第90話 帝都の商人
昼前、領主館の前が妙に騒がしくなった。
怒鳴り声ではない。喧嘩でもないらしい。何人かが同じ方向へ集まっていく足音と、その向こうから聞こえる子供の声が重なっている。
僕が机から顔を上げるより先に、ノエルが開いていた帳面から視線を外した。
「兄上、外、何か来たみたいですよ」
「聞こえてる。誰か走ってるね」
窓からはよく見えなかった。立ち上がろうとしたところで、扉が開き、ベルントが入ってきた。
「領主様。商人が来ています。馬車が二台、御者と護衛が何人か。帝都で領主様に会ったことがあると言っています」
「帝都で?」
「名前は、マルセロ・デングラー。デングラー商会の会長だそうです。荷は見せてもらいました。布、古着、針や金具、鉄材、あとは細かい日用品です。護衛もいますが、今のところ問題はありません」
そこまで聞いて、ようやく顔を思い出した。帝都の慰労会で、東南へ荷を運ぶこともあると言っていた商人だ。鍬や鋤、釘や車輪金具みたいなものが要るなら、そのうち相談できるかもしれない、と話した。
「あ、本当に来たんだ」
「知ってる人なんですね」
「うん。名前は今思い出したけど」
「兄上……」
ノエルが何か言いかけたところで、外からまた声が上がった。
「だから、まだ開けてねえって言ってんだろ!」
ブルーノだ。
その声の後ろから、
「布はあるのかって聞いてるだけだ!」
「針があるなら先に見せてくれ!」
「鉄は? 鍋の底を直せるくらいのでいいんだ!」
と、別々の声が重なった。
僕とノエルは少しだけ黙ってから、同時に扉の方を見た。
「……行った方がいい?」
「兄上が行かなくても商人は逃げないと思いますけど、あれは見ておいた方がよさそうですね」
カインが壁際から離れ、いつものように僕の少し後ろへついた。
*
領主館を出ると、思っていたより人がいた。
二台の馬車が道の端に寄せられ、その周囲に村の人が集まっている。荷台には布をかぶせた箱や包みが積まれていて、隙間から木箱の角や巻いた布が見えた。
馬の横には見慣れない男たちが立っていた。腰に剣を下げた者もいるが、抜く様子はなく、むしろ人が馬に近づきすぎないよう手を広げている。
その中で、ブルーノだけが一番大きな声を出していた。
「勝手に荷台触るな! 商売始めるまで待て!」
「触ってないよ、見てるだけだ!」
「お前、さっき布めくろうとしてただろ!」
「ちょっとだけだ!」
「それを触ってるって言うんだよ!」
少し離れたところで、ベルントが頭数を確認するように護衛たちへ何か聞いている。
その横に、見覚えのある男がいた。
三十代半ばくらい。帝都で会った時より旅装が馴染んでいて、上着の裾に道の埃がついている。こちらに気づくと、集まっている村人を避けて一歩前へ出た。
「アズール準男爵様。突然押しかけてしまって、申し訳ありません」
「マルセロさん。本当に来たんですね」
「ノイティスまで来たものですから。ここまで来ておいて、帝都で話した土地を見ずに帰るのも惜しいと思いまして」
僕の後ろからノエルが馬車を見ている。
「帝都からそのままここへ?」
「いえ。今回はノイティスが先です。向こうで頼まれていた品を下ろしてきました。工芸品や、注文を受けていた剣が何振りか。子爵様ご本人というより、家臣の方々からの注文が多いですね」
「じゃあ、ここにあるのは残り?」
「残りと、途中で売っても構わない物です。帰りは空いたところに別の荷を積んで戻ります」
マルセロがそう言ったところで、馬車の向こうから男の声が飛んだ。
「商人さん! 古着って子供用もあるか!」
マルセロが振り向く。
「ありますよ。ただし、まだ荷を開けてません。少し待ってください」
「待つから取っといてくれ!」
「取り置きまでは約束できませんよ。順番に見てもらいます」
返事を聞いた男が、近くにいた女へ何か伝えながら少し下がった。代わりに別の二人が前へ出ようとして、ブルーノに止められる。
