第81話 新しい帳面
宿へ戻って荷物をまとめていると、ロイター殿が一人の家臣を連れてきた。
「出るのは明日の朝でいいな?」
「そのつもりです。できれば早めに草地へ戻りたいので」
僕が机の上の書状の写しを畳み直している間に、カインは荷袋の口を閉じ、ガレスは窓際に置いてあった剣帯を取った。ロイター殿はそんな僕たちを見回してから、連れてきた家臣に、何か小さく確認した。
「それなら、その前に会っておけ。港都の館に残していた三人を、こちらへ移してある」
何の三人か、一瞬分からなかった。でも、港都の館、と聞いて思い出した。
「……あ」
ガレスが僕を見る。
「忘れていたのか」
「忘れてたわけじゃないよ。ずっと戦場だったから、迎えに行けてなかっただけで」
「それを忘れていたと言うんじゃないのか」
「……違うと思う」
「違わないだろう」
ロイター殿が僕たちの話を聞き流しながら、家臣から渡された小さな木札を確かめた。
「港都に残した重傷者三人だ。お前たちがノイティスへ来ると分かった時点で、動かせる状態ならこちらへ移すよう子爵殿から話が出ていた。数日前に着いている」
「三人とも、もう動けるんですか?」
「少なくとも荷車に積んだまま寝かせておかなければならない状態ではない。長く歩かせるなら休ませろとは言われているがな」
僕は手にしていた書状を置いた。
あの頃は、三人とも戦場へ連れていけば死ぬかもしれない状態だった。ヴェルナー子爵殿が預かると言ってくれて、僕は終わったら迎えに行くと話した。それから、ずいぶん長くなった。
「今、会えますか?」
「そのために来た」
宿の裏手に回ると、小さな中庭のような場所に長椅子が置かれていた。
三人はそこにいた。僕たちが最後に見た時のように横になっている者はいない。痩せたように見える者はいたけれど、三人とも服を着て、自分の足で立ち上がった。
一人が立つ時に少し時間をかけたので、僕はそちらへ手を出しかけた。けれど本人は近くの椅子の背に手を置いただけで立ち、僕の手を見ると困ったように笑った。
「そこまでじゃありませんよ、アズール様」
「でも、まだ痛む?」
「歩く分には。走れと言われたら困りますが」
「走らなくていいよ。僕も今は走りたくないし」
「それは怪我と関係ないでしょう」
横にいたもう一人がそう言って、三人の間に小さな笑いが広がった。
声まで前と同じだった。ようやく、迎えに来られた気がした。
「遅くなってごめん。迎えに来たよ」
「本当に長かったですね」
「こんなにかかると思ってなかったんだ」
「俺たちもです。最初は数日寝れば追いつけると思ってましたから」
「それは無理だったと思う」
「今なら分かります」
三人とも、港都の館で飯をもらい、傷を診てもらいながら過ごしていたらしい。途中からは庭を歩かされ、荷運びを手伝える程度になった者は軽い仕事もしていたという。
戦場の話は、断片的には聞いていた。でも僕たちがどこまで行って、今どこにいるのかまでは分からないらしい。
「今はどこに戻るんです?」
「ここから何日か北へ行ったところ。ヴェルナー子爵領の端に、草地があるんだ」
「草地?」
「ちょっと人が多いけど」
ガレスが僕の横から口を挟んだ。
「先に言っておく。俺たちだけで九十七人いる」
三人が黙った。一番端にいた男が、僕とガレスを交互に見た。
「俺たちが抜けた時、そんなにいましたか?」
「いなかった」
「じゃあ、途中で増えたんですか」
「うん」
「三十や四十ならまだ分かりますけど、九十七まで?」
「いろいろあって」
その先を説明しようとすると、ガレスが僕の肩を押した。
「全部ここで話すな。明日出るんだろう」
「そうだった」
三人には、草地へ戻ってから話すことにした。
準男爵のことまで今言うと、説明がまた長くなる気がしたからだ。
*
翌朝、僕たちはノイティスを出た。
来た時より三人増えたので、ヴェルナー家が帰路用に用意してくれた荷車にも人が乗ることになった。三人とも最初は歩いていたけれど、途中から一人が荷台に上がり、もう二人も日によって乗ったり歩いたりした。
僕はその横を歩きながら、何度か書状の写しを開いた。文字が変わるわけでもないし、読むたびに分かりやすくなるわけでもない。
