第85話 慰労会
宿へ戻って茶を一杯飲み、少しだけ足を休めてから、僕たちはまた帝都の通りへ出た。
式典の帰りにカインが確認してくれていたおかげで、今度は道に迷わなかった。夕方になっても通りの人はあまり減っておらず、仕事を終えたらしい人が増えた分、朝より多いようにさえ見える。店先で立ち止まる人を避け、荷を下ろしている荷車の横を抜けながら歩いていくと、やがて昼間の式典会場とは別の建物へ着いた。
入口で札を見せると、係の人は僕の名前を帳面で確かめたあと、中へ入るよう手で示した。
昼間みたいに何列もの席が正面へ並んでいるわけではなかった。
広い部屋の中にいくつも卓が置かれ、その上には大皿や酒の壺が並んでいる。壁際にも料理が置かれ、そこから皿に取って歩いている人もいた。椅子に腰掛けている人もいれば、立ったまま酒を飲んでいる人もいる。軍服姿の男のすぐ隣で立派な上着を着た若者が話し、その向こうでは商人らしい二人が荷車の話をしていた。
昼の式典では、あれだけ大勢いても皆が同じ方向を向いていた。ここでは、人数は少ないはずなのに、声があちこちから飛んでくる。
「……やっぱり人、多いね」
「ここまで来て、まだそれを言うのか」
ガレスは入口から部屋の奥まで一度見渡してから、昼間ほど嫌そうな顔はしなかった。
「少なくとも、座る場所も動く場所も決められてはいない。昼よりはお前向きだろう」
「それはそうなんだけど。知らない人ばっかりなのは変わらないでしょう」
「知り合いを増やすための席でもあるんじゃないのか。さっき係の者がそういうことを言っていたぞ」
「聞いてたよ。でも、知り合いって増やそうと思って増やすものなのかな」
「俺に聞くな。俺は飯を取ってくる。ここなら帝国側の係もいるし、カインも一緒だ。何かあったら大声を出せ」
「大声を出すようなことが起きる前提なの?」
「帝都に来てから、お前が余計なことを始めないという前提に自信がなくなっただけだ」
ガレスはそう言い残し、近くの卓に積まれていた皿を一枚取って人の間へ入っていった。僕も何か言い返そうとしたけれど、もう背中しか見えない。
「ガレスもお腹空いてたんだね」
「昼からほとんど召し上がっておりませんからね。アズール様も同じでしょう」
カインは僕のすぐ横に残っていた。
「カインは何か食べないの?」
「私は後ほどいただきます。まずはお好きなものを探されてはいかがです」
「一緒に探せばいいのに。僕だけ食べてると落ち着かないよ」
「では、良さそうなものがあれば私も少し頂きましょう。ただし、帝都まで来て何を召し上がるかで悩みすぎるのはおやめください」
「そんなに悩まないよ」
言いながら壁際へ向かったけれど、並んでいる皿を見ると、思ったより迷った。
肉を焼いたもの、豆と何かを煮たもの、薄く切ったパンのようなもの、見たことのない色の野菜。どれも少しずつ取ればいいのだろうけれど、こういう時に適当に取って、隣にもっと美味しそうなものがあると損した気になる。
ひとまず端から見ていこうと歩いていると、少し離れた卓のそばにいた男が目に入った。
年は僕とそう離れていないように見える。派手ではないけれど仕立てのいい服を着ていて、片手に皿を持ち、もう片方の手で小さく切った肉を口へ運んでいた。
気になったのは、その肉だった。表面がよく焼けていて、上に濃い色のものがかかっている。さっき通った大皿には、あんな料理はなかった気がする。
僕はその男のところまで行った。
「すみません。それ、美味しそうですね。何の料理ですか? どこにありました?」
男は、口へ運びかけていた肉を皿に戻した。
「……私ですか?」
「そのお皿の肉です。さっきから料理を見てるんですけど、それは見つからなくて」
僕が皿を指すと、男は自分の手元と僕の顔を交互に見た。
「名前までは分かりません。奥の方に、焼いた肉を切り分けている卓がありまして。その横です。大皿が少し奥へ引っ込んでいるので、手前からだと見えにくいかもしれません」
