第72話 敗者の支度
東門の隙間から入った帝国兵は、門裏へ踏み込むと、次の兵のために右手の壁沿いへ列を作った。
まだ門扉は、人ひとりが身体を横にすれば通れるくらいしか開いていない。外から差し込まれた盾の脇を抜け、兵が一人、また一人と入ってくる。そのたび工兵が怒鳴り、門の前に残った木材を退ける者と、入った兵を壁際へ送る者が入れ替わる。
「そこで止まるな! 入ったら右だ! 槍を横にするな!」
門上から見下ろしても、下の声がどこから出ているのか分からない。横木を通していた穴へ縄を通す者、倒した荷車の車輪を外す者、門外へ負傷者を渡そうとする者が、狭い門裏で肩をぶつけ合っている。
マルクが胸壁に立て掛けていた裂けた盾を取り、階段の方へ向けた。
「下からまた上げるそうです。あと二人、こっちへ回せますか」
「階段の途中を空けてからだ」
ガレスは門上の市街側を見たまま答えた。灰衣の兵が逃げた反対側の門塔には、まだ誰も近づいていない。オルステッド隊の兵が角まで盾を出し、矢が来ないことを確かめている。
ブルーノは棍棒の先を胸壁に載せ、下を覗き込んだ。
「開いたんだろ。いつまで引っ張ってる」
「お前が壊したのは戸口だ。門扉は工兵の仕事だ」
「分かってる。次はいつだって聞いてるんだよ」
「命令が来た時だ」
「それまで、ここを眺めてろってのか」
ガレスがようやく顔を向ける。
「お前が開けた場所だ。取り返されないよう見ていろ」
ブルーノは何か言い返しかけたが、市街側の階段へ視線を戻した。待てるようになっても、待ちたいわけではないらしい。
下で、木が折れる音がした。門扉が少し動き、外の光が太くなる。二人並んで通れるほどではないが、盾を正面にした兵でも身体を入れられるようになった。外にいた兵の列が途切れず、その向こうに赤い旗が見える。
「下りるぞ。門上は半数残せ」
オルステッド殿が階段へ向かった。
「エスター隊は、まだここだ。勝手に後へついてくるな」
「分かりました」
僕たちは門上に残り、周囲を警戒しながら帝国軍やヴェルナー子爵家軍の動きを眺めていた。しばらく、そうしていると赤い旗が門裏へ入ってくる。続いて見えた甲冑にも覚えがあった。泥のついた赤い肩当てが、人の列の間を歩いてくる。
ユリウス殿だ。彼はこの場の状況に合わせてか馬に乗ってはいなかった。門を抜けると、待っていた帝国兵から板札を受け取り、門扉と門上を一度見上げる。その視線がこちらまで届いたかは分からない。すぐにヴェルナー子爵と、斧を持った工兵の男が前へ出た。
声は近かったが、人と木の音に途切れた。
「……左の門楼は確保。市街側の階段は――」
「反対の塔はどうなっている?」
「未確認です」
「なら、門楼の兵を動かすな。入った者から門裏を空けるように。工兵には、扉をもう一段開けさせろ。ヴェルナー家の兵は、通ってきた道を二隊で見直すようにしていただきたい」
ユリウス殿は僕たちの方へ声を掛けなかった。門裏へ入る兵の列を一つずつ分け、伝令へ行き先を示している。それだけで、こちらを見る暇などないように見えた。
門の外へ走る伝令と、門の内側へ入る伝令がすれ違う。
「南側へ。東門は開いた。中央へはまだ出ないと伝えろ」
「北から返答が来るまで、本隊を止めますか」
「門を開けた直後に三方がばらばらに動けば、敵より先に我々の進路を自分で締めることになる」
赤い旗の脇から、別の兵が駆け出した。
僕たちの次の役目は、まだ来なかった。
*
東門が開いたと聞いても、ローデリヒ・ハーゲンは地図を見なかった。
報告へ来た男の膝には、乾きかけた泥がついている。東から走ってきたのか、途中で一度転んだらしい。言葉の間に息を継ぎながら、門楼へ内側から兵が上がり、帝国の印を掲げ、門扉が引かれたところまでを一気に報告していた。
「帝国側はどれだけ入ったかわかるか?」
「まだ、門の隙間を一人ずつです。門裏では残った者が――」
「反対の塔はどうなっている?」
「分かりません」
「東からこちらへ戻った兵は」
