第84話 再会
ザクセンを出てから、帝都までの旅には数十日かかった。
ガレスとカインのほか、道中の護衛として十二人を連れている。途中で宿を取り、馬を休ませ、街道沿いの町で食料を足した。何か起きるかと思っていたけれど、困ったことといえば、帝都へ近づくほど宿代が少しずつ高くなったことくらいだった。
帝都セントリアが見えたのは、街道が長い坂を上りきったところだった。
前を行っていたガレスの馬が急にゆっくりになったので、僕も手綱を引いた。
「どうしたの。道でも間違えた?」
「違う。前を見ろ。たぶん、あれだ」
ガレスが顎で示した先へ目をやる。
最初は、何を見ればいいのか分からなかった。
坂の向こうはゆるやかな下りになっていて、その先に平らな土地が広がっている。畑があり、街道が何本も走り、家の集まった場所がいくつも見える。
そのさらに向こうに、横へ長く伸びる城壁があった。
そこまで見て、僕はようやく気づいた。
「……あれ、全部?」
「俺に聞くな。俺も今、同じことを考えてる」
城壁の向こうには、屋根が隙間なく続いていた。
ひとまとまりの町が壁の中に入っているというより、遠くまで続いている建物の群れを、城壁がどうにか囲っているように見える。中心の方には、周りより明らかに高い建物がいくつも立ち、その奥にもまだ屋根が重なっていた。
左を見ても市街が続き、右へ視線を移しても端がよく分からない。
帝都へ向かう道も僕たちのいる街道だけではなく、別の方角から何本も集まっていた。遠くから見ているのに、その上を荷車や馬、人の列が絶えず動いているのが分かる。
後ろから来たカインが僕たちの横で馬を止める。続いて十二人も自然に足を止めた。
「カイン、帝都に来たことあるんだよね。昔からこんな感じだった?」
「一度だけですから、詳しくは申せませんが……私の記憶にあるより、ずいぶん広くなっているように見えますな。もっとも、若い頃に見たものは何でも大きく覚えているものですから、あてにはなりません」
「それだと、今の方が大きいのか小さいのか全然分からないよ」
「申し訳ありません。役に立たない思い出話でした」
カインがそう言うと、後ろで誰かが小さく笑った。
振り向くと、十二人のうち何人かは城壁の端を探すように首を伸ばしている。一人は遠くを通る荷車を数えようとしているらしく、指を動かしていたけれど、すぐに諦めた。
普段ならガレスが「道の真ん中で止まるな」と言いそうなものなのに、今日はまだ前を見ている。
「ザクセンがいくつ入るかな」
僕が言うと、ガレスはようやくこちらを向いた。
「お前は、何でも自分の知っているものに置き換えないと気が済まないのか」
「だって、比べるものがないんだから仕方ないでしょう。十村全部合わせても、あそこに見えてる一角より小さそうだし」
「だから数えるなと言っている。途中で分からなくなって、今度はノエルに聞き始めるぞ」
「ノエルなら、本当に計算しそうだね」
「そしてお前が余計なことを聞いたせいで帳面が一冊増える」
それはありそうだった。
僕はもう一度、眼下の帝都へ目を戻した。
港都ルミナも大きな町だった。ノイティスも、僕たちの新領にある村とは比べものにならない。
でも、今見えているものは、そういう町の大きさとは少し違う気がした。
「……大きいね」
結局、そんな言葉しか出なかった。
ガレスも今度は何も言わず、しばらく隣で帝都を見ていた。
そこから坂を下り、僕たちは帝都へ入った。城門で書状を見せ、案内された道を進み、指定された宿へ入る。入城そのものは、それだけだった。
ただ、宿へ着くまでに何本道を曲がったのかは、もう覚えていなかった。
*
翌朝、十二人には宿と馬を見てもらい、僕はガレスとカインを連れて式典へ向かった。
昨日、高台から見た時には、帝都はただ遠くまで続いていた。
中へ入ると、今度は人が途切れない。朝から荷車が何台も道を行き来し、二台が並んで進んでいても、その横を人が通っていく。役人らしい服を着た男たちが紙束を抱えた若者を連れて歩き、道の反対側では兵の一団が列を崩さず曲がっていった。