「なるほど。だから見つからなかったんだ。ありがとうございます。行ってみます」
「いえ、それくらいでしたら……」
まだ何か言いそうだったけれど、場所が分かったので僕は奥へ向かった。
当然のようにカインもついてくる。
「本当にずっとついてくるね」
「帝都でアズール様をお一人にする理由もございませんので」
「料理取るだけだよ」
「先ほども休んでくるだけのはずが、クラウゼン侯爵とお話しになって戻ってこられましたので」
「それは偶然でしょう」
「今も、料理を探していただけのはずが、知らない方へ話しかけておられました」
「場所を聞いただけだよ」
「承知しております。ですから私は何も止めておりません」
カインはいつもの調子で言い、僕の少し後ろを歩いている。
教えられた場所まで行くと、本当に大皿があった。手前に背の高い酒壺が並んでいたせいで見えなかったらしい。焼いた肉に、香草と何かを煮詰めたような濃いものがかけてある。
「これだ。カインも食べる?」
「せっかくですから少し頂きましょう。アズール様がそこまで気になさっていたものですし」
「僕が外したら、カインまで外れることになるね」
「その時は、ガレス殿が何を選んだか聞けばよろしいでしょう」
二人分を皿に取り、近くにあったパンも少し載せた。
そのまま空いている場所を探そうとして、さっきの男がまだ同じ卓のそばにいるのが見えた。
僕はそちらへ戻った。
「ありました! これですね。ありがとうございます」
男は今度こそ、はっきり戸惑った顔をした。
「……わざわざ戻ってこられたんですか?」
「教えてもらったんだから、見つかったら言おうと思って。これ、ここで食べても大丈夫ですか?」
「私に聞かれても困りますが、席は決まっていないようですし……どうぞ」
「じゃあ、失礼します」
卓の端に皿を置き、空いていた椅子を引く。カインは僕の隣に座ることはせず、少し横の空いた場所に皿を置いた。
肉を一口食べてみる。少し酸っぱい。けれど、そのあとに肉の脂と香草の味が残った。
「美味しいですね、これ。見つけてよかった」
「気に入られたなら何よりです。私は少し味が濃いと思いましたが、酒には合うのでしょうね」
「僕はこれくらい好きかも。ザクセンだと、こういう味はあんまり食べないから」
「ザクセン、ですか。失礼ですが、どちらの方でしょう」
「東南の方です。たぶん知らないと思います。僕も住むことになるまで知らなかったくらいなので」
「東南から来られたんですか。それなら、随分遠かったでしょう。家の屋敷が帝都にありますので、今日ここにいる者の中では近い方だと思います」
「僕たちは数十日かかりました。途中で馬も休ませたから、ずっと進んでたわけじゃないけど」
「それは……本当に遠いですね。では、灰衣大乱の東南方面に?」
「だいたいその辺です。最後は、戦場より後ろにいた時間の方が長かった気もするけど」
男が少し笑った。
「それでしたら、私と似ています。私も戦ったというより、後ろを走り回っていましたから」
「そうなんですか? どんな仕事だったんです?」
「その前に、まだ名乗ってもいませんでしたね。ジーモン・トロッタと申します」
「あ、そういえば僕も名乗ってなかった。アズール・エスターです。こっちはカイン。昔からうちにいる人です」
僕が横を見ると、カインは食べかけの皿を持ったまま、いつもと変わらない調子でジーモンへ軽く頭を下げた。
「カインと申します。どうぞお話はそのままお続けください。私はアズール様のおそばにおりますので」
「アズール様……。もしかして、エスター準男爵殿ですか?」
「たぶん、そのエスターです。今日も式典で名前を呼ばれたから、同じ人はいないと思う」
「たぶんで答えるものなんですか?」
「準男爵になってまだそんなに経ってないんですよ。僕としては、アズールでいいんですけど」
「いや、それは……さすがに初対面でアズールと呼ぶのは難しいです」
