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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第70話 鐘を鳴らせ


 伝令が置いた板札には、血のついた指の跡が残っていた。


 ローデリヒ・ハーゲンは文字を読む前に、板札を持ってきた伝令の様子を見た。右の袖が肩まで裂け、布を巻いた上から血が滲んでいる。本人のものだけではないらしく、灰色の上着には、乾きかけた血の跡が幾つも重なっていた。


「南門の第一の柵はどうなっている?」


「破られました。帝国兵と、ルミナの兵が主道へ入っています」


「……そうか。詳しい状況はわかるか?」


「いえ、詳しい状況までは……。次の広場で止めている者もいますが、左右の家へ入られています。南へ戻る細道にも兵が――」


 そこで声が詰まった。会議室の外では、戸板へ載せられた負傷者が廊下を通っている。担ぎ手が曲がり切れず、扉の枠へ板をぶつけた。


「足から入れろ! 頭を振るな!」


 外の声に押され、伝令は壁際へ一歩寄った。


 旧官庁の机には、市街の略図が広げられている。南門を示す黒い石は、すでに門の内側へ動かしてあった。その奥へ置いた三つの木片のうち、一つは第一の柵。残る二つは広場と、さらに奥へ続く道だった。


「ほかには何かあるか?」


「……火壺を運んでいた者たちも、止められました」


 ハーゲンの指が止まる。


「火壺だと?」


「門へ戻る道に、油布と火壺を運んでいました。帝国兵が奥へ進んだあと、門板の残骸を焼くつもりだったと」


「いったい、誰の命令だ!」


 伝令は答えなかった。代わりに、戸口に立っていた別の男が口を開く。額を布で縛り、長い斧の柄だけを抱えていた。刃はついていない。


「……クラマー殿の者たちです」


「本人はどこへ行った!!」


 男は斧の柄へ目を落とした。


「一緒に、南へ行かれました」


「戻ったのかと聞いている」


「……戻っておりません」


 最初の伝令が、板札を机へ押し出した。


「南門近くの細道で帝国側の部隊と遭遇し、そこでクラマー殿が先頭に立ち、ルミナの兵を三人続けて倒しました。そのあと、槍を持った若い男が前へ出て……」


 伝令の手が、自分の首筋へ触れた。


「……その若い男にクラマー殿は斬られ、落命されました」


 部屋の中にいた者たちが動きを止める。


 廊下では、また戸板が壁へ当たった。今度は運ばれていた男が呻き、担ぎ手が詫びる声が続いた。


 ハーゲンは、机の東側に置いてあった木片を摘まんだ。


 クラマーの位置を示していたものだった。


「クラマーのやつは、東門の守りから、いつ抜けた」


「夜明けのあとには、まだ東門で確認されておりましたが……」


「兵は何人連れていたのだ?」


「分かりません。火を扱える者と、東の街道から来た者を集めていたと」


「北から回した者はいたのか?」


「いません。少なくとも、私は見ておりません」


 火計そのものに理がなかったわけではない。南門から入った兵が主道へ深く進んだところで帰路を焼けば、門外の後続と切り離せる。負傷者が戻れず、増援が詰まり、狭い市街で混乱する。


