルーノたちは巡回を回していた。ハイデルさんまで、来て一週間なのにもう普通に働いている。


 僕は何をしてるんだろう、とまでは思わなかった。朝から僕も結構働いている。ただ、もう少し分かることが増えた方がいいな、とは思った。


「ノエル、何か勉強するものない?」


「急にどうしたんですか」


「みんなちゃんと自分の仕事してるでしょう。僕も領主として、もう少し分かること増やした方がいいかなって」


「兄上、熱でもあります?」


「ないよ」


「じゃあ、どうしようかな……」


 本気で考え始めたので、僕は少し嫌な予感がした。


「難しすぎるのはやめてね」


「今から弱気にならないでください」


「読めるのと分かるのは違うから」


「それは知ってます」


 しばらくしてノエルが持ってきたのは、新しい帳面ではなかった。紙の端が擦れて、何度も開かれた跡のある古い帳面が二冊。


「これ、何?」


「前に使われてたやつです。一つは村ごとの負担や納め物。もう一つは、領主側で売ったものと買ったものの記録。全部揃ってるわけじゃないですけど、昔どうしてたかを見るなら分かりやすいと思います」


「へえ」


 思っていたより面白そうだった。


*


 夕方になっても、僕はその二冊を机の上に広げていた。


 カインは窓際にいて、ノエルは向かいで今日の数字を別の帳面へ移している。ザイデルさんとジーモンさんもまだ残っていたので、分からないところが出るとその都度聞いた。


「これ、麦で納めてるってこと?」


「そうですね。その村は、その年はそうなっています」


 ザイデルさんが僕の指した行を見る。


「こっちは?」


「こちらは別の負担です。全部を同じ形で納めていたわけではありません」


「じゃあ、この村はお金で、この村は物?」


「そう単純でもないですね。年によって違うところもありますし、記録が抜けているところもあります」


「なるほど……」


 分かったような、分からないような感じだった。


 もう一冊には、買ったものと売ったものが並んでいる。穀物や家畜、道具、布、鉄具。何をいくらで、というところまで読める箇所もあれば、品物だけ書かれているところもある。


「鉄って結構するんだね」


「鉄具は、壊れたからその辺で拾ってくる、というわけにはいきませんからね」


 ノエルは自分の帳面から顔を上げずに答えた。


「荷車の金具とかも?」


「当然です。トマさんが車輪を大事にしろってうるさいのは、その辺もあります」


「そうだったんだ」


「兄上、まさか無料で直ってると思ってませんでしたよね」


「そこまでは思ってないよ」


 笑われる前に答えておいた。


 最初のうちは、昔の帳面を読むのは本当に面白かった。


 この村では何を作っていたのか。どこから何を買っていたのか。何を納め、何を売っていたのか。分からない言葉があっても、聞けば誰かが教えてくれる。


 そうして何頁か進んだところで、僕は一つ前の頁へ戻った。もう一度読んでも、書いてあることは変わらない。


「ねえ、これ」


「今度は何ですか?」


 ノエルが顔を上げる。


「昔はこうしてたっていうのは分かるんだけど、今もこれでいいの?」


 ノエルはすぐには答えず、僕の開いている頁を覗いた。


「良くないでしょうね」


「やっぱり?」


「人が違いますから」


 ジーモンさんも椅子を少し寄せた。


「土地も同じではありません。昔使われていた畑が全部戻っているわけではないですし、昔とは違う家が使っているところもあります。水の順番も、まだ仮のままの場所があります」


「じゃあ、この帳面にある通りに、昔これだけ取ってたから同じだけ、っていうのはできない?」


「私はやらない方がいいと思います」


「僕も嫌だな」


 今の暮らしが昔と同じじゃないのは、僕でも分かる。


 帰ってきた人もいる。帰ってこなかった人もいる。後からここへ住むようになった人もいる。畑を戻している途中のところもあれば、家を直している途中のところもある。


 そもそも今は、復旧の支援を受けている間は税を取らないことになっている。


「今すぐ決める話じゃないんですよね」


「そうです」


 ノエルが答える。


「支援の期間中ですから、明日から税を取るわけじゃありません」


「じゃあ、まだ考えなくてもいい?」


「それは違うと思います」


「だよね」


 言ってみただけだった。


 ノエルは机の上の古い帳面を引き寄せた。


「僕なら、今ある食料がどれくらいで、どこへどれだけ回せるかは見られます。今月どれだけ使ったとか、倉にどれだけ残ってるとかも。でも、支援が終わった後に、どの村からどういう形でどれだけ取るのがいいかってなると、同じ話じゃないです」