「さっき料理の場所を教えてくれた時は普通だったのに」
「その時は準男爵だと知りませんでしたから。知ってから同じ調子で話す方が難しいですよ」
「知ったら変わるんだ」
「普通は多少変わると思います」
ジーモンは真面目な顔で言った。でも、嫌そうではない。最初に僕が話しかけた時よりは、だいぶ戸惑いが減っている。
「トロッタって、確か……子爵家の名前でしたよね?」
……どこかで聞いた覚えのある家名だった。
「ご存じでしたか。私は八男ですので、家名を聞いて想像されるほど大した立場ではありませんが」
「八男。兄弟多いんですね」
「そこに驚かれるとは思いませんでした。兄だけで七人おりますので、家の中で何かが回ってくる順番は、かなり後ろです」
「それは……確かに遠いね」
「相続の話でしたら、数える必要もないくらい遠いです」
言い方は冗談っぽくなかったけれど、暗い顔をするわけでもない。ただ事実として、そういうものだと思っているように聞こえた。
僕はもう一口肉を食べてから、さっきの話を思い出した。
「ジーモンさんも後ろを走り回ってたって言ってましたよね。何をしてたんです?」
「補給路の後ろで、村を使えるように戻す仕事です。戦で荒れたところや、灰衣の騒ぎで人が減ったところを確認して、荷を置ける倉があるか、水場が使えるか、荷車を入れられるかを見ていました。私は本来、その部隊の一人だっただけなんですが」
「本来は、そういう役目じゃなかったんですか?」
「内政に詳しい者が、たまたま一緒にいなかったんです。村を一つ補給の中継に使うことになった時、誰が残っているのか、どの倉を使っていいのか、井戸を兵と住民でどう分けるのかで話が止まりまして」
ジーモンは皿の上の肉を一つ切りながら、少し考えてから続けた。
「そこで隊長が私の家名を思い出したらしく、『お前、トロッタ家ならこういうことは分かるだろう』と言い出しました」
「分かったんですか?」
「少しは習っていました。ただ、家で帳面を読んだり、兄たちが教わっている横で聞いていた程度です。そう答えたら、『少しでも分かるなら十分だ』ということになりまして」
「それ、断れなかったんだ」
「隊の中で他に誰も分からないと言われると、私も自信がないから嫌です、とは言いにくいでしょう。最初の村だけなら、まだよかったんですが」
「その言い方だと、次があったんですね」
ジーモンは小さく頷いた。
「一つ目がどうにか補給所として動いたら、次の村でも同じことを頼まれました。そちらでは倉より先に水場でもめて、その次は荷車が畑の間を通ってしまって住民から苦情が出ました。さらに別の村では、空いていると思って使い始めた家に持ち主の親族が戻ってきまして……そんなことを繰り返しているうちに、何かあると私が呼ばれるようになりました」
「それ、大変だったでしょう」
「忙しくはありました。朝に一つの村で井戸を見て、昼には別の村で荷の受け取りを確認して、夕方に戻る途中で『隣の村でも話を聞いてくれ』と言われるような日もありましたから。ただ、やること自体は一つずつ確かめれば済むんです」
「一つずつって、どういうことを確かめるんです?」
「誰が使っていたものなのか、今誰がいるのか、軍がいつまで使うつもりなのかを先に聞きます。倉を借りるなら、勝手に使ったことにせず、誰から借りたかを残す。水場が一つなら、馬を先に入れて住民が使えなくならないよう時間を分ける。荷車の道も、近いからという理由だけで畑を横切らせない。その程度です」
「その程度って言うけど、誰もやってなかったんですよね」
「軍の人間は次へ荷を送ることを考えますし、村に残っている人は自分たちの生活を守りたい。どちらが間違っているという話ではないので、間に立つ者が必要だっただけです。私はたまたま、それを少し知っていました」
話しているうちに、最初の「料理の場所を教えてくれた人」から印象が変わってきた。
