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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第77話 帰る場所


 目を開けた時、荷車の車輪の向こうに、知らない足が二本あった。


 革靴の先に乾いた泥が固まり、裾の色からヴェルナー家の兵だと分かる。男は僕に気づいていないらしく、隣の兵と小声で昨夜の交代について話しながら、武器置き場の方へ歩いていった。


 僕は荷車の脇に敷いた布から体を起こした。


 夜のうちに冷えた地面の冷たさが、まだ背中に残っている。眠った気はほとんどしなかったのに、火の跡はもう灰だけになり、畑の向こうは朝の明るさに変わっていた。


 そして、人はまだいた。


 昨日と同じ場所に家族が固まり、子供を膝に乗せたまま眠っている女がいる。その隣では男が昨夜使った木の器を布で拭き、三つ重ねて荷袋へ戻していた。少し離れた元兵の区画では、立ち上がって足を伸ばす者を組頭が呼び止め、武器置き場の方へ近づかないよう向きを変えさせている。


 夜が明けたのだから、昨日より少しくらい片づいているような気がしていた。


「……まだいるね」


 荷車の反対側で木札を並べていたノエルが、二枚を見比べたまま返した。


「兄上。昨夜、朝になっても全員いなくなるわけではないと申し上げましたよね。むしろ夜中にも増えています」


「増えてるの?」


「溝の方から三組来ています。家族だけの組と、武器を持っていた者が混じった組が二つ。昨夜と同じ条件で受けています」


 ノエルの隣では、ザイデルが昨日から使っている帳面を膝に置き、端の余白へ小さな印を書き足していた。紙は何度もめくられたせいで角が反り、ところどころ乾ききらない泥の染みが残っている。


「その三組は、もう全部載ってるんですか」


「半分ほどです」


 ザイデルは帳面から目を離さず、別の札を指で押さえた。


「こちらの札番号と街で使っていた組番号が一致しない者がいます。昨夜のうちに家族と合流した者もいるので、今朝もう一度合わせ直しています。朝になったから帳面まで勝手に整うわけではありません」


「それ、昨日も聞いた気がする」


「昨日より増えております」


 ノエルと同じことを言われた。


 近くで、手伝いに入っている女が一人の老人を呼び止めた。


「その札、外さないでください。息子さんを探すなら、先にこちらへ名前を言ってください」


「昨夜、あっちにいると聞いたんだ」


「場所を確認してから案内します。今勝手に動かれると、また分からなくなります」


 老人は不満そうに何か言ったが、結局その場に腰を下ろした。


 僕が寝ている間も、ここは止まっていなかったらしい。


 少し離れた水桶のところでは、ブルーノが蓋を外し、底へ柄杓を入れて残りを見ていた。昨夜オルステッド殿が追加させた桶が並び、空になった二つをヴェルナー家の兵が肩棒に掛けようとしている。


「そっちは先に持っていけ。こっちはまだ残ってる。戻るまでに全部空にすんなよ」


「朝の分はどれくらい出します?」


「子供と怪我人を先にしろ。大人は自分の水を持ってるならそっちを使わせる。昨日みてえに、器もなしに口だけ持ってくる奴は並ばせるな」


 ブルーノが柄杓を桶へ戻すと、ちょうど器を抱えた男が列へ寄ってきた。ブルーノはその手元を見てから、後ろに並べと顎で示す。


 昨日の夜より、ずっと普通の朝に見えた。


 ただ、その普通の朝を過ごしている人数が多すぎた。


 武器置き場の方へ行くと、ガレスとマルクがヴェルナー兵の夜番から報告を受けていた。槍と剣は昨日よりさらに人の列から遠ざけられ、周囲には縄が張られている。武器へ近づいた者がいなかったのか、見張り役の兵が指で昨夜の巡回路を示していた。


