第75話 三千人と一人
槍を置く場所が、また足りなくなった。
マルクが畑の縁から板を二枚持ってきて、地面に並べた槍の手前へ横向きに置く。その板を越えないよう灰衣の男たちへ言い聞かせている間にも、溝から次の者が上がってきた。
「前の組が動くまで、そこで待て! 武器を持っている者は、上がる前に見えるように持て。隠すな!」
ハーゲンの声が飛ぶと、溝の途中で詰まりかけていた列が止まった。
少し前までなら、こちらが一人ずつ呼び止め、武器を置かせ、どこへ座るか説明しなければならなかった。今は、先に上がった男が後ろへ声を返し、そのまた後ろから同じ言葉が聞こえてくる。
五十人ほどが動き終えるまで、次の組は上がってこない。
「……急に楽になった気がする」
僕が口にすると、隣で武器置き場を見ていたガレスが、槍の向きを足で直した。
「命令が届く相手がいるからだ。俺たちの言葉を、一人ずつ初めから聞かせる必要がなくなった」
「やっぱり、あの人がいるのは大きいんだね」
「敵だった時も、同じように兵を動かしていたんだろう。今は武器を置かせる方へ使っているだけだ」
そのハーゲンは、青い布の近くに立っているわけではなかった。武器を置いた灰衣兵の列と、まだ溝から上がってくる者の間を行き来し、詰まれば人を止め、負傷者が混ざれば先へ通す。自分の剣は、さっき置いた場所から動かしていない。
人の流れが少し変わるたびに、灰衣の側から先に声が飛んだ。
「歩けない者が二人います!」
「その二人を先へ出せ。担げる者を四人付けろ。槍は置いてから行け」
「家族が前の組にいる者は?」
「勝手に探すな。名を伝えろ。向こうで合わせる」
その言葉を受ける場所では、ノエルとザイデルの前に板札が積み上がっていた。
最初は荷車の板を机代わりにしていたが、もう二人だけでは前へ来る者を捌ききれず、座ったまま名前を読み上げる者、札を運ぶ者、家族のいる場所を伝える者が何人か増えている。誰も正式に役目を与えられたわけではない。ザイデルが知っている者へ声を掛け、ノエルがそのまま使っているうちに、そうなった。
「次の組は、子供連れが多いと聞いています。畑側の空いているところを先に使いましょう。負傷者の場所へ入れると、また動かすことになります」
ザイデルが濡れた帳面の一頁を押さえる。
「畑の端まで使えば、青い布から見えなくなる人が出ます。途中に案内を立てないと戻ってきますよ」
「では、家族の場所を二つに分けます。兄上、トマさんへ伝えてください。畑側へ通す道をもう少し広げてもらいます」
「分かった。……ノエル、今は何人くらい?」
ノエルの筆が止まった。
「また聞くんですか」
「だって増えてるから」
「増えている最中に聞かれても、正しい数は出ません。さっきまで数えていた札だけでも二百を越えています。その後に兵の組が何度も来ていますから、もうその数字は使えません」
ザイデルが帳面から顔を上げた。
「外へ出した数とも、まだ合いません。林へ残った者も、別の道へ行った者もいます。三千というのは、出せると考えていた人数です。ここへ三千すべてが来ると決まったわけではありません」
「分かってます。分かってるんですけど、これが全部でどのくらいになるのか、つい聞きたくなるんです」
「聞くたびに増えていても、兄上の隊は増えていませんよ」
「そこまで言わなくてもいいじゃないか」
「九十七名のままです。全員の点呼も終わっていません」
ノエルは僕へ答えながら、新しい札を受け取り、その裏へ何かを書き足した。
青い布の周囲は、もう集合場所というより、人を分ける境目になり始めていた。
布の右へ武器を置いた者。荷車の間には負傷者。畑側には家族。そのさらに外へ、まだ座る場所の決まらない者が待っている。
ブルーノのいる水桶の前も長くなった。
「空の器を先に出せって言ってんだろ! 中に残ってるなら飲み切ってから来るな。持ってる奴まで同じだけ入れてたら、すぐ底が見えるぞ」
「こちらは三人です。子供が二人いて――」
「人数を俺に説明するな。子供が飲むなら器を出せ。足りねえ分はノエルんとこで名前を言え。俺が覚えられる数じゃねえ」