準男爵位を与える。
土地を預ける。
人を移す。
そこまでは分かる。でも、僕が草地へ戻ったあと、誰に何を頼めばいいのかは書いていない。
「また読んでるのか」
前を歩いていたガレスが、振り向かずに言った。
「読むくらいしかできないから」
「草地へ戻ればノエルがいる」
「だから、そのノエルに何て言うか考えてるんだよ」
「書いてある通り言えばいいだろう」
「書いてあることが多いんだって」
後ろからカインが追いついてきた。
「でしたら、まず準男爵の件から――」
「それはやめた方がいいって、昨日カインが言ったんじゃなかった?」
「覚えておられましたか」
「そこは覚えてるよ」
「では、領地の話からでしょうか」
「それも同じだと思う」
「なら最初から全部話せ」
ガレスが結局昨日と同じことを言った。
僕は写しを畳んだ。たぶん、それしかない。
何日か進み、見覚えのある道へ入ると、荷車の上にいた三人が前方を見るようになった。草地そのものはまだ見えない。その代わり、道の先に停められた荷車の脇から、青いものが少しだけ覗いた。
「あれか」
ガレスが言う。
近づくにつれ、低いところに結ばれた青い布が見えた。僕たちが出る前と同じ位置かどうかまでは分からない。ただ、青い布の横には水桶が並び、その向こうでは何人かが荷物を運んでいた。
「旗ですか?」
荷車の一人が聞いた。
「違うよ。目印」
「ずいぶん目立ちますね」
「だから便利なんだ」
草地へ入っても、誰かが大声で僕たちの帰りを知らせるようなことはなかった。
入口近くにいた子爵家の兵が気づいて声をかけ、荷車の通る場所を空ける。その先では、桶を持った人たちが順番を待っていたし、荷車の横では札を持った男が家族らしい二人へ何か説明していた。
僕たちが通ると、知っている顔が何人か手を上げた。でも、そのまま仕事へ戻っていく。
「……普通だね」
僕が言うと、ガレスがこちらを見た。
「何を期待していた」
「別に期待はしてないけど。もう少し、帰ってきた感じがあるかと思って」
「お前がいない間も飯は食うし、水も要る」
「そうだよね」
水場の方ではブルーノの声が聞こえた。少し離れたところで、マルクらしい背中も見える。負傷者用の天幕も、僕が出た時と同じ場所にあった。ただ、人の流れは少し変わっている。新しく張られた縄もあれば、荷車の位置も違う。
何日かいない間にも、ここではここの時間が流れていたらしい。
「アズール様、まず三名をニルス殿のところへお連れしましょう」
カインに言われて、僕は頷いた。
「そうだね。そのあとノエルを探す」
三人を負傷者天幕まで連れていくと、ニルスは最初、誰が来たのか分からなかったらしい。近づいて一人の顔を見た途端、抱えていた布束を脇に置いた。
「生きてたんですね。いや、生きてるって聞いてましたけど、ちゃんと歩いてるじゃないですか」
「お前も変わらないな」
「変わりましたよ。今は人の傷を見る方です」
「それは偉くなったのか?」
「忙しくなっただけです」
三人のうち一人が足を見せ、もう一人が古い傷の具合を説明し始めた。僕が入っても邪魔になりそうだったので、カインに後を頼んで外へ出る。
ノエルは、少し離れた低い机のところにいた。ザイデルとヴェルナー家の書記が木札を並べ、その脇で紙をめくっている。僕が近づいても、ノエルはすぐには顔を上げなかった。
「ノエル、戻ったよ」
「お帰りなさい、兄上。今ちょうど一つ数が合わないので、話なら少し待ってください」
「人数?」
「違います。家族札の方です。同じ番号が二枚あるので、書き写す時に重ねたのか、元から二枚だったのかを見ています」
ザイデルが一枚を裏返し、端の傷を確かめた。
「こちらが古い方です。裏の印が違います」
「なら片方は控えですね。残してください。捨てるとまた分からなくなります」
ノエルが書記へ渡してから、ようやく僕の方を見る。
「兄上の方は、報告終わりましたか?」
「終わったよ。それと、三人戻ってきた」
「三人?」
「港都で預かってもらってた重傷者」
ノエルの顔が変わり、すぐに机の下から別の帳面を引っ張り出した。