 成功していれば、南側を押し返す機会にはなっただろう。


 だが、クラマーは誰にも告げずに兵を抜き、進路も退路も、クラマーの独断だった。東門から消えた人数すら、ここでは分からない。


 ハーゲンは木片を略図の外へ置いた。


「東門へ伝えろ。クラマーの兵が抜けた穴を数えろ。南へ追って出すな。今いる者で門上と門裏を埋めろ」


「承知しました、伝えてまいります」


「南は次の広場を捨ててもよい。主道へ固めるな。左右の路地へ分けろ。屋根へ上がる者は、下から合図を受けて投げるのを厳守させろ。勝手に火を使わせるな」


 最初の伝令が顔を上げる。


「広場を捨てるのですか」


「広場へ人を置けば、帝国の弓が射やすくなる。道を渡らせ、横から削れ。下がる者と負傷者が通る道を一本残せ」


「北から兵を回しますか」


「いや、動かすな」


「ですが、南は――」


「南へ集めた結果が、この有様だ」


 略図の外へ置いた木片を見て、伝令は口を閉じた。


「北門も東門も、今の人数で持たせろ。予備も勝手に中央へ回すな。命令は地区ごとに出せ。鐘を使うな」


 伝令たちが出ていく。入れ替わるように、エーミール・ザイデルが廊下から入ってきた。片手に帳面を抱え、もう片方の手には空の水差しを持っている。


「ザイデル殿か、それは何だ?」


「南の施療所で最後に空になったものです」


 水差しを机の隅に置く。底に残っていた一滴が口から落ち、地図の端を濡らした。


「水桶を三つ、門へ持ち出した者がいます。二つは戻りましたが、一つは割れました。油を運ぶために空けた桶もあるそうです」


「クラマーの火か……」


「誰が命じたかは聞いていません。ただ、施療所では水が足りません」


 ザイデルは帳面を開き、南の地区名に指を置いた。


「ここはもう寝かせる場所がありません。廊下と裏庭まで使っています。歩ける者は壁際へ出しましたが、主道へ兵が入っているので、奥へ送るにも細道しか使えない」


「西へ回せ」


「死者を運ぶ道と重なります」


「死者は待たせるしかあるまい……」


「もう待たせています。今度は、その横へ負傷者を置くことになります」


 廊下の向こうで、女が誰かの名を何度も呼んでいる。返事はなかった。


 ザイデルは次の頁を開いた。


「南の粥場から、若い者が抜けています。石を持つ者、槍を探す者、家族を探しに行った者。鍋を見ているのは老人と子供だけです。担架を運んだ者も、戻ったあと武器を求めています」


「止めさせろ!!」


「どう伝えれば止められましょうか」


 ハーゲンは顔を上げた。


「持ち場へ戻れ、と」


「本人たちは、町を守る持ち場へ行くつもりです」


 ザイデルの声は変わらない。


「全員へ武器を回せば、日が落ちる前に水と粥が止まるでしょう……。戦う前に町が死にますよ」


「門と道を守る者だけ残せばよい」


「誰が、自分こそ残る側だと納得するでしょうか」


 その答えは、部屋の外から聞こえた。


「誰も認めません」


 マルタ・エーレンが扉の前に立っていた。


 灰色の長衣の裾には泥と血がつき、胸元の白い椀だけが、かろうじて白さを残している。後ろには、南門から退いてきたらしい若者が二人いた。一人は片方の靴を失い、もう一人は折れた槍先を布に包んで持っている。


「クラマーが死んだそうですね」


「今、聞いたところだ」


「外では、もう皆が知っていますよ」


「何を知っているというのだ」


「破陣が南門で倒れたことを、です」


「火を門へ通せず、兵を戻せずに死んだこともか」


 後ろの若者が顔を上げた。マルタは振り返らない。


「そこまでは、皆の話には上がっておりません」


「なら伝えろ」


「伝えて、どうするのです」


「次に同じことをする者を止める」


「クラマーが愚かだったから負けた。命令を聞かずに出たから死んだ。そう言えば、南から戻った人々は落ち着くと?」


「落ち着かせるためだけではない! 規律を失っては勝てるものも勝てん!! 事実を変えるな」


「ええ、変えません」


 マルタが机へ歩み寄る。略図の外に置かれた木片を見つけ、その隣へ指を置いた。


「戻った人々には、もう家がありません。村へ戻っても、徴発から逃げた者として捕らえられる。帝国へ武器を捨てても、どのような処遇が待っているかわかりません。あの人たちに、奥へ下がって待てと言うのですか」


「下がらせなければ、南から来る兵に潰されるだけだぞ」


「下がった先で、何を待たせるのです」


「生き残る機会だ!」


「……機会があると、皆の前で、あなたは言えるのですか?」


 ハーゲンは答えなかった。


 帝国の勧告には、武器を捨てた者をどう分けるかが書かれていなかった。灰衣を纏った者の中には、代官を殺した者も、粥を運んだだけの者もいる。帝国がその違いを見てくれると、ハーゲンにも保証はできない。