口調は相変わらず荒いが、桶へ手を伸ばす者がいれば止め、歩けない老人の器を持ってきた子供には先に水を入れてやっている。
ニルスのところにも、横になった者が増えていた。さっきまで自分で歩いていた男が、座った途端に立てなくなり、トマともう一人が肩を貸して荷車の陰へ運んでいく。
増え続ける人の間を縫っているうち、城壁沿いの道からこちらへ走ってくる兵が見えた。
見覚えがある。
僕たちがヴェルナー子爵家の陣へ送った伝令だった。
「戻ったな」
僕が呼ぶ前に、エルヴィンが気づいた。
兵は青い布の手前まで来ると、両膝に手をついた。走り続けてきたらしく、返事を急がせるより先にミケルが水を渡す。
「ヴェルナー家の方へ、報告は届いた?」
「届きました。途中で隊が動いていて、少し回りましたが……オルステッド殿にも伝わっています」
兵は水を一口だけ飲み、器を返した。
「人数が増えていること、武器を置いた者がいること、それから、鋼守のハーゲンという者が、この避難を仕切っているらしいことまで伝えました」
「そこまで分かったんだ」
「エルヴィンさんから聞いた名も伝えました。オルステッド殿が、直接こちらへ来るそうです。ヴェルナー子爵家側からも何人か連れて、人数と武器を確認すると」
「よかった……」
思わず声が出た。
水も見張りも、このまま僕たちだけで続けられるとは思えなかった。上へ話を通せる人が来てくれるなら、少なくとも何をしてよいのかは聞ける。
「いつ頃になりそう?」
「こちらへ向かう準備をしていました。それほど時間はかからないと思います。ただ、市街側の引継ぎもありますので、すぐとは――」
「分かった。ありがとう。まず休んで」
伝令が離れる。
僕はそのままノエルへ知らせようとしたが、少し離れたところにいたハーゲンが、こちらを見ていた。
さっきまで兵へ何か指示していたはずなのに、動きを止めている。
「ハーゲンさんにも聞こえました?」
「俺の名まで、向こうへ伝わったんだな」
「伝えないわけにもいかないので……。でも、これで正式にどうするか決めてもらえます。僕たちだけでは、もう――」
「ザイデルを呼んでくれ」
僕の言葉を最後まで聞かず、ハーゲンは青い布から少し離れた畑の方へ歩き始めた。
何かが引っ掛かった。
「ザイデルさん!」
呼ばれたザイデルは、帳面から顔を上げた。
「今ですか。こちらは、次の組が――」
「ハーゲンさんが呼んでます」
ザイデルはハーゲンの背中を見て、それから帳面をノエルへ寄せた。
「この頁までが、こちらへ到着を確認した分です。次の札は別に置いてください。すぐ戻ります」
「分かりました。こちらで続けます」
僕も二人の後を追った。
畑の端まで来ても、人の声は近い。武器を置く音、水を求める声、名前を呼ぶ声が重なっている。少し離れただけで静かになるような人数ではなかった。
ハーゲンは、その人の群れが見えるところで立ち止まった。
「俺は、ここを離れる」
ザイデルの顔が変わった。
「……何を言い出すのです。まだ外へ出た者の半分も照合できていません」
「だから、お前は残れ」
「私が残る話ではありません。あなたがどこへ行くのかを聞いています」
「しばらく身を隠す」
僕は二人の間を見た。
「待ってください。オルステッド殿が来るからですか?」
「俺の名が届いたからだ」
「でも、来たら事情を説明すれば――」
「何を説明する」
ハーゲンは僕へ向き直った。
「俺はこの街で兵を動かした。帝国兵を殺した。門を守り、路地で退かせ、今日まで戦わせた。向こうから見れば灰衣の首魁の一人だ。名を知った将が俺を見つけて、好きに歩かせると思うか」
それは、僕でも否定できなかった。
「捕まる……ということですか」
「少なくとも縛るだろう。後のことは、俺が決める話じゃない」
ザイデルが低い声で続けた。
「裁きに回されれば、死罪もあり得ます。ハーゲン殿自身が、それを知らないはずはありません」
「知っている」
「でしたら、なおさら今になって逃げる理由が分かりません。街を出る時に決めておく話でしょう」
「街を出る時には、こいつらを受け入れる場所があるかも分からなかった」