「夜半に二人、家族区画から外へ出ようとした者がいます。どちらも用足しだったので、組頭を呼んで確認させました。武器側へ近づいた者はいません」


「組頭を通したのはよかった。夜中にこちらだけで押さえると、余計な騒ぎになる」


 ガレスは縄の位置を見てから、武器置き場と元兵の区画の間を目で測った。


「このままなら、もう少し外へずらせる。ただし、今朝のうちに移動が決まるなら、触らない方がいいかもしれん」


「移動?」


 僕が声をかけると、ガレスは振り返り、僕の後ろへ視線をやった。


「オルステッド殿が朝の確認を始めている。今日もここへ置くか、動かすかを決めるはずだ」


 その言葉が終わる前に、城壁側からオルステッド殿が歩いてきた。


 昨夜からほとんど同じ格好だが、外套だけは外している。後ろには二人の兵が付き、一人は夜番から受け取った板を抱えていた。


「ちょうどいい。アズール、お前も来い。昨夜から今朝までの状態をまとめる」


 僕がガレスと並んで付いていくと、オルステッド殿はまず武器置き場の縄の外から中を確認した。


「再武装はなし。騒ぎは?」


「家族区画から出ようとした者が二名。組頭を呼んで戻しています。武器へ近づいた者はありません」


 夜番の兵が答える間にも、マルクは新しく運ばれてきた短剣を別の箱へ入れ、刃先の向きを揃えている。オルステッド殿はその手元を見てから、元兵の区画へ視線を移した。


「ハーゲンの報告は」


「南門側、畑道側ともに発見報告なしです。夜中に通った者の聞き取りも続けています」


「今朝も同じだ。見つけても勝手に斬るな。こちらへ知らせろ。現地の兵を追跡へ割く必要はない」


 僕が「まだ見つかってないんですね」と言うと、オルステッド殿は歩きながら返した。


「少なくとも、こちらへは何も届いていない。見つからないことと、逃げ切ったことは同じではない。お前はそこを都合よく一緒にするな」


「してません。ちょっと安心しただけです」


「それを都合よくと言う」


 言い返せず、そのままノエルたちのところまで付いていった。


 ノエルは僕たちが近づいても手を止めず、木札を三枚に分けていた。一枚は家族側、もう一枚は元兵側、残りはまだ場所の合っていない者らしい。


「人数は、どこまで出た」


「まだ締めていません。夜の分を足しています」


 ノエルは一枚の札をザイデルへ渡し、別の紙の端を押さえた。


「昨日の夕方より増えていることだけは確かです。到着済みの人数なら、昼までには今よりましな数字を出せると思います。でも、その間にまた来れば変わります」


「三千という数字は、最後まで見込みのままだな」


 オルステッド殿がザイデルへ向けた問いに、ザイデルは帳面を一枚戻した。昨夜書き足した名が余白まで詰まり、別の組へ移した者には横線が引かれている。


「街から出せると考えていた最大に近い数です。家族、歩ける負傷者、戦える者を合わせて、です。林に残った者もいますし、別の道へ向かった者もいます。ここへ来た者の最終数ではありません」


「なら、報告にはそう書く。三千収容済みとは書けん」


 オルステッド殿が後ろの兵へ手を出すと、板と紙が前へ出された。書記役の兵は荷車の縁を机代わりにし、膝をついて筆を整える。


 南門外。


 灰衣の武器放棄者と家族を収容中。


 夜間の大きな混乱なし。


 武器放棄継続。


 正確な人数は未確定。


 最大計画規模は約三千。


 ハーゲン所在不明。


 オルステッド殿が一項目ずつ言うたび、書記役の筆が紙の上を進んでいく。近くではノエルたちの名前読み上げも続いているので、時々同じ名前が重なり、書記役が聞き返した。


「内部の指示系統は、どう記しますか」


 その箇所だけ、書記役は筆を紙から上げた。


 昨夜の状態を一言で書こうとすると、確かに妙だった。


 外側にはヴェルナー兵が立っている。灰衣の元兵は自分たちの組頭の声を聞き、その組頭たちはハーゲンの命令で僕たちの指示を待っている。家族と負傷者の場所を動かしているのはノエルとザイデルで、僕たちは正式に何かを任されたわけでもない。


