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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第66話 南門


 青い布が三度目に止まった時、負傷者を載せていない荷車が、僕たちの後ろを南へ曲がっていった。


 車台には泥のついた木束が積まれている。帝国中央軍が壕へ運ぶはずだったものらしく、縄の一部が切れ、枝の端から血が垂れていた。御者台には誰も座っておらず、兵と人足が車輪を押している。


「そっちは負傷者の道です! 荷は後へ――」


 ニルスが声を掛けたが、先頭の人足は足を止めなかった。


「南へ回せと言われてる! 空けてくれ!」


「南って、どこまでですか!」


「知らん! 水路の分かれ道で次の者に渡せと!」


 荷車は、青い布の右側に残した細い道へ入ろうとしていた。そこには担架が一つ、肩を貸し合う帝国兵が三人、槍を杖にして歩く男がいる。


「一度止めて!」


 僕が声を上げると、御者台の脇にいた兵が振り向いた。


「止められん。後ろも来てる!」


 言葉のとおり、横道の向こうから板を積んだ二台目が見えている。そのさらに後ろでは、大盾を荷車に立てかけ、縄で縛っていた。


「ニルス、担架を先に通して。歩ける人は布の左へ寄ってもらおう。ミケル、もう少しだけ棒を後ろへ」


「はい!」


 ミケルが青い布を動かす。ガレスとエルヴィンが道へ出て、立ち止まっていた帝国兵を左右へ分けた。


「負傷者は右だ。荷車が通るまで前へ出るな」


「俺たちは中央へ戻るんだ!」


「中央へ戻る道を、その荷車が塞いでいる。先に通せ」


 ガレスは革紐の切れた盾を左手で持ったまま、荷車の横へ体を入れた。車輪が、捨てられた槍へ乗り上げかけるたび、荷車の脇を歩く兵が盾の縁でそれを押し退ける。


 ブルーノも棍棒を肩へ載せたまま、後ろの車輪を持ち上げた。


「朝からずっと、道を空けろ、道を作れって、そればっかりじゃねえか」


「嫌なら負傷者を運んでこい」


「それも道みたいなもんだろうが」


「なら黙って押せ」


 二人が横から押すと、車輪は槍を越えた。木束を積んだ荷車が南へ抜け、その後を二台目が追っていく。


 後退しているはずなのに、荷だけは前へ向かっている。


 僕たちの北側では、赤い甲冑の歩兵がまだ灰衣を受けていた。もっと遠くには黒い旗も見える。門の方へ押されていた灰色の人影は少なくなっていたが、完全に消えたわけではない。