僕がザクセンで困っていたことと、ずいぶん近い。
「そういう仕事を、いくつくらいの村でやったんです?」
「正確には数えていません。最初に担当した村だけなら覚えていますが、その後は隣を見に行って、さらにその先へ呼ばれてという形でしたから。いくつかの村を行ったり来たりしていた、としか」
「それで式典に呼ばれたんだ」
「どうなのでしょう。私自身は、隊長でもありません。たぶん上から報告をまとめた時、名前を入れてくださった方がいたのだと思います。今日呼ばれるまで、そんなに大きなことをしたつもりはありませんでした」
「でも、補給所が止まったら困ったんでしょう?」
「それは困ります。前へ送る荷が詰まりますから」
「じゃあ大事だったんじゃないですか」
「そう言われれば、そうなのかもしれません。ただ、トロッタ家で政務をやっている兄たちなら、もっと手際よく進めたと思います」
「僕、ジーモンさんのお兄さんたち知らないから、比べられないな」
僕が言うと、ジーモンは少しだけ困ったように笑った。
「それはそうですね。家の中にいると、どうしても自分より先に仕事を覚えた兄たちが基準になります」
ちょうど近くを料理の皿を持った人が通り、空いた椅子を一つ持っていった。その向こうでは、軍人らしい二人が酒を注ぎ合いながら、どこかの街道の話をしている。僕たちの卓だけが特別静かなわけではないのに、いつの間にか周りの声があまり気にならなくなっていた。
「ジーモンさん、水路とかも分かります?」
「水路そのものを造る技師ではありませんが、村同士で使う順番や、昔からの取り決めをどう扱うかという話なら、多少は。何か問題が出ているんですか?」
「僕のところで、ちょうど困ってるんです」
話し始めてから、昼間ユリウスにも似たような説明をしたなと思った。
ただ、今度は聞く相手が違う。
「新しく預かったところが十村くらいあって、戦のあとに人をまとめて入れたんです。今残ってるのが千六百八十四人。もともと住んでた人が残ってる村もあるし、ほとんど人がいなくなってた村もあるから、空いてる方へ多めに入ってもらってるんだけど」
ジーモンの表情から、さっきまで残っていた戸惑いが消えた。
「十村で、千六百八十四人ですか。元からの住民は別ですよね?」
「別です。千六百八十四人は、戦場の後ろへ送った人たちの中で、帰る場所を調べたあとも残ってる人。元からいた人は、トルネって村と、その周りの小さい村に多いです」
「それだけ一度に人が増えれば、土地の扱いはすぐ問題になりますね。空き家に見えても所有者が死んだと決まったわけではありませんし、畑も同じです」
「そう、それなんです。今まで使ってた人が戻るかもしれないでしょう。それに水路の順番もあって」
僕は、トルネ村と隣の村の間で出てきた話を説明した。
昔から水を引く順番があること。隣の村は人が減り、新しく来た人たちが畑を使い始めたこと。その人たちにも昔の順番をそのまま当てはめていいのか、僕たちには分からなかったこと。
「今年は、とりあえず昔からの順番のままにしたんです。足りなくなったら、その時は別に考えようって。でも、ずっとそれでいいのかは分からなくて」
「今年だけの話として止めたなら、私は悪くないと思います」
「本当? じゃあ、今年の決め方はそのままでよかったんですね」
「少なくとも、その場で恒久的な順番まで変えるより安全です。ただ、次に決める前には、昔の取り決めが何を基準にしていたのかを確かめた方がいいでしょう。村ごとの人数なのか、耕している面積なのか、それとも昔から決まった時間なのか。それによって、新しく来た人へ同じ順番を当てはめる意味も変わります」
「そこまで見ないと駄目なんだ」
「全部を一度に調べる必要はありません。今の水量で今年を越せるなら、まず今までの順番を書き残して、知っている人から話を聞く。隣村に戻ってくる人がいるかどうかも確認する。その上で来年の作付け前に決めれば、急いで間違える可能性は減ります」
