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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第78話 ヴェルナー子爵家領へ


 最初に見えたのは、草原ではなく、道の脇に溜まった水だった。


 轍の外側に浅い水が残り、その向こうには腰ほどの草が固まって生えている。少し先では地面そのものが低くなっていて、細い流れなのか、ただのぬかるみなのか、僕のいるところからではよく分からなかった。


 南門外を出てから、列は何度も止まった。


 子供が歩けなくなれば家族ごと端へ寄せ、荷車へ乗せていた負傷者の熱が上がればニルスが見て、次の休止では水を持っている者と持っていない者を分けた。前が進んでも後ろが動いていないことがあり、後ろを待っている間に別の組が追いついてくることもあった。


 どれだけ進んだのかより、どれだけ止まったのかの方が覚えている。


「この辺、ずっとこんな地面なんですか」


 僕が道の外を見ながら聞くと、近くを歩いていたヴェルナー家の兵が、泥を避けて馬を寄せた。


「北と東へ行くほど水が多くなります。この先も道を外れれば似たようなものです。ただ、もう子爵家領には入っていますよ」


「もうヴェルナー子爵家領に入ってるんですか」


「少し前からです。境の杭を通りましたが、あれだけ人がいれば見落としますね」


 言われて振り返っても、どの杭のことだったのか分からなかった。


 僕たちの前にも人がいて、後ろにも人がいる。道の曲がりへ入れば最後尾は見えず、見通しのいい場所でも、人影と荷車が重なってどこまで続いているのか分からない。


 ヴェルナー子爵家預かりになってから、それなりに長く一緒に戦ってきた。


 それなのに、その家の領地へ来るのは初めてだった。


「預かってもらってるのに、初めて来るって変な感じだね」


 僕の少し後ろを歩いていたカインが、道の外から近づいてきた灰衣の男の手元を先に見た。男は何も持っておらず、片手で腰を押さえている。


「アズール様。道を聞かれているだけなら、話して構いませんが、今は前を止めない方がよろしいかと」


「あ、ごめん。前を止めないようにするよ」


 男はこちらの会話を待ってから、遠慮がちに道の先を指した。


「すみません。あの先が、ヴェルナー子爵家領なのでしょうか」


「もう領内には入ってるそうです。僕も今日初めて来たので、この辺が何という場所なのかまでは分からないですけど」


 男は少し困った顔をした。


「あなた方の土地ではないのですか」


「僕たちはヴェルナー子爵家に預かってもらってるだけなので。土地を持ってるわけじゃないんです」


 答えてから、これで安心する人がいるのだろうかと思った。


 男は後ろにいる家族へ一度目を向けた。荷袋を背負った女が子供の肩を抱き、こちらの返事を待っている。


「では、ここから先で、我々がどうなるかも……」


「それは、まだ僕にも分かりません。今日入る場所は用意してもらってるみたいです。まずそこまで行きましょう」


 男は何か言いかけたが、後ろの組頭から名前を呼ばれ、家族のところへ戻っていった。


 カインはその背を見送ったあとも僕の横へは並ばず、半歩ほど後ろに戻った。


「カイン、そんなにずっと僕の後ろにいなくても大丈夫だよ。武器はもう別にしてあるし」


「武器を持っている者だけを警戒すればよかった時より、こういう時の方が面倒です」


「こういう時の方が面倒なの?」


「誰が、何の用で近づいてくるのか分かりませんから。質問だけの人もいれば、家族を探している人もいます。困っている人ほど、いきなり近くまで来ます」


 ちょうどその時、列の外から今度は女が一人、こちらへ寄ろうとした。


「すみません、息子が別の組にいて――」


 カインは女の進む先を塞ぐのではなく、僕と女の間へ斜めに入った。


「家族の照合なら、青い布の荷車の近くにノエル殿とザイデル殿がいます。名前と札を見せてください。組を離れる前に、今いるところの組頭にも一言お願いします」


「青い布は、どこでしょう」


「少し後ろです。荷車の竿に低く結んであります。走らなくて大丈夫ですから、道の端を戻ってください」


 女が礼を言って列の脇を戻る。


 僕はその横顔を見ながら聞いた。


「今の、僕が答えても同じじゃない?」


「アズール様が一人ずつ全部聞くつもりなら、止めません」


「一人ずつ全部聞くのは、さすがに無理だね」


「ですから、こちらへ来なくていい方は別の場所へ案内します」


 カインはそう言うと、また僕の少し後ろへ下がった。


 昔から僕より落ち着いていたけれど、こういうところはガレスとも違う。ガレスなら、まずどういう順番にすべきかを決める。カインは、決まった順番を邪魔するものが僕のところへ届く前に分けているように見えた。