少し先で大きな馬車が止まったせいで後ろの荷車が詰まったけれど、御者が怒鳴り合う前に脇道から別の人が出てきて、片方を先へ通している。
僕たちも邪魔にならないよう端へ寄った。
「昨日は上から見て大きいと思ったけど、中に入ったらもっと分からなくなった」
僕が道の先を見ながら言うと、ガレスは歩みを緩めずに返した。
「何が分からないんだ。案内ならカインが見てる」
「道じゃなくて、街の大きさ。昨日からずっと歩いてるのに、どこまで行っても同じくらい人がいるでしょう。ザクセンなら端まで歩こうと思えばすぐなのに」
「ここをザクセンと比べる方が間違ってる。お前の領地は十村だ。ここは帝都だぞ」
「分かってるけど、見たことないものをどう考えればいいのか分からないんだよ」
前を歩いていたカインが、手にした案内の紙と通りの先を見比べながら口を挟んだ。
「私も昨日から少々困っております。『大きな建物を目印に』と書かれているのですが、この辺りは大きな建物ばかりでして」
「ほら。カインも困ってる」
「道に迷ってる話と街の大きさは別だ」
「でも、帝都が大きいから迷うんでしょう?」
「お前は妙なところだけ理屈を通そうとするな」
ガレスにそう言われているうちに、前方を歩く人の流れが少しずつ同じ方向へ寄っていった。
服装はばらばらだった。僕よりずっと立派な上着を着た人もいれば、軍服姿の人もいる。胸にいくつも徽章を付けた年配の男の後ろを若い兵がついて歩き、その隣では、どう見ても商人にしか見えない腹の大きな男が二人の従者を連れている。
さらに先には小さな旗を持たせた一団もいた。
「これ、みんな式典かな」
「半分以上はそうだろうな。昨日の宿にも似たような連中が何組も入っていた」
「こんなに功労者がいるんだ」
「東南だけの戦じゃない。お前が見ていない場所でも、同じように兵を出した奴もいれば、荷を運んだ奴もいる」
ガレスに言われて、少しだけ腑に落ちた。
僕が灰衣大乱と聞いて思い出すのは、自分たちがいた戦場や、青い布の周りへ集まった人たちばかりだ。
でも、帝国中で起きた大乱なのだから、別の土地には別の戦いがあったのだろう。
会場の前まで来ると、その人数はさらに増えた。
入口は一つではなく、いくつかの列に分かれている。係の人が書状を受け取り、大きな帳面へ目を落とし、確認が終わった者を次々中へ通していた。
僕たちも案内された列に並ぶ。
前にいた騎士らしい男が招請状を出すと、係の人が名前を確認して、小さな包みを一つ渡した。
僕の番になり、帝都から届いた書状を差し出す。
「アズール・エスター準男爵殿。東南、ルミナ沿海伯家経由の招請で相違ありませんね」
「はい。ザクセンから来ました。ルミナ沿海伯領の……あ、ザクセンって言っても分からないですよね」
係の男は少しだけ紙から顔を上げた。
「所在地はこちらで確認できておりますので、問題ありません。こちらが出席の記念章です。会場内では右手の案内に従ってください」
書状と一緒に、小さな金属章を渡された。
指先に乗るくらいの大きさで、表には帝国の紋らしいものと細かな文字が刻まれている。
「これ、僕がもらっていいんですか?」
「本日の出席者へお渡ししております。紛失されても再発行はいたしませんので、その点だけお気をつけください」
「分かりました。なくさないようにします」
後ろからガレスの声がした。
「だから、その場でじっくり見るな。列が止まってる」
「ちゃんとしまうところ探してたんだよ」
「歩きながらでもできる」
「落としたら再発行してくれないって言われたばかりでしょう」
「落とす前提で話すな」
係の人が少しだけ困った顔をしたので、僕は記念章を上着の内側へ入れて先へ進んだ。
*
式典の会場へ入ると、そこにも人がいた。
正面のずっと先に壇があり、そこへ向かって何列もの席が並んでいる。その間を案内役が歩き回り、前方には、僕でも見れば身分が高いと分かる人たちが集まっていた。
僕たちはかなり後ろ寄りの区画へ案内された。席に着いてから前方を見たけれど、壇上の人の顔まではよく分からない。
「思ってたより遠いね」
「お前は何を期待してたんだ」
「もう少し前かなって。帝都まで呼ばれたから」