「領主様、このままここで始めさせてもいいですか。こいつら、追い払っても戻ってきます」
「いいんじゃない? 商人さんがいいなら」
マルセロは周囲を見回した。
「私としては、誰も寄ってこない方が困ります。ただ、馬を休ませたいので、少し場所だけ空けてもらえると助かりますね」
ブルーノがすぐに向きを変える。
「聞いたか! 馬の前を空けろ! 売る物は逃げねえから、そこどけ!」
今度は何人かが素直に下がった。
僕はマルセロの横で、その様子を見た。
「すみません。こんなに集まると思ってなくて」
「いえ。いいですよ」
マルセロは笑うというより、村人の顔と荷台を交互に見ていた。
「むしろ、ありがたいです」
*
ひとまず領主館へ入ってもらうことにした。
護衛と御者は馬車のところへ残り、ブルーノたち治安維持隊も外へいる。マルセロだけが僕たちと一緒に中へ入った。
席につくと、ノエルが先に聞いた。
「改めて確認しておきたいんですけど、デングラー商会って、どのくらいの規模なんですか?」
「大きい方ではありませんよ。中くらいと言いたいところですが、中くらいの中でも小さい方でしょうね。父の代からやっていて、今は私が継いでいます」
「会長さんが自分でこんなところまで来るんですね」
「自分で来ないと分からないこともありますから。それに、うちくらいの規模だと、全部人に任せられるほど余裕もありません」
マルセロは机の上に置いた小さな帳面を開き、指で頁を押さえた。
「東南には季節ごとに一度くらい来ています。ノイティスで注文品を渡して、向こうで買える物を積む。道中でも売ったり買ったりします。穀物、塩、革なんかですね」
「帰りもずっと売ったり買ったりしてるんですか?」
「できるだけ。空の馬車を走らせても、馬は食いますし、御者も護衛も飯を食います。何も積まずに帰るのは、よほど急ぐ理由がある時くらいです」
僕は少し前のめりになった。数日前、古い売買帳を見ながら考えていたことがそのまま目の前に来た気がした。
「ちょうど、商人の人に聞きたいことがあったんです」
マルセロが顔を上げた。
「私にですか?」
「この領地って、何なら外で売れると思いますか?」
すぐに答えが返ってくると思っていたけれど、マルセロは帳面を閉じた。
「今日来たばかりの私に、それを聞きますか」
「分からないですか?」
「分からないというより、今ここで即答する商人はあまり信用しない方がいいですよ」
「そんなものなんだ」
「土地を見ないで、何がどれだけあるかも知らずに、『これを作れば売れます』と言うだけなら簡単です。でも、それで誰が責任を取るんです?」
ノエルが隣で少し笑った。
「兄上、その言い方、前に誰かから聞いた気がしません?」
「僕も今ちょっと思った」
マルセロは僕たちを見比べたが、何の話か分からないのでそのまま続けた。
「税のことまで聞かれるなら、私ではなく、そういうことに詳しい役人なり書記なりを探した方がいいです。私は税を決める側じゃありません。ただ、何が売れそうか、どんな物なら運ぶ価値があるか、何を持ってくれば買う人がいるか。その辺なら話せます」
「それでいいです。むしろ、それが分からなくて困ってたんです」
「なら、まず見せてもらった方が早いですね。倉と、畑と、今ある物を」
ノエルが僕を見る。
「兄上、行くんですか?」
「行くよ。僕も見たいし」
「じゃあ僕も行きます。量の話になったら、兄上だけじゃ分からないでしょうから」
「それは助かる」
「素直ですね、今日は」
「最近勉強してるから」
「それとこれは別だと思いますけど」
カインも立ち上がった。
マルセロはそのやり取りを眺めていたが、何も言わずに自分の帳面を持った。
*
村を歩き始めると、マルセロは僕とは違うところばかり見ていた。
道の幅を見て、荷車が二台すれ違えるかを聞く。倉の前では扉の高さを見て、雨の時に荷をどこまで寄せられるかを聞いた。
畑へ出ても、作物そのものより先に、荷車がどこまで入れるのかを気にする。