ハーゲンの視線が、青い布の方へ戻った。
「今はある。兵も武器を置いた。ザイデルも外へ出た。なら、俺がここに立っている理由は減った」
「減っていません」
僕の方が先に口を挟んだ。
「あなたがいるから、あの人たちは言うことを聞いてるんです。さっきまで僕たちが一人ずつ説明していたのが、あなたが来てから五十人ずつ動くようになった。今いなくなられたら困ります」
ハーゲンが、少しだけ僕の顔を見た。
「俺が捕まる方が困る」
「それは、あなたが?」
「違う。あいつらがだ」
ハーゲンが武器置き場を顎で示した。
槍と剣は、さっきよりさらに増えていた。マルクが板を足し、置いた者が勝手に近づかないよう、こちらの兵が間に立っている。
「俺が武器を置けと言ったから、置いた。俺があそこへ行けと言ったから、ここへ来た。その俺が帝国の将に縄を掛けられて連れていかれるところを、あの兵どもが見たらどう思う」
「ハーゲンさんが捕まったから、自分たちも次だと……?」
「そう思う者は出る。騙されたと言う者もな」
「でも、武器はもう置いてあります」
「だから危ない」
ハーゲンの声は変わらなかった。
「すぐそこに、自分たちの槍が積んである」
畑から青い布までの距離が、急に短く見えた。
武器の山まで走ろうと思えば、走れる。こちらの兵が間にいるとはいえ、武器を置いた灰衣の兵は何十人どころではない。その後ろからも増えている。
「ガレスを呼んでもいいですか」
「お前の兵だ。聞きたければ聞け」
僕は近くにいたミケルへ頼み、ガレスを呼んでもらった。
事情を聞いたガレスは、ハーゲンの顔より先に武器置き場と、座っている灰衣兵の列を見た。
「ハーゲンを今ここで拘束したら、どうなると思う?」
「全員が動くとは思わん。大半は家族を抱えている。だが、一人でも武器へ走れば、その一人を止めるためにこちらが槍を向けることになる」
「そこから広がる?」
「広がらない保証はない」
ガレスは、そこでハーゲンへ目を向けた。
「俺が捕らえる側なら、この場ではやらん。武器をもっと遠ざけ、こちらの人数を揃え、元兵の列と家族の場所をもっと離してからだ」
「じゃあ、ハーゲンさんは行った方がいい?」
「そこまでは言っていない」
すぐに返された。
「危険だから今ここで捕らえるべきではない、という話と、首魁の一人を勝手に逃がしていいという話は別だ。俺たちに、その判断をする権限もない」
「……そうだよね」
「俺は、逃がしてもらうつもりはない」
ハーゲンが言った。
「自分で出る。お前たちは道も教えるな。食料も武器も出すな。俺がどこへ行くかも聞かない方がいい」
「そう言われても、目の前からいなくなるのを見てることになりますよ」
「止めるなら止めろ」
ハーゲンは両手を少し開いた。
剣は持っていない。
「今の俺は武器もない。ガレス一人でも押さえられるだろう」
ガレスは何も言わなかった。
その沈黙が、余計に困った。
僕はハーゲンが置いた剣の方を見た。もうほかの槍や短剣と一緒に並べられ、どれが彼のものだったか、少し離れたここからでは分からない。
「一つ確認していいですか」
「何だ」
「ハーゲンさんは、僕たちに降伏したんじゃないんですか」
ザイデルがこちらを見た。
ハーゲンはすぐには答えず、畑の土を靴先で軽く崩した。
「俺の兵には、お前のところへ降れと命じた」
「あなた自身は?」
「俺は剣を置いた」
「それを降伏って言うんじゃないんですか」
「帝国へ降ったつもりはない」
僕は言葉に詰まった。
「でも、僕は帝国側です。エスター男爵家の人間で、今はヴェルナー子爵家の預かりです」
「知っている」
「じゃあ、何が違うんです?」
「俺には違う」
ハーゲンは、青い布の方へ目をやった。
「あそこで最初に武器を置いた者へ、お前は助かるとは言わなかった。赦すとも言わなかった。それでも、上が決めるまで預かると言った」
「それしか言えなかっただけです」
「言えないことを言わなかった。それで十分だった」
ザイデルが黙ったまま、ハーゲンを見ている。
「帝国へ膝をつく気はない。諸侯の誰かへ命乞いをするつもりもない。だが、お前の前に剣を置くことには、思ったほど抵抗がなかった」