「灰衣側の各組頭、ザイデル、アズール・エスター隊の従来手順で維持。ヴェルナー側は外周警備、と書け」


 書記役がそのまま書き始めたので、僕は思わず紙へ寄った。


「オルステッド殿、その書き方だと、僕たちがものすごく大勢を降伏させて、そのまま指揮してるみたいに見えません?」


「どこか事実と違うか」


 オルステッド殿は紙から目を離さない。


「一つずつ見ると、たぶん合ってるんですけど……」


「なら、そのまま書け」


 書記役の筆がまた動く。


「全部並ぶと違う感じがするんですよ」


 今度はノエルまで横から口を挟んだ。


「兄上。今のところ、実際にそういう状態です。誰が正式に何を命じたかはともかく、人が動いている順番だけ書けばそうなります」


「ノエルまでそんな言い方する?」


「褒めているわけではありません。帳面上の話です」


「それなら分かるよ」


 書記役が笑いをこらえるように一度口元を曲げたが、オルステッド殿が紙を受け取る頃には何事もなかった顔へ戻っていた。


「子爵殿へ届けろ。こちらは移動案を作る。返答が先に来たら、それに従う」


 伝令が紙を筒へ入れ、南門側へ走っていく。


 僕はその背を見送ってから、畑へ目を戻した。


「今日、ここから動かすんですか」


「動かさずに済むなら、その方が楽なんだがな」


 オルステッド殿は、家族区画から武器置き場まで一度見渡した。


「だが、楽だから置いておける人数ではない」


「街へ戻すのは、やっぱり無理ですか」


「今朝も同じだ。中央の主だった抵抗は崩れたが、残った人間と武器の確認が終わっていない。建物に隠れている者もいる。昨日まで戦っていた者を家族ごと数百、数千と戻せば、現場は混乱するだろう」


「家が残ってる人もいると思うんですけど」


「いるだろう。家へ戻りたい者もいる。だからこそ、今ここで好きに戻せば誰が戻ったのか分からなくなる」


 南門の内側では、入る兵と出る兵が一度止められ、所属を確認されている。昨日まで大勢が押し合っていた門なのに、今朝は一人ずつ通しているのが見えた。


 僕でも、その列へ今ここにいる人たちを流し込む気にはなれなかった。


「じゃあ、本営側へ送るのはどうです?」


 オルステッド殿が答える前に、後ろからノエルの声がした。


「それも困ると思います」


 帳面をザイデルへ預けたらしく、ノエルは空いた木札を抱えてこちらへ来た。


「本営にも負傷者と捕虜がいますよね。それに各隊の荷駄と配給も」


「そうだ。昨日までの戦闘でさらに増えている」


「食料だけなら、一度に持って来られるかもしれません。でも、この人数を置く場所、水を飲ませる場所、家族と元兵を分ける場所、負傷者を寝かせる場所が必要です。見張りも増やします」