「そこ、大事なんですか?」
「物があっても運べなければ、買えませんからね」
「なるほど」
「準男爵様、さっきからそればかりですね」
「今日初めて聞くことが多いから」
「それならいいんですけど」
ノエルが横から、
「兄上は本当に分からない時は、だいたい『なるほど』って言います」
と余計なことを言った。
「分かった時も言うよ」
「では、今のはどちらです?」
「半分くらい」
マルセロが初めて声を立てて笑った。
そのまま畑沿いを進んでいると、刈り取りを終えた区画の脇に袋がいくつか積まれていた。マルセロが足を止める。
「これは小麦ですか?」
「そうですよ」
「この辺りで採れるんですね」
思っていたより食いつきがいい。
「珍しいんですか?」
「東南で全く採れないわけじゃありません。ただ、この辺でこれだけまとまって見るとは思ってませんでした」
「みんな、芋の方がよく食べてるけどね」
「小麦を売るからですか?」
「それもあると思う。ねえ、ノエル」
聞かれたノエルが袋を一つ見てから答える。
「自分たちで食べる分もあります。ただ、芋の方が普段の食事では多いですね。小麦は余れば売る方へ回しやすいです」
「毎年どれくらい余ります?」
そこで僕は何も言わずにノエルを見た。
「兄上」
「僕が答えられると思った?」
「昨日まで帳面読んでたでしょう」
「読んでたけど、村ごとの量までは覚えてないよ」
ノエルは諦めたようにマルセロへ向き直った。
「今のところ、大量に外へ出せるほどではありません。自分たちで使う分を確保して、その上で少し余る程度です。年によっても違います」
「それなら、無理に出さない方がいいですね」
マルセロは袋の口を開けさせることもなく、その場ではそれ以上触れなかった。
「買えないんですか?」
「買えますよ。余っているなら。ただ、わざわざ食べる分を削って売る必要はないです。毎年ある程度余ると分かれば、その時に考えればいいでしょう」
「売れるなら売った方がいいのかと思ってた」
「売って、あとで食べ物が足りなくなって買い戻したら、何をしてるか分からないでしょう」
「それはそうだね」
言われれば簡単な話だった。でも、古い帳面で「売った」とだけ書いてあるものを見ていた時は、そこまで考えていなかった。
さらに倉をいくつか見て回ったところで、マルセロは今度は壁際に掛けてあった毛皮に目を留めた。
「これは、売る分ですか?」
「どうだろう。使わない分なら売れると思うけど」
僕が答えると、ノエルが、
「村ごとに違います。冬用に取っておく分もありますし、家で使う革もあります」
と補った。
「見てもいいですか?」
持ち主に確認してから、一枚外してもらう。
マルセロは表を見て、裏を見て、端を指で押した。
「これは買えますね」
「小麦より?」
「物によりますけど、こういうのは少ない量でも運ぶ意味があります。小麦は重いですから、何袋も積まないと商売になりにくい。毛皮なら、うまくまとまれば馬車の空きを埋めやすいです」
「値段が高いから?」
「それもあります。でも値段だけじゃありません。重さ、大きさ、傷みやすさ、どこで売れるか。そこまで含めて考えます」
「じゃあ、軽くて高いものがいい?」
「それだけなら宝石ばかり運びますよ」
「それもそうか」
「準男爵様、商売を簡単にしすぎです」
マルセロは毛皮を戻しながら笑った。
革もいくつか見てもらったが、全部同じ値になるわけではないらしい。処理の仕方や傷、厚さで違うと言われても、僕にはどれが良くてどれが悪いのか、見ただけではほとんど分からなかった。
「これは、覚えた方がいい?」
僕がノエルに聞くと、
「全部覚えるつもりですか?」
「いや、無理そう」
「じゃあ、売る時に分かる人に見てもらえばいいでしょう」
「それもそうだね」
マルセロはその会話を聞きながら、自分の帳面に短く何か書き込んでいた。
さらに塩の話になった。今すぐ大量に出せるわけではないけれど、この辺りで回っている分の中に余りがあれば売れるかと聞くと、マルセロは、
