第69話 破陣のクラマー
南門が落ちてから、しばらく経っていた。
最初に変わったのは、門の向こうへ入っていく旗だった。
崩れた第一防柵へ帝国兵が鉤を掛け、その後ろからルミナ沿海伯家の槍兵が押し込んでいく。門板を割った工兵たちは、道の端へ寄せられた大盾の陰で息を整え、代わりに、まだ泥汚れの薄い靴が次々と僕たちの横を通り過ぎた。
「壁へ寄れ! 後ろを通す!」
帝国兵の声に、僕たちは門内左側の家壁へ身を寄せた。ガレスの割れた盾が僕の肩に触れ、ブルーノは棍棒を縦にして通る兵へ当てないよう抱えている。
「俺たちを呼んだんじゃなかったのか」
「左を押さえろと言われただけだ。先へ出ろとは言われていない」
「同じようなもんだろ」
「違う」
ガレスの返事を聞いている間にも、ルミナ軍の家紋旗が一つ、また一つと門をくぐった。帝国軍の盾が防柵正面を押さえ、ルミナ軍の弓兵が屋根へ向けて矢を上げる。石を抱えていた灰衣が瓦の向こうへ伏せたところへ槍兵が入り、荷車と樽の隙間が少しずつ広がった。
防柵が崩れた瞬間は見えなかった。前に並んでいた兜が一斉に動き、木の折れる音のあと、灰衣の声が遠ざかる。ルミナ軍の旗が、さっきまで灰色の盾が並んでいた場所へ立つ。そこから先の大通りへ兵が流れ込み、屋根を伝って下がる人影へ弓が向いた。
「追うな! 左右を見ろ!」
何人もの指揮官が同じことを叫んでいる。それでも、前へ進む旗は止まらなかった。
僕たちが壁際から動くことを許された時には、第一防柵の残骸は道の右へ寄せられていた。壊れた荷車の下から腕が一本伸び、二人の兵が木材を持ち上げている。灰衣なのか帝国兵なのか、倒れた身体は泥と灰で見分けがつかなかった。
「足元を見ろ。まだ釘が立ってる」
エルヴィンが言い、マルクが後ろの者へ声を回す。
「釘だ! 前ばっかり見るなよ。踏んだら戦う前に終わりだぞ!」
「お前はもう少し小声で言えんのか」
「後ろまで聞こえないでしょうが」
ガレスは返事をせず、槍の石突で倒れた板を脇へ押した。大通りの奥では、もう次の戦いが始まっていた。盾のぶつかる音は建物に挟まれて近く聞こえるのに、旗は家々の陰へ隠れていく。どこまで進んだのか、僕には分からない。
「アズール殿」
呼ばれて振り返ると、オルステッド殿が防柵の残骸を跨いでくるところだった。馬には乗っていない。兜の縁には泥がつき、剣は鞘へ戻されているが、その後ろには槍を揃えた兵が続いていた。
「こちらへ来い。主道を追う役は足りておる」
「僕たちは、どこへ?」
オルステッド殿は左側の家並みを指した。
「主道から南門へ戻れる細道を確かめる。敵が下がったからといって、家の中まで空になったわけではない」
開いた戸の向こうは暗く、何も見えない。その上の窓には布が掛かったままだった。
「武器を向ける者は倒せ。捨てた者は縛る。勝手に家へ火を掛けるな。中の物を持ち出した者も縛る」
オルステッド隊の兵が短く返事をする。
ブルーノが家並みを見回した。
「残ってるなら、出てくるまで待つのか」
「待たん。戸口から声を掛け、返事がなければ二人で見る。一人で入るな」
「面倒だな」
「面倒だから主力は先にいった。残されたこちらがやるしかない」
オルステッド殿はそう言って、先に細道へ入った。
道幅は、盾を二枚並べれば肩が壁へ触れるほどだった。大通りの音が背後へ遠ざかると、代わりに家の中から水の滴る音まで聞こえてくる。戸口ごとにオルステッド隊の兵が声を掛け、返事があれば武器を置いて外へ出るよう命じた。
最初の家から出てきたのは、白髪の女と片足を引きずる男だった。男の肩には灰色の布が掛かっていたが、手には何もない。カインが二人を壁際へ座らせ、後ろの兵へ引き渡す。