 ノエルは畑の外側を指した。


「昨夜だけでも、あそこまで使いました。本営へ移したら、向こうでも同じものを作り直すことになります。それに帳面も、向こうの記録と合わせ直します」


「お前が一番嫌なのは最後か」


「最後もかなり嫌です」


 オルステッド殿の口元が少しだけ緩んだ。


「だが、理由としては正しい。本営は兵を動かす場所だ。戦いが終わりかけたからといって、そこへ新しく大人数を抱え込ませるのは良くない」


「なら、ここに置いておくしかないんじゃないですか」


 僕が言うと、ノエルは抱えていた札を一枚ずつ指で揃えた。


「兄上。今日の水はどうします?」


「昨日みたいに運んでもらって……」


「明日も?」


「……また運んでもらう?」


「では、その次の日もですか。食料も同じです。持っている家族の分は、昨日から減っています」


 少し離れたところで、ブルーノが空の桶を運び出す兵へ怒鳴っているのが聞こえた。


「そっちの井戸だけで回すな! 昨日みてえに並んで止まるぞ。二手に分けろ!」


 昨日の夜は、朝まで持てばいいと思っていた。


 朝になったら、昼まで持てばいい。その後も同じように先送りできる気がしたが、実際には桶も食料も減り続ける。


「兵も、何日ここへ張り付けるかという話になる」


 オルステッド殿が武器置き場の方へ顎を向けた。


「武器もこのままでは置けん。街の復旧が始まれば、南門外は人と荷車の出入りに使う。ここは収容地ではない」


「……どこかへ連れていくしかないんですね」


「そういうことだ」


 それだけは決まった。でも、行き先はまだだ。

 返答が来るまで、僕たちは出発を前提にした準備だけ始めることになった。


 ガレスは最初に武器の扱いを確認した。


「元の持ち主へ返すことはないだろうが、これをどう運ぶ。投降者と同じ列へ入れるなら、前か後ろへ完全に離した方がいい」


「荷車に積む?」


「負傷者が先だ。武器のために人を降ろすのは順番が逆になる」


 トマも六台の荷車を一台ずつ見て回り、車輪に付いた泥を棒で落としていた。荷台の板を踏み、軋み方を確かめてから僕を見る。


「今の六台は、歩けない人を乗せたらほとんど埋まります。荷物まで全部載せるのは無理です。道が昨日までと同じとは限らないですし、積みすぎると車輪が先に駄目になります」


「ヴェルナー側から借りられれば?」


「何台か増えるなら助かります。でも、歩ける人まで乗せる話にはならないですよ。何台あっても足りません」


 少し先ではニルスが負傷者を座らせ、額へ手を当てていた。


「この人は荷車に乗せます。昨日は歩けてましたけど、熱が上がっています。こっちは最初は歩けます。ただ、途中で傷が開いたら替えないと駄目です」


「全部、今決められる?」


「全部は無理です。途中で変わります。昨日から手伝ってくれてる人にも、一緒に見てもらいます」


 ニルスの後ろでは灰衣の年配の女が布を結び直し、次の負傷者を座らせていた。誰が正式に何を任されたわけでもないのに、昨日から必要だった仕事がそのまま続いている。


「それでいい。無理そうなら止めよう」


 僕がそう言った頃には、こちらが荷車や武器を見て回っているのを、灰衣側も気づいていた。


 家族区画の端で、昨日まで広げていた布を畳む者がいる。元兵の組では、男が仲間へ何かを伝え、座っていた三人が荷袋を寄せ始めた。


「まだ出発は決まっていません!」


 ザイデルの声がその上を通った。


「荷物をまとめるのは構いませんが、勝手に場所を変えないでください。札も外さないでください。家族を探すなら、先にこちらへ名前を言ってください!」


 少し離れた場所で、老人が荷袋を肩に担ぎかけて止めた。その隣の女は子供の手を引き寄せ、元の火の跡のそばへ座り直す。組頭の一人は、自分の組へ向けてまだ動くなと手で示していた。