「三人ともですか。今どこに?」
「ニルスのところ。歩けるけど、長い距離はまだ休ませた方がいいって」
「あとで確認します。九十七に三ですから……一緒に動く人数だけなら、これで百ですね」
「百人」
「戦える者が百人という意味じゃありませんよ」
「分かってるよ」
「兄上は時々、分かっていても説明を省くので」
言われてしまった。
「それで、もう一つ話があるんだけど」
「食料なら、まず昨日までの分を見てください。人数がまだ締まってないので、残り日数は仮です」
「食料じゃない」
「水ならブルーノへ。外周ならエルヴィンに――」
「僕の話なんだ」
ノエルが少しだけ眉を寄せた。
「兄上の?」
僕は外套の内側から、書状の写しを出した。
「僕、準男爵になるらしい」
ノエルの手が、帳面の上で止まった。隣で聞いていたザイデルも、僕より先に書状へ目を向ける。
「……何をしてきたんですか」
「報告だよ」
「報告へ行って、どうして爵位が増えて帰ってくるんです?」
「僕もそう思った」
「ちょっと待て」
後ろから大きな声がした。水桶の方から来たらしいブルーノが、袖を肘まで捲ったまま立っている。
「今、何になったって言った?」
「準男爵」
「準ってなんだよ。中途半端だな!」
思っていた通りのところに引っかかった。
「一代限りで、男爵に準じる領主位らしいよ」
「だから中途半端じゃねえか。男爵なら男爵でいいだろ」
「制度上は別におかしくありません」
ノエルが書状を受け取りながら言うと、ブルーノはすぐそちらを向いた。
「お前はどっちの味方だよ」
「誰の味方かで爵位の仕組みは変わりません。それより兄上、これ、土地も付いてますよね」
「うん。そこが本題」
「爵位より先にそちらを言ってください」
「カインにも似たこと言われた」
ノエルはもう書状を読み始めていた。
その横でブルーノが僕を見る。
「で、土地ってどこだ」
「ヴェルナー領の隣。かなり荒れてるらしい」
「もらって嬉しい土地なのか、それ」
「まだ見てないから分からない」
「余計に中途半端じゃねえか」
「それは準男爵と関係ないよ」
ノエルが書状から顔を上げた。
「兄上。これはここで立ち話する内容じゃありません。皆に話してください」
「そうするつもりだった」
「なら、今すぐ全員呼ぶ必要はありません。水と配給が終わってからにしましょう。今止めると、その方が面倒です」
「分かった」
ノエルは再び書状へ目を落とした。準男爵になったという話より、書面のどこに何が書いてあるかの方がもう気になっているらしい。
*
日が少し傾き、配水の列が短くなってから、主だった者に集まってもらった。
大きな天幕を使うほどではないので、荷車の脇に長板と木箱を寄せ、座れる者はそこへ座る。立ったままの者もいる。
ガレスとブルーノ、ノエル、カイン。エルヴィン、ニルス、トマ、マルク、ザイデル。オルステッド殿も来た。
戻ってきた三人は少し離れたところで腰を下ろしている。久しぶりの顔が揃ったせいか、話が始まる前から周囲の何人かに声をかけられていた。
「じゃあ、最初から話すね」
「今度は途中を飛ばすなよ」
ガレスに先に言われた。
「分かってるよ」
僕は書状の写しを手にしたまま、ヴェルナー子爵殿から聞いたことを順に話した。
準男爵位が裁可されたこと。
一代限りで、男爵に準じる領主になること。
ヴェルナー領に接する小領を預けられること。
その土地は今回の騒乱でかなり傷んでいること。
元から住んでいる人も残っていること。
そして草地にいる人のうち、戻る場所がない者たちをそこへ移すつもりだということ。
途中、ブルーノがもう一度「準」の話を始めようとしたので、ノエルが書状を指で叩いて止めた。
「そこはもう分かりました。今は土地の話です」
「俺はまだ納得してねえ」
「納得しなくても兄上は準男爵です」
「ほら、中途半端だ」
「話進めていい?」
二人とも黙ったので続ける。
「あと、ヴェルナー家が当面の後援をしてくれる。食料とか種とか、必要なものは現地を見てから決めるって」
「兄上」
ノエルが割って入った。
「僕たち百人の扱いはどうなります?」