僕は皿を置いた。
「……そういう話をしてくれる人、うちにいないんですよ」
ジーモンは僕を見た。
「十村を預かっているのに、政務を扱う方がいないんですか?」
「帳面と食料はノエルが見てくれてます。あ、ノエルっていうのは僕の弟です。人数とか、どこに何を配るとかはすごく得意なんだけど、土地の昔からの権利まで自分が決める話じゃないって言われて」
「それは正しいと思います。帳面で人数が分かることと、その土地を誰が使う権利を持っているかは別ですから」
「でしょう? 必要な時は隣のヴェルナー子爵家の人に聞けるんだけど、毎回ずっと頼るわけにもいかないし。ノエルと、政務が分かる人が欲しいねって話してたところなんです」
「……なるほど。先ほどから、随分具体的に困っておられると思ったら、本当に担当が空いているんですね」
「空いてるというか、最初からいなかったというか」
「そちらの方が少し心配になります」
「僕も最近そう思ってる」
ジーモンは口元へ運びかけた杯をいったん卓に戻した。
「失礼かもしれませんが、準男爵になられた時に、誰か付けられなかったのですか?」
「土地を預かる話が決まったのも急だったし、人も一緒に移さないといけなかったから。ヴェルナー家には手伝ってもらってるけど、僕のところの政務をずっとやってくれる人まではいないよ」
「なるほど……それでは、今まではどうやって?」
「分からないことが出るたびに、ノエルと相談して、ガレスに聞いて、それでも分からなかったらヴェルナー家の人に聞いてる」
「かなりその場ごとですね」
「でも、今のところは動いてるよ」
「動いているのは分かります。千六百人以上が暮らしているなら、動いていなければ今ここで料理を食べている場合ではないでしょうから」
「それもそうだね」
真面目そうなのに、時々こういう返しをする。
僕は少し笑ってから、ふと思った。
「ジーモンさんは、戦が終わったら、そういう仕事を続けるんですか?」
「それが決まっていれば、私ももう少し気が楽だったのですが」
今度はジーモンが皿から手を離した。
「部隊での仕事は大乱の後始末に伴うものでしたから、ずっと続くわけではありません。トロッタ家へ戻れば、しばらく置いてもらうことはできます。ですが、私は八男です。家の仕事も、兄たちや昔から仕えている者で足りています」
「じゃあ、次の仕事を探してる?」
「探さなければ、とは思っています。どこかで事務や領地仕事の口があれば話を聞くか、軍に残れるなら後方の仕事を探すか。知り合いからは、衛兵でもいいのではないかと言われました。どれも不可能ではないと思うのですが、これだと決めるほどのものがなくて」
「自分でどこかの領主に行って、雇ってくださいって言うのは?」
「それができる性格なら、とっくにやっていると思います」
ジーモンは少し自嘲するように言った。
「私は、知らない土地へ一人で行って、何ができるか試してみようと思えるほど大胆ではありません。自分が何に向いているかは大体分かりますし、逆に何でもできるとも思っていない。だから条件を見てから決めたいのですが、条件を見ているうちに、どれも決め手がないまま時間だけ過ぎているところです」
「それなら今、ちょうど次の仕事に困ってるんですね」
「困っています。食べる場所がなくなるほど切迫してはいないので、余計に決められないのかもしれません」
「それなら、うちに来ませんか。ザクセンなら、たぶん仕事には困らないですよ」
ジーモンは、僕が何を言ったのか確かめるようにしばらく黙った。
横でカインが皿を置く音がしたけれど、口は挟まない。
「……今の話から、私を雇う話になるんですか?」
「だって、ジーモンさんは仕事が決まってなくて、僕のところは政務が分かる人がいないでしょう。さっきの水路の話も、僕たちだけで考えるよりずっと分かりやすかったし」