 しばらく進むと、道の先で草の色が変わった。


 左右の水気の多い地面に挟まれていた道が少し高くなり、その先だけ大きく開いている。遠くから見ると平らな草地だったが、近づくにつれて、何本もの杭と、その間に渡された縄が見えてきた。


 荷車が三台、草の上に横向きに止められている。


 その向こうでは兵が二人がかりで杭を打ち、人足が掘った土を籠へ移していた。大きな布を張ろうとしている場所もあり、その脇には樽や桶が並べられている。まだ火の入っていない炊き出し用の大鍋が二つ、石を組んだ場所の横に置かれていた。


「あの草地が、今回入る場所ですか?」


 僕が聞くと、前から戻ってきたオルステッド殿が馬を止めた。


「あれだ。町へ入れるわけにはいかんからな。北端でこれだけまとまって使える場所は、今のところあそこしかない」


「ずいぶん準備してくれてますね」


「何もない草地へ連れて来ても、夜になれば同じことを繰り返すだけだ。子爵殿が後送を決めた時点で、人と物は先に出してある」


 草地の中央には、ヴェルナー家の兵らしい一団と、帳面を抱えた男たちが待っていた。


 ただ、こちらの列が見えてくるにつれて、動きが少しずつ変わっていく。


 最初は杭の間で話していた書記役の一人が道まで出てきた。人足へ指示していた男も、途中で言葉を切ってこちらを見ている。遠くの荷車から樽を降ろしていた二人は、手を止める代わりに樽を草へ置き、そのまま後ろの列を見通そうと首を伸ばした。