 エルヴィンは、南へ消えていく荷車と、中央軍側へ下がっていく負傷者を交互に見た。


「中央は位置を戻している。なのに、材は回収して南へ送ってるな」


「また壕へ入れるんじゃないのか」


 ブルーノが言う。


「東の壕なら、そっちへ戻すだろう」


 ガレスが泥のついた槍先で、中央軍の旗が沈んだ方を示した。


「南には水路と外営がある。門もあるはずだ」


「じゃあ、今度はそっちから行くのか」


「さあな、まだわからん」


「でも、そう思ってんだろ」


 ガレスは答えず、三台目の荷車へ道を空けた。


 その時、オルステッド隊の兵が一人、こちらへ走ってきた。兜を小脇へ抱え、額から流れた血が片目の横で乾いている。


「エスター殿!」


「はい!」


「青い布は、ここから下げないでください。南へ回す荷と、後送される兵の境にします」


「僕たちは、ここに残るんですか」


「今は。クラウゼン侯爵の隊が前を受けている間に、横道を空けよとの命令です。次の指示は、オルステッド殿から出ます」


「灰衣がまた来たら?」


 ガレスの問いに、伝令は北側を見た。


「外営の中までは追うな。出てきた者だけ止めろ、と」


「誰の命令だ」


「本営からです。細かいところまでは知りません」


 言い終えると、兵は兜を被り直し、次の隊へ向かって走っていった。


 ブルーノが南を見た。


「本当に、またやるらしいぞ」


「今日のうちとは限らないよ」


「材を運んで、眺めて帰るのか?」


「帝国軍なら、やりかねない気もする」


 僕が答えると、エルヴィンが少しだけ口元を歪めた。


「眺めるためなら、空の荷車まで南へ回さないだろ」


 四台目の車輪が、青い布の下を通った。



 討伐軍本営の机には、朝まで東門前に置かれていた木束が一つ、泥のついたまま載せられていた。


 枝をまとめた縄は半分ほど切れており、机の端から乾いた葉が落ちている。ディートリヒ・バルケは、その縄を指で持ち上げた。


「前へ運んだ材の多くは回収できておりません。残ったものも、この状態です。工兵だけを先に戻しても、同じ場所では使えません」


 彼の甲冑には泥が乾く暇もなく重なり、右肩の留め金が外れている。報告を聞く者たちの中に、中央軍の正確な損害を知る者はいなかった。


「ならば、材を足せばよい」


 オットマール・ゼーレンは、東門前に置かれた石を指で押した。


「中央軍を再編し、明朝、もう一度進める。今日のように後続を重ねなければ、門前までは届く」


「再編に必要な人数が、まだ出ておりません」


「残っている者で組め。北方軍も東南軍も、中央が崩れた後に動けたのだ。正面を受け持った中央軍だけが、明日は動けぬとは言えまい」


 ディートリヒの手が、切れた縄から離れた。


「動かすことはできます。ただし、同じように兵を入れれば、また同じことになります」


「今日は命令を越えて前へ入った部隊があった。明日は止めればよい」


「止める前に、敵に押されて後ろへ下がったのです」


 ゼーレンの眉が動く。


「言い訳を聞いているのではない」


「私も、言い訳を申し上げているつもりはありません」


 机の端で、木束から落ちた葉が一枚、泥の上に貼りついた。


 レオポルト・アルンベルクは椅子に座ったまま、二人の間へ手を上げた。


「責任の話は、人数が戻ってから聞く。今は次の攻め方だ」


 部屋の奥で、ユリウス・クラウゼンが地図に視線を落としていた。赤い甲冑は脱いでいたが、袖口にも泥が残っている。


「東門前へ、もう一度中央軍を積む必要はないでしょう」


 ゼーレンが顔を向ける。


「では、灰色がまた出てくるのを待つのか」


「出てくれば受けます。ただし、今朝と同じ場所では受けない」


「何が違う」


 ユリウスは、地図の東門から少し離れたところへ指を置いた。


「灰衣が広い野へ出た後に受けたことです。門の外へ出る者は増え続けましたが、前にいる兵へ命令を届ける道も、戻る道もありませんでした。こちらも正面へ兵を足し、同じ場所を塞いだ」