二軒目は空だった。三軒目の戸は開いているのに、土間に埃が残っていた。急いで逃げたなら足跡があってもよさそうなのに、入口近くには新しい跡がない。
「こっちは使ってないな」
エルヴィンが戸口へ手を伸ばさず、中庭の方を見た。
「でも、裏は使ってる」
家と家の間に、人一人が横向きで通れる隙間がある。そこだけ壁の泥が新しく剥がれ、足元の草が倒れていた。
「逃げ道か?」
ブルーノが覗こうとする。
「頭を出すな」
「出してねえ」
「今から出すところだった」
ガレスに外套を引かれ、ブルーノが舌打ちした。
僕たちは路地をさらに奥へ進んだ。角を一つ曲がると、小さな荷車が壁沿いに置かれている。荷台は空で、車輪には泥が厚くついていた。
エルヴィンがしゃがみ、轍を指でなぞる。
「向きが逆だ」
「逆?」
「ここから出すなら奥へ向ける。これは南門側へ引く向きだ」
荷車の横には空の水桶が三つ重ねられている。オルステッド隊の兵が上の桶を下ろすと、中から細く裂いた布が落ちた。
湿っているように見えたが、水ではなかった。
「触るな」
オルステッド殿が兵の手を止める。布の端に顔を近づけ、すぐ桶へ戻した。
「油だ」
その言葉のあと、誰も動かなかった。
大通りの方で歓声が上がる。主力がまたどこかを押したのだろう。その声が家壁の上を越え、路地の中へ薄く落ちてきた。
エルヴィンは荷車から南門の方角を見た。
「ここから中庭を抜ければ、門内の左へ出る」
「火を運ぶ道か……」
ガレスが割れた盾を少し上げる。
「まだ運んではいないようだけどね」
僕は桶と荷車を見た。
使われた跡はない。これから使うために揃えられている。
「オルステッド殿」
「分かっておる」
オルステッド殿が手を上げた。
「前を止めろ。後ろへ二人。門へ報せ――」
屋根の上で板が鳴った。
「上!」
エルヴィンの声と同時に、開いていた二階の窓から石が落ちた。先頭の盾へ当たり、その陰へ槍が突き出される。オルステッド隊の兵が受けたところへ、左右の戸が一斉に開いた。
灰衣が出てくる。
「列を作れ!」
ガレスが割れた盾を前へ出した。
道の奥から押してくる者。家の中から側面へ入ろうとする者。手に槍や斧を持たず、火のついた細い棒と小さな壺を抱えた者が、その間を南門側へ走り出す。
「あれを通したら駄目だ!」
僕が指すより先に、ブルーノが棍棒を持ち直した。
「分かってる!」
「ブルーノ、火を持ってる人を止めて! 奥までは追わないで!」
「またそれかよ!」
「門まで行かせないで!」
「なら全部潰せばいいんだろ!」
ブルーノは壁に棍棒を当てないよう短く持ち、火壺を抱えた一団へ突っ込んだ。最初の男が壺を投げようと腕を上げる。棍棒がその肘へ入り、壺は男の足元へ落ちた。火が油布に移る前に、マルクが上から外套を被せる。
「踏め! 火だけ踏めよ、人まで踏むな!」
「分かってる!」
後ろの兵が外套ごと火を押さえた。
別の戸から出た灰衣が僕の方へ来る。カインが間へ入り、剣の腹で槍を外へ流した。狭い戸口に二人目が詰まり、そこへマルク隊の槍が向く。
「出るなら武器を捨てろ!」
返事の代わりに、斧が投げつけられた。
ガレスの盾へ当たり、もう半分ほどしか残っていなかった板が縦に裂ける。ガレスは盾を捨てず、裂けた部分を相手の顔へ押しつけた。その横からオルステッド隊の槍が入る。
「正面を空けるな!」
オルステッド殿が奥を指す。
灰衣の列が割れた。
その間から、大柄な男が歩いてくる。長い柄の斧を肩へ載せ、灰色の上着には、乾いた血痕が幾つも残っていた。こちらの槍先を見ても足を緩めず、倒れた味方を跨いで道の中央へ出る。
「退け!」
男の声が家壁へ響いた。