 マルタは、返事を待たずに続けた。


「南門から戻った人々が求めているのは、逃げる道ではありません。自分がここにいる意味です」


「意味を与えて死なせるとでも言うのか」


 後ろの若者が折れた槍先を握り直した。


 マルタは、その音を聞いてから答えた。


「ばらばらに踏み潰されるよりは」


「同じ場所で死ねば、灰衣は残るとでも?」


「同じ場所で、生き残る者も出るでしょう」


「その生き残る者を作るために、人を分けているのだ!」


「分けられた方は、自分が捨てられたと思います」


「思わせないために全員を戦わせるとでも言うのか」


「役目を与えておりますよ!」


 ザイデルが帳面から目を上げ、マルタを睨む。


「水を運ぶ者も役目です。粥を煮る者も、子供を見ている者も」


「そう伝えても、皆は自分が戦いから外されたと思っています」


「そう思っていたとしても、役目を捨てられては、組織として動けません」


 マルタの目がザイデルへ移る。


「今、鍋の前に残れと言えるのですか?」


「ええ、言います」


「クラマーが死んだと聞いた者に?」


「死んだからです。戻らない者の分まで、残った者へ食べさせなければならない」


 廊下の女の声が止んだ。代わりに、水を求める声が近くから上がる。


 ザイデルは空の水差しを持ち上げた。


「旗を立てても、これには水が入りません」


「旗を立てなければ、人が散ります」


 マルタは扉の外へ顔を向けた。旧官庁の前には、南から退いてきた者が増え続けている。傷を押さえて座る者。武器を探す者。誰かの話を聞こうと、階段へ集まる者。クラマーが帝国兵を何十人も倒したという声があり、その隣では、南門まであと少しだったと言う者がいた。


 槍を持った男に討たれた、というところまでは証言が一致していた。だが、クラマーがどのように戦い、どう倒れたのかは、話す者によって違っていた。

 確かな話がないところへ、クラマーが最後まで勇敢に戦ったという話が、少しずつ付け加えられていた。


「白い椀の旗を出します」


 ハーゲンが机から手を離した。


「旗だと? 何をする気だ」


「各地区の鐘を鳴らします。門を守る者は残る。水、粥、施療の者も持ち場を離れない。それ以外で動ける者は、白い椀の下へ集めます」


「その全部が、鐘で伝わると思うか」


「地区ごとに人を走らせます」


「北門と東門には、すでに動くなと送ったところだ」


「なら、門の者は残りますね」


「お前の思うどおりに届けばな」


 マルタは答えず、白い椀に手を当てた。


 ハーゲンは、扉の向こうへいる若者二人を見た。クラマーの死を聞いたばかりで、どちらもマルタの言葉を待っている。ここで彼女を止めるために兵を呼べば、その兵がどちらへ槍を向けるかは分からない。