 僕たちが近づくころには、受け入れ役らしい年嵩の兵がオルステッド殿の馬の前まで来ていた。


「先触れは受けています。北側から入れ、負傷者を中央寄り、家族を西、武器放棄者を東へ分けるつもりで準備しています。ただ……」


 男は僕たちの後ろへ目をやった。


「まだ続いているのですか」


「続いている。最後尾まで一度に見えたことはない。後から追いつく者もいる」


「聞いていたより多く見えます」


「聞いていた数が確定していない。三千というのも最大の見込みだ。今ここへ来ている数ではない」


「用意した縄の内側だけでは足りなくなるかもしれません」


 オルステッド殿は草地の南側を見た。


「南を空けてあるのだろう。足りなければそちらへ広げろ。東側へはこれ以上広げるな。地面が悪いと聞いている」


 受け入れ役が、杭の外側へ視線を移す。


「東も上から見れば草です。人だけなら置けると思ったのですが」


「思った、で荷車を沈めるな。確認してから使え」


 そこでオルステッド殿が僕を見た。


「アズール、お前のところで地面を見る者はいるか」


「います。セオに見てもらいます。荷車が通れるかはトマにも聞いた方がいいと思います」


「なら、すぐやれ。人を入れ始めてから場所を変えるのは面倒だ」


 僕は列の内側へ戻り、青い布の荷車の少し前で周囲を見た。


「セオ、今こっちへ来てもらえる?」


 返事より先に、列の横から細身の男が出てきた。セオ・バルツァーは相変わらず必要以上に喋らず、僕が指した草地と、その外側の水気の多い場所を順に見た。


「向こうの地面を見てきてもらえる? どこまで人を置けるか。荷車が通れるかはトマにも一緒に見てもらいたい」


「東と南まで見ます。戻ったら、使えるところだけ伝えます」


「うん。分からないところは分からないでいいからね」


 セオはそれ以上話を増やさず、ちょうど荷車の車輪にこびりついた泥を、棒で落としていたトマへ声をかけた。


 二人が草地の外へ向かう間にも、列の前では到着した灰衣側の家族が少しずつ動き始めていた。


 長く歩いてきたせいだろう。杭の内側に空いた草を見て、先頭に近い家族の一人が荷袋を下ろした。後ろの老人もその横へ座ろうとし、子供が縄の向こうへ走り出す。


「まだそこへ荷物を広げないでください!」


 少し離れたところからベルントの声が飛んだ。


 彼は走って子供を捕まえるのではなく、元兵側の組頭を一人呼び寄せ、前の家族へ位置を戻すよう伝えた。その間に、自分は杭の内側へ入りかけていた男の荷袋を指した。


「置くのは構いませんが、組ごと動かします。今そこへ座ると後ろが詰まります。荷物を持って、縄の手前で待ってください」


「もう着いたんじゃないのか」


「着きました。でも、どこへ座るかはまだ決まってません。今広がると、あとで全員もう一度動かすことになります」


「子供がもう歩けないんだ。少しだけ座らせてくれ」


「なら、子供だけ座らせてください。荷物まで全部ほどかないで。場所が決まったらこっちから呼びます」


 男は不満そうだったが、隣の女が先に布を畳み直し、子供をその上へ座らせた。それを見て後ろの家族も荷物を完全には下ろさなくなった。


 ベルントは次の組へ移りながら、近くにいたアズール隊の兵へ人数を確認している。


「そこ、何家族入った? 勝手に前へ出たのを入れて数えるな。組頭から来た数だけでいい」


 南門外でも似たようなことをやっていた気がする。


 戦うための列ではなくなったのに、人が横へ広がると困ることだけは変わらなかった。


「兄上!」


 今度はノエルの声がした。


 青い布の荷車の横で、ノエルとザイデルが帳面を開いている。二人の前にはヴェルナー側の書記役が二人立ち、草地に引かれた区画を示す板を持っていた。


 僕が近づくと、ノエルは挨拶より先に板を指した。


「こちらでは、元兵を東側へ一つにまとめる予定だったそうです」


「その分け方だと、何か困るの?」


「まとめること自体はできます。ただ、組を混ぜられると困ります」


 ザイデルは膝の上に置いた帳面から何枚か札を抜き、板の上へ並べた。


「街での組番号と、南門外で付けた札番号を対応させています。この組とこの組は、同じ場所へ置いて構いません。ただし人を混ぜてしまうと、後から家族を探す時にもう一度全員へ聞き直すことになります」