「呼ばれた奴がこれだけいるんだ。全員前に置けるわけないだろう」
「それは、入ってきた時に分かった」
僕が周りを見回すと、少し離れた席では軍人らしい二人が何か話している。逆側には年配の男と若い従者が座り、従者の方は緊張しているのか、何度も膝の上の帽子を直していた。
「でも、ここでよかったかも」
「何がだ」
「前の方に座ってる人たち、見るからに偉そうでしょう。あの中へ入れられたら、誰にどう挨拶するのか分からないよ」
「座って式典を聞くだけなら、挨拶する必要はない」
「終わったあとに何かあるかもしれないじゃない」
「その時は俺かカインに聞け。分からないまま勝手に喋るよりましだ」
「そうする」
今度はガレスも何も言わなかった。たぶん、それでいいらしい。
やがて大きな扉が閉じられ、会場の動きが少しずつ止まった。
式典が始まる。
最初に壇へ出た人の肩書きは長くて、途中からよく分からなくなった。灰衣大乱が各地へ広がったこと。兵だけでなく多くの民も命を落としたこと。各地から軍勢が送られ、補給のために食料や馬や荷車が集められたこと。戦いが終わった後にも、道や村を立て直すための仕事が続いていること。
聞き覚えのある話もあれば、知らない地名もいくつも出てきた。
一人が話し終われば別の人が壇へ出る。
前方では節目ごとに拍手が起こり、後ろではそのたびに少し遅れて音が広がった。途中で咳をする人もいれば、長く座り続けているせいか、何度も姿勢を直す人もいる。
僕も足が少し重くなってきた。
「ガレス、こういうのって、あとどれくらい続くと思う?」
「俺に聞くな。それに今、話の途中だ」
「小声だよ」
「小声なら何を喋ってもいいわけじゃない。せめて功労者の名前を読むまでは黙ってろ」
「まだそこまで行ってないんだね」
「だから聞けと言ってる」
怒られたので、今度こそしばらく黙った。
その後、ようやく功労者の名前が読み上げられ始めた。一人ずつ前へ出るようなものではなかった。何人か、あるいは何十人かをひとまとまりにして、名前と肩書きが次々続いていく。軍人、地方の領主、官吏、補給担当、商人らしい名前まで混じっている。
最初のうちはちゃんと聞いていた。けれど、あまりに多くて、自分がどの辺で呼ばれるのか分からなくなる。
少し気が抜けかけたところで、
「――アズール・エスター準男爵――」
と聞こえた。すぐ次の名前が続く。
僕は前を向いたまま、少しだけガレスの方へ寄った。
「今の、僕だったよね。聞き間違いじゃないよね?」
「聞き間違いじゃない。ちゃんと呼ばれたから安心して前を向いていろ」
「いや、あまりに普通に混ざってたから。もう少し間があるのかと思ってた」
「お前一人の式典じゃない。さっき自分で納得しただろう」
「納得はしたけど、実際に呼ばれると本当に一瞬なんだね」
「それで十分だ。名前が抜けているよりずっといい」
ガレスはそう言うと、もう壇の方へ意識を戻した。
僕も前へ向き直る。名前はまだ続いている。
ザクセンでは、朝から誰かが僕を待っていて、「領主様、これを決めてください」と言ってくる。
ここでは、僕の名前は長い列の途中に一度だけ呼ばれて、そのまま次へ進んだ。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、そのくらいでちょうどいい気がした。
*
式典が終わり、扉が開いた途端、会場の中にいた人が一斉に動き始めた。
前へ進む者、後ろへ戻る者、知り合いを見つけてその場で話し始める者。従者を探して名前を呼ぶ声も混じり、座っている時よりずっと騒がしい。
僕たちも人の流れに乗って外へ出たけれど、廊下まで人だらけだった。壁際には係の人が何人も立ち、この後の予定を案内している。
僕も書状を見せると、係の人は手元の紙と見比べてから、別の札を一枚差し出した。
「エスター準男爵殿は、夕刻の慰労の席にもご出席ください。地方功労者、下級諸侯、士官、戦時協力者の皆様を中心とした会となります。会場はこちらの札に記載しております」
「式典だけで終わりじゃないんですね」
「軽食と酒を用意しておりますので、堅い式ではございません。ご都合が悪い場合を除き、ご参加ください」