 クラマーを失った直後だ。灰衣の中で争えば、南から来る討伐軍に道を渡すだけになる。


「鐘は一度だ」


 マルタが顔を上げる。


「各地区、一度だけ鳴らせ。続けて鳴らせば、出撃か撤退か分からなくなる」


「一度では、届かない場所があります」


「だから人を走らせろ」


「間に合わなければ?」


「間に合わせろ」


 マルタはしばらくハーゲンを見たあと、若者たちへ振り向いた。


「集会所へ。梁に巻いてある大旗を出してください。北と東へ行く者には、門を離れないよう先に伝えて」


 二人が走り去る。


 ハーゲンは別の伝令を呼んだ。


「北門と東門へもう一度行け。鐘が鳴っても、門の兵と予備は動かすな。矢、石、水を運ぶ者も残せ」


「北への伝令は、旧市場を抜けさせますか」


「主道は使うな。西の路地から回れ」


 伝令が出ると、ザイデルも帳面を閉じた。


「負傷者は広場へ入れぬようにします。白い椀を見るために担架を置く者がいたら、私の名で戻します」


「子供も外せ」


「粥場へ集めます。ただし、現場が混乱しない人数までです」


「集まった者は地区ごとに分ける。火壺を持ってきた者は、その場で取り上げろ。主道へ一度に出すな」


「鐘を鳴らしたあとで、その命令を聞くでしょうか」


「聞かせるしかあるまい!」


 ハーゲンは略図の上へ残る木片を動かした。


「マルタが集めるなら、俺たちは一度に死なない形へ分ける」


 ザイデルは返事をせず、空の水差しを持って廊下へ戻った。


 しばらくして、灰色の大旗が旧官庁前の広場へ運ばれてきた。四人がかりで抱えた布は、人の背丈より長い。広げると、中央に白い椀が縫いつけられていた。泥のついた手が旗竿を立て、石段の手すりへ縄を回す。


 マルタが階段へ上がる。

 広場にいた者たちの声が、少しずつ止んだ。


「破陣は、南門で倒れました」


 誰かが呻くようにクラマーの名を呼んだ。


「ヴォルフ・クラマーは戻りません。南門も開かれました。帝国兵とルミナの兵が、この町へ入っています」


 旗が風を受け、白い椀が一度だけ歪んだ。


「門にいる者は、門を守ってください。傷を運ぶ者は、その手を離さないでください。水と粥を守る者も、そこを離れないでください」


 階段の下で、ザイデルの部下たちが担架を広場の外へ回している。武器を持った者と、何も持たない者が、その道を空けようとしてぶつかった。


「それ以外で動ける者は、白い椀の下へ。灰衣を纏った者を、一人で戦わせてはなりません」


 最初の鐘が鳴った。旧官庁の屋根に吊られた鐘だった。打ち手は一度で止めた。

 少し遅れて、東の方角から鐘が返る。


 一度。


 その後ろでもう一つ鳴った。今度は二度だった。


「一度だけだと言ったぞ!!」


 ハーゲンの声は、広場のざわめきに消えた。


 北から三度。南の奥から、数も合わない音が重なる。鐘を聞いた者が走り、走る者を見た別の者が何かを叫ぶ。


「白い椀へ集まれ!」


「破陣が討たれた!」


「武器を持てる者は中央へ!」


「北も南も、旗の下へ来い!」


 最後の言葉を誰が言ったのか、ハーゲンには分からなかった。


 マルタは階段の上から、門の者は残れと繰り返している。だが、鐘と人の声は、彼女の言葉を短く削りながら路地へ流れていった。


 南門から退いた若者が、折れた槍先を掲げる。


「破陣は最後まで膝をつかなかった!」


 倒れるところを見たと言う者もいた。それでも、声が重なるたび、最後の姿は少しずつ変わっていった。


 広場から声が返った。

 白い椀の旗の下へ、人が集まり始めた。


*


 北門上から放たれる矢は、少しずつ間が空きはじめていた。


 ヴァルグラム・ドラグヴァルトは、北外営の小屋と柵の間に作られた道から門を眺めている。古参兵が前の小屋を押さえ、工兵が倒した柵を短く切って脇へ寄せている。


 灰衣側から最初の鐘が鳴った時、灰衣の守備兵は門上に残っていたが、二つ目が鳴ると、石を抱えた一団が、階段を下りた。


 次の鐘では、矢筒を運んでいた若者たちが奥へ走った。呼び止めた兵も数段下り、そこで別の者と揉め始める。


「敵が退いていますね」


 若い寄子隊長が言った。


 ヴァルグラムは門上から目を離さない。


「……安易に決めつけるな」


「ですが、人が奥へ――」


「射る者が減った、それは間違いない」


 門上から矢が一本飛び、盾兵の前へ落ちた。その次が来るまで、いつもより長くかかった。


「弓隊を前へ。門上だけを射ろ」


 黒い旗の後ろで、古参弓兵が二列に分かれる。


「盾兵は工兵を門まで運べ。右の扉だ。杭を外した道から行け」


「逃げる者は追いますか」


「いや、追うな」


 ヴァルグラムは手を上げた。


「まずは、門を抑えろ」


 弓が揃って放たれた。門上の灰衣が胸壁へ伏せる。次の列が前へ出る間に、盾兵が道を進んだ。北外営を取った時と同じ歩幅で、倒れた小屋の間を抜ける。工兵は盾の後ろに入り、斧と楔を抱えていた。