 僕がザイデルのところへ行くと、彼は三冊の帳面を横に並べ、昨夜の札番号を照らしていた。


「……大変そうですね」


「動くかもしれないという話を、決まる前に広げた方がいらっしゃいますので」


「もしかして……僕?」


「誰とは申しません。朝から荷車を見て回り、負傷者を乗せる話をしていた方です」


「ごめんなさい」


「謝るより、決まるまで人を動かさないでください。動き始めてから順番を作るのが一番困ります」


「分かった。まだ待ってもらう」


 僕が組頭たちへそのまま伝えに行こうとした時、南門側から馬の音が近づいた。朝に送った伝令とは別の兵が、馬を降りる前から筒を掲げている。


 オルステッド殿が受け取り、封を確かめて紙を開いた。ガレスやノエルも自然に近くへ寄ったが、ザイデルだけは少し離れたまま帳面を抱えている。


 オルステッド殿は最初の数行を読み、途中で一度、南門外の畑へ視線を上げた。


「子爵殿からですか」


「そうだ」


 紙を持ったまま、オルステッド殿が僕たちにも聞こえる声で内容を伝えた。


「南門外の灰衣武器放棄者及び家族は、ヴェルナー子爵家領へ後送する。道中の警備はヴェルナー家側で受け持つ。現地で使っている組分けと帳面は崩さず、そのまま連れて来い」


 僕は一度、聞き間違えた気がした。


「子爵家領へ、ですか」


「ここより後方で、こちらが責任を持って場所を作れるのはそこだ。正式な処遇が決まるまで、一度引く」


「ここにいる人、全員?」


「原則はそうだ。途中で別命令が出れば従うが、今はこの方針で動かす」


 ノエルは驚くより先に、抱えていた札を脇へ挟んだ。


「道中の食料と水は、ヴェルナー家側の補給から出してもらえるんですか。全部こちら持ちでは足りません」


「補給へ乗せる。持参分がある者たちはそのまま使わせろ。不足分を出す。人数が締まり次第、必要量を報告しろ」


「それなら、出発前の一斉配給はやめます。今ある分を確認して、足りない組だけ先に回します」


「そうしろ。人数が曖昧なまま全部へ配るな」


 ガレスは別のところを見ていた。


「武器はどうします」


「この場で討伐軍側へ引き渡して別管理にする。少なくとも投降者の列と一緒には運ばない」


「その方がいい。列の途中に武器を置く理由はありません」


 それで大きな問題が一つ消えた。

 僕はもう一度、ヴェルナー子爵家領という言葉を頭の中で転がした。


 僕たちを預かっている家の領地だ。


「僕たちも、一緒に戻るんですよね」


 オルステッド殿が紙を折りながら僕を見る。


「お前たちをここへ残して、こちらの兵だけでこの人数を動かせると思うか」


 昨日、ヴェルナー兵が畑側へ動けと命じても動かなかった元兵の組を思い出した。僕が同じことを言うと、すぐ列が動いた。


「……たぶん無理です」


「なら、アズール隊は今まで通り内側を動かせ。こちらは前後と外側を押さえる。子爵家領へ着くまでは昨夜の形を変えない」


「分かりました。僕たちも一緒に戻ります」


「戻る、か」


 オルステッド殿が一度だけ畑の人々へ目をやった。


「お前たちにはそうだろうな」


 その言い方が少し引っかかったが、オルステッド殿はもう次の指示へ移っていた。


「ザイデル。お前も来い。その帳面ごとだ」


 呼ばれたザイデルは、帳面を抱えたままこちらへ寄った。


「私も、ヴェルナー子爵家領まで同行するということですか」


「お前だけここへ残して帳面を持っていっても、誰が誰だか分からんのだろう」


「読めないわけではありません。街側の組番号とこちらの札番号は対応させています。ただ、事情を知らない方だけで照合すれば、かなり時間がかかります」


「なら、なおさら来い」


 ザイデルはすぐ返事をせず、手元の帳面を見た。紙の間には札の切れ端が何枚も挟まり、紐も昨日より太く見える。


「この人たちの照合が終わるまでは、同行します」


「お前自身の処遇が決まったわけではない。そこは間違えるな」


「承知しています。私も、今のところ何者として扱われているのか分かっておりませんので」


 オルステッド殿はそれ以上何も言わず、前後の警備へ回す兵を選び始めた。


 出発が決まると、南門外の空気が一度に変わった。

 ただし、全員が同じように動いたわけではない。


 家族区画では、さっきから荷物を畳んでいた男がすぐ立ち上がった一方、事情がまだ届いていないらしい女は火の跡で、子供にパンを割って渡している。元兵の組では、先に聞いた者が後ろへ知らせに走り、別の組では組頭が僕たちの説明を待てと座らせたままにしていた。