「食事が出るなら行きます。せっかく帝都まで来ましたし」
係の人が一瞬だけ返事に迷ったように見えたけれど、すぐ次の人へ向き直った。
僕は札をカインに渡す。近くでは別の係が、前の方に座っていた人たちへ違う案内をしていた。聞こえてきたのは晩餐会という言葉で、そちらへ通されている人たちは服装からして明らかに違う。
僕が少し見ていると、ガレスが横から声を落とした。
「気にする必要はないぞ。あちらは高位の連中の席だ。お前の今の立場なら、こっちで何もおかしくない」
「僕、呼ばれなくて助かったと思って見てたんだけど」
「……そうか」
「さっきの式典だけでも、誰が誰なのか全然分からなかったでしょう。あの人たちと同じ卓に座れって言われても、食べた気がしないよ」
「お前なら食事だけは普通に食うと思うが」
「そうかな。でも、ずっと誰かに挨拶しないといけないんでしょう?」
「たぶんな」
「じゃあ、やっぱりこっちでいいよ。軽食と酒なら、知らない人がいても何とかなる」
ガレスは何か言い返そうとして、やめた。
「お前が納得してるなら、それでいい」
「最初からそう言ってるよ」
「今の言い方だと、俺が慰めようとして損したみたいじゃないか」
「慰めようとしてたんだ」
「もういい」
少し怒ったらしい。
その間にも後ろから人が来て、僕たちは廊下の端へ寄った。
けれど端も空いているわけではない。誰かに挨拶しようと足を止めた人の後ろへ別の一団が詰まり、反対側から従者が荷物を抱えて抜けていく。
さっき高台から見た帝都の広さより、今はこの廊下の方が大変だった。
「ガレス。僕、少しだけ静かなところへ行ってきてもいい?」
「宿へ戻るつもりなら待て。ここで勝手に別れるな」
「宿までは戻らないよ。ちょっと座れるところがあれば休みたいだけ。人が多すぎて、誰かにぶつからないように歩くだけで疲れる」
ガレスは周囲を確認してから、僕ではなくカインの方を見た。
「さっき、中庭があったな」
「ええ。この廊下を右へ抜けた先です。式典の会場からもそう離れておりません」
カインは僕へ向き直る。
「お休みになるなら、そこがよろしいでしょう。私どもは夕刻の会場と戻りの道を確認してから参ります。あまり奥へは入られませんように」
「分かった。中庭にいるよ。戻ってこなかったら探して」
「その言い方をされると、最初から探す前提に聞こえますな」
「帝都だし、念のため」
ガレスが嫌そうな顔をした。
「お前が言うと、本当に迷いそうだからやめろ」
僕は人の流れから外れ、カインが示した方へ向かった。
*
中庭は、本当に静かだった。式典会場からそれほど離れていないのに、壁を一枚挟むだけで人の声がずいぶん遠くなる。
四方を建物に囲まれた小さな庭で、中央に木が一本あり、その周りに低い石の縁が作られていた。
僕はそこに腰掛けた。戦場で何時間も立っていた方が身体は疲れるはずなのに、今日は別のところが重い。
記念章を落としていないか気になって、上着の内側から取り出した。小さな金属の表面に細かな刻みがある。さっきの受付ではゆっくり見る暇がなかったので、傾けながら眺めていると、廊下の方から声がした。
「それをそんなに真剣に眺めている者は、今日初めて見た」
顔を上げる。
庭の入口に一人の男が立っていた。式典の会場にいれば珍しくない、きちんとした服装をしている。でも、顔には覚えがある。
今よりずっと泥と血の多い場所で見た顔だ。
「……ユリウス?」
「名前まで覚えていたなら、私よりましだな。会場で君らしい後ろ姿を見かけたが、確信が持てなかった」
ユリウス・クラウゼンは庭へ入ってくると、僕が手にしている記念章へ目をやった。
「戦場で会った時より、ずいぶん普通の格好だから分からなかったよ。僕の中では赤い騎兵の人って印象の方が強かったし」
「それは不本意だな。私は騎兵の一部隊ではないし、いつも赤い甲冑を着て歩いているわけでもない」
「帝都であれ着てたら、すぐ見つけられたのに」
「君に見つけてもらうために着るものではない」
そう返しながら、ユリウスも僕から少し離れた石の縁へ腰掛けた。
「君もここへ逃げてきたのか?」