 ヴェルナー側の書記役が札を一枚取り上げる。


「こちらとしては、武器を持っていた者は武器放棄者として一か所へ置きたいのですが。家族側と離した方が見張りもしやすい」


「離すのは構いません。ただし、この四組を一つの組として扱わないでください。今は組頭が誰を知っているかまで使って人を動かしています」


「こちらの区画は四つに切っていません」


「縄を三本増やせば済みます」


 ザイデルが淡々と言う。


 書記役は少しだけ黙り、板の上に札を戻した。


「縄なら増やせますが、こちらにもこちらの帳面があります」


「でしたら、そちらの帳面には南門外で使っている組番号をそのまま写してください。今から新しい番号を振ると、二種類の番号を全員に覚えさせることになります」


「全員へ覚えさせるつもりはありません。こちらの管理用です」


「管理する方が二種類覚えることになります」


 ノエルが僕を見る。


「兄上。僕も、今の組のまま入れた方が早いと思います。場所に合わせて人を並べ直すより、人に合わせて区画を少し変えた方が、動かす手間が少なくて済みます」


「僕もその方が分かりやすいと思うけど……オルステッド殿に確認しようか」


 僕たちが話している間にも、後ろから次の組が到着し、ベルントが縄の手前で止めている。


 オルステッド殿はちょうど受け入れ側の兵と負傷者用の場所を見ていた。


 事情を話すと、彼はザイデルの帳面を一度だけ覗き込み、それから草地へ引かれた縄を見た。


「今まで崩さず持ってきた組を、ここで崩す理由はない。元兵は東へ置く。ただし組はそのまま残せ。家族側も同じだ」


 受け入れ役の兵が確認する。


「こちらの帳面は、南門外の番号を引き継ぐ形でよろしいですか」


「そうしろ。後で正式な整理が必要なら、その時にやればいい。今は入ってきた者が誰か分からなくなる方がまずい」


 ザイデルは帳面を閉じず、そのまま次の札へ指を移した。


「それなら、先頭の二組から入れられます。こちらは家族が別組にいる者だけ印を付けていますので、休止時に知らせられます」


「兄上、元兵側へ行ってください。組頭に新しい場所へ入る順番を伝えてもらった方が早いです」


「僕、こっちで何か手伝わなくていい?」


「帳面へ触らないでいただければ十分です」


「それ、昨日も言われたよ」


「昨日より札が増えています」


 また同じことを言われた。


 元兵側へ行こうとすると、カインが少し前へ出た。


「アズール様、先に組頭を三人だけ呼びましょう。ここで全員に話そうとすると、また人が寄ります」


「そうしよう。ベルントにも伝えて、前の三組だけ動かしてもらう」


 組頭を呼び、元兵側へ新しく区切られた場所を説明する。


 街へ戻れるわけではない。ここへ着いたから処遇が決まったわけでもない。今日はこの草地へ入り、組を崩さず待つ。


 昨日から何度も同じような説明をしているのに、場所が変わると質問も少し変わった。


「ここから出てはいけないのですか」


「勝手には出ないでください。水や家族の確認で動く時も、組頭かこちらへ言ってください」


「火は使っていいのですか」


「炊き出しの場所が決まるまでは、自分たちで勝手に焚かないでください。草に火が移ると困るので」


「家族をこちらへ呼ぶのは?」


「今すぐ一斉に動かすのはやめましょう。札で場所を確認して、あとで順番に合わせます」


 近くで聞いていた若い男が、背負っていた袋を足元に下ろしながら言った。


「結局、ここへ着いてもまた待つのか」


 その横の年上の男が先に返した。


「待てと言われて死ぬわけじゃない。座れる場所が決まるまでだろう」


「いつまでここにいるかも分からないのに」


「いつまでここにいるのかは、俺も聞きたい。だが今は待つしかないだろう」


 組頭が二人の間へ入り、荷袋を戻すよう手で示した。


「今決まっているのは、ここへ入ることだけだ。勝手に話を増やすな。組を動かすぞ」


 僕の言葉だけで納得したわけではない。


 それでも三つの組が順番に動き、杭の内側へ入っていく。


 前で場所が空くと、ベルントが次の組を少し詰める。家族側ではノエルの手伝いに入った者が札を持って走り、別の区画へ人数を伝えている。


 草地が少しずつ、人の場所に変わり始めた。


 負傷者の荷車は、一般の列より先に中央寄りへ回された。


 最初の一台が止まる前から、ニルスは荷台へ上がり、横になっている男の額と脇の布を確かめていた。


「この人は先に寝かせます。熱がまだ高いです。そっちの二人は座れますけど、傷口を踏まれない場所にしてください」


 受け入れる側で布を広げていたルッツが、アズール隊の兵二人を呼んだ。


「先に奥の布を空けてくれ。この人は横にしたまま運ぶ。座れる二人は降ろして、荷車を次へ回すから、荷物をその場へ置かないでくれ」


 荷車の周りへ家族が寄ろうとすると、ルッツはその中の一人に札を見せるよう求め、本人の家族だと分かってから近くへ残した。


「付き添うなら、この縄の内側までにしてください。荷車の道は空けます。次が来ますから」


 ニルスが二台目へ移る。


「この人は昨日より足が腫れています。歩かせないでください。こっちは、降りたあと少しなら自分で動けます」


「分かった。歩ける人は端から入れる。担ぐ人をこっちへ二人寄こしてくれ」


 ルッツは負傷者そのものを診ることはしない。


 ニルスが決めた順番を崩さず、荷車が詰まらないように人を流している。


 六台全部を一度に止められるほど場所は広くない。前の荷車から人を降ろしている間、後ろの荷車は道に残り、トマが向きを変えて一台ずつ草地へ斜めに入れていた。


「そのまま真っ直ぐ入れないでください! そっちは柔らかいです!」


 少し離れたところから声がして、セオとトマが戻ってきた。


 セオの靴には泥が厚く付き、裾も濡れていた。


「東は使わない方がいいです。杭の外から二百歩も行かないうちに、踏むと水が上がります。草はありますが、その下が柔らかいです」


 トマも自分の靴底についた黒い泥を棒で落としながら、草地の南東を指した。


「荷車はもっと駄目です。空ならまだしも、人を乗せたまま入れたら沈みます。今の道から中央へ入れて、出す時も同じところを使った方がいいです。南側は東よりましですけど、広げるなら先に車輪で確かめます」