「塩なら、帝都まで持って帰らなくても途中で売れます。行き先が一つじゃないので、余りがあるなら見せてもらえれば」
と答えた。
「全部、帝都へ持っていくわけじゃないんですね」
「買う人が途中にいるなら、途中で売りますよ。その方が楽です」
僕はまた「なるほど」と言いかけて、やめた。ノエルが横でこっちを見ていたからだ。
*
領主館へ戻る途中で、馬車のところがまだ人だかりになっているのが見えた。
ブルーノがこちらに気づき、すぐ寄ってくる。
「領主様。こいつら、昼飯食って戻ってきやがりました」
「ずっと待ってたんだ」
「一回帰った奴もいます。で、別の奴連れて戻ってきました」
少し後ろでは、女が子供の袖をつまみながら荷台を見ている。別の男は、手に持った壊れた金具を御者らしい男に見せていた。
マルセロもそれを見て、
「そろそろ開けましょうか」
と言った。
「ここでいいんですか?」
「馬車を動かさなくて済むなら、その方が早いです。ただ、押し合いになると困りますね」
「そこは俺らでやります」
ブルーノが腕をまくる。
「並べ! 順番に見ろ! 勝手に荷台へ上がったら追い出すぞ!」
「隊長、言い方が強いです」
ベルントが後ろから言うと、ブルーノは振り返った。
「じゃあお前が丁寧に言えよ」
「押さなければ全員見られます。買う物を決めてから前へ来てください」
今度は本当に少し列らしくなった。
「ほら、俺と変わんねえじゃねえか」
「かなり違います」
僕はそのやり取りを聞きながら、馬車の横へ回った。
布が外され、木箱が一つずつ下ろされる。高そうな物はほとんどなかった。擦れたけれどまだ使える上着。継ぎの跡がある子供用の服。安い布。針や糸。小さな金具。輪になった鉄材。手のひらより少し大きい程度の鉄の塊。
「これ、剣とか作れるの?」
近くにあった鉄を指すと、マルセロがすぐ首を振った。
「そういう物じゃありません。鍋の補修や、農具の小さな部品、戸や箱の金具みたいな用途です。武具を作るなら、もっとちゃんとした材を使います」
「じゃあ、村の人が欲しがってたのはこっちなんだ」
「こういう物の方が、毎日の暮らしでは使いますからね」
その横で、さっき壊れた金具を持っていた男が鉄材を見比べている。
「これくらいなら鍋底いけるか?」
「鍛冶仕事ができるなら使えます。大きすぎるなら割ってもらった方がいいでしょう」
「じゃあ、この小さい方くれ」
別のところでは、女が古着を広げて袖の長さを見ていた。
「これ、もう少し小さいのない?」
「その箱の下に子供用があります。そっちは継ぎがありますが、その分安いですよ」
「継ぎなんて気にしないよ。穴が増えてなきゃいい」
後ろで待っていた別の女が、
「それ終わったら、その上着見せて!」
と声をかける。
売り手側の男が慌てる様子はない。品を渡し、銭を受け取り、その横でマルセロが何度か口を挟む。
僕は少し離れて眺めていた。古着が思ったより先に減った。針を買う人が何人もいる。鉄物の前には男ばかり集まると思っていたけれど、家の戸を直したいという女もいた。
「結構、見てるんですね」
僕が言うと、マルセロは荷箱の残りを確かめながら答えた。
「初めての土地ですからね。何を聞かれるかを見ておく方が大事です」
「売れた数だけじゃなくて?」
「買わなかった人も見ます。値段を聞いて諦めたのか、欲しい物が無かったのか、それで次に持ってくる物が変わります」
ちょうどその時、少し離れた男が、
「もっと細い釘はないのか?」
と聞いた。
売り手が箱を探したが、首を振る。
「今日はこの太さだけです」
「じゃあ次来る時は、細いの持ってきてくれ。屋根板に使いたいんだ」
マルセロがすぐその男に声をかける。
「どのくらいの長さが要ります?」
男が指で示す。
マルセロは自分の帳面を開き、何かを書いた。
「次に必ず、とは言えませんが、覚えておきます」
僕はその帳面を覗こうとして、文字が細かすぎてやめた。