 ザイデルとノエルは手伝いの者を呼び、家族側へ伝える順番を決めている。


「先に、今いる場所から勝手に動かないことを伝えてください。出発の組順は後から出します。荷物をまとめるのは構いません」


「家族が別の組にいる者は?」


「今は合わせません。出発前に全員やると間に合わなくなります。休止時に場所を知らせます」


 ノエルが別の札束を持ち上げた。


「負傷者の家族だけは先に確認しましょう。荷車に乗せた後で探し始めると、列が止まります」


 僕が口を挟む隙はなかった。


「兄上、来ていたんですね。エスター隊の方は、今朝までに引継ぎ先と施療所に残っていた人も戻っています。九十七、所在は全部取れました」


「怪我は?」


「それは別に見ています。ただ、名前の抜けはありません」


「兄上は元兵の組頭へ説明してください。こちらは家族側をやります」


「分かった。そっちは任せる」


 僕はガレスと一緒に、元兵の組頭たちを集めた。


 昨日から何度も顔を見た男もいる。初めて近くで見る男もいる。灰色の上着を着たままの者、もう脱いで肩に掛けている者、包帯を巻いた腕を押さえている者。


 全員がそろう前から、後ろでは何人かが荷袋の紐を締め始めていた。


「今日、ここを出ます」


 僕が言うと、目の前の組頭の一人がすぐ後ろを振り返った。別の男は肩に掛けていた袋を地面へ戻し、もう一人は隣の組頭へ何か小声で確かめている。


 少し離れた元兵たちにはまだ聞こえていないらしく、座ったままこちらを見ていた。


「街へ戻るのですか」


 先頭の男が聞いた。


「街には戻れません。中の確認が終わっていないそうです。今日、ここを出て、ヴェルナー子爵家領へ移ります」


「どれくらい遠いんだ……?」


「僕には正確な日数までは分かりません。道中はヴェルナー家の兵が警備します。僕たちも一緒に行きます」


 その説明が後ろへ伝えられると、元兵の区画のあちこちで荷物へ手を伸ばす者が出た。


 家族側にも話が届き始めたらしい。子供を抱いていた女が立ち、隣の家族へ何か聞いている。その向こうでは老人が青い布の方を指し、若い男が首を振っていた。


「そこへ行けば、帰れるのですか」


 声をかけてきたのは、元兵ではなかった。


 少し後ろにいた女が、子供の手を握って立っている。昨日も見た気がするが、どこの家族だったかまでは分からない。


「ヴェルナー子爵家領に住めるという話ではありません。今のところは、ここから移る先がそこだと決まっただけです」


「街へは戻れないままですか」


「今は戻せないと言われています。いつ戻れるかも、僕には約束できません」


 女は返事をしなかった。


 子供だけが母親の袖を引き、何か小さく聞いた。女はしゃがみ込み、今は荷物をまとめようとだけ答えた。


 その横で、元兵の一人が僕へ一歩近づいた。


「武器は返されないのですね」


「返りません。武器は討伐軍側で別に管理します。皆さんは組を崩さず、そのまま移動してください」


「我々は捕虜として連れていかれるのですか」


 これも、昨日から何度も似たことを聞かれている。


「正式な扱いは、まだ決まってません。昨日と同じです。武器を置いて、名を告げて、上の判断が出るまで勝手に離れない。その状態のまま移動します」


 男は納得した顔ではなかったが、もう聞かなかった。


 後ろで、別の組の若い男が「それなら街へ戻れないのと同じじゃないか」と声を上げた。それに反応して二、三人が立ちかけたが、組頭がすぐ前へ出て手で制した。


「ハーゲン様の命令は変わっていない。組を崩すな。武器へ近づくな」


「でも、どこへ連れていかれるかも――」


「今聞いただろう。ヴェルナー子爵家領だ。嫌なら勝手に散れ、とはハーゲン様は言っていない」


 立ちかけた男はしばらく組頭を睨んでいたが、結局荷物のそばへ座り直した。

 僕の言葉だけで全部が収まったわけではない。ハーゲンが残した命令と、組頭たちの声がまだ人を繋いでいた。


 それがありがたかった。同時に、いつまで残るのかは分からなかった。


 昼に近づく頃には、ようやく移動の形が見え始めた。


 先頭へヴェルナー兵が入り、その後ろに僕たちの一部が付く。元兵は組ごとに間を空け、家族はできるだけ家族単位を崩さない。負傷者の荷車は途中で止めやすいよう、六台を一か所へ固めすぎない。


