第83話 帝都からの書状
三か月前まで空き家だった家の前に、朝から三人も人が待っていた。
一人はザクセンの倉を見ている書記で、抱えた板に昨日届いた荷の数を書きつけている。もう一人はトルネ村から来たという男で、手には泥のついた縄を持っていた。残る一人は見覚えのある元兵で、槍を肩に担いだまま、なぜか鍬まで持っている。
僕が戸を開けると、書記が最初に頭を下げた。
「おはようございます。昨日の荷ですが、種と修繕用の板材は倉へ入れました。食料の方は、ノエル殿から五村へ分けるように言われています。確認だけお願いします」
「もうノエルが決めたなら、それでいいよ」
「では、その通りに進めます」
書記は板を抱え直し、そのまま倉の方へ歩いていった。
今度はトルネ村の男が前へ出る。
「領主様。水路のことで、少し見ていただきたいことがありまして」
「僕が?」
「領主様に決めていただかないと、隣の村と話がつかないんです」
嫌な感じの言葉だった。三か月前なら、家が何軒残っているとか、井戸から水が出るとか、そういう話ばかりだった。最近は、誰がどの畑を使うのか、誰がどこまで道を直すのか、隣の村と何を分けるのか、そういう話が増えている。
「分かった。あとで行くよ」
「助かります。午前のうちなら、向こうの組頭もいます」
男が帰っていくと、最後に残った元兵が鍬を持ち上げた。
「俺は畑の方です」
「その格好で?」
「見張り当番が終わったところなんで。このまま行きます」
「槍も持って畑やるの?」
「置いていくと、あとで取りに戻るのが面倒なんですよ」
三か月前、兵として残りたいと言った男たちに、畑もやってもらうことになった。本当にやっている。その後、兵として残ることを選んだ者たちには、見張りや巡回も任せるようになった。
「それで、何かあった?」
「畑の端の柵が崩れてまして。向こうの家の奴らが直すって言ってるんですが、あそこは俺らが使ってる畑なんで、こっちでやるべきかと思いまして」
「……それも僕に聞くの?」
「領主様でしょう」
そう言われると困る。
「ノエルに聞いた?」
「ノエル殿には、使ってる方で直せば帳面上は分かりやすいと言われました。ただ、元からの畑の持ち主が戻ってきたらどうするのかまでは、俺も分からなくて」
「僕も分からないよ」
「じゃあ、いったん柵だけ直していいですか」
「それは直して。誰の畑かは、あとでちゃんと確認しよう」
「分かりました。昼までには終わらせます」
男は槍と鍬を持ったまま道を下っていった。僕は戸口に立ったまま、その後ろ姿を見送った。
家の前を、荷車が一台通り過ぎる。
道の向こうでは、屋根へ上がった男が板を渡せと叫んでいた。空き家だった隣家には、洗った布が何枚も干してある。井戸の横では子供が二人、桶を運ぶ女に邪魔だと追い払われていた。
三か月前は、ザクセンに人がほとんどいなかった。
今は朝からうるさい。
「兄上、そこで何してるんですか」
家の中からノエルが呼んだ。
「領主の仕事」
「戸口に立ってるだけに見えますけど」
「三件も話聞いたよ」
「一件目は僕がもう決めた話ですよね」
「そうだった」
僕は家へ戻った。この家は、みんなが領主館と呼んでいる。でも、三か月前に少し屋根と戸を直しただけの普通の家だ。
寝る部屋が一つ。人と話す部屋が一つ。奥に少し広い部屋があって、そこには机が二つ置かれている。片方は僕の机ということになっているけれど、だいたいノエルの帳面が乗っている。
今日もそうだった。
「これ、本当に領主館って呼ぶの?」
僕が自分の椅子に座ると、ノエルは帳面を一冊ずらした。
「兄上が住んでるんですから、領主館でいいんじゃないですか」
「普通の家だよ」
「大きい方の家です」
「それだけ?」
「今はそれだけで十分です。新しく建てる余裕があるなら、先に屋根がない家を直します」
「それはそうだね」
僕の家を大きくするより、住む家がない人の屋根を直した方がいい。
少なくとも今は。
ノエルは僕の前に紙を一枚置いた。
「それより、昨日までの帰還分を入れました。これで大きな確認はほぼ終わりです」
紙には、村の名前や人数らしい数字が何列も並んでいる。
「最終的に何人残ったの?」
「後送者としてこちらへ移した人のうち、今ここへ残っているのが千六百八十四人です」
「……前と同じじゃない?」
「数字は同じです」