「じゃあ、東へは人も置かない方がいい?」


 僕が聞くと、セオは少し考えてから首を振った。


「見張りが歩くくらいなら大丈夫です。でも、寝る場所にはしない方がいいと思います。夜に雨が降ったら、今より悪くなるかもしれません」


「分かった。オルステッド殿にも伝えよう。南へ広げる時はトマが道を見てからにしよう」


 僕がそう言うと、セオは追加で何かを飾らず、確認した範囲をもう一度短く伝えた。


「北側も一部低いです。縄の外へ出なければ、今のところ問題ありません」


 オルステッド殿へ報告すると、東側の杭を二列分使わないことになり、人足が縄を張り直し始めた。


 朝から作っていた場所なのに、到着して一刻もしないうちに形が変わる。


 それでも、変えられるうちに変えた方がいい。


 人が入ってからでは、また全員を動かすことになる。


 水場の方では、もっと早く問題が出ていた。


 樽が並んでいるのを見た家族が何組も同時に寄り、器を持った人が一気に増えている。


「だから一遍に来るなって言ってんだろ!」


 ブルーノの声は、草地の端まで普通に届いた。


「子供と怪我人が先だ! 自分で水持ってる奴は、それ飲み切ってから来い! 樽ごと持ってこうとすんな、そこに置け!」


 大きな甕を抱えていた男が、渋々それを地面へ戻した。


「家族五人分なんだ。何度も来るより先にもらった方が――」


「今五人分持ってったら、後ろの五人が飲めなくなるだろ。組ごとに回すから待て。器一つ持って並べ!」


 ヴェルナー側の兵も桶を運んでいたが、人が多すぎて声が届きにくい。ブルーノが前で止め、別の兵が後ろの組へ順番を伝える形に変わっていく。


 僕が近づくと、ブルーノは樽の蓋を押さえたまま顔だけこちらへ向けた。


「アズール、こっちはいいから他見てろ。お前が来るとまた『アズール殿に聞けばいい』って奴が増える」


「カインにも同じこと言われたよ」


「だったら二人分言われたんだから、どっか行け」


「分かった。水の方はブルーノに任せるよ」


「足りなくなったら言う。今は出し方の問題だ」


 戦っている時のブルーノなら、もっと前へ出たがる。


 今は樽の前から動かない。


 本人が好きで水を配っているようには見えないけれど、誰かが大声で人を止めないと、準備してあった樽がすぐ空になる。


 草地の外周では、エルヴィンがヴェルナー兵と一緒に見張り位置を確認していた。


 湿地側へ細い道が二本出ており、そのうち一つは人が一人ずつ通れる程度らしい。夜に勝手に出る者がいれば見えにくいということで、杭の位置を少し寄せ、見張りを置く場所を変えている。