 最初に考えたほど綺麗には並ばなかった。


 家族の中に元兵がいる者もいるし、負傷者の家族は荷車の近くにいたがる。子供を連れた家族を元兵の組と同じ速さで歩かせるわけにもいかない。


 ノエルとザイデルは、列そのものより「どこで止めても戻せるように」札と組番号を揃える方を優先した。


「この家族は三人です。父親は元兵の四組目。昨日から別れています」


「移動中は分けたままにします。休止時だけ位置を知らせましょう。今合流させると四組目から一人抜けます」


「こちらの子供は?」


「昨夜、別の火のところにいた子です。母親の札を先に確認してください。出発前に合わせます」


 二人の間に札が積まれ、手伝いの者がそれを持って各場所へ走る。


 僕が近づくと、ノエルは一度だけ顔を上げた。


「兄上。何か決めることがあるなら今言ってください。出発してから組を変えるのは大変です」


「ないよ。邪魔しに来ただけかも」


「でしたら、荷車の方を見てください。トマさんが荷物を降ろしています」


 追い払われた。


 荷車では、トマとミケルが家族の荷物を一つずつ降ろしていた。


「これは持てますか」


「背負える。こっちは?」


「それは二人で持ってください。鍋まで荷車に載せると、負傷者が乗れません」


 大きな袋を抱えた男が不満そうに荷台を見た。


「これは家族の冬物だ。置いていけない」


「置いていけとは言ってません。歩ける人が持ってください。途中でどうしても無理なら、その時また考えます」


 トマは言いながら荷車の奥を空け、ニルスが指した負傷者をそこへ座らせた。


「この人は横にします。足を伸ばさないと駄目です」


「なら、隣の荷物を下ろす。そっちの人、少し詰めてもらえますか。痛かったら言ってください」


 荷物と人を動かすたび、荷車の周りに家族が寄ってくる。誰の荷物がどこへ行ったか分からなくならないよう、ミケルが札を縄へ結んでいた。


 水の方も、朝とはやり方が変わっていた。


「出る前に飲め。飲める奴は今飲んどけ。ただし器いっぱいに持ってくな。道中でこぼすだけだ!」


 ブルーノの声に、列の前半から人が集まる。


「子供と怪我人が先だ。自分の水持ってる奴は、そっちから使え。ここの桶は途中で足りなくなった奴の分も残す!」


 昨日は「今飲ませる水」だけ考えればよかった。今日は、次に止まるまで残す水を考えないといけない。僕たちがここへ来た時には、そんなことを考えたこともなかった。


 武器の引き渡しも始まっていた。


 ヴェルナー兵が種類ごとに数え、ヴェルナー側が回した別の荷車へ運ぶ。灰衣側の人間が近づかないよう、ガレスとマルクが間へ立っている。


「その槍はこっちだ。刃物と一緒に積むな。運ぶ時に縄が切れる」


「盾は?」


「別に重ねろ。持ち主ごとの照合は後だ。今は武器の種類だけ崩すな」


 昨夜まであれほど気になっていた武器の山が、少しずつ南門側へ移っていく。

 それを見ている元兵もいた。誰も取り返しには来なかった。


 出発前、最後に青い布が残った。


 夜の目印にするため近くへ寄せていた火はもう消え、布だけが荷車の竿に低く結ばれている。


 ミケルが紐を解きかけ、僕を見る。


「これ、どうします?」


「置いていくと、まだ来る人がここを探すよね」


「そうですね。昨日もこれを目印に来てます」