「ザイデルさんは?」


「今いる人数や家族、どこに住んでいるかは整理できます。ただ、その人たちがどの程度なら無理なく負担できるかとなると、私は簡単には言えません」


「ジーモンさんは?」


「昔どういう負担があったか、どの土地に何が付いていたかは調べます。ただ、昔そうだったから今もそうする、とは言えませんね」


 三人とも、分からないと言っているわけではない。むしろ、それぞれ分かるところはちゃんと分かっている。だから余計に、その間にあるものが見えた。


「……じゃあ、こういうのを考える人って、うちにいない?」


 ノエルが少し考えてから、帳面を閉じた。


「今のところ、専門に見られる人はいないですね」


「お金の計算はノエルがしてるよね」


「今ある金を数えたり、何に使ったか記録したりはできます。兄上が勝手に使いすぎないようにもできます」


「最後いらなくない?」


「必要です」


 ザイデルさんが少し笑って、手元の紙をまとめ始めた。


「領地全体でどう収入を作るか、税をどの形にするか、商いをどう増やすか、というところでしょうか」


「そう、それ」


 言われると、急に分からないことが増えた。


 もう一冊の売買帳を開き直す。


「これも、昔ここで売ってたからって、今も売れるとは限らないよね?」


「作っている量も違いますしね」


 ノエルが答える。


「じゃあ、今は何なら売れるの?」


 今度は誰もすぐに答えなかった。ジーモンさんが、古い帳面の一行を指でなぞる。


「昔何が作られていたかなら、調べられます」


「今、何を余らせられるかは別ですね」


 ザイデルさんが続ける。


「人が増えた分、自分たちで使う量も変わっていますから」


「外で何が欲しがられてるかは?」


 ノエルが僕を見る。


「それは、僕たちより商人に聞いた方が早いと思います」


「商人かあ」


 そう言われて、僕は帳面の端に指を置いたまま考えた。


 何を作れるか。何を自分たちで使うか。何を外へ売れるか。足りない物をどこから買うか。それが分からないまま、税だけ決めてもたぶん駄目なんだろう。


「困ったね」


「今すぐ困る話ではありませんよ」


 ノエルが言った。


「だから、今のうちに考え始めればいいんです」


「じゃあ、勉強するしかないか」


「そうですね。兄上が自分で言い出したんですから」


「そうだった」


 少し後悔した。


*


 外が暗くなってから、ザイデルさんとジーモンさんは先に帰った。ノエルも一度別の部屋へ帳面を取りに行き、机には僕と古い帳面が残った。


 カインはまだ近くにいる。


 さっきから同じ頁を読んでいる気がして、僕は指で行を追い直した。


「カイン」


「どうしました、アズール様」


「これ、同じところを何回読んでも分からないんだけど」


「私に聞かれても、アズール様より分からないと思います」


「だよね」


「ただ、先ほどから同じ頁を見ていることだけは分かります」


「やっぱり?」


「かなり長いです」


 帳面を閉じようか迷っていると、ノエルが戻ってきた。


「兄上、まだ読んでたんですか」


「みんな自分の仕事ちゃんと分かってるでしょう。僕ももう少し領主として分からないと駄目かなと思って」


「一晩で分かるようになるなら、僕も最初から苦労してませんよ」


「それもそうなんだけどさ」


 ノエルは新しい帳面を机の端に置き、僕が閉じかけた古い方を見た。


「今日はもういいんじゃないですか。明日また読めば」


「じゃあ、明日は売った方から読もうかな」


「その前に、朝の配給の確認があります」


「……それ終わってから?」


「それならいいです」


 僕は古い帳面を二冊重ねて、机の端に寄せた。明日の仕事が一つ増えた気がする。でも、誰かに言われて増えたわけじゃない。


 それなら、まあ仕方ないかと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。