 ガレスとマルクは元兵側に残り、組が区画へ入るたびに人数と間隔を見ていた。


「前を詰めすぎるな。後ろの組が入る場所を残せ」


「こっちの三組、もう少し右へ寄れます。家族側との縄が近すぎますよ」


 マルクが組頭へ具体的な位置を示すと、ガレスがその先の空きを確かめた。


「そこまでならいい。ただし、縄を越えるな。家族へ会いに行く者は、今は勝手に出すな」


 それぞれが別の場所へ散っている。


 僕はその間を歩きながら、自分がどこへ行けば一番役に立つのか少し迷った。


 ノエルのところへ戻れば帳面には触るなと言われる。


 水場へ行けばブルーノに追い返される。


 負傷者のところはニルスとルッツが回している。


 草地の端はセオとトマが見た。


「僕、何すればいいと思う?」


 誰にともなく言ったつもりだったが、後ろにいたカインが普通に返した。


「今のところ、組頭たちが探す場所にいてくだされば十分だと思います」


「そこにいるだけで、ちゃんと仕事になるのかな」


「アズール様がどこにいるか分からなくなると、探す人が増えます」


「じゃあ、青い布の近くにいた方がいい?」


「その方が、私も周囲を見やすくて助かります」


 最後だけはカイン自身の都合だった。


 青い布の荷車へ戻ると、そこでは別の問題が始まっていた。


 ヴェルナー側の書記役が新しい帳面を開き、南門外から持ってきた札を一枚ずつ写している。その横で、年嵩の書記がオルステッド殿へ問いかけていた。


「こちらの帳面では、この者たちを何として記録しましょう。武器放棄者と家族、で分けますか」


「分けるのは場所だけにしろ。身分を勝手に決めるな」


「捕虜として受けたわけではない、と」


「正式な処遇はまだ出ていない。南門外からの後送者として別帳にしろ。誰がここへ入ったか、どの組か、家族がどこか。それだけ残せ」


 書記は筆を紙へ置く前に、もう一度確認した。


「後送者、で統一します。武器を持っていた者には印だけ付けますか」


「それなら構わん。ただし、印を付けたから処遇が決まったことにはするな」


 ザイデルが横から帳面を差し出した。


「こちらで武器を置いた者には既に印があります。同じ印を使うなら、説明は一度で済みます」


「印まで同じにするのですか」


「別の印を増やす理由がありません」


 ノエルも自分の紙を寄せる。


「家族側は、同じ札番号でも人数が変わっているところがあります。移動中に合流した者がいるので、入った時点で一度だけ人数を足してください。名前を最初から全部聞き直す必要はありません」


 ヴェルナー側の書記役二人が、それぞれの帳面を見比べる。


 さっきまで草地だった場所で、今度は帳面の順番まで作り直されていく。


 僕が近くへ立つと、ノエルが札束を一つ差し出してきた。


「兄上。そこにいらっしゃるなら、これを持っていてください」


「触らない方がいいんじゃなかったの?」


「順番を変えなければ大丈夫です。上から一枚ずつ渡してください」


「急に札を触ってもいいことになったね」


「置く場所がないだけです」


 僕は札束を両手で持った。


 上から一枚取ろうとすると、ノエルがすぐ言う。


「裏返さないでください。向きが変わります」


「まだ何もしてないよ。取ろうとしただけだよ」


「今しようとしていました」


 ザイデルが帳面をめくりながら、ほんの少し口元を動かした。


「アズール殿には、札を持っていただくのが一番安全かもしれません」


「二人とも僕を何だと思ってるの」


「兄上だと思っています。少なくとも帳面係ではありません」


「それ、あんまり答えになってないよ」


 それでも札を持っていると、組頭が一人ずつこちらへ来るので、結果的に僕がその場にいる意味はあった。


 新しい場所へ入った組。


 まだ道で待っている組。


 家族の一人だけ負傷者側へ行った組。


 移動中に別の家族と合流した組。


 僕には帳面の中身までは分からないけれど、組頭の顔と、どこへ行くと言われたかくらいなら覚えられる。


 途中で、ミケルが荷車の竿から青い布を外しかけているのが見えた。


「その青い布、ここではどうするの?」


「ここまで来たので、一度外そうかと思ったんです。荷車も負傷者側へ回すかもしれませんし」


「ここまで来たなら、もういらないかな」


 僕が言うと、ノエルが札を書記へ渡しながらこちらを見た。


「まだ必要です。外さないでください」


「やっぱり、ここでも必要なんだ?」


「今、組頭がどこへ来ていますか」


「今は、ここへ来ています」


「後から追いついた人は、何を探しますか」


「……たぶん、まず青い布を探すと思う」


「でしたら付けておいてください。荷車を動かすなら、帳面を置く場所の近くへ別に付ければいいです」


 ミケルが布を手にしたまま周囲を見た。


「今度は高いところへ結びますか?」


「低くていいです。旗ではありませんから」


 僕が言うと、ミケルは慣れた手つきで別の荷車の竿に布を結び直した。


 草原の真ん中近く。


 ヴェルナー家の家紋でもなく、灰衣の印でもない青い布が、荷車の横で少しだけ揺れた。


 それを見つけたらしい組頭が一人、すぐこちらへ向きを変える。


「ほら、もう青い布を見てこっちへ来てる」


「だから必要だと申し上げました」


 ノエルはそう言いながら次の札を僕から取った。


 日が傾くころになって、草地の見え方は朝とはまるで違っていた。


 最初に打たれていた杭だけでは足りず、南側へ縄が増えている。家族の区画では荷物がまとまり、布を敷いたところへ子供が座っていた。元兵側では組ごとに少し間を空けて人が腰を下ろし、ガレスたちがその間を歩いている。