 ノエルが札を持ったまま近くを通り、僕たちの話を聞いて足を止めた。


「南門側に案内役をしばらく残すそうです。後から来た人はそこで確認して、こちらへ追わせると聞きました」


「じゃあ、布は持っていっていい?」


「置いておく理由はありません。誰もいない場所の目印になってしまいます」


 僕は青い布を見た。最初は、ただ自分たちの場所を分かりやすくするために付けただけだった。


 軍旗でもない。


 誰かの家紋でもない。


 それなのに、ここ数日は人があれを探して来た。


「じゃあ、また荷車へ付けようか。低いところで」


 ミケルが紐を外しながら笑った。


「旗みたいにはしないんですね」


「旗じゃないからね」


「今までと同じですね」


 畳んだ布は、別の荷車の竿に結び直された。


 出発の合図が出たのは、それから少し後だった。先頭のヴェルナー兵が動き、最初の元兵の組へ声が掛かる。すぐには進まなかった。


 子供が一人いないと家族が騒ぎ、ザイデルのところから手伝いの女が走ってくる。荷車の後ろでは縄が緩み、トマが一度止める。元兵の組頭が後ろへ「まだ動くな」と声を飛ばしている間に、前の組だけが数歩先へ出てしまった。


 オルステッド殿が馬で脇へ回り、前を急がせるのではなく、間を詰めすぎないよう兵へ指示していた。


「先頭を止めろ。二組目が整うまで進ませるな。家族側は荷車が動いてからだ」


 僕も近くの組頭へ声をかける。


「今は前へ詰めなくていいです。組の中だけ離れないようにしてください」


 組頭が後ろへ同じ内容を伝えると、立ちかけた者たちがその場で待った。少しして、見つからなかった子供が別の家族のところから戻ってくる。母親がその肩を掴み、何か言い聞かせる。子供は泣かなかったが、その後は母親の服を離さなかった。


 もう一度、合図が出る。今度は先頭がゆっくり進み、その後ろへ組が続いた。荷車の車輪が土を噛み、乾きかけた轍を広げる。家族の列も動く。昨日まで人で埋まっていた畑の一角が、少しずつ空いていく。


 きれいな行軍にはならなかった。数十歩進んでは止まり、荷物を落とした者が戻り、子供が遅れ、組頭が後ろへ声を飛ばす。荷車の一台が溝へ寄りすぎると、トマとミケルが人を呼んで押し戻した。


 それでも、列は前へ進んだ。僕たち九十七人がここへ来た時とは、まるで違う。カインは僕の少し後ろを歩き、列の外から近づく者の手元を見ていた。


 途中で一度振り返ると、青い布を付けた荷車の向こうに人が続き、そのさらに向こうにもまだ人影があった。


 どこまでが最後なのか、ここからでは見えない。


「アズール、前を見ろ」


 ガレスが僕の腕を軽く引き、道の窪みを避けさせた。


「ごめん。ちょっと多いなと思って」


「昨日から分かっていただろう」


「数字で聞くのと、実際に歩いてるのを見るのは違うよ」


 ガレスは何も返さず、前の組の間隔を見ていた。


 少し先ではオルステッド殿が馬を止め、先頭の兵へ道幅の狭いところで家族列を詰めすぎないよう伝えている。


 僕たちは、そのままヴェルナー子爵家領へ向かった。


 僕たちにとっては、帰る方向だった。後ろを歩く人たちが、どこへ帰ることになるのかは、まだ誰も決めていなかった。


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