「いや、理屈だけ並べればそうなのですが……私はあなたの領地を見たこともありませんし、あなたも今日初めて私と話したばかりですよ」
「だから、まず見に来ればいいんじゃないですか?」
「まず見に……。それは、仕官を決める前にという意味ですか?」
「ザクセンまで一緒に来て、村とか帳面とか見て、それで嫌だったら断ってください。僕も、ノエルに会ってもらった方がいいと思う。たぶん僕より細かいこと聞くから」
ジーモンはすぐには返事をせず、卓の上の杯に視線を落とした。
「仕事の内容は、土地と水利の整理だけですか?」
「たぶん、それ以外もいっぱいあると思う。村の境とか、戻ってきた人の畑とか、柵をどこまで使っていいかとか。僕が今思いつくのはそのくらいだけど、ノエルならもっと出してくる」
「俸給は、どの程度を考えておられます?」
「そこはノエルと相談しないと分からないなあ」
「住む場所は用意できますか?」
「空いてる家はある。でも、どの家を使っていいかは確認した方がいい。今ちょうど、勝手に決めないようにしてるところだから」
「私を誘っているのに、条件がほとんど決まっていないではありませんか」
「だから見てからでいいって言ってるんです。僕も今ここで全部決めたら、帰ってノエルに怒られるし」
「そこは先に相談してから人を誘うところでは?」
「帝都に来る前は、ジーモンさん知らなかったから相談できないでしょう」
「そういう意味ではありません」
さっきまで慎重に言葉を選んでいたジーモンの返しが、少しだけ速くなった。
カインがそこで初めて口を挟んだ。
「ジーモン殿。アズール様の仰り方では、今すぐ仕官を決めていただきたいようにも聞こえますが、まずは土地をご覧いただくのがよろしいかと存じます。こちらも、実際にどのような仕事をお願いすることになるのか、ノエル殿を交えて整理した方がよろしいでしょう」
「カイン、それ僕も言ったよ」
「存じております。ただ、アズール様の場合、話しているうちにご自身でもどこまで決めたのか分からなくなることがございますので」
「僕、そんなに話を勝手に進めてる?」
「念のためでございます」
ジーモンは僕たちを見て、それから初めて少し声を出して笑った。
「少なくとも、今ここで仕官の返事を求められているわけではないのですね」
「見に来てくれるなら十分です。政務分かる人が本当に必要なのは間違いないから」
「……では、一度見せてください。十村と、千六百八十四人が今どうなっているのか。それを見ずに受けるか断るか決めるのも、私のやり方ではありません」
「よかった。帰り、一緒に来ます?」
「そこまで話が早いんですか?」
「どうせザクセンに来るなら、道も同じでしょう。僕たちもそこまで戻るんだし、一人で探してくるより楽だと思うけど」
「それは、確かにそうですが……私の荷物もありますし、出発日も確認しないといけません」
「じゃあ、それはあとで決めよう。宿も分かるから」
「宿まで決める前に、まずあなた方の予定を確認してください」
「分かりました。ガレスが戻ったら聞きます」
「道中の予定は、ガレス殿が決めておられるのですか?」
「僕よりちゃんと考えてるから。宿とか馬とか、僕が決めるより間違いないよ」
ジーモンは何か言いかけ、結局それを杯と一緒に飲み込んだ。
*
ガレスが戻ってきたのは、僕の皿がほとんど空になった頃だった。
片手にまだ半分ほど料理の残った皿を持ち、僕の向かいにいるジーモンを見て足を止める。
「知らない奴が増えてるな」
「ガレス、ちょうどよかった。この人、ジーモン・トロッタさん。政務が分かるんだって」
「紹介の順番がおかしくないか?」
ガレスは皿を近くの卓に置いてから、ジーモンへ向き直った。
「ガレス・ローヴァンだ。こいつが何か変なことを言っていたら、全部その場で決まった話だと思わないでくれ」
「ガレスまでカインと同じこと言うの?」
「俺が離れている間に知らない人間を捕まえている時点で、先に言っておいた方がいいだろう」