「逃げたっていうと聞こえが悪いけど……まあ、人が多すぎて。ガレスたちがこの後の予定を確認してくれてるから、少し休んでる」
「なら私と大差ない。式典が終われば多少は散ると思っていたが、むしろ皆が挨拶を始めて余計に動けなくなった」
「ユリウスでもああいうの疲れるんだ」
「疲れるというより、話しかけられると抜ける理由を作るのが面倒だ。こちらも相手の顔と家を覚えていなければならない」
「それ、僕には絶対無理だよ。今日だけで何人いたと思ってるの」
「だから普通は、全部を今日覚えようとはしない」
「よかった。帝都の人は全員できるのかと思った」
「そんな人間がいたら、私も会ってみたい」
思ったより普通の返事が返ってくる。戦場で会った時は、短い時間だった。周りでは兵が動き、こちらは後ろへ人を逃がすことばかり考えていた。あの時のユリウスは、赤い騎兵を動かして、必要なことをすぐ決める人に見えた。
今は、同じように人混みから逃げてきて、僕の隣で座っている。
「そういえば、クラウゼンって、やっぱり帝都のクラウゼン侯爵家なんだね」
僕が言うと、ユリウスは少し変な顔をした。
「今、そこを確認するのか。戦場で名乗った時には知らなかったのか?」
「名字は聞いたことあったよ。でも、あの時は家柄を聞いてる余裕なかったでしょう。それに、僕のところにもクラウゼンって名前の人が絶対いないとは言い切れないし」
「少なくとも、君が考えている侯爵家のクラウゼンで合っている。私も、あの時のアズール・エスターが、後になって準男爵として式典に呼ばれるとは思っていなかったが」
「僕も思ってなかったよ」
「そこは少しくらい誇ってもいいところではないのか?」
「準男爵になった時も、最初は何をすればいいのか分からなかったし。今も領主館って呼ばれてる家に住んでるけど、普通の家だよ」
「領主館が普通の家?」
「屋根と戸を直しただけ。新しく立派なの建てる余裕があったら、先に住む家を直した方がいいってノエルに言われて、そのまま」
「……君の弟は、相変わらず現実的らしいな」
「ノエル知ってるの?」
「報告の中で名前を見た程度だ。君の周りで帳面と補給を見ている者だろう」
「だいたい合ってる。でも今は補給だけじゃなくて、僕の机まで半分使ってる」
「領主の机を?」
「僕が使わないから」
「使え」
「使ってるよ。たまに」
ユリウスは一度こちらを見て、何か言いかけたけれど、結局やめた。
「君の領地は、東南の戦後処理で預けられた土地だったな。その後はどうなった? あの時、君のところには相当な数の人間が流れ込んでいたはずだ」
「ああ。そこが大変だった」
「だろうな。戦場では、後ろへ抜けた者を受け入れるだけでもかなりの数に見えた。戦が終わってしまえば、軍の補給もいつまでも続かない」
「最初は帰れる人を帰せば、もっとすぐ減ると思ってたんだよ。でも、帰るって言っても、村が残ってるか分からない人もいるし、家族がどこにいるか分からない人もいるし。草地に置いたまま全部調べるのも限界が来て」
「それで領地へ移したのか?」
「うん。十村くらいの小さいところなんだけど、人が減って空いてる家が多かったから。先にそこへ全員動かして、住めるところに置いてから、帰れる人を調べた」
ユリウスはすぐには次を聞かなかった。
「全員を先に動かしたのか。帰還先が決まっている者だけを分ける方法もあっただろう」
「それもやろうとしたんだけど、途中で数字が変わるんだよ。帰りたいって言ってた人の村がなくなってたり、逆に残るって言ってた人の家族が見つかったり。草地で待たせながら組を崩していくより、いったん生活できる場所に移した方が、ノエルも帳面を追いやすいって」
「なるほど。君の発案ではないな」
「そこ、すぐ分かるんだね」
「今の説明で、君が考えた部分と君の弟が考えた部分がかなりはっきり分かれた」
「僕も一応、全部決まってから『それでいいと思う』って言ったよ」
「胸を張って言うことではない気がするが、止めなかったなら十分か」
「ほら。領主の仕事してるでしょう」
「その理屈で自信を持てるのは少し羨ましい」