 門前の防柵から灰衣が槍を出す。古参兵は突っ込まず、盾を合わせたまま受けた。二列目の槍がその隙間から伸び、灰衣を柵の向こうへ戻す。門上から石が落ちたが、運ぶ者が減ったため続かなかった。


「右へ寄せろ。工兵の前を空けろ」


 命令が前へ渡る。


 斧が門板へ入った。一度目は浅い。二度目で板が裂け、楔が打ち込まれる。鉤を掛けた縄が後ろへ渡され、工兵たちが腰を落とした。


 門裏では、灰衣が横木を押さえている。交代の者が来ないのか、同じ肩が何度も位置を変え、空いたところへ別の者が滑り込んだ。


「引け!!」


 縄が張る。傷んだ板が外側へ剥がれ、門扉の端に人一人が身体を入れられる隙間ができる。灰衣の槍がそこから出たが、待っていた古参兵が盾で押さえ、二人目が足元へ入った。


「広げろ。中へ走るな!」


 兵は門裏の横木へ向かい、周囲の灰衣を押し退ける。門内へ抜けようとした者を、後ろの兵が外套を掴んで戻した。


 工兵が隙間へ斧を入れ、横木を支える留め具を打ち壊す。北門の片側が、大きく軋んだ。


 門上で鐘が鳴っている。

 その音の下を、黒い旗が門前まで進んだ。


*


「北門が破られました!」


 伝令は旧官庁前の広場へ転がり込むように走ってきた。


 白い椀の旗の下では、集まった者たちを地区ごとに分けているところだった。槍を持つ者を右へ、石や短い刃しかない者を左へ。ザイデルの部下が、担架を置こうとした男を粥場へ戻している。