「……それって」
「今ここで決める話ではない」
ハーゲンは僕の言葉を待たず、ザイデルへ向き直った。
「俺が戻るまで、こいつらを頼む」
「簡単に言わないでください」
ザイデルの返事は早かった。
「外へ出した者だけでも数が合っていません。ここへ来た者と林へ残った者も分かれています。負傷者、家族、元兵、井戸を知る者、手当てのできる者、それを今から全部合わせるのです。そこへ、あなたがいなくなった理由まで私が説明して回るのですか」
「説明は俺がする」
「そこだけの話ではありません」
「では、何が不満だ」
「全部です」
ザイデルは抱えていた帳面を持ち直した。
「街では、最後まで残るなと私を追い出した。外へ出れば三千人の帳面を持てと言う。ようやく照合を始めたと思ったら、今度は自分だけ身を隠す。あなたは、重い仕事を残す時だけ私を信用しすぎです」
「お前なら残せる」
「褒めて済ませようとしても無駄です」
「褒めたつもりはない」
「それなら、なお悪い」
ハーゲンの口元がほんの少し動いた。
笑ったのかどうかは分からなかった。
「家族と負傷者は、お前の方が分かる。兵の方は、俺が出る前に命令を残す」
「その命令がいつまで効くかは、あなた次第ですよ」
「だから戻る」
「捕まらなければ、でしょう」
「そうだ」
言い切られると、ザイデルも続けられなかった。
ハーゲンはガレスへ、武器を置いた兵の中から各組をまとめていた者を呼ばせてほしいと頼んだ。
ガレスは僕を見た。
「呼ぶだけなら構わないと思う。武器には近づけないで」
「分かった。そうして」
しばらくして、灰衣兵の列から男たちが集められた。
年齢も装備もばらばらだった。鎧の残っている者、灰色の布を肩に巻いただけの者、片腕を布で吊っている者もいる。ただ、呼ばれた理由を聞く前から、ハーゲンの前では自然に間隔を詰めて並んだ。
「俺は、しばらくここを離れる」
その一言で、何人かが顔を上げた。
「ハーゲン様、どちらへ行かれるのです」
「行き先は言わん。戻るつもりだ」
「我々も何人か――」
「連れていかない」
ハーゲンは男の言葉を止めた。
「お前たちはここへ残れ。武器を取るな。青い布から勝手に離れるな。兵だった者は、今の組を崩すな。家族のことはザイデルに従え」
男たちの視線が、少し離れたところにいる僕へ向く。
「ここにいる間は、アズール・エスターの指示に従え。あいつの隊が場所を移せと言えば移れ。座れと言えば座れ。勝手に帝国兵と話をつけようとするな」
「ハーゲン様がいない間に、帝国軍が我々を捕らえると言ったらどうするのです」
「抵抗するな」
「ですが――」
「ここへ来る時に武器を置くと決めたはずだ。俺がいる時だけ守る約束なら、最初から置くなと言っている」
男は口を閉じた。
別の者が、低い声で尋ねる。
「もし、ハーゲン様が捕らえられたと分かった時もですか」
「武器を取るな」
今度は、誰もすぐに返事をしなかった。
「俺が戻らなくてもだ。俺を理由に、ここにいる家族をまた戦場へ戻すな。街から出した意味がなくなる」
ハーゲンは一人ずつを見回した。
「各組へ伝えろ。俺は逃げたと思って構わん。だが、捨てたわけではない。戻れるなら戻る。それまで、ここで生きろ」
男たちは、男たちは、その場で返事を重ねなかった。
最初の一人が自分の組へ戻り、その後をほかの者が追う。少しすると、灰衣兵の列のあちこちで人が寄り、ハーゲンの言葉が繰り返され始めた。
ざわめきは広がった。
けれど、武器の方へ動く者はいない。
座ったまま頭を抱える男がいた。隣の家族へ歩いていく者もいた。何人かはハーゲンの方を見続けていたが、呼び止める者はいなかった。
ハーゲンは、それをしばらく見ていた。
「これで全部言うことを聞くと思いますか」
僕が尋ねると、首を横へ振った。
「思わん。だからザイデルと、お前たちがいる」
「また僕たちに増えましたね」
「三千人が三千一人になるよりはましだろう」
「一人減るから三千人になる、みたいに言わないでください」
ハーゲンは今度こそ少し笑った。
ザイデルが横から口を挟む。