「灰衣のヴォルフ・クラマーだ! 南門まで、俺が道を開く!」
オルステッド隊の前列で、誰かが息を吐いた。
「クラマー……?」
「破陣のクラマーだ」
別の兵の声が重なる。
「東の街道で帝国の囲みを破った、あの男か」
「名に呑まれるな!」
オルステッド殿が怒鳴る。
だが、クラマーはもう間合いへ入っていた。
先頭の槍兵が突く。穂先は胸へ真っ直ぐ向かっていた。クラマーは斧の柄を下から当て、槍を壁へ跳ね上げる。石へ穂先が擦れた瞬間、斧が返った。
槍兵の肩から血が上がる。
隣の兵が盾を入れた。クラマーは斧を引かず、盾の縁へ刃を食い込ませたまま柄を捻る。兵の腕が外へ開き、身体が前へ傾く。クラマーの膝が盾の内側へ入り、兵は背中から倒れた。
「一人で当たるな! 槍を揃えろ!」
オルステッド殿の命令が飛ぶ。
列を戻す前に、白い髭の古参兵が倒れた二人の前へ入った。片手剣を低く構え、クラマーの斧が振られるより先に懐へ踏み込む。剣先がクラマーの頬を掠め、細い血が耳まで伸びた。
灰衣側の声が止まる。
クラマーは笑った。
斧を大きく上げ、振り下ろす。古参兵が横へ外したところで、クラマーが柄を握る手を滑らせた。刃の代わりに石突が脇腹へ入り、男の身体が壁へぶつかる。そこから返された刃を、古参兵は剣で受けた。
鉄が折れた。
古参兵が膝をつき、クラマーの斧が肩口へ落ちる。
「下がれ!」
オルステッド殿が前へ出ようとした。
その腕を、ガレスが槍の柄で止めた。
「隊をまとめてください」
「相手は破陣のクラマーだぞ」
「見れば分かります」
ガレスは裂けた盾をマルクに押しつけた。
「列へ置け。まだ石くらいは止める」
「ガレスの兄貴」
「前を空けるな」
槍を両手で持ち、クラマーの前へ出る。
クラマーは頬の血を親指で拭った。
「名を聞こう」
「ガレス・ローヴァン。ここは通さん」
「知らぬ名だ」
「どうせ死ぬ身だ、覚える必要はない」
「ほざけ、若造」
ガレスは槍先を少し下げた。
クラマーが踏み込む。
長柄斧が横から来た。さっき盾兵を引き崩した一撃よりも速い。ガレスは槍の穂先を斧の内側へ当て、身体を半歩だけ後ろへ引いた。
斧はガレスの前を通り過ぎ、壁の土を削る。
クラマーは止まらない。振り切った柄を引き戻しながら刃を下げ、今度は足元へ払った。ガレスの槍が立ち、石突が斧の柄を上から押さえる。クラマーが力を入れる前に、ガレスは槍を抜いて間を戻した。
二度とも、ガレスは攻めなかった。
灰衣兵が「破陣」と声を上げる。クラマーはそれに押されるように斧を上段へ持ち上げた。
振り下ろす……そう見えた。
途中で手首が返り、刃がガレスの胴へ向かう。白髭の兵の剣を折った動きだった。ガレスは槍の柄を斜めに入れ、斧が滑る。刃先は外套の端だけを裂き、クラマーの身体が一歩深く入った。
ガレスの声が落ちた。
「――この程度か!」
初めて槍が前へ出る。穂先が斧の柄を下から跳ね上げた。クラマーの両腕が開く。ガレスは踏み込んだ足を止めず、槍を短く持ち替えると、その刃をクラマーの首筋へ走らせた。
血が壁へ散った。クラマーの斧が手から落ちる。男は何か言おうと口を動かし、そのまま膝から崩れた。
誰も、すぐには動かなかった。オルステッド隊の兵も、灰衣も、倒れたクラマーとガレスを見ている。
ガレスが槍を引いた。
「敵将は討ったぞ!」
その声で止まっていたものが一斉に動く。
「前列を戻せ! 火を持つ者を南門へ通すな!」
オルステッド隊の槍が揃った。マルクが裂けた盾を列の隙間へ押し込み、横へ逃げようとした灰衣を、エルヴィンの側にいた兵が中庭から押し戻す。クラマーの後ろにいた者たちは、前へ出る者と引く者に分かれ、狭い道で互いを塞いだ。
「武器を捨てろ!」