「そこは、まだ決まってない。僕が準男爵になるからって、全員がそのまま僕の家臣になるわけじゃないみたい」
ガレスが補足した。
「今までの九十七人も、ヴェルナー家預かりの中でアズール隊として動いているだけだ。今日から準男爵家の兵になったという命令は出ていない。三人が戻ったからといって、それも同じだ」
「なら、そこは分けて考えるべきですね」
ノエルは手元の帳面の端に小さく印を付けた。
「人だけ先に増えた、ということで」
「百人ってちょっと嬉しくない?」
「食べる人が三人増えたんですよ」
「そうだね」
戻ってきた三人の一人が、遠くから申し訳なさそうな顔をしていたので、僕は慌てて手を振った。
「今のは気にしなくていいから!」
「兄上が余計なことを言うからです」
「ノエルが先に食べる人って言ったんだよ」
話がずれかけたところで、オルステッド殿が横から口を挟んだ。
「新しい領地の方だが、何もないところへ人を投げ込む話じゃない」
ノエルがすぐにそちらを向いた。
「準備しているんですか?」
「お前たちが領都へ行っている間にも、先に人をやって見させている。使える家と水場は確認させた。屋根が抜けたままの家まで数に入れてはいない。倉も一つは使えるようにしてあると聞いた。荷車が入れる道も見ている」
「既に人が入ってるんですね」
「ヴェルナー家の書記と兵、それに手を動かす者を少しだ。元から残っている住民にも、後から人が来る可能性は伝えてある」
僕は思わずオルステッド殿を見た。
「そこまでやってくれてるんですか?」
「何百人も動かす話をしているのに、空き地を指してここに置けで済むと思うか?」
「ちょっとだけ思ってました」
「思うな」
即座に返された。
トマが荷車の車輪についた泥を木片で落としながら、顔だけこちらへ向けた。
「道が見てあるなら、少なくとも荷は入れられそうですね。何台並べられるかは現地を見ないと分かりませんけど」
「畑は?」
ノエルが聞く。
「そこまでは俺も知らん。使える家と水、倉、道。今こちらで確認しているのは、まず人を置けるかどうかだ。畑がどれだけ戻せるかは、現地を見ろ」
「それなら、すぐ全員が野宿ということは避けられそうですね」
「全員分の家が足りるとは言っていない」
「分かっています」
ノエルは少し考えてから、書状の写しを僕へ返した。
「支援はどのくらい続くんです?」
「お前たちが領都へ行っている間に、こちらにも追加の指示が来た。大枠では三年だ」
今度は僕も初めて聞いた。
「三年?」
「子爵殿から聞いてないのか」
「食料とか種とか出すかもしれない、とは聞きました。でも期間までは」
「なら、そこまでは話していなかったんだろう。細かい条件は向こうで改めて聞け。復旧を始めてから三年、沿海伯家とヴェルナー家から食料や生活に必要なもの、農地や仕事を戻すための物資を出す。その間は税も取らん」
ブルーノが腕を組んだ。
「三年経ったら?」
「自分たちで食え」
「分かりやすいな」
「お前向けに言えばな」
オルステッド殿も慣れてきた気がする。
一方、ノエルはさっきまでより真剣に帳面の余白へ何かを書き始めていた。
「三年全部同じ量が出るんですか?」
「だから細かいところは現地で聞け。何をいつまで、どのくらい出すかは土地の状態次第だ。三年間ずっと全員を食わせるという意味でもない」
「それでも、三年の猶予があるなら話は変わります」
「できそう?」
僕が聞くと、ノエルはすぐには頷かなかった。
「何もないところから始めるよりは、ずっとましです。ただ、最初の一年で何を戻せるかを見ないと分かりません。家がある、水がある、種や農具の支援がある。それだけでも計算できることは増えます」
「じゃあ、なんとかなる?」
「まだ現地も見てません」
「そうだった」
「兄上はすぐ最後まで行こうとしますね」
「最後まで行けたら楽だから」
その時、ザイデルが机の上の札を何枚か持ち直した。
「一つ、確認してもよろしいですか」
「何?」
「草地にいる者を、ここで帰せる者と帰せない者に分けるという話でしたが、いつから始めるのでしょう」
「僕が聞いたのは、まず帰れる人を確認して、それから戻れない人を新しい土地へ移すって話だったよ」