ユリウスの言い方に嫌味があるのかと思ったけれど、顔を見る限り本気で面白がっているらしい。
「それで、今どれくらい残ってる?」
「後ろへ送った人の中で、今いるのが千六百八十四人。まだ家族の確認が終わってない人は少しいるけど、大きくは動かないだろうって」
「千六百八十四。随分正確だな」
「ノエルが数えたからね。三か月前にも同じ数字が出たんだけど、その時とは中身が違うんだ」
「同じ人数で中身が違う?」
「帰りたかった人が残って、残るつもりだった人が出ていったから。僕も最初、同じ数字なら同じじゃないかって言ったら、ノエルに面倒そうな顔された」
「それは君が悪い」
「ユリウスまでそっちなの?」
「人数が同じでも構成が変われば意味は違う。帳面を扱う人間なら当然そう言う」
「帝都の人って、みんなノエルみたいなのかな」
「それは帝都への偏見だ」
二人で話しているうちに、外の人声は少しずつ遠くなっていた。式典のあとすぐよりは、人が散り始めたのかもしれない。
「兵はどうした?」
ユリウスが続ける。
「灰衣の投降兵もかなり混ざっていただろう。元の街へ戻った者もいるだろうが、全部は戻らなかったはずだ」
「五百人近く元兵がいたよ。その中で兵として残りたいって言った人たちは、今も見張りとか巡回をやってる」
「五百人近く?」
「全員が正式な兵ってわけじゃないよ。そこはまだちゃんと決まってない。本人たちが兵でいたいって言うから、できる仕事を任せてる感じ」
「それだけの人数を、小領で養えるのか?」
「無理だった」
「……君、ずいぶん簡単に言うな」
「だって無理なものは無理でしょう。僕のところ、十村だよ。しかも騒ぎで荒れてるし」
「それで解散させなかった?」
「解散って言っても、帰る場所がない人が多かったから。兵をやめろって言ったところで、その日から食べ物が出てくるわけじゃないし」
ユリウスはしばらく考えているようだった。
「だから畑か」
「そう。空いてる畑はあるし、家も直さないといけない。道も悪かったから、見張りが終わったら畑、次の日は道直し、みたいになってる」
「兵に農地を与えた、と聞けば制度としては分かりやすいが、君の話だと少し違うな」
「僕も『与えた』って言っていいのかよく分からないんだ。昔使ってた人が戻ってくるかもしれない畑もあるし、水路の順番も村ごとに昔から決まってるし」
「では、権利関係はまだ整理できていない?」
「そこが今、一番困ってる」
思わず口から出て、少しだけ止まった。政務が分かる人がいない、という話まで詳しくするつもりはなかった。
でもユリウスはそこを追及せず、元の話へ戻った。
「それでも、兵は畑へ出るのか」
「出るよ。槍を持ったまま鍬を担いでくる人もいる」
「なぜ槍を持ったままなんだ」
「見張りが終わったあと、そのまま畑に来るから。置いていくと取りに戻るのが面倒らしい」
「兵なのか農民なのか、余計に分からなくなるな」
「本人たちは兵だって言い張ってる。『俺は農民じゃない』って、畑耕しながら言うんだよ」
ユリウスは一度俯いて、それから声を出して笑った。戦場で会った時には見なかった顔だった。
「それは少し見てみたいな。畑を耕しながら、自分は農民ではないと主張する兵か」
「三か月ずっと言ってる人もいるよ。でも働いてくれるから、僕はもう好きに言わせてる」
「君が最初から兵農を兼ねる仕組みを考えたわけではない、と」
「そんな立派な話じゃないよ。兵でいたい。でも兵の仕事だけじゃ食べさせられない。畑は空いてる。じゃあ畑もやって、見張りもしてもらおうってなっただけ」
「そこで『兵を減らす』ではなく、『両方やらせる』になるのが君らしいのかもしれないな」
「僕らしいって言われても、自分ではよく分からないけど」
「戦場でもそうだった。君は必要になってから人の置き場所を考える」
「それ、褒めてないよね?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「先に考えていれば、もう少し楽なのではないかと思っている」
「それはノエルにもよく言われる」
「だろうな」
ユリウスはまた少し笑った。