 ハーゲンは伝令の肩を掴んだ。


「門上の兵はどうなっておる?」


「残っています。ですが、予備が来ません。矢と石を運ぶ者も減って、負傷者を下げた後の穴を埋める者が――」


「門裏の状況は?」


「黒い旗の兵が入りました。扉の片側を引かれています。こちら側の柵で止めていますが、長くは」


「何故、門を離れたのだ!!」


 伝令の目が、広場の大旗へ向いた。


「鐘が鳴って……白い椀へ来いと。クラマー殿が討たれたから、皆で戦うのだと」


「門の者は残れと伝えただろう」


「門に立っていた者は残りました。次に入る者と、水を運ぶ者が……」


 ハーゲンは手を離した。


 守備兵が逃げたわけではない。交代が来ず、矢が来ず、水が来ず、負傷者を下げた列が戻らなかった。門に残った者だけで、門を持たせられるはずがない。


 マルタが階段を下りてきた。


「北へ、門を離れないよう伝えました」


「鐘で人を集めれば、細かな命令までは伝わらん。残るのは、旗の下へ集まれという言葉だけだ」


「私は――」


「だから軍の命令を鐘に混ぜるなと言った」


 マルタの口が閉じる。広場にいる者たちは、北門の報告を聞き始めていた。誰かが逃げる道を探し、別の者は北へ行くと言って槍を上げる。


「北へ行かせるな!」


 ハーゲンが声を張った。


「今から走っても、門へ着く前に道を塞ぐだけだ! 北の者は北で持たせる。ここに集まった者は、地区ごとに分かれろ!」


 ザイデルは、北から負傷者が来る道を空けるよう部下へ指示している。


「旧市場の道を担架へ。武器を持つ者は入れないでください。水桶を二つ北へ戻します。空で行かせず、途中の井戸で汲ませて」


「東門へも伝令を出せ」


 ハーゲンはマルタから目を外した。


「門を離れるな。北が開いたからといって中央へ来るな。東まで開けば、町を分ける道がなくなる」


 白い椀の旗は、下ろされなかった。

 下ろせば、集まった者がどちらへ流れるか分からない。


 鐘も、まだ遠くで鳴っていた。


*


 最初の鐘が聞こえた時、僕たちは四軒目の裏口を調べていた。


 戸口から声を掛けても返事がなく、オルステッド隊の兵が二人で中へ入る。僕たちは外で待ち、ガレスが道の奥を、エルヴィンが家と家の隙間を見ていた。


 鐘がもう一度鳴る。


「角笛じゃないな」


 ブルーノが、市街の奥へ顔を向けた。


「鐘だね。何の合図だろう」


「知らん。だが、一つじゃないぞ」


 最初の鐘が止む前に、少し離れた場所から別の音が返ってきた。さらにその向こうでも、間を置いて鐘が鳴る。


 エルヴィンが路地の先を見た。


「奥へ知らせてる。おそらく、人を集めてるんだろう」


 家の中から、武器はないという声が返った。兵が奥の戸を開け、白髪の男と小さな子供を外へ出す。二人とも灰色の布を巻いていたが、手には何も持っていない。


 カインが子供を壁側へ寄せる。


「この道を南へ。兵のいるところでは、手を上げて見えるようにしてください」


 男は頷いたものの、南へは向かわなかった。

 鐘の音が重なると、市街の奥を見た。


「白い椀だ」


「白い椀? 何のことですか?」


「呼んでる」


 それだけ言い、子供の手を引いて奥へ歩こうとする。


「そっちへ行ってはいけない!」


 僕が止めると、男は足を止めた。


「南へ行けば、帝国の兵がいる……」


「武器を持っていなければ――」


 大丈夫、と続けることができなかった。

 オルステッド殿が、男と僕の間へ立つ。


「ここへ残る方が危ない。南へ行け。誰かに止められたら、左の細道から来たと言え」


 男は子供を見たあと、ようやく南へ向かった。その背中と逆に、灰衣を纏った若者が二人、奥へ走っていく。武器は持っていない。一人は道端に落ちていた槍を拾おうとし、オルステッド隊の兵に止められた。


「どこへ行く!」


「白い椀へ!」


「武器を捨てろ!」


「拾ってない!」


 若者は両手を見せ、そのまま別の路地へ消えた。


 エルヴィンが鐘の方角を見た。


「退く合図じゃない」


「分かるの?」


「退くなら、こっちへ来るだろう」


 奥へ走る人影が、また一つ増える。


「人を集めているのか?」


 オルステッド殿が兵へ手を上げた。


「戸口の確認を止めるな。走る者を追うな。武器を向けた者だけ止めろ」


 僕たちは次の家へ移った。


 鐘は一つでは終わらなかった。遠くで鳴った音が壁に返り、どの方角から来ているのか分からなくなる。家の中から出てきた者も、南ではなく奥を見た。


 二軒を確かめたところで、大通り側から兵が走ってきた。


「オルステッド隊長!」


「何だ」


「北門破断! 北方軍が門内へ入りました!」


 オルステッド殿の後ろで、兵たちが顔を見合わせる。


「北側全体が落ちたのか」


「門内へ足場を作ったところです。黒旗はまだ門前。本営から、南側の部隊は中央へ押し込みすぎるなと」


「そうだろうな」


 オルステッド殿は鐘の奥へ目を向けた。


「北から来る兵と、主道の先でぶつかれば、灰色より先に味方同士で道を塞ぐ」


「ヴェルナー子爵閣下が、第一防柵跡へ入られています。隊長とエスター隊は戻れとのことです」


 僕たちは、確認を終えた家へ印を残し、来た道を戻った。


 第一防柵の残骸があった広場には、ルミナ軍の兵が新しい列を作っている。主道へ向けていた槍の一部が東側へ振り直され、帝国兵の大盾と、斧や槌を持つ工兵がその間へ入っていた。


 広場の端に、市街の略図が板に留められている。


 ヴェルナー子爵は、その前に立っていた。港都を出た時に見た綺麗な外套ではなく、泥のついた短い上着を着ている。馬は広場の外へ置いたらしく、側には書記と旗持ち、それにヴェルナー家の隊長たちがいた。