ノエルは別の紙も重ねた。
「でも、中身は同じじゃありません。最初は帰りたいと言っていた人で、村がなくなっていて残った人もいます。逆に残ると言っていた人が、家族のいる場所を見つけて出ていった例もあります」
「じゃあ、たまたま同じ人数になったんだ」
「そういうことです。だから、三か月前の千六百八十四と、今の千六百八十四は別の数字だと思ってください」
「同じ数字なのに?」
「兄上はそういうところだけ面倒ですね」
ノエルは紙をまとめ、端を揃えた。
「これで、帰還先を探すために新領へ一時的に置いている人と、ここで暮らすことになった人を分けて考えられます。まだ家族の確認が完全に終わっていない人もいますけど、大きな動きはもう出ないと思います」
受け入れ草地から人がいなくなったのは、ずいぶん前だった。最後の組を送り出したあと、青い布も荷車へ積んだ。あの草地で何日も人を数え、札を配り、食事の列を作っていたことが、今は少し遠く感じる。
でも、草地から人が消えただけで問題が消えたわけではなかった。場所が変わっただけで、帳面はむしろ増えた。
「三か月経ったのに、帳面増えてない?」
「人も仕事も増えてるのに、減ると思ってたんですか?」
「少しくらい減るかなって」
「減るのは、仕事が終わった時です」
「じゃあ当分減らないね」
「そうですね」
ノエルがあっさり返したので、僕は諦めた。
*
昼前、トルネへ向かった。
ザクセンから出る道は、三か月前より通りやすくなっている。
邪魔になっていた枝は切られ、荷車が回れなかった小村では柵を外して道幅を広げた。全部きれいになったわけではないけれど、少なくとも荷車同士が鉢合わせして、どちらも戻れないということは減った。
途中の畑では、元兵たちが土を起こしていた。四、五人が鍬を使い、少し離れた木のそばには槍がまとめて立てかけてある。
「アズール様」
僕に気づいた一人が鍬を土に立てた。
「これ、見てくださいよ」
「何?」
「三か月前まで、俺は兵だったんですよ」
「今も兵じゃないの?」
「兵です。でも朝は見張りで、終わったら畑で、明日は道直しだって言われてるんですよ」
「忙しいね」
「農民より働いてる気がします」
隣にいた男が笑った。
「お前、農民だった頃より働いてなかっただろ」
「それは言うな」
鍬を持った男は僕を見た。
「本当に兵なんですよね、俺たち」
「戦う時は戦ってもらうよ。見張りも巡回もしてるし」
「じゃあ、まあいいです」
言いながら、また鍬を持ち直す。
「でも俺、農民じゃないですからね」
「それ、三か月ずっと言ってない?」
「大事なところなんで」
隣の男がまた笑い、二人で畑へ戻っていった。今では武器も持ち、朝の警備当番や村の外回りをしたあと、そのまま畑へ入る者もいる。家を直す組もいれば、道を直す組もいる。
元兵が五百人近くいるからといって、全員を兵の仕事だけで食わせ続けることはできない。
だからこうなった。
たぶん、もっと立派なやり方があるのかもしれないけれど、今の僕たちにはこれしかない。
しばらく進むと、今度はアズール隊の方の人間とすれ違った。二人組で、片方は弓を持ち、もう片方は小さな札の束を腰に下げている。
「どこまで行くの?」
「北の小村までです。帰りに街道沿いの荷車も見てきます。ガレス殿から、昨日車輪を壊したやつが道端に残ってると聞いたので」
「二人で大丈夫?」
「村までなら大丈夫です。向こうで一人加わります」
もう一人が続ける。
「あと、ザクセンへ戻る伝言があれば持って帰ります」
「じゃあ、トルネから何か出たらお願いするよ」
「分かりました。夕方までには戻ります」
二人はそのまま道を進んだ。
三か月前なら、こういう細かい仕事を誰に頼むか、いちいち僕たちで考えていた。
今は当番が決まっている。
ガレスが巡回を見て、エルヴィンが村の外周や道の危ないところを確認し、トマが荷車の動きを調整する。僕が知らないところで決まっていることも増えた。
少し寂しいような気もする。
でも毎朝、全部僕に聞きに来られるよりはずっといい。
*
トルネの村人は、三か月前より近くまで来るようになった。
最初に来た時は、僕たちが通ると子供を家へ入れていたのに、今日は道の端で遊んでいる子供が、僕を見ても走って逃げなかった。
その代わり、泥の塊を投げようとして母親に叱られていた。たぶん、こっちの方が普通なんだと思う。