ジーモンが少し姿勢を正した。
「ジーモン・トロッタです。捕まったというほどではありません。エスター準男爵殿から、領地を一度見に来ないかと誘われまして」
「……俺が飯を取りに行っていた間に?」
「最初は料理の場所を聞いただけなんだけど」
「そこからどうやったら領地へ連れて帰る話になるんだ」
「話してたら政務が分かるって分かったから」
ガレスは僕に返事をせず、ジーモンの方を見た。
「政務が分かるというのは、具体的に何を扱える?」
「土地の台帳や村の慣習、水利の順番、借り上げた倉や家の記録といった基本的なものです。灰衣大乱では後方の復旧部隊にいて、補給所に使う村をいくつか見て回りました。専門の政務官として働いていたわけではありませんが、現場で必要になった範囲は扱っています」
「村人と兵がもめた時の調整もやったのか?」
「水場、倉、荷車の道で何度か。大きな裁定をしたわけではありません。使う期間や順番を決め、誰から借りたかを残し、後で揉めないようにした程度です」
「十分だ。少なくとも、俺たちよりはその手の話を知ってる」
「ガレス、僕と同じこと思ったでしょう」
「お前と同じかどうかは知らん。ただ、ザクセンで足りてない種類なのは分かる」
ガレスはそこでようやく皿を取り直した。
「仕官するかどうかは土地を見てから決める。それで話が止まってるんだな?」
「そのつもりです。私も、実際に見ずに決める気はありません」
「ならそれでいい。出発の予定は宿で話す。こいつが勝手に明日の朝出るとか言ってないなら、まだ調整できる」
「明日の朝とは言ってないよ」
「今のところはな」
ガレスが座るほどでもないらしく立ったまま肉を食べ始めると、ジーモンの顔から少し力が抜けた。
「皆さん、いつもこうなんですか?」
「どういう意味?」
「準男爵殿が先に話を進めて、周りの方が後から条件を整えるというか……」
「いつもではないぞ」
ガレスがすぐに否定した。
「いつもではないと思います」
僕も続けたけれど、カインは何も言わずに飲み物を口へ運んだ。
「カイン、そこで黙ると僕たちが嘘ついてるみたいになるよ」
「私は、ザクセンへ戻ってからノエル殿がどのようなお顔をされるか考えておりました」
「ほら、やっぱり怒られると思ってる」
「怒られるとは申しておりません。まず詳しく聞かれるでしょうな」
ジーモンはまた少し笑った。
「そのノエル殿という方には、ぜひ先に話を聞いた方がよさそうですね」
「うん。たぶん僕よりザクセンのこと分かるよ」
「領主がそれを自信を持って言うのも、不思議な話ですね」
「でも本当だから仕方ないでしょう」
その後もしばらく、ジーモンとはザクセンまでの道や、持っている荷物をどうするかといった話をした。細かい出発日は宿へ戻ってから決めることにして、今夜のうちに無理に全部決めるのはやめた。
ジーモンも、ザクセンを見に行くと決まった途端に勢いよく新天地へ飛び込むような人ではないらしい。何度か「実際に見てからです」と念を押したので、僕もそのたびに「それでいいです」と答えた。
僕たちが話している間にも、慰労の席は続いていた。
最初より酒の入った人が増え、立っていた人が別の卓へ移ったり、帰る前に名乗り合ったりしている。料理も大皿ごと入れ替わり、最初に食べた肉はもう見当たらなかった。
僕が空いた皿を戻しに行った時、隣で同じように皿を置いた男から声をかけられた。
「先ほど、東南から来られたと話しておられましたね」
振り向くと、旅慣れた服を着た男がいた。手には酒の杯ではなく、食べ終わった皿を二枚重ねて持っている。
「そうです。ルミナ沿海伯領の方から来ました」
「それなら、私は何度か荷を出したことがあります。大乱の間は東南へ向かう荷も増えましたから。道が荒れて戻されたこともありましたがね」
「商人さんですか?」
「小さいものですが。自分の荷車だけで足りなければ、知り合いから借りて繋ぐような商売をしています。食料だけ、材木だけと決めてしまうほど大きくはないので、頼まれた物を集めて運ぶことの方が多いです」