「だから、門へ寄せる」


 ヴァルグラム・ドラグヴァルトは、壁際に立ったまま言った。

 机の地図へ近づかず、北側に置かれた黒い石を顎で示す。


「穴から出てくるところなら、一度に出られる数は決まる。外へ広げたから面倒になった」


「東門を落とすという話なら、私と変わらんではないか」


 ゼーレンが返すと、ヴァルグラムはそちらを見た。


「崩れた場所へ、また兵を積むと言ったのはお前だ」


「中央軍は再編できる」


「できてから言え」


 レオポルトが机を指で二度叩いた。


「続けよ、クラウゼン侯爵」


 ユリウスは南側の道へ指を移した。


「東門には、既に相手の目が集まっています。今朝の出撃も、帰還も、負傷者の収容も、すべて東へ寄った。守りを固めるなら、まずそこでしょう」


「南を使うのですか」


 オーレリアン・ルミナは、地図の端へ置かれた細い青線を見た。


「南翼の荷駄路は残っております。水路沿いも、中央軍の退却兵を退かせば荷車を通せる。ただし、門までの外営はまだ灰衣側です」


「外営を一度に取る必要はありません。工兵が通る幅だけを開ける」


 ディートリヒが南側へ身を寄せた。


「斥候の報告では、南にも古い門がある。外柵と壕を越えなければ門扉へは触れられません。門上から弓を射られれば、工兵は持たない」


「必要なものは」


「木束、板、大盾、縄。門へ取りついた後は斧と鉤。破城具を組むなら、さらに時間が要ります。最初に壕へ道を作り、その間、工兵を戻す道を別に残さなければなりません」


「今朝、それを残せなかった」


 オーレリアンの声に責める響きはなかった。


 ディートリヒも頷かなかった。


「はい」


「南なら、水路側を後送に使えます。資材は中央寄りの道から出し、負傷者は水路へ戻す。ただし、灰衣が南外営から出れば、両方を切られます」


「そこでクラウゼンの隊を置く」


 ヴァルグラムが言った。


「道を開けるのが得意らしい」


 ユリウスは黒い石を一度見たが、何も返さなかった。


「新編隊は南攻撃隊と中央の間へ置きます。灰衣が東へ出れば中央側を支え、南へ出れば工兵路を閉じる。騎兵を門へ入れるつもりはありません」


「北方軍はどうする」


 レオポルトが問う。


「北を押す」


 ヴァルグラムの返事は早かった。


「門を落とすのはそちらでやれ。南へ兵を寄せようとするなら、寄せた分だけ北を取る。外へ出るなら、また横を食う」


「門内へは入らぬのだな」


「南門が開く前に、北から入って何をする」


 それ以上は言わず、黒い石を指で前へ滑らせた。


 ゼーレンは東門前の石をまだ押さえている。


「中央軍を陽動に使うというのか」


「旗と弓兵は出していただきます」


 ユリウスが答えた。


「木束も一部、東へ見せる。前進はしますが、灰衣を追って門へ詰めない。相手が東へ兵を残せば、それで役目は果たせます」


「中央軍の面目は」


「南門が落ちれば、討伐軍の戦果です」


「落ちなければ」


「中央軍をもう一度、今朝の場所へ入れても、面目は戻らないでしょう」


 ゼーレンの手が石から離れた。


 レオポルトは、東門、北側、南の水路を順に見た。


「明朝、東門へ中央軍の旗を出す。ドラグヴァルト辺境伯は北側を押さえよ。南はルミナ沿海伯軍が道を持ち、帝国工兵を進める。クラウゼン侯爵の新編隊は中央予備から南へ移す」