「こうやって次の荷を決めるんですね」
「全部その通りにはしませんよ。十人が欲しいと言った物と、一人だけ欲しい物では違いますし」
「じゃあ、これも勉強しないと駄目か」
「準男爵様が商人になるつもりなら」
「それはないかな」
「なら、詳しいところは商人に任せた方がいいです」
横でノエルが、
「僕もそう思います」
とすぐに言った。
「ノエルまで」
「兄上の仕事、もう十分多いでしょう」
それは否定できなかった。
*
午後の終わり頃になると、買う側の列も少し落ち着いた。代わりに、今度は売りたいと言う人が物を持ってくるようになった。
最初は革だった。家で使う分を残しても余るという男が、丸めた革を二枚持ってきた。マルセロが広げ、御者の一人も一緒に傷や厚さを確認する。
その次に毛皮が三枚。さらに別の家から、少量の小麦を出せるという話が来た。ノエルが途中から帳面を持ってきて、誰が何を持ち込んだかだけは記録している。
「兄上、勝手に領主の物としてまとめないでくださいね」
「してないよ」
「念のためです」
「僕、そんなに信用ない?」
「最近は前よりあります」
「前よりなんだ」
革の値を聞いていた男が、僕たちの話を聞いて笑った。
マルセロはその間も品を見ていた。
「今回は、このくらいでいいでしょう」
毛皮を何枚かまとめた後、マルセロが言った。
「もっと買わないんですか?」
「買えますけど、初めてですから。どのくらい集まるかも分かりませんし、帰りに他でも荷を積みます。空きが全部ここで埋まると、それはそれで困ります」
「なるほど」
今度はノエルに見られなかった。
「小麦は?」
「余っている分なら少し買います。ただ、次から毎回同じ量を出せるとは思わない方がいいですね。年ごとに変わるでしょうし」
「塩も?」
「出せる分があるなら見ます。ただし、無理に集めなくていいですよ。次に来るまでに、自然に余った分があればその時で」
商人だから、あるだけ持っていくのかと思っていた。でも、そういう感じでもないらしい。マルセロは値を決める時も、すぐ大きな話にはしなかった。
今回はこの量ならこのくらい。次に同じ条件になるとは限らない。毛皮は状態次第。小麦は年と量次第。そういう話を一つずつしていた。
古い帳面にあった「売った」という一行より、ずいぶん面倒だった。でも、たぶんこっちの方が普通なんだろう。
*
日が傾き始める頃には、馬車の周りにいた人もかなり減った。
買った古着を抱えて帰る女、針の小袋を手にしたまま隣の人と話している者、鉄材を二人で持ち上げて運ぶ男たち。
空になった箱もいくつかある。代わりに、馬車の端には革や毛皮、小麦袋が積まれていた。マルセロはその荷を一度見てから、僕の方へ来た。
「次に来るなら、古着はもう少し増やせそうですね」
「そんなに売れました?」
「かなり。針も増やしていいでしょう。鉄材はもう少し種類があった方が良さそうです」
「細い釘も」
「それも書いてあります」
「毛皮は?」
「まとまるなら買います。ただ、取っておく必要がある分まで出さないでください」
「小麦も同じ?」
「小麦はもっとそうですね。余った年に売るくらいでいいでしょう」
僕は馬車を見た。朝には外から持ってきた物が詰まっていた場所へ、今はザクセンから出る物が積まれている。
「また来てもらえるんですか?」
「季節に一度くらいはノイティスへ来ます。その時に、ここまで足を伸ばして商売になるなら寄りますよ」
「今日の感じなら、来てほしい人多そうだけど」
マルセロが村の方を見た。まだ少し離れたところで、買った服を見せ合っている人がいる。
「その点は私も心配していません。むしろ次は、着いた時に最初から場所を空けてもらった方がいいかもしれませんね」
「ブルーノに言っておきます」
「それと、護衛がいるので、今日みたいに先に治安維持隊へ声をかけた方がよさそうです」
「それもお願い。急に武装した人が入ってくると、みんな見るから」