「笑っている場合ではありません。せめて、どれくらいで戻るつもりかは言ってください」
「分からん。数日で戻れるかもしれんし、しばらく無理かもしれん」
「それを『戻る』と皆へ言ったのですか」
「戻るつもりだからな」
「あなたのつもりを帳面には書けません」
「書かなければいい」
「本当に腹が立ちますね」
ザイデルはそう言って、先に青い布の方へ戻っていった。
仕事を放っておけないのだろう。途中で呼び止められ、もう誰かの家族の名前を確認している。
ガレスも武器置き場へ戻った。
残ったハーゲンは、剣を取りに行こうとはしなかった。
「本当に、そのまま行くんですか」
「武器を持って出れば、お前が逃がしたと言われるだろう」
「何も持たずに出ても、僕が止めなかったとは言われると思います」
「それは事実だ」
「嫌な事実を残さないでくださいよ」
「止めるか?」
僕は、少し離れたところの武器置き場を見た。
灰衣の兵たちはまだ座っている。ガレスが戻ると、何人かが立ち上がりかけ、すぐまた座った。各組をまとめていた男たちが、ハーゲンの命令を伝えて回っている。
ここで僕がハーゲンを縛れと命じれば、どうなるか。
さっきガレスに聞いた答え以上のことは、僕には分からない。
「……止めません。でも、逃げる手伝いもしません」
「それでいい」
「道も知りませんよ」
「聞くつもりはない」
「食べ物も、こちらからは出しません」
「自分の分はある」
「武器も返しません」
「置いた物を持っていくつもりはない」
ハーゲンは、それで話が済んだように人の列の外へ向きを変えた。
「待ってください」
呼び止めると、足だけ止まる。
「戻ってくるんですよね」
「戻るつもりだ」
「つもり、なんですね」
「捕まるかもしれん。道で死ぬかもしれん。できない約束をしても仕方がない」
それは、僕が灰衣の人たちへ言ったことと少し似ていた。
助かるとは言えない。できるところまでしか約束できない。
「……戻ったら、どうするんですか」
「その時に考える」
「帝国には降らないんですよね」
「今のところはな」
「僕には?」
聞いてから、自分でも何を確認したいのか分からなくなった。
ハーゲンは僕を見た。
「お前の前に剣を置いたことは覚えている」
「それだけですか」
「今は、それだけでいい」
答えをもらったような、もらっていないような話だった。
ハーゲンは、青い布の下にいる人々を一度だけ見た。
「三千人を頼む」
「そんなに簡単に頼まれても困ります」
「断るなら、今言え」
僕も同じ方を見た。
子供を抱いた女が水を受け取っている。その隣では、武器を置いた兵がザイデルの札を見せられ、家族のいる場所を教えられていた。溝からは、まだ次の人が上がってくる。
「……もう遅いですよ。預かるって言ってしまいましたから」
「なら、任せる」
ハーゲンはそれ以上何も言わず、畑の外へ歩き出した。
誰も付いていかない。
灰衣の兵の中には立って見送る者もいたが、ハーゲンが振り返って手で下がるよう示すと、その場へ残った。
やがて、人の列と畑の間に混じり、灰色の背中が見えなくなった。
剣だけが、武器置き場に残った。
*
「兄上。畑側の人を、もう一列奥へ動かします」
ハーゲンが見えなくなってから、まだそれほど経っていなかった。
ノエルは、何事もなかったように板札を揃えていた。
「もう少し、何かないの?」
「何がですか」
「ハーゲンさん、いなくなったんだよ」
「知っています。ザイデルさんから聞きました」
「反応、それだけ?」
「兄上が止めなかったことについては、後で話があります」
「やっぱりあるんだ……」
「今は人を動かします。日が落ちてから、これだけの人を移す方が危険です」
ザイデルも隣で帳面を開いている。
「次の組に、手当てのできる者が二人います。こちらへ着いたら、ニルスさんのところへ回してください。それから、林に残っていた兵がまとまって来るそうです。ハーゲン殿の命令は伝わっていますが、本人がいないと知った後の反応は見た方がいいでしょう」
「……平気なんですか」
「平気ではありません」
ザイデルは僕の顔を見ず、頁をめくった。