 ディートリヒへ顔を向ける。


「工兵は任せられるか」


「残った者を組み直します。ただし、門へ届くまでに何度か退くことになります」


「退く道を作れ。それでも届かぬなら、次を考える」


 最後に、レオポルトは東門前の石を南へ動かした。


「東を攻めるような姿を見せつつ、南門を落とせ」



 東門の内側では、夕方になっても水桶が足りなかった。


 空になった桶を持って南へ向かう者と、南から水を運んで戻る者が、石段の下で肩をぶつけている。エーミール・ザイデルは、その間へ新しい縄を張らせた。


「空の桶は壁側です。水を持っている者を真ん中へ通してください。担架はそちらへ入れないでください」


「南の粥場から、人をこちらへ回してもいいですか」


「それは許可できません。夜の分が遅れます。東門へ来られる者だけで分けましょう」


「でも、石を運べる人を集めろと――」


 若い男が、門の上を見た。


 マルタ・エーレンは石段の途中に立ち、灰衣の女たちへ布を裂かせている。その隣では、子供や老人まで、小石を籠へ集めていた。


「戦う者だけが門を守るのではありません」


 彼女の声は、担架の間にも届いた。


「石を運ぶ者も、水を渡す者も、傷を縛る者も、同じ場所を守っています。槍を持てないからと、後ろへ下がる必要はありません」


 女の一人が、裂いた布を抱えたまま尋ねる。


「子供もですか」


「運べるものを運べばよいのです。誰か一人へ、すべてを背負わせないために」


「南の粥場から人を取らないでください」


 ザイデルが石段の下から言った。


 マルタは布を受け取る手を止めず、彼を見た。


「粥を作る人も、同じように戦っているのでしょう」


「なら、その場に残してください。鍋を空にして石だけ積んでも、夜には腹を空かして誰も門へ立てませんよ」


「必要な者は、必要な場所へ」


「その必要を、誰が決めるのですか」


 返事が出る前に、東門の外を見ていた伝令が階段を駆け下りてきた。


「帝国軍が動いています! 東の旗が増えました。弓兵も前へ出ています!」


 ヴォルフ・クラマーが人を押し分けて門前へ来た。


「やはり東だ。中央を崩されたままにはできん。守りを二列増やせ。外柵の前にも出す」


「いや、出すな」


 ハーゲンの声が、旧官庁へ続く道から届いた。

 彼は兜を被らず、折り畳んだ地図と数枚の板札を持っている。


「まだ射られたわけではない。旗が増えただけで門を開けるな」


「明朝まで待てば、壕へまた材を入れられるぞ」


「だからと、不確かな情報のままで今夜また外へ出すのか」


「今度は選べばいいではないか。中央軍は崩れている。東門の前へ出た工兵だけを叩く」


「……東へ来るならな」


 クラマーが顔をしかめる。


「他にどこへ来る。今日の材も東へ置かれていたんだぞ」


 別の伝令が走り込んできた。今度は北側かららしく、灰色の裾に乾いた草がついている。


「黒い旗が前へ出ました! 北の外柵へ弓兵が寄っています!」


「北方軍も動くか」


 クラマーが地図を覗き込む。


「東と北へ兵を置け。南から一万を回す」


「南門は空けるなよ」


「南に帝国軍はいない」


「東南軍がいる」


「水路を守っているだけではないか」


 ハーゲンは伝令へ向き直った。


「南側から報告は?」


「外営の見張りからは、まだ――」


「荷車を見ろ。兵の旗ではなく、荷をどこへ運んでいるかだ」


 伝令が走り去る。

 クラマーは東門の外を見たまま言った。


「考えすぎだ。帝国中央が正面を捨てる理由はない」


「今日、正面で潰れたな」


「だから取り返しに来るに決まっている」


「帝国がよほどの馬鹿でなければ、取り返すために、被害を増やすとは思えん」


 門外で、帝国軍の角笛が一度鳴った。東門の上にいた灰衣が、弓を持って壁際へ寄る。


 ザイデルは縄の向こうへ空桶を押し戻しながら、ハーゲンへ声を掛けた。


「南門を閉じるなら、先に水を入れてください」


「今すぐ閉じろとは言っていない」


「閉じてから言われても運べません。南の外営には、粥場と水場があります。門前へ兵を集めれば、荷車は入れなくなります」


「今夜の分は?」


「東門側は足りません。南から回す途中です」


「荷車の数を覚えているか」


「水桶と麦、それに豆です。合わせれば十台を越えます。朝から戻っていないものもあります」


 ハーゲンは地図を開き、南門から外営へ伸びる道を指でなぞった。


 しばらくして、先ほどの伝令が戻ってきた。


「南側です! 帝国の荷車が、水路沿いの分かれ道を通っています。板と木束、大盾。空の荷車も南へ行きました」


「戻りは」


「空です。荷は南へ置かれています」


 クラマーが伝令の胸元を掴みかけ、途中で手を止めた。


「東門の材は」


「見えます。ですが、荷車は三台だけです。兵の旗は多いです」


 ハーゲンは地図を畳んだ。


「東門は見せ兵かもしれん」


「南を本気で攻めるなら、東南軍だけでは足りんぞ」


「中央の工兵を回す。北は黒い旗でこちらを縛る」


 クラマーは南門へ続く道を見た。


「なら、先に出る。南外営から二万――」


「出さんぞ」


「また戻す話か」


「門前へ二万出せば、北方軍に横を向ける。今日と同じだ」


「材を燃やさなければ、壕を埋められるぞ」


「だから燃やす」


 ハーゲンは板札の一枚をクラマーへ渡した。


「三百。火を持つ者、鉤を使える者、盾を持つ者。帝国兵は追うな。木束と荷車だけを狙う。南外営の小屋から出し、鐘二つで戻す」


「三百で何ができるというのだ」


「材を燃やす。それだけで門は守れる。それ以上をさせれば、戻れんだろう」


「ならば、俺に任せろ」


「いや、お前は東門に残れ」


 クラマーの目が細くなる。


「信用していないのか」


「戻る鐘を無視した連中に、さらに出ろと煽ったのはお前だ。そんな男に、今度は兵を戻す役を任せられるか」


 二人の間へ、負傷者を載せた戸板が通る。ザイデルの部下が「道を空けてください」と声を上げ、クラマーは板札を握ったまま横へ退いた。


 マルタは石段の上から、南へ向かい始めた人々を見ていた。


「石を運ぶ者も回しましょう。火を消す水も要ります」


「門外へは出すな」


 ハーゲンが言う。


「外へ出る者だけが戦うのではないのでしょう」


「だから、内側へ置け」


 マルタは返事をせず、白い椀の印へ手を置いた。



 夜のうちに、青い布の周りへ木束が積まれていった。


 戦場から回収したものだけでは足りず、後ろから運ばれた新しい束も混じっている。泥のついた枝、まだ葉の残る枝、縄の色も太さも揃っていない。それを人足が一つずつ転がし、荷車へ積み直していた。