「数えられていません。鐘へ向かった者もいて」
男はそこで口を閉じた。
南は開いた。北も破られた。東は内側から開けられた。
ハーゲンが椅子から立つと、机の上の木札が一枚落ちた。南門の次広場を示していた札だったが、拾わず捨て置いた。
「白い椀の旗の下には、まだ人がいます」
報告の男が言った。
「槍を持てる者も集まっています。中央の道を固めれば、まだ戦えます」
「……戦えることと、勝てることは違う」
「ですが――」
「もう町は守れん」
男は返事をしなかった。
南門の第一防柵が崩れた時点で、町を一つの形に戻すことはできなくなっていた。北門が破られた時には、守備兵を戻す道も、交代を入れる命令も鐘の中へ消えた。東門は最後の確認にすぎない。
ハーゲンは壁際にいた二人を呼んだ。どちらも、鐘が鳴っても旧官庁から離れなかった者だ。
「西と北西の道を見ろ」
「北門は敵が居りますが……」
「門へ行けとは言っていない。家の裏、荷を入れていた道、壁際の細道を辿れ。外へ抜けられる場所と、敵の姿も旗もない道を探せ」
「奇襲でも仕掛けるおつもりですか?」
「そうではないが、忍んで通れる道を探せ」
二人は顔を見合わせた。
「大勢が一度に通れる場所はいらん。十人、二十人ずつでいい。見つけても、白い椀の下では口にするな。戻ったら俺だけに伝えろ」
「何をなさるおつもりですか……?」
ハーゲンは、床へ落ちた木札を足で壁際へ寄せた。
「できる限り、動ける者を外へ落ち延びさせる」
二人は顔を強張らせたまま出ていった。
代わりに別の伝令が入り、北門内側の柵が押されていると報告した。黒い旗はまだ門前に見えるが、門内へ入った兵が足場を広げ、屋根へ弓兵を上げようとしているという。
「前の柵を捨ててでも、中央へ走らせるな。地区ごとに二本ずつ道を残せ。白い椀へ来いという声より、退路を先に伝えろ」
「鐘は使いますか?」
「……使うな」
伝令が去る。
旧官庁の外では、まだ鐘が鳴っていた。
*
空の水差しが、今度は七つになっていた。
エーミール・ザイデルは、そのうち二つを戸口の外へ出した。ひとつを、通りかかった少年へ渡す。
「井戸まで行けますか」
「おじさんたちに、白い椀へ行けと言われました」
「そうなんですね。なら、水を持って行けば、ただ行くより喜ばれるでしょう。先に井戸へ向かってください」
少年は迷ったあと、水差しを両腕で抱えた。もう一つを持たせようとすると、脇にいた女が受け取る。
施療所と呼ばれていた建物には、寝かせる場所が残っていない。廊下の片側に負傷者を並べ、もう片側を担架の道として空けていたが、鐘を聞いて入ってきた家族がそこへ座り込み始めていた。
「ここへ座らないでください。壁際の印まで下がって」
「弟の側にいさせてください……」
「ええ、分かっています。去れとは言っていません。そこに居られると次の者を運べなくなるんです」
女が負傷者の手を握ったまま、壁際へ膝を移す。戸板を担いだ男たちが、その前を横向きに通った。
ハーゲンが入ってきた時、ザイデルは戸板の上から落ちかけた脚を戻していた。
「歩ける負傷者はどれだけいる」
「……どういうことでしょうか?」
「動ける者たちを町の外へ出す」
ザイデルは脚を布で固定し直した。すぐには顔を上げない。
「広場までなら歩ける者はいます。町の外までとなれば……耐えられる者は限られます」
「支えがあればなんとかなるか?」
「なんとかなるかもしれませんが、人が足りません」
「担架になりそうなものはどうだ?」
「足りません。戸板も使っていますが、一枚に二人、道が狭ければ三人必要になるでしょう。運ぶ者がまったく足りません」
ハーゲンは部屋の奥を見た。横になっている者の間を、布と水を持った者が身体を細くして通っている。
「水と食料は足りているのか?」
「ここで今日を越す分ならありますが、持って逃げられるような準備はしていません」
「日持ちするものを小さな袋へ分けさせろ」
「マルタが鐘など鳴らさねば……人は足りていたのに」