僕も、話しているうちに肩の力が抜けていた。名門侯爵家の人だと分かった時には、もう少し話し方を変えた方がいいのかとも思った。
でも、今さら急に丁寧にするのも変な気がする。
「ユリウスは、僕のこともっと変な人だと思ってた?」
「もっと大きなことを考えている人間だと思っていた。あの戦場で、あれだけ人を受け入れていたからな」
「大きなこと?」
「自分の軍を作るつもりだとか、灰衣の人間までまとめて何か始めるつもりだとか。少なくとも、報告だけ読めばそう見える者はいる」
「そんなこと考えてないよ。あの時は、後ろに送らないと前が詰まるし、送ったら送ったで受け取る場所が必要だっただけ」
「今なら、それは分かる」
「話してみたら?」
「話してみたら、君は思っていたより普通だった」
「それ、たぶん褒めてないでしょう」
「安心した、という意味では褒めている」
「変な褒め方だなあ」
「君に言われたくはない」
庭の外から足音が近づいた。廊下の入口で誰かが人を探しているらしく、いくつか名前を呼んでいる。
ユリウスはそちらへ目をやった。
「そろそろ戻った方がよさそうだ。この後の晩餐に遅れると、部下たちに小言を言われて面倒になる」
「ユリウスは、やっぱり上の晩餐なんだ」
「君は違うのか?」
「僕は地方の功労者とか下級貴族とか、協力した人たちを集める方。軽食と酒が出るって」
「なるほど。そちらなら、東南から来た者も何人かいるはずだ」
「知ってる人いるかな」
「戦場で顔を合わせた者がいれば、いるかもしれない。少なくとも、私の方の晩餐より君には合っている気がする」
「それ、僕が格式あるところに向いてないってこと?」
「さっきから自分で同じことを言っていただろう」
「人に言われるとちょっと違うよ」
「なら訂正しよう。君は、知らない高位貴族と席順を気にしながら食事をするより、何をしていたか分からない相手と適当に話す方が楽しめそうだ」
「それなら、たぶん合ってる」
「ほらな」
ユリウスが立ち上がる。
僕も記念章を上着の内側に戻して立った。
「また話そう、アズール。君のところの兵の話は、もう少し聞きたい。今度はできれば、式典の合間ではなく」
「いいよ。僕も帝都のこと聞きたいし。今日だけで分からないこと増えたから」
「何でも私に聞けば分かると思うなよ。帝都に住んでいても知らないことは山ほどある」
「じゃあ、知ってることだけ教えて」
「そのくらいなら構わない」
庭の出口まで一緒に歩く。廊下へ出るところで、ユリウスは右へ、僕は反対へ戻ることになった。
「それじゃ、晩餐頑張って」
「君も慰労の席で食べ過ぎるな」
「そこまで食べないよ」
「どうだかな」
ユリウスはそう言って、人の残る廊下へ戻っていった。
僕も反対側へ出る。さっきより人は減っていたけれど、それでもザクセンの朝よりずっと多い。
少し先でガレスがこちらを見つけた。
腕を組んで待っている。カインはその横で、夕刻の会場らしい場所を記した紙を持っていた。
「遅かったな。休むだけじゃなかったのか」
「休んでたよ。途中で知り合いに会って話してた」
「帝都に知り合いなんていたか?」
「戦場で一回会った人。ユリウス・クラウゼン」
ガレスの顔が少し変わった。
「……クラウゼン侯爵家の?」
「うん。やっぱり有名なんだね」
「お前、それを今まで分かってなかったのか?」
「名前は知ってたって。ちゃんと家と結びついたのが今日なだけ」
ガレスは何か言いたそうだったけれど、しばらく僕を見てから諦めた。
「その話は歩きながら聞く。夕刻の席までに一度宿へ戻るぞ」
「分かった。僕も少しお腹空いた」
「今から食うな。すぐまた食事だろう」
「軽くならいいでしょう?」
「よくない」
カインが間に入るように歩き出した。
「宿に戻れば、少し茶くらいは出してもらえるでしょう。食事は夕刻までお待ちください」
「カインまでガレス側なの?」
「本日のところは、その方がよろしいかと」
二人について、また人の多い廊下を歩き始める。
帝都へ来てから、まだ一日しか経っていない。それなのに、昨日高台から見た時より、分からないものがずっと増えていた。
そしてこのあとには、まだ夕方の慰労の席が残っている。