 負傷者の場所には天幕が一つ張られ、全部を中へ入れられない者は、その周りに敷いた藁の上に寝かされていた。ルッツが水を運ぶ人と荷車を通す人を分け、ニルスは横になった者を順番に見ている。


 炊き出しの鍋にも火が入った。


 まだ全員へ行き渡っているわけではなく、ブルーノの声は相変わらず水場から聞こえてくる。


「その桶はそっちじゃねえ! こっちは飲む分だ! 洗うなら向こうでやれ!」


 少し離れた場所では、ベルントが縄の外へ荷物を積もうとした家族を戻している。


 セオは外周から帰ってくる見張りの話を聞き、ヴェルナー兵の書記へ湿地側の通れる道を伝えていた。


 トマとミケルは六台の荷車の位置をもう一度変え、夜中でも抜けられるよう車輪の向きを揃えている。


 何もなかった草地に、人が寝る場所と、歩く場所と、荷車が通る場所ができていた。


 まだ誰かを呼ぶ声は絶えない。


 家族が見つからないと札を持って来る者もいる。


 水が足りないという組もある。


 火を使っていい場所を聞く者もいる。


 それでも、到着した時のように全員が好きな場所へ広がろうとはしなくなった。


「……今日の夜は、ここで大丈夫かな」


 僕が青い布のそばで言うと、帳面に最後の組を書き足していたノエルが、筆先を紙から離さずに返した。


「今日の夜だけなら、たぶんです。明日の朝になれば、水と食料と人数をもう一度合わせます。後から来る人がいれば、その分も増えます」


「やっぱり明日もやるんだね」


「朝になったら帳面が勝手に整うわけではありませんから」


「それ、ザイデルさんの台詞じゃなかった?」


「正しい言い方だったので、そのまま使いました」


 ザイデル本人は少し離れたところで、ヴェルナー側の書記に組番号の読み方を説明していた。


 僕が荷車に戻した時、草地へ入ってきた馬が一頭、青い布の前で止まった。


 乗っていたのは見覚えのないヴェルナー家の兵だった。泥の少ない外套を着ていて、ここまで列と一緒に来た兵とは違う。


 カインが僕より先にその手元を見てから、馬の前へ半歩出た。


「アズール・エスター様へのご用件でしょうか」


「子爵殿からの言伝を預かっています。アズール・エスター殿ご本人にお伝えしたい」


「僕がアズール・エスターです」


 兵は馬を降り、周囲の様子を一度見た。


 青い布の下ではノエルが帳面を閉じる暇もなく、少し先では荷車が一台動いている。水場からはブルーノの声が聞こえ、家族区画では子供を呼ぶ女の声が重なった。


「子爵殿より、こちらが落ち着き次第、領都へ出向き、今回の経緯を報告するようにとのことです。急ぎではない、まず後送者の受け入れを優先せよ、とも承っております」


「落ち着き次第、領都へ行けばいいんですね」


「そのように承っております」


 僕はもう一度、草原を見た。


 杭の内側には人が座り、鍋から湯気が上がり始めている。


 少なくとも、着いた時よりはずっとましだった。


 ただ、ちょうどその時も、ベルントの声が遠くから飛んできた。


「そこはまだ使わないでください! 東側は地面が悪いって言ったでしょう!」


 続いて、ノエルが僕を呼ぶ。


「兄上! そこにいるなら、この札を持ってください。今度は順番を変えないでくださいね!」


 使者が、僕と草原を交互に見た。


「……どの辺から、落ち着いたことになるんでしょう」


 僕が聞くと、使者はすぐには答えなかった。


 仕方がないので、僕はノエルのところへ戻って札束を受け取った。


「たぶん、もう少しかかります」


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