オルステッド殿が声を張る。
「捨てた者は斬らん! 火を持つ者は地面へ置け!」
最初に斧が落ちた。次に槍が一本。奥へ逃げようとした者も、エルヴィン側の兵に押し戻される。
僕の足元へ火のついた布が転がってきた。カインが靴で踏み、近くの空桶を被せる。中から細い煙が漏れた。
「アズール様、後ろへ」
「もう火は?」
「こちらは消えます。ブルーノ殿の方がまだです」
返事を待つように、奥の中庭から大きな音がした。
戸板が一枚、路地へ飛び出す。
その後ろからブルーノが戻ってきた。棍棒の先には黒い油がつき、外套の裾から煙が出ている。マルクが慌てて叩いた。
「燃えてるぞ!」
「もう消えてる!」
「煙が出てるだろ!」
「煙だけだ!」
ブルーノは自分の外套を一度踏み、それから道の中央に倒れているクラマーを見た。
周囲を見回す。
「誰だ、そいつ」
オルステッド隊の兵が、まだ信じられないような顔で答えた。
「ヴォルフ・クラマーだ。破陣のクラマーを、ガレス殿が……」
ブルーノの顔が変わった。
「おい!」
「何だ」
ガレスは槍の刃を倒れた灰衣の布で拭っている。
「そいつ、俺の獲物だぞ!!」
「お前には火を止める役目があっただろう」
「火なんざ全部止めた! だから戻ってきたんだろうが!」
「戻るのが遅い」
「お前が早すぎるんだよ!」
「敵に順番を頼め」
「次は残しとけ!」
「断る」
ブルーノがガレスへ詰め寄ろうとし、足元の火壺を蹴りかけた。カインが壺を先に引き、僕はブルーノの外套を掴む。
「ブルーノが火を止めてくれたから、ガレスも前を見られたんだよ」
「だからって、破陣だぞ」
「知ってたの?」
「知らんが今聞いた!」
オルステッド隊の何人かが、声を出さずに笑った。
ガレスは槍を持ち直し、笑っている兵へ顔を向ける。
「負傷者を先に運べ。立てる者は壁側へ。道の中央を空けろ」
兵たちの顔から笑いが消え、すぐ動き始めた。
倒れた兵たちの中には、まだ息のある者もいた。ニルスは壕の外に残してきたため、オルステッド隊の兵が傷口へ布を押し当てる。クラマーに肩を斬られた若い槍兵も、傷口を押さえながら自分で壁際へ下がった。
捕らえた灰衣の一人が、桶の前へ座らされている。オルステッド殿が南門へ続く中庭を指した。
「これを門まで運ぶつもりだったな」
男は答えなかった。
「門板の残骸へ火を入れ、戻る兵と後続を止める。違うか」
唇が動いた。
「……門が燃えれば、入った連中は戻れない」
「町の中にいるお前たちも戻れん」
「戻る場所なんて、もうない」
オルステッド殿はそれ以上聞かず、兵へ男を立たせるよう命じた。
油布と火壺は路地の中央へ集められ、水を掛ける前に数を確かめられた。大通りから来た伝令が、南門までの道はまだ通っていると報告する。第一防柵の先ではルミナ軍が次の広場へ進み、帝国兵が右側の家並みを押さえているらしい。
「こちらも次へ行く」
オルステッド殿が言った。
兵の一人がクラマーの遺体へ布を掛けようとする。オルステッド殿は止めなかった。
「ガレス殿」
「はい」
「名を知らぬと言ったのは、あの男の最後の間違いだったな」
ガレスはクラマーを見ず、路地の奥へ槍を向けた。
「名を知っていても、ここは通していません」
「そうか」
オルステッド殿は口元を少し緩め、それから声を上げた。
「前へ出るぞ! 戸口を飛ばすな。南門へ抜ける道を一つずつ確かめろ!」
僕たちはまた歩き始めた。
大通りの先では帝国とルミナの旗が、もう屋根の向こうへ隠れかけている。すぐ横の細道には、倒れた灰衣と割れた壺、それを避けて運ばれる負傷者が残っていた。
南門へ戻る道から、火は消えた。
街の奥では、また別の角笛が鳴った。