「南から中央へ入れる兵は、ここまでだ」


 ヴェルナー子爵は略図の主道を指で押さえた。


「北門が開いた。灰衣は中央へ集まり、こちらの主道へも流れている。南からさらに押せば、北方軍と正面で顔を合わせることになる」


 帝国軍の工兵らしい男が、東門を示す位置へ小さな釘を置く。


「東門外では、外柵まで達しています。門扉への斧はまだです。内側の閂を外せれば、外から引けます」


「内側の道は」


「帝国側では分かりません」


「こちらも同じだ」


 ヴェルナー子爵は、広場へ戻ってきたオルステッド殿を見た。


「左の家並みは」


「南門へ戻る道を一つ確保しました。火壺と油布があり、灰衣の一隊が門を焼こうとしておりました」


「止めたのか」


「はい。ヴォルフ・クラマーも、その道に」


 周囲にいた年嵩の兵が顔を上げる。


「破陣の?」


「ガレス殿が討ちました」


 ヴェルナー子爵の目が、裂けた盾を持つマルクと、その横に立つガレスへ動いた。


「話はあとで聞こう」


 驚かなかったわけではないと思う。ただ、今ここで聞くことではないと、そのまま略図へ目を戻した。


「オルステッド。お前の隊を前へ置く。南東の路地から東門を目指せ。主道へ近づきすぎるな」


「承知しました」


「帝国工兵は中央。盾兵を前後へ置く。門へ着く前に工兵を使い切るな。ヴェルナーの二隊を後ろへつける。一本の道へ全員を入れず、退く道も残せ」


 帝国軍の工兵らしい男が短く頷き、命令を受けた者が、それぞれ自分の兵へ走る。


 ヴェルナー子爵はこちらを見た。


「エスター隊も同行せよ」


「はい。僕たちは、どこへ入ればいいですか?」


「オルステッド隊の後ろだ。工兵の側面を守れ。横道へ灰衣が出た時は、勝手に追わず、まず道を塞げ」


「分かりました」


 ガレスはもう槍の穂先を確かめている。マルクから裂けた盾を受け取ろうとしたが、マルクが首を振った。


「これは俺が持ちます。ガレスの兄貴は、槍を両手で使った方がいいでしょう」


「なら、列の内側へ置け。もう斧は止められん」


「石くらいなら、まだ」


「さっきも聞いたぞ、それ」


 ブルーノが棍棒についた油を布で拭いながら、略図の東端を覗き込む。


「東門ってのは、今度は壊すのか」


「内側から開ける」


 オルステッド殿が答えた。


「敵はいるんだろ」


「いなければ、我々はいらんな」


「そうか、腕が鳴るぜ」


 ブルーノは棍棒を肩に載せた。


 僕は南門の方を見た。トマとミケル、ニルス、それに門外へ残した者たちは、まだ壕の向こうにいる。板路と後送の仕事も終わっていない。


「ヴェルナー子爵。門外に残している者へ、伝令を出してもいいでしょうか」


「出せ。だが、今すぐ全員を呼ぶな。板と後送路を引き継ぐ兵が着くまでは、その場を離れさせるな」


「はい」


「荷車は東門へ入れるな。必要な者だけ、引継ぎが済んでから後ろへ回せ」


 マルクが自分の側にいる兵を一人呼び、南門へ戻す内容を確かめる。


「左の板は前進、右は帰還のまま。別の隊が来るまで動かすな。ミケルには、青い布もそこへ残せって言えばいいですか」


「うん。僕たちが東へ行くことも伝えて。無理に追いつこうとしないで、引継ぎを先に」


「分かりました。おい、聞いたな。走れ。途中の戸口から出てくる奴には気をつけろよ」


 兵が南へ走る。


 広場では、東へ向かう列が作られ始めていた。帝国工兵が斧と槌を確かめ、大盾の陰へ入る。オルステッド隊がその前へ並び、ヴェルナー家の槍兵が後ろの道を空ける。


 鐘は、まだ街の奥で鳴っている。


 その音に向かって走る灰衣と、そこから逃れて南へ来る人々が、家々の間で交差していた。


「アズール様」


 カインが僕の右へ立つ。


「行きましょう」


「うん」


 南門は開き、北門も破られた。

 僕たちは白い椀の鐘を聞きながら、次の門を内側から開くため、東へ向かう列へ入った。


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