ノエルの筆が止まった。
「ここでやるんですか?」
「そのつもりだったけど」
「それは、かなり面倒です」
「面倒?」
ノエルは自分の帳面を僕たちの方へ向けた。そこには番号と人数、家族の印、負傷者を示す小さな記号が並んでいる。僕には全部を見ても意味が分からないけれど、ノエルとザイデルはその紙を見れば、どの組に何人いるかすぐに分かるらしい。
「今、ようやくこの番号と札と配給が繋がっています。ここで帰る人を一人ずつ抜いたら、組の人数が毎日変わります。家族の一人だけ帰れることもあるでしょうし、怪我人を残して先に帰る人も出るかもしれません」
「家族なら一緒に帰ればいいんじゃない?」
「帰る場所が同じならです」
ザイデルが続けた。
「夫が別の村の出で、妻の家族はこちら側という家もあります。親だけ別の場所から流れてきた者もいます。今は一緒にいるので一つの組として数えていますが、帰すとなれば話が変わります」
「……そうか」
「それに、戻れるかどうかも、今は分かりません」
「村の名前は分かる人もいるよね」
「名前が分かっても、村が残っているとは限りません。家が焼けているかもしれない。道がまだ危ないかもしれない。家族が別の場所へ逃げていることもあります」
ザイデルは札の束から一枚を抜いた。
「この人は元の村を言えます。でも、その村へ今戻れるかは、私には分かりません」
少し離れた炊き出し場では、椀を受け取った女が子供へ半分渡していた。その横を組頭らしい男が札を持って歩いていく。
今ここにいる人たちは、少なくとも今日の飯をどこでもらうか知っている。水をどこで汲むかも分かっている。そこから一人ずつ抜き始める。言われてみると、簡単な話ではなかった。
「一人を帰したら、他の人も帰りたがる?」
「帰れるなら帰りたい者は多いでしょう」
ザイデルは当然のこととして言った。
「ただ、自分はなぜ駄目なのかを、その場で説明できなければ不満になります。隣の組から『あの村は大丈夫らしい』と聞いただけで動く者も出ます」
「ここでそれが始まると、また数が合わなくなります」
ノエルが帳面を指で押さえた。
「それに、この草地は長く置くための場所じゃありません。帰れるかどうかを調べ終わるまで、ここで待たせる方が難しくなるかもしれません」
「じゃあ、どうする?」
ノエルはすぐに答えなかった。
ザイデルと帳面を見比べ、オルステッド殿の方へ視線を移す。
「新しい土地の方で、本当に一時的に人を置ける準備ができるなら……僕なら、いったん全員移します」
「全員?」
「今ここにいる後送者を、です。組も札も崩さず、そのまま持っていきます」
ブルーノが眉を上げた。
「帰れる奴までか?」
「戻れると確認できたら、そこから帰せばいいでしょう。今ここで『たぶん帰れる』で分けるより、その方がましです」
ザイデルも頷いた。
「新しい場所へ着いて、食事と寝場所が決まってからなら、少なくとも一人ずつ話を聞けます。村の確認が取れた者から帰すこともできます」
「でも、一度僕の土地に入れたら、その人たちは僕の領民になるんじゃないの?」
「そこは違う」
ガレスが先に言った。
「一時的に受け入れることと、領民にすることは同じじゃない。少なくとも、子爵殿からお前が聞いた話もそうだっただろう」
「うん。全員すぐ領民にするわけじゃないって」
オルステッド殿は腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「やるなら、手順を変えることになる」
「やっぱり勝手には駄目ですか」
「当たり前だ。子爵殿は、ここで帰れる者を分けてから移す前提で話している」
怒られた。
「でも、理由は分かる。俺から上げる。草地で分けるより、受け入れ先へ一度まとめて動かした方が管理しやすい。向こうの準備状況も合わせて確認させる」
「お願いします」
「まだ決まったわけじゃないぞ」
「分かってます」
「お前は返事だけは早いな」
オルステッド殿はそう言いながら、立ち上がって近くの子爵家書記を呼んだ。その場で短い報告を書かせるらしい。僕たちの会話が終わらないうちに、もう次の仕事が始まっている。