「そこまでだ。次」


 トマが車輪の横で腕を振る。


「積みすぎたら、南外営の穴で軸が折れるぞ。板は別だ、枝の上へ載せるな!」


「穴があるのか」


 ブルーノが聞く。


「あるに決まってるだろ。今日あれだけ人が走ったんだぞ。道だったところまで泥になってるさ」


「お前、見てきたのか」


「見てない。荷車を見れば分かる。戻ってきた車輪が全部、同じ側だけ泥だらけだ」


 トマは次の荷車へ移り、縄を締めている人足の手を止めた。


「そっちは緩い。途中で一束落としたら、後ろが全部止まるぞ」


 僕たちは、九十七人全員が戻ったかをまだ確かめられていなかった。


 水路側の荷車まで行った者、担架を運んだまま別の施療所へ行った者、オルステッド隊の列に残った者もいる。名前を呼び始めても、返事の代わりに「あっちで見た」「負傷者を運んでいた」という声が返った。


 ノエルは濡れた名簿を開いたまま、前へ出られる者だけ別の板へ書いている。


「これ、点呼じゃないですからね」


「分かってるよ」


「分かってない顔しています。今ここにいる人だけで、明日の配置を作ってるだけです。返事がないからって、その人をいないことにはしないでくださいね」


「うん、分かってるよ」


「それと、軽傷の二人は後ろ。槍を持たせない」


「本人たちは何て?」


「持てるって言ってます」


「じゃあ――」


「持てることと、持たせることは別ですよ」


 ノエルは僕を見ず、板へ印をつけた。


 ガレスが隣で、革紐の切れた盾を地面へ置く。


「その通りだ。明日は工兵路の側面を守る。前へ出て押す役ではない」


 ブルーノが木束に腰を下ろしかけ、トマに怒鳴られて立ち上がった。


「また道かよ」


「嫌なら後ろで水を運べ」


「お前、今日からそればっかりだな」


「しばらく役目が同じだからだ」


 エルヴィンは、南外営へ続く暗い道を見ていた。


「明日は灰衣も荷を狙うだろう。兵を倒すより、束を二つ燃やした方が帝国軍には効く」


「じゃあ、束を守ればいいんだな」


「無駄に追いかけるなよ」


「お前まで言うのか」


「灰衣を追って外営の小屋の間へ入ったら、あそこから先は灰衣の道だ。戻る場所が見えなくなる」


 ブルーノは青い布を見上げた。


「それをもっと前へ持ってけばいいだろ」


「明日は、ここが戻る場所です」


 ミケルが棒の根元へ縄を巻きながら答えた。


「荷車は青い布の左を前へ。負傷者は右から戻すそうです」


「誰に聞いた」


「オルステッド殿のところの兵です。あと、布は煙の中でも見えるように高くしろって」


「また折れるぞ」


「もう折りません」


「昨日も言ってたな」


「折れませんでした」


 ブルーノが笑い、ミケルは縄をもう一度引いた。


 僕は積み上がった木束を見た。一つ一つは、人が二人いれば動かせる大きさしかない。あれを壕へ入れ、上へ板を置き、その先に門があるらしい。


「門を壊すのは、帝国の工兵なんだよね」


「そうだ」


 ガレスが盾を拾い直す。


「我々は、そこまで行ける道を残す」


「門の前まで一緒に行かなくても?」


「命令は側面警護だ。外営の奥へ入るなとも言われている」


「分かった」


 ブルーノが僕の顔を覗き込んだ。


「本当か?」


「何が」


「お前、門のところで誰か倒れてたら、拾いに行くだろ」


「倒れる前に、戻せる道を作るんだよ」


「答えになってねえ」


「ブルーノが追いかけなければ、僕も行かなくて済むかも」


「俺のせいにするな」


「半分くらいは、いつもそうだから」


 ガレスが口を挟む前に、南側から角笛が一度だけ鳴った。明朝の合図を確かめる短い音だった。


 人足たちは手を止めず、次の木束を荷車へ載せた。



 夜明け前、東門の方から先に角笛が鳴った。


 まだ空が白みきらないうちから、中央軍の旗が何本も前へ動く。弓兵の列が進み、木束を載せた荷車まで、その後ろへ続いていた。