「農具とかも扱います?」
「数が多すぎなければ。鉄物だけを大量に、となると専門の商会に頼んだ方が早いですが、鍬や鋤、釘、車輪の金具をほかの荷と一緒に運ぶくらいなら扱います」
それは覚えておいた方がよさそうだった。
「僕のところ、今ちょうど村を直してるんです。農具も修繕道具も足りなくなることがあるから、そのうちお願いするかもしれません」
「東南で荷を受け取れる場所が決まっているなら、話はできます。ルミナへ入る商人は多いですし、そこから先も道さえ通れば運べます。どちらの領地で?」
「ザクセンっていう村を中心にした十村です。ヴェルナー子爵領の近く」
男は少し考えたあと、聞き覚えがあるような顔になった。
「ヴェルナー子爵領の近くなら、まったく道がない場所ではなさそうですね。次に東南へ下る時、近くまで行けるか聞いてみましょう」
「お願いします。すぐ何か買うって約束はできないけど」
「それで十分ですよ。商売は、必要になった時に思い出していただければ始まりますから」
男は自分の名を告げ、僕も改めて名乗った。今夜だけで知らない名前をいくつも聞いたので忘れないか少し不安になったけれど、東南へ荷を出す商人だということは覚えておくことにした。
話が長くならないうちに互いに礼を言って別れる。戻ると、ガレスが僕の皿がなくなっているのを見た。
「今度は何をしてた」
「皿を戻してただけ。途中で東南にも荷を出す商人さんと話した」
「お前、本当に一人にすると誰かと話して戻ってくるな」
「向こうから話しかけてきたんだよ。農具とかも運べるって」
「それなら覚えておけ。今はヴェルナー家から入ってくる物があるが、いつまでも全部頼れるわけじゃない」
「そう思って名前も聞いた。忘れたら困るから、宿に戻ったら書いておこうかな」
「それは珍しく正しい判断だ」
「珍しくはいらないでしょう」
ジーモンが横で聞いていて、少し笑う。
「話を聞いていると、ザクセンへ行く前に確認しておきたいことが増えてきました」
「今から全部聞こうとしなくていいよ。たぶん着いたらもっと増えるから」
「それは安心させる言葉ではありませんね」
「でも、仕事には困らないでしょう?」
「そこだけは、もう十分伝わりました」
会場の奥では、帰り始める人が少しずつ増えていた。
僕たちも、もう一度だけ飲み物を取ってから宿へ戻ることにした。結局、帝都らしい立派な料理が何だったのかはよく分からなかったけれど、最初に教えてもらった肉は美味しかった。
建物を出ると、昼とは違って通りの明かりが目についた。帝都の道は夜になっても人が残っていて、僕たちは行きより少しゆっくり歩く。
「今日は長かったな」
ガレスが前を見たまま言った。
「朝から式典だったからね。僕、座ってただけなのに疲れた」
「そのあと人混みから逃げ、侯爵と話し、夜は知らない子爵家の八男を領地へ誘った。座っていただけではないだろう」
「ジーモンさんは、まだ見に来るだけだよ」
「分かってる。だから宿で帰りの予定を確認する。連れていくなら、本人の荷物も含めて考えないと駄目だ」
「ほら、もう連れていく前提になってる」
「お前が誘ったんだろうが」
隣を歩くカインが笑った。
「ともあれ、今夜は一度休みましょう。ジーモン殿との話も、商人の名前を書き留めるのも、宿へ戻ってからで間に合います」
「うん。あと、あの肉が何だったのか聞くの忘れた」
「そこはもう忘れていい」
「美味しかったのに」
「明日も同じ料理が出るとは限らん。帝都まで来て、食べ物一つに執着するな」
「ガレスだって結構食べてたでしょう」
「俺は腹が減っていたから食っただけだ」
「僕だって腹が減ってたから食べたんだよ。同じでしょう」
そんな話をしながら、僕たちは宿へ戻った。
帝都へ来て二日目の夜は、それ以上何かが起きることもなく終わった。