村の中央では、朝に来た男と、もう一つの村の組頭らしい老人が待っていた。二人の間には、地面に置かれた長い縄がある。
「この縄は?」
「水路の分かれ目から畑までの長さを見たものです」
トルネの男が先に説明した。
「昔は、先にこちらへ水を引いて、そのあと向こうへ回していました。ただ、向こうの村は騒ぎで人が減りまして、しばらく水を使っていなかったんです」
老人が続ける。
「今は新しく来た者が畑を使っています。向こうは昔の順番通り、水を回してほしいと言っております」
「それなら昔の順番でいいんじゃないの?」
僕が言うと、トルネの男が困った顔をした。
「昔の家が戻ったのなら、それでいいんです。ただ、今あちらにいる方々は、昔その畑を使っていた家とは別の者でしょう」
「……ああ」
そこまで聞いて、ようやく分かった。
畑だけ残っている。
水路の順番も残っている。
でも、そこに住む人だけが変わった。
「その場合、昔の順番って引き継ぐものなの?」
二人とも、今度は僕を見た。
僕に聞かれても困る。
「こういうの、決まりはないの?」
「村同士では、昔からの取り決めがあります」
「その取り決めに、新しく来た人のことは?」
「ありません」
当然だった。
「ちょっと待って。ノエルにも聞こう」
近くの家を借りて、ザクセンから持ってきた紙を広げた。ノエルは同行していなかったので、その場では水量と人数だけ確認するしかない。
トルネ側の畑がどの程度水を使うのか。向こうの村で今耕し始めている畑がどれくらいあるのか。老人が分かる範囲で答え、僕は紙に印をつけた。
でも、それだけでは誰に先に水を使わせるべきかは決まらない。
「今年は、昔の順番のままにしよう」
二人がこちらを見る。
「今ここで順番を変えて、あとから元の村の人が戻ってきたとか、別の決まりがあったって分かったら、もっと面倒になると思う。新しく住んだ人も、今年はその順番で使ってもらう。変えるなら、ちゃんと分かる人に確認してからにしたい」
トルネの男は少し考えた。
「今年は、ですか」
「うん。ずっとそうするって決めるのは、僕にはまだ怖い」
老人の方は先に頭を下げた。
「では、今年は以前の順で水を回します。こちらの畑が増えた分は、また相談させてください」
「そうして。水が足りないなら、それは別で考えよう」
話が終わると、二人は縄を持って水路の方へ戻っていった。僕はその後ろを見ながら、なんとも言えない気分になった。
戦場なら、ガレスに聞けばだいたい何とかなる。
道ならエルヴィンに聞ける。
荷車ならトマだし、人の数や食料ならノエルがいる。
でも、今みたいな話は誰に聞けばいいんだろう。
*
ザクセンへ戻ると、ノエルにそのまま水路の話をした。
弟は帳面をめくりながら聞いていたけれど、最後まで聞くと少し眉を寄せた。
「水の量と使う人数なら見られます。でも、昔の村の権利を新しく住んだ人がそのまま継ぐかどうかは、僕が決めることじゃないですよ」
「僕が決めること?」
「兄上は領主ですから、最後はそうなるんでしょうけど、その前にどういう扱いが普通なのか確認した方がいいです」
「誰に?」
「今ならヴェルナー家の書記でしょうね。オルステッド殿にも聞けば分かるかもしれません」
「毎回?」
「今は、それしかないです」
ノエルは帳面を閉じると、机の端に積んだ紙に目をやった。
「土地の境とか、水路とか、昔からの決まりとか。最近そういう話が増えてます。食料が足りるかとか、何人いるかなら僕でも見られますけど、領地の慣習まで全部は分かりません」
「ガレスも分からないかな」
「兄上、村同士の水路でも戦列を組むつもりですか」
「それは困るね」
「だったら、別の人が要ります」
さらっと言われた。
「政務が分かる人?」
「そういう人です」
「いないね」
「いませんね」
ノエルはまた帳面を開いた。
「今は十村ですし、分からなければヴェルナー家に聞けば済みます。でも、このやり方でずっといけるとは思わない方がいいです」
「……領主って、思ってたより知らないこと多いね」
「兄上が知らないことが多いのは前からです」
「そこは領主関係ないんだ」
「ないですね」
言い返せなかった。とはいえ、今すぐどうにかしないと明日から全部止まるような話でもない。
分からないなら聞く。