 灰衣側の城壁に人影が増える。


「本当に東へ行くみたいに見えますね」


 ニルスが背伸びをする。


「見えるようにしてるんだろう」


 エルヴィンは東門ではなく、僕たちの後ろを見た。


 南側の荷車は、まだ動いていない。


 青い布の前に大盾を持った歩兵が並び、その後ろで工兵が斧と鉤を確かめている。木束を積んだ荷車は一台ずつ間を空け、車輪の脇へ人足が二人ずつついていた。


 北から、別の角笛が聞こえた。


 灰衣の外営の向こうで黒い旗が前へ出る。距離があるため、兵の姿は小さい。けれど旗が動くたび、その周りの灰色も揺れた。


「東と北が先か」


 ブルーノが棍棒を肩から下ろす。


「こっちは、いつまで待つんだ?」


「荷車が動くまでだ」


 ガレスは盾の縁を握り、南外営の小屋を見ていた。


 昨日まで人が寝起きしていた場所には、まだ鍋や桶が残っている。倒れた柵の向こうには荷車が横倒しになり、灰衣の布が車輪へ引っ掛かっていた。人の姿は見えない。


 その静けさの中、僕たちの後ろで車輪が一度鳴った。


 最初の荷車が動き出す。


「青い布の左を通します!」


 僕が声を上げる。


「前の人は、荷車より先へ出ないで! 戻る人は右側です!」


 工兵を守る歩兵が進み、荷車がその後ろへ続く。僕たちも道の南側へついて歩いた。


 外営へ入る道は、トマの言ったとおり片側だけ深く沈んでいた。荷車が窪みへ落ちるたび、木束の縄が軋む。人足が肩を入れ、後ろの兵が車輪を押す。


「止めるな! 前が詰まっても、横へ寄せろ!」


 オルステッド隊の声が少し前から届く。

 外柵の崩れた場所まで、あと槍二十本ほど。


 その時、小屋の屋根から何かが落ちた。

 土へ当たり、割れる。油の匂いが広がった。


「火だ!」


 ガレスが叫ぶより早く、別の小屋の陰から火のついた布が飛んだ。

 先頭の木束へ落ち、乾いた枝の間へ黄色い火が走る。


「荷車を止めろ!」


 人足が手を離しかける。


「止めないで!」


 僕は燃えた束を指した。


「一番上だけ落として、車は前へ! 縄を切れる人!」


 ニルスが槍を捨て、荷車へ飛びついた。隣にいた帝国工兵が斧で縄を切る。火のついた木束が道へ落ち、後ろの車輪がその手前で止まりかけた。


「右へ寄せろ!」


 トマが後ろから怒鳴る。


「燃えてる方を水路側へ転がせ! 道の真ん中へ置くな!」


 ブルーノが棍棒の先を束へ差し込み、炎ごと道の外へ押しやった。


「熱っ!」


「手で触るな!」


「触ってねえ!」


 小屋の間から灰衣が出た。


 盾を持つ者が前に立ち、その後ろに鉤縄と斧を持った者、火を入れた壺を抱える者が続く。数は昨日の人波ほどではない。けれど誰も僕たちを見ていなかった。


 視線の先にあるのは、木束と荷車だった。


「こちらを抜くつもりじゃない!」


 ガレスが道へ盾を出す。


「荷を狙っている! 前列は道から離れるな!」


 灰衣の鉤が先頭の大盾へ掛かる。二人が縄を引き、帝国兵の腕ごと盾を横へ持っていこうとした。


 ガレスが槍で縄を押さえ、その上から足を踏みつける。


「切れ!」


 隣の帝国兵が剣を振り下ろした。縄が切れ、引いていた灰衣が後ろへ倒れる。

 別の男が火壺を抱えたまま、荷車の横へ走り込んだ。


 ブルーノの棍棒が下から上へ振られ、壺を持つ腕へ当たる。男が体ごと回り、壺は荷車ではなく小屋の壁へ飛んだ。


 火が板壁へ広がる。


「前へ出すぎるな!」


「出てねえ!」


 ブルーノは男を追わず、道へ戻った。今度は自分から言う。


「戻ったぞ!」


「まだ聞いてない!」


「先に言っとく!」


 ガレスが返す間に、外営の奥から第二の集団が走ってきた。


「右じゃない、もっと南だ!」


 エルヴィンが声を上げた。