「いまさら言っても詮無きことだ」
「まさか……」
ザイデルはようやく立ち上がった。ハーゲンの顔を見て、その後ろに誰もいないことを確かめる。
「ここから逃げるとおっしゃるのですか?!」
「そう長くは持たん。ここに居てはどうなるかわからんのだ。できる限り落ち延びさせる」
「しかし……全員は無理です」
「分かっている」
返事が早すぎた。ザイデルは部屋を見回した。歩ける者、支えがあれば立てる者、起き上がれない者。子供の名を繰り返す老人と、腕を失った若者が同じ壁にもたれている。
「傷が重く動かせない者もおります。捨てて行けと誰が伝えるのですか!」
「……俺が言う」
「それで皆が納得するとでも?!」
ハーゲンは答えなかった。
外で鐘が鳴る。戸口にいた者が、白い椀へ集まれという声を繰り返していた。ザイデルは空の水差しを一つ持ち上げ、底に残った泥を見る。
「自力で歩ける者。支えがあれば歩ける者。担架が必要な者。動かせない者に分けます」
「食料や水を扱える者も分けた方が良いな」
「手当てを知る者もです。子供だけを先へ送っても、誰かが見なければまともに動けぬでしょう」
「……詳細は任せる」
「ええ、やむを得ないでしょう。できることはやります」
ザイデルは帳面を開いた。濡れた頁が何枚も重なり、指で一枚ずつ剥がさなければならない。
「一人でも多くなんとかしないと……」
*
白い椀の旗の下では、負傷者も交じっていた。
立てない者は、戸板に載せられ運ばれてきていた。灰色の布を巻いた者たちが大旗の周囲に道を作ろうとしていたが、人が入るたび、その道は埋まっていく。
「座れる者は座ってください。子供を前へ。家族を離さないで」
マルタ・エーレンは、旧官庁の石段の上から声を投げた。
鐘の音で呼び寄せられた者の中には、槍を持つ者だけでなく、空桶を下げた者、鍋の火を見ていた者、家族を探して歩き回っていた者もいる。
門から退いた若者が、クラマーは何十人も倒したと声高に叫ぶと、別の者は最後まで膝をつかなかったと語る。それを聞いた周囲は覚悟を決めた顔をしている。
マルタは、その叫びを正さなかった。
「クラマーは勇敢に戦いましたが、南門は開き、北門も破られました」
広場の声が弱くなる。
「東からも、帝国の兵が入ったそうです」
マルタは白い椀の旗を見上げる。風はほとんどなく、重い布は棒に沿って垂れていた。
「私たちは、どこにも逃げる場所がなかったから、この都市へ集まりました」
声が止む。
「村を追われた者。徴発から逃げた者。家族を失った者。病を理由に門を閉ざされた者。誰も彼も、ここ以外の行先がなかったのです」
空桶を持った若い男が、石段の下から声を上げた。
「井戸へ戻ってもいいですか。桶が――」
「水は、ここへ運んでください」
「……北へ戻すよう言われているのですが」
「北の者も、いずれここへ来ます。無駄に人も水も分ける必要はないでしょう」
男は桶を持ったまま動かなかった。
「同じ椀から粥を分けた者を、見捨てるようなことをしてはなりません」
戸板の脇で、女が泣き始めた。マルタはその女へ手を差し伸べるのではなく、広場全体へ向けて言葉を続けた。
「弱い者を残して生きるのなら、私たちは帝国と何が違うのでしょう」
「そうだ!」
どこかで声が返る。
「誰も置いていかない。誰も一人にしない。それが灰衣だ!!」
声は広場の後ろへ伝わった。負傷者を空いている建物へ移そうとしていた男が、戸板を止める。空桶を持った若者も井戸へ戻らず、人の列の横に立った。
白い椀の下に、さらに人が集まった。
*
「街は落ちる」
ハーゲンの声は、鐘より小さかった。
それでも石段の近くにいた者は振り返った。マルタは大旗の前を離れず、広場へ来たハーゲンとザイデルを見下ろした。
「動ける者から外へ出す」
「敗北を認めるというのですか」
「ここから勝てる策があるなら聞いてみたいものだな」
今度は、石段の下まで言葉が届いた。広場の端で槍を持った男が、隣の者と顔を見合わせる。マルタは周囲を見なかった。