「なら、こちらも準備だけはしておきましょう」
ノエルが帳面を引き寄せた。
「まだ全員移すと決まってないよ」
「決まってから始めたら遅いです。今の情報を増やすだけなら、帰す場合でも無駄になりません」
「何を増やすの?」
「出身地と家族です。帰りたいかどうかも、聞けるところから聞きます」
ザイデルが少し考えた。
「仕事も分かると助かります。農作業、荷運び、鍛冶、大工仕事の経験がある者。新しい場所で人を置くなら、後から必ず必要になります」
「怪我で動けない者も分けてくれ」
ニルスが言った。
「歩けるかどうかだけなら、今見ている記録に足せます。今日戻った三人も、まだ全員を同じように動かさない方がいいです」
トマも車輪から削り落とした泥を脇へ払い、話へ入ってきた。
「荷物の量も見たいですね。人だけ先に行っても困ります。道が一本しかなければ、荷車を何台入れるかで日数が変わります」
「外周も見る必要がある」
エルヴィンが荷車の向こうから言った。
「人を置ける家があるのと、夜に見張れるのは別だ。残党がいるとは限らないが、道と周囲は見てから決めたい」
話がどんどん増えていく。準男爵になると聞いた時には、もっと爵位とか領主とか、そういう話をするものだと思っていた。実際には、帳面と荷車と水と道の話ばかりだ。
「僕、何か決めることある?」
聞くと、ノエルがすぐ答えた。
「まず現地を見てください」
「それは僕も行くんだ」
「兄上の土地になるんでしょう」
「準だけどね」
「そこはもういいです」
ブルーノが横から入った。
「俺はまだよくねえぞ」
「ブルーノも見に行く?」
「荒れてるってんなら見てやる。殴れば直るもんがあるなら俺がやる」
「家は殴ったらもっと壊れると思う」
「じゃあ俺は何すんだよ」
「それを見に行くんじゃない?」
ガレスが呆れたように口を挟んだ。
「全員で行く必要はない。草地を空けるわけにもいかん。誰を連れていくかは、向こうから返事が来てから決めろ」
「そうだね」
僕はそこでようやく、話を一度切った。明日から何かが急に変わるわけではない。まだ僕の領地になったわけでもないし、草地の人たちをすぐ移すわけでもない。でも、今までと同じ帳面のままでは足りなくなる。
ノエルとザイデルはもう、僕たちの話が終わるのを待たずに紙を並べ直していた。
「今の番号はそのまま使います」
「欄を増やすなら横に足します。別帳にすると照合が増えるので」
「家族は同じ欄にまとめますか?」
「まず今一緒にいる人を残してください。今ここにいない家族は別に書いた方がいいです」
二人の間で、僕には分からない相談が始まる。さっきまで使っていた帳面の隣に、新しい紙が一枚置かれた。
「ノエル」
「兄上、まだ何かありますか?」
「僕が準男爵になった話は、もう終わった?」
ノエルは紙から顔を上げない。
「必要なことは聞きました。今はこっちの方が先です」
ブルーノが笑った。
「準だからな」
「それ関係ないよね?」
「半分くらいしか偉くなってねえんだから、仕事も半分でいいんじゃねえか」
「絶対そういう意味じゃないよ」
「分かってるよ」
分かっていて言っていたらしい。
僕は木箱から立ち上がり、少し離れた草地を見た。水桶を運ぶ人がいる。子供を連れて天幕へ戻る人がいる。組頭が札を持って歩いている。向こうでは、今日戻ってきた三人のうち一人が、昔の仲間らしい男と話していた。
僕たちだけなら百人。草地には、その何倍いるのか、まだ正確には分からない。その人たちを、いったん全部連れていくかもしれない。
「兄上、ぼんやりしているなら、三人の欄を確認してください」
後ろからノエルに呼ばれた。
「僕が?」
「迎えに行くと約束したのは兄上でしょう。今度は忘れないように、戻ったことを見ておいてください」
「忘れてなかったって」
「なら、ちょうどいいです」
机へ戻ると、帳面の一番下に三人分の印が増えていた。その横には、まだ何も書かれていない新しい欄がある。誰がどこから来て、誰と一緒で、どこへ戻るのか。分からないところの方が多い。ノエルは空いた欄へ線を引き、ザイデルが次の札を持ってきた。
僕もその横に座った。