 倒れた荷車と小屋の間を抜け、工兵列の後ろへ回ろうとしている。正面の灰衣より数は少ないが、全員が鉤や短い斧を持っていた。


「マルク! 十人、エルヴィンについて!」


 僕の近くにいたマルクが兵を呼ぶ。


「荷車の後ろへ入れさせないで! でも小屋の向こうまでは行かないで!」


「分かりました!」


 エルヴィンたちが道の脇を走る。その間に、最初の荷車は燃え残った木束を載せたまま前へ進んだ。


 矢が城壁から落ち始める。


 まだ南門そのものは、小屋と外柵の向こうで上半分しか見えない。門上から射られた矢は距離があり、最初の数本は道の手前へ刺さった。


「大盾を上げろ!」


 帝国歩兵が盾を重ねる。荷車の上へ板が渡され、工兵と人足がその陰へ入った。


 灰衣の小出撃隊は、道を塞ぐより木束へ火を移そうとしている。倒しても、次の者が兵を避けて荷車へ手を伸ばした。


 ガレスの盾へ斧が当たる。革紐がないため腕では受けられず、縁を握った手ごと横へ押された。


「ガレス!」


「持っている!」


 足を踏み替え、槍の石突で相手の膝を払う。その男が倒れたところへ帝国兵の盾が入り、道の外へ押し出した。


 僕の横を、肩へ矢を受けた工兵が戻ってくる。


「青い布の右へ! 歩けるなら止まらないで!」


「斧を……置いてきた」


「取りに戻らないで。次の人が持っていきます!」


 男をニルスへ渡す。ニルスはさっき捨てた槍を拾わず、工兵の反対側へ肩を入れた。


「ミケル、布をもう少し上げられる?」


「上げます!」


 煙が外営の道へ流れ、青い布の端が一度見えなくなる。ミケルが棒を高くすると、布だけが煙の上へ出た。


「戻る者は青へ! 荷車は左を進め!」


 誰かが帝国兵の中で繰り返す。


 先頭の歩兵列が、崩れていた外柵へ届いた。


 昨日、人が押し倒したらしい部分には、折れた杭が斜めに残っている。工兵が鉤を掛け、縄を後ろへ渡した。


「引け!」


 歩兵と人足が一緒に縄を引く。


 杭が泥を削り、横へ倒れる。開いた幅へ大盾が入り、その後ろから一台目の荷車が近づいた。


 灰衣側の鐘が、二つ続けて鳴った。


 小出撃隊の何人かが、すぐ外営の奥へ下がり始める。正面で戦っていた者は、まだ木束へ手を伸ばしていたが、後ろから同じ鐘を聞いた者に腕を引かれた。


「追うな!」


 ガレスとオルステッド隊の声が重なる。

 ブルーノは棍棒を上げたまま、一歩だけ踏み出し、止まった。


「分かってる!」


 灰衣は小屋の間へ消えていく。帝国兵が矢を射たが、外営の奥まで追う者はいない。


 外柵の向こうには、壕があった。


 朝の光がようやく底まで届き、泥水と折れた枝が見える。幅は荷車一台より広く、人が飛び越えるには遠い。対岸には城壁へ続く空地があり、その向こうに南門の黒い扉が立っている。


「一台目、前へ!」


 大盾の下で、帝国工兵が木束へ縄を掛け直す。


 荷車を壕の縁まで寄せると、車輪へ木片を噛ませた。人足が後ろから押し、工兵が枝の束を転がす。


 城壁から石が落ちた。


 大盾の上で砕け、木片と土が飛ぶ。工兵の一人が肩を押さえて下がったが、代わりの男がすぐ縄を持った。


「押せ!」


 木束が壕の縁を越えた。


 重い音を立てて底へ落ち、乾いた枝が何本も折れる。

 一本では、人はまだ渡れない。その後ろで、二台目の荷車が動き始めた。



 南門の上からは、帝国兵の列より先に、青い布が見えた。

 煙の上で小さく揺れ、その左を木束の荷車が進み、右を負傷者が戻っていく。


 ハーゲンは胸壁に手を置き、壕の底へ落ちた束を見た。


「……東門ではない」


 隣の伝令が、城内へ向かって声を上げる。


「南門へ予備を! 石と水を上げろ!」


 二束目が壕へ落ちた。

 ハーゲンは、門下へ集まり始めた灰衣を振り返る。


「南門を落としに来たか……」


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