「門は三つとも破られた。敵は外にも中にもいる。兵は散り、道は切られた。これを敗北と呼ばず、何と呼ぶ」
「街を失っても、灰衣は残ります」
「なら、なぜ人を逃がさない」
「別れて逃げることに何の意味があるというのです?」
マルタは白い椀に手を置いた。
「灰衣を脱ぎ、一人ずつ自分だけの道を探せば、私たちはまた、追われた農民と、捨てられた病人と、名を失った子供へ戻ります。この旗の下にいるから、私たちは同じ椀の者でいられるのです」
「旗だけあっても人は生きていけんぞ」
「旗がなければ、人は自分だけを守ります」
「それでいい。生き死にのときに自分を守らずにどうするというのだ」
マルタの表情が、わずかに動いた。
「では、誰から逃がすのです」
「歩ける者からだ」
「歩けない者はどうなさるので?」
ハーゲンは黙った。
「子供ですか。若い者ですか。水を運べる者ですか。槍を持てる者ですか。あなたが順番を決めた時、残された者は、同じ椀ではなかったと知ることになるでしょう」
「そういうことではない! このままでは誰も助からぬと言っているのだ!!」
「我々は誰も置いていかないのです」
「お前は誰も出さないと言っているだけだ!」
広場の空気が変わった。
ザイデルが二人の間へ入る。手には帳面と、空の水差しを持ったままだった。
「その話を続ける前に、水運びを戻してください」
マルタがザイデルを見る。
「水はここへ集めます」
「ここへ集めれば、北へは水が届きません。施療所にもです。広場にある水を、動けない者がどう取りに来るのです」
「皆で分ければよいのです」
「誰が運ぶのですか!」
「ここにいる者が」
「その者たちは、鐘で粥場と井戸から呼び出された人たちなんですよ!」
ザイデルは空の水差しを石段に置いた。乾いた音がした。
「同じ椀から分けるには、椀へ入れる者が必要です。今、あなたはその者たちを鍋から離しているんです!」
「人々を散らせば、恐れが広がります」
「集めれば、集まれなかった者が渇くと言っているんです!」
マルタはすぐには返さなかった。
石段の下で、誰かが「誰も置いていかない」と繰り返す。その声を受け、別の場所からも同じ言葉が返った。
ハーゲンは大旗を見た。
旗を下ろせば、人は散る。残せば、人はここから動かない。
「水運びを戻せ」
ハーゲンが言った。
「門から退いた兵は、地区ごとに分ける。白い椀の下へ槍を積むな」
「私は、人々を分けません」
「俺は分ける」
マルタの周囲にいる者たちが、槍を持ち直した。ハーゲンの後ろにも兵はいた。ここで命令を押し通せば、帝国軍が来る前に灰衣同士で道を塞ぐ。
ハーゲンは兵へ手を上げなかった。
「ザイデル。来い」
「水運びが」
「戻せる者だけ戻せ。ここで争うな」
背を向ける。
マルタの声が、その後ろから広場へ流れた。
「誰も置いていきません」
ハーゲンは振り返らなかった。
*
東門へ来た灰衣の女は、戸板の片側を一人で引きずっていた。
反対側を持っていた男は、途中で力が尽きたらしく、道の端に座り込んでいる。戸板の上には、腹へ布を巻いた若者が横になっていた。
「止まれ!」
門裏の帝国兵が槍を向ける。
女は戸板を離し、両手を上げた。若者の身体が傾き、僕は階段を二段飛ばして下りた。
「武器は?」
「ない。水を、少しだけ」
門裏では、帝国兵がまだ外から入っている。ここで戸板を通せば、入ってくる列とぶつかる。
僕はオルステッド殿を探した。門扉の脇で兵を分けていたところへ近づく。
「オルステッド殿。この人たちは、どこへ置けばいいですか」
オルステッド殿は女と戸板を見て、門外へ続く兵の列へ目を移した。
「外へは出すな。今出せば、入ってくる兵とぶつかる。武器を置かせて、左の壁へ集めろ」
「負傷者もそれでよいですか」
「戸板の道は空け、帝国兵の後送列に混ぜるな。判断が来るまで待たせろ」
「水を分け与えても?」
「門上へ上げた分が残っているだろう。飲ませすぎるなよ。次が来る」