昔からの決まりがあるなら、急いで壊さない。
今のところ、それでなんとか回っている。
たぶん、今のところは。
*
午後になると、領主館の前にまた荷車が止まった。
今度はヴェルナー家からの荷だった。板材と農具、それに食料が少し。
荷車を見つけたトマが先に出てきて、倉へ入れる物とそのまま別の村へ回す物を分けている。
「これはザクセンで下ろします。こっちの農具は、南の小村へそのまま持っていった方が早いです。戻りの荷車に、向こうで使えなくなった車輪を積ませます」
御者が分かったと答え、荷車の向きを変える。僕が横から見ていると、トマがこちらに気づいた。
「何かあります?」
「何もない」
「じゃあ、そこにいると荷を下ろす人が通れないです」
「ごめん」
場所を空けた。少し離れると、今度はガレスが道の向こうから歩いてきた。
「北の巡回は終わった。昨日壊れた荷車も、夕方までには戻せる」
「もう聞いたよ」
「誰からだ」
「巡回してた二人」
「ならいい」
「僕が知らないところで、どんどん決まってるね」
「全部お前に聞きに来た方がいいのか?」
「それは嫌だな」
「なら余計なことを言うな」
ガレスはそのまま荷車の方へ行った。
少し前なら、僕がいないと決められなかったことが、今は勝手に進んでいる。
もちろん、全部ではない。水路みたいな話になると、僕もノエルも止まる。でも、今日の食料をどこへ運ぶか。誰が巡回に出るか。壊れた道を誰が直すか。
そういうことなら、僕が一日いなくてもたぶん困らない。
「兄上」
領主館の戸口からノエルが呼んでいる。
今度は何だろう。
「また僕?」
「兄上宛てなんですから、兄上しか駄目です」
いつもの帳面ではなかった。
ノエルの手には、折り目のきちんとした書状があった。
*
家の中へ入ると、見慣れない男が一人待っていた。
服装だけ見れば兵ではない。旅の埃はついているけれど、僕たちのところへ来る荷運び人や書記よりずっと整った格好をしている。
机の上には、封のされた書状が置かれていた。
「アズール・エスター準男爵殿へ、お届けするよう命を受けております」
男がそう言ったので、僕は少し姿勢を直した。
この家で準男爵殿と言われると、どうも落ち着かない。
「どこからですか?」
「帝都セントリアからの文書です。ルミナ沿海伯家を通じ、こちらへ送られております」
「帝都?」
思わず聞き返した。
男は必要なところだけ説明した。
灰衣大乱の戦後処理が大きく一区切りとなり、帝都セントリアで功労者を集めた式典が行われること。
僕もその出席者に含まれていること。
細かい日程や出頭の手順は書状に記されていること。
僕は封を開け、書かれている文字を追った。
帝都セントリア。
もちろん名前は知っている。でも、自分が行く場所だと思ったことはほとんどなかった。
「僕が行くんですか」
「そのように記されております」
「行かないと駄目ですか?」
男は少し困った顔をした。
ノエルが横から口を挟む。
「兄上、正式に呼ばれてるんですから行ってください」
「でも、ここまだ全然終わってないよ」
「終わってません」
「今日だって水路の話があったし」
「ありましたね」
「政務が分かる人もいないし」
「それも、さっき確認しました」
「じゃあ、僕がいなくなるのまずくない?」
ノエルは一度、外の方を見た。
開いた戸の向こうでは、さっきの荷車から板材が下ろされている。ガレスの声も聞こえる。
「三か月前なら、困りました」
弟は机の上の書状を指で押さえた。
「でも今なら、しばらく兄上がいなくても日々の仕事は回ります。分からないことは勝手に決めません。ヴェルナー家にも確認します。兄上が戻るまで待てる話なら待ちます」
「本当に大丈夫?」
「兄上がいないだけで三日で潰れるなら、僕も帝都へ行く行かないの前に逃げますよ」
「それは困る」
「だから行ってきてください」
僕はもう一度、書状を見る。
帝都セントリア。
領主館と呼ばれている普通の家の机に、帝都からの書状が置かれている。窓の外では、誰かが板材を落として怒鳴られていた。
その向こうを、槍を持った男が鍬を肩に担いで歩いていく。三か月前には、ここにはほとんど誰もいなかった。
今は、少しくらい僕がいなくても回るらしい。
「……帝都か」
口にすると、やっぱり自分には遠い場所の名前に聞こえた。