「ですが、ハーゲン殿がいなくなっても、怪我人の傷は塞がりませんし、子供の水も増えません。先にそちらをやります」
言われてしまえば、その通りだった。
トマとミケルが畑側の通路を広げ、ガレスは武器置き場の見張りを増やした。ハーゲンがいなくなったと聞いた兵たちの中には立ち上がる者もいたが、各組をまとめる男が声を掛けると、今のところは戻って座っている。
ブルーノは事情を聞いた後、しばらくハーゲンが消えた方を見ていた。
「逃げ足まで見たかったな」
「追いかけないでよ」
「追わねえよ。俺が今ここ離れたら、水桶ごと持ってく奴が出るだろ」
「そこまで分かってるなら安心した」
「お前、俺を何だと思ってんだ」
そう言いながら、ブルーノは空の器を持ってきた男を列の後ろへ戻した。
日が傾くにつれ、城壁の影が畑へ伸びた。
青い布はまだ見える。
その下にいる人数は増え続けているのに、ハーゲン一人が消えたことで、大きな支えが一本だけ抜けたような感じがした。
それでも列は動いた。
ザイデルが名を拾い、ノエルが札を分ける。ガレスが武器を遠ざけ、トマが場所を作り、ニルスが負傷者を見る。エルヴィンは新しく来た兵へ、街の中と林に残った人数を聞いて回っていた。
僕も、来た者へ同じ条件を繰り返した。
武器を置くこと。
名を告げること。
上の判断が来るまで、ここを勝手に離れないこと。
ハーゲンがいなくなったからといって、その条件まで変えるわけにはいかなかった。
城壁沿いの道から馬の音が聞こえたのは、青い布の端まで影が伸びた頃だった。
「ヴェルナー家がきたぞ」
エルヴィンが先に気づく。
こちらへ来る一団の先頭に、見覚えのある男がいた。
オルステッドだ。
馬を下りる前から、周囲を見ている。
最初に灰衣の人々。次に畑側の列。荷車六台。武器置き場へ積み上がった槍と剣。最後に、青い布の下にいる僕たち。
オルステッドは馬を兵へ預け、そのまま歩いてきた。
「アズール」
「オルステッド殿。来てくださって助かりました」
「……これは何だ」
「灰衣の人たちです」
「それは見れば分かる」
オルステッドは、武器置き場の方へ顔を向けた。
「あの槍も全部か」
「ここへ来て武器を置いた人たちの分です。まだ後ろから来ています」
「何人いる」
僕はノエルを見た。
ノエルも困ったようにザイデルを見る。
「現在到着している正確な人数は、まだ出せません」
ノエルが答えた。
「二百人を越えた後も、兵の組が続けて到着しています。街を出た者とこちらへ来た者の照合も途中です」
ザイデルが一歩出る。
「街から出せると見ていたのは、家族と負傷者を含めて三千ほどです。ただし、全員がここへ到着するとは限りません。林へ残った者と、別の道へ向かった者もいます」
オルステッドはザイデルを見た。
「お前は?」
「エーミール・ザイデルです。街から出す者の組分けと帳面を扱っていました。武器は置いています。正式な処遇が決まっていないことも承知しています」
「……三千」
オルステッドは、もう一度人の列を見た。
「九十七人の隊で、これを預かっていたのか」
「最初は五十人くらいだったんです」
「それが何の説明になる」
「僕も途中から、ならないと思ってました」
オルステッドは額へ手をやりかけ、やめた。
「武器を置かせたのは誰だ。お前か」
「最初の人たちには僕たちが条件を伝えました。その後は、ハーゲンさんが自分の兵に命令してくれて――」
オルステッドの顔が止まった。
「報告にあったな。鋼守のハーゲンが、この退避を仕切っている、と」
「本人も来ました」
「ローデリヒ・ハーゲンで間違いないのか」
「本人がそう名乗りました。エルヴィンも、鋼守のハーゲンだと」
オルステッドがエルヴィンを見る。
「昔の話と名を知っていただけです。ただ、ザイデルも本人だと認めています」
「それで」
オルステッドの視線が、僕へ戻った。
「ローデリヒ・ハーゲンはどこだ」
僕は、さっきまでハーゲンが立っていた辺りを見た。
青い布の向こう、武器置き場のさらに先。
もう、そこには誰もいない。
「……さっきまで、そこにいました」
オルステッドの眉が寄った。
「さっきまで?」