「今日は商品を見る方が早かった気もしますけどね」
それはそうかもしれなかった。
*
夕方を過ぎる頃には、今日出るのは無理な時間になっていた。馬も休ませる必要があるというので、マルセロたちはザクセンで一晩泊まることになった。
一行が休める場所と馬を置くところを手配してもらい、荷だけはそのまま馬車へ残す。治安維持隊にも夜の間だけ気にしてもらうことになった。
その後、マルセロには領主館で一緒に食事をしてもらった。豪華なものではない。芋と豆、少しの肉、それにパン。
マルセロはパンを見て、
「昼に小麦があるとは聞きましたけど、こうして食べてもいるんですね」
と言った。
「全部売ってるわけじゃないですよ」
「それなら安心しました」
「僕、そんなに売りそうに見えました?」
「昼に『売れるなら売った方がいいのかと思ってた』と言っていたでしょう」
「覚えてたんだ」
「商人なので」
ノエルが横で笑った。
「兄上、今日はかなり教わりましたね」
「うん。でも、分からないことも増えた」
「それでいいんじゃないですか」
マルセロが芋を切りながら言う。
「分からないのに分かったつもりになるよりは、その方が商売はしやすいです」
「父親からそう教わったんですか?」
「それもありますね。父は、空の馬車で帰るなとか、買う前に帰り道を考えろとか、そういうことばかり言う人でした」
「厳しかった?」
「厳しいというより、細かかったですね。私が会長になってから、何で細かかったのか分かりました」
「僕も、そのうち分かるのかな」
「準男爵様は商会を継いだわけじゃないでしょう」
「領地のこと」
「ああ。それなら、もう少し時間がかかるんじゃないですか」
「やっぱり?」
「私だってまだ分からないことありますから」
その言い方が意外だった。
「会長なのに?」
「会長だから全部分かるなら、大商会は失敗しませんよ」
「それもそうだね」
ノエルが、
「兄上、今日それ何回目ですか」
と言った。
「数えてた?」
「数えてません。でも多いです」
マルセロがまた笑った。
食事の後も少しだけ帳面を見せてもらった。売れた古着の数、針、鉄材。買った革、毛皮、小麦。細い釘を次に持ってきてほしいという話まで、短く書かれている。
「これ、今日の帳面なんですね」
「そうです。明日になれば、今日のことは今日ほど覚えてませんから」
「僕がこの前見てた古い売買帳も、最初はこうだったのかな」
「たぶん、誰かがその日に書いたんでしょうね」
マルセロは帳面の端へもう一つ書き足した。
「何書いたんですか?」
「次に来るなら、古着を増やす。針も少し。鉄材は細かいものを多めに」
「毛皮は?」
「それは買う方なので、別です」
「ちゃんと分けるんだ」
「混ぜたら後で自分が困ります」
僕は机の上の帳面を見た。数日前まで、昔の記録を見ながら、何を売ればいいのか分からなくて困っていた。
今日も、全部分かったわけではない。
小麦は余った時だけ。毛皮と革は売れそう。塩も、余れば見てもらえる。村の人が何を欲しがるかも、今日見えた分だけだ。
「次にノイティスへ来るのって、いつ頃ですか?」
「季節が変わる頃ですね。注文の入り方で多少前後します」
「じゃあ、その時また来られそうならお願いします」
「商売になるなら来ますよ。そのために来てるんですから」
「今日くらい人が集まれば?」
「今日くらい集まるなら、むしろ荷を増やさないと困りますね」
外では、馬の鼻を鳴らす音がした。
マルセロは帳面を閉じ、革紐で留める。
「明日の朝、出る前に毛皮をもう少し見せてもらってもいいですか?」
「いいですよ。ノエル、分かる?」
「どこの家にあるかなら、確認できます。全部出してもらう話にはしませんけど」
「それで十分です。見て、買えるものがあれば買います」
僕も机の端に置いてあった自分の帳面に目をやった。明日、また書くことが増えそうだった。
でも、数日前よりは少しだけ、何を書けばいいのか分かる気がした。