僕が戻ると、カインがもう戸板の反対側を持っていた。マルクは裂けた盾を壁に置き、帝国兵の列と灰衣の者たちの間に立つ。
「武器を持っている人は、見えるところへ置いてください! 子供は壁側へ!」
灰衣の男が短い刃を腰から外し、石の上へ置いた。帝国兵が槍を向けたまま近づく。
「武器は捨てさせました」
僕が先に言う。
「そこへ座らせます。オルステッド殿の指示です」
兵は刃を蹴って自分の側へ寄せ、槍を下げた。
ブルーノが門上から水袋を投げようとし、ガレスに止められている。
「乱暴に投げるな。破れる」
「じゃあ持ってけよ」
「お前が下りれば階段が詰まる」
「注文が多いな!」
結局、エルヴィンが水袋を受け取り、階段を下りてきた。
女は若者の口へ少しずつ水を含ませる。道の奥から、また別の灰衣が来た。今度は子供を抱いた男と、肩を貸し合う老人二人だった。
これから中央へ進むのか、ここに残るのか、僕にはまだ分からない。
けれど、門まで来た人たちは、もう目の前にいた。
「壁側をもう少し空けよう。戸板は横にしないで、道に沿って置いて」
マルクが配下へ声を飛ばす。カインは、次に来る者の手元を見ながら僕の右へ戻った。
門の外から入る兵と、街の奥から逃げてくる人が、同じ場所へ増え続けた。
*
南から来た伝令は、東門へ入る前に二度止められた。
門裏まで着くと、泥のついた板札をユリウスへ渡す。南門では負傷者の後送と兵の組み直しが続き、中央へ出せる列はまだ整っていないという。
その返答を書記が記す間に、北からの伝令も入った。
「北門内の柵は、まだ残っています。先に入った兵が右側の家並みを押さえていますが、本隊を通せる幅はありません」
「黒い旗はどうなっている?」
「門前です」
ユリウスは門裏に置かれた市街の略図を見た。ヴェルナー子爵が内側から通った道には、小さな釘が並べられている。
「東は待つとしよう」
「本営へ、そのまま伝えますか」
「南と北が整う前に東だけ出れば、白い椀へ集まった者がこちらへ寄る。三方の準備が揃ってからとする」
南へ返す伝令と、北へ返す伝令が同時に走り出す。
「門楼の兵は交代させますか」
「半分ずつだ。今いる者を一度に下ろすな。偵察は二本の道まで。交差路を越えるな。灰衣を追うな」
命令が門上へ届き、名前が呼ばれ始めた。残る者。下りる者。次に市街へ出る者。
僕の名は、まだ呼ばれなかった。
*
ハーゲンが戻った時、机の上には新しい木札が並べられていた。
ザイデルが濡れた帳面を見ながら、一枚ずつ札を移している。
「こちらの者たちは、自力で歩けます。こちらは支えがあれば。子供を連れている者は、家族ごと同じ札にまとめました。別々に動かせば、途中ではぐれるでしょうから」
「水を知る者はどうなっている?」
「丸をつけました。手当てを知る者は二重です。ただし、全員を先に出せば、ここへ残る者へ水を渡す人がいなくなります」
ハーゲンは札を一枚取り上げた。年の書かれていない子供の名と、その母親らしい名が同じ札に並んでいる。
「この者たちを先に動かせ」
「護衛はつけないのですか」
「つける。だが、護衛を多くしすぎれば、負傷者たちが通る道を塞ぐだろう」
「では、残りの兵は最後に?」
「その時まで、道が残っていれば、な」
ザイデルの指が、札の上で止まった。
「……あなたも、最後まで残るつもりですか」
ハーゲンは答えず、壁際に立つ兵へ札を渡した。
「西へ見に行った者が戻ったら、この札にある名だけを教えろ。一度に呼ぶな。水を取りに行く、担架を移す、そう言って分けろ」
「灰衣は脱がせますか?」
「外へ出るまでは外すな。広場で気づかれる」
「出た後は」
「本人に決めさせろ」
旧官庁の外から、マルタの声が聞こえた。
「誰も置いていきません」
広場の人々が繰り返す。
「灰衣を纏えば、貴賤は消える」
同じ言葉が、さらに遠くへ流れていく。
その頃、東門では中央へ進む者の名が呼ばれ始めていた。
白い椀の下では、ここに残る者たちが声を上げていた。
その裏でハーゲンは、生きて街を出る者の名を選んでいた。




