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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第67話 門を叩く音


 三束目の木束は、壕の縁へぶつかって半分ほど縄をほどいた。


 ばらけた枝が泥水へ落ち、その上へ束の太い方が沈む。壕の底にあった二束が押され、門扉と平行になるように横を向いた。


「そのままでは板が載らん! 細い枝を先に入れろ!」


 大盾の下から工兵が叫ぶ。後ろで待っていた人足が、縄の切れた束を二人がかりで引きずってくる。


 門上から石が落とされる。


 盾の上で跳ね、泥の中へ転がる。二つ目は盾の隙間を抜け、枝を抱えていた人足の背に当たった。男が膝をつくと、隣にいた者が枝を放り出し、男の腕を自分の肩に回した。


「右へ戻せ! 道の真ん中で止まるな!」


 壕際の帝国兵が声を上げた。


 負傷した男は、青い布の右側へ運ばれていく。入れ替わるように、別の人足が枝を拾った。


 僕たちから見える限りでは、まだ誰も壕を渡っていない。それでも、左から前へ進む人と、右から戻ってくる人が途切れなくなっていた。


「次の荷車を寄せます!」


 ミケルが青い布の棒を高く持ち、後ろへ合図する。


 煙の薄くなった布の左側から、木束を積んだ荷車が進んできた。車輪の脇に二人、後ろに三人。その後ろには板を積んだ荷車が続いている。


「一台ずつだ!」


 トマが車輪を見ながら怒鳴った。


「前が空いてから入れ! そこで詰めたら、また全部止まるぞ!」


「後ろが押してくるんだ!」


「押させるな! 車軸が折れたら、お前が担いで壕まで持っていくのか!」


 御者台の脇にいた兵が後ろを振り向く。伝わったのか、次の荷車が少しだけ間を空けた。


 対岸からは鉤縄が飛んでくる。泥水へ落ちた木束の縄に食い込み、城壁側へ引かれる。工兵が壕際へ腹ばいになって縄を外そうとしたが、門上から矢が落ち、頭を引っ込めた。


「切れ! 引き込ませるな!」


 工兵隊の指揮官が大盾の後ろから腕を振る。柄の長い斧が鉤縄へ振り下ろされるも、一度目では切れず、木束が泥水の中で回った。二度目で縄が弾け、対岸の灰衣が後ろへ倒れる。


 その隙に、四束目が壕へ落とされた。


 枝が折れる音に重なって、門の内側から大勢の声が聞こえた。言葉までは分からない。ただ、石を運ぶ声、矢を渡す声、押せ、下がれと叫ぶ声が、黒い門の向こうでぶつかっている。


「人だけは、いくらでも出てくるな」


 ブルーノが棍棒を肩へ戻す。


「出てきても、壕を一度に渡れるわけではない」


 ガレスは革紐の切れた盾の縁を握り、門上を見た。


「こちらも同じだ。渡る道ができても、一度に前へ出られる数は限られる」


「じゃあ、先に渡った奴が損じゃねえか」


「だから盾を持った兵が先に行く」


「俺なら盾はいらねえぞ」


「お前は渡る者に入らんぞ」


「まだ何も言ってねえだろ」


「今、言った」


 ガレスが答えたところで、青い布の左側を進んでいた荷車が、泥へ深く沈んだ。


 前輪が泥の穴へ落ち、積まれていた木束が片側へ傾く。人足が慌てて車体へ肩を入れたが、後ろから押した瞬間、車台の下で乾いた音がした。


「止めろ!」


 トマが叫ぶのと、前輪が車体から外れるように、外側へ大きく傾いたのは、ほとんど同時だった。


 折れた車軸が泥へ刺さり、荷車が斜めに倒れる。積み荷の端が、青い布の右側へ張り出した。


「担架が通れません!」


 ニルスが後ろから叫ぶ。


 右側では、肩を射られた工兵と、額を布で押さえた帝国兵が戻ってきていた。二人を支える者まで足を止め、板を積んだ後続車も壊れた荷車の手前で詰まる。


 門上から、火のついた布が落とされ、壊れた荷車の脇へ転がり、泥の上で燃える。まだ木束へは移っていない。


「引くな!」


 工兵隊の指揮官が盾列の後ろから走ってきた。


「荷を降ろせ! 車輪を外し、車台ごと壕へ入れる! 後ろの板は一台分下げろ!」


 人足の何人かが顔を見合わせた。


「車までですか!」


「直して戻す時間があると思うか! 使えるものは全部入れろ!」


 命令が飛ぶと、止まっていた者たちが一斉に荷車へ手を掛けた。


「待て、両方の縄を切るな!」


 トマがその間へ入り、斧を持った工兵の腕を止める。


「先に上の二束だ。後ろの縄は残せ。今そこを切ったら、束が負傷者の道へ落ちる!」


「では、どこから外す」


「前の木栓。次に浮いてる方の車輪だ。沈んでる方は最後まで残せ。腹が泥へ落ちたら、誰にも動かせなくなる」


 工兵が一度だけ指揮官を見た。


「言うとおりにしろ!」


 斧が木栓へ入る。僕は周りにいる者を探した。荷を降ろそうとする人は多いのに、車台の外側へ立っている者まで同じ縄へ手を伸ばしている。このまま倒れれば、下敷きになる。


「車台が倒れる側を空けて! トマの前にいる人は、上の束を壕側へ降ろして!」


 ブルーノが僕の方を見た。


「俺は?」


「たぶん、最後に荷車を持ち上げる」


「結局それかよ」


「嫌なら俺が持つぞ」


 ガレスが盾を前へ出したまま言う。


「お前はそっちを持ってろ」


 ブルーノは棍棒を地面へ置き、車台の後ろへ回った。


 ガレスの前では、倒れた外柵の陰から灰衣が数人、鉤を持って出てきていた。前の小出撃隊ほどの数ではない。壊れた荷車と、その後ろで止まった板を見ている。


「作業の中へ入れるな!」


 ガレスが盾を立てる。革紐がないため腕へ固定できず、縁を握った手ごと斧で押された。それでも足を退かず、隣の帝国兵と盾を重ねる。


 エルヴィンは灰衣ではなく、門上を見ていた。


「アズール、板の方だ」


 火のついた矢が二本、壊れた荷車を越え、後ろの板荷車へ落ちる。一本は地面へ刺さったが、もう一本が板を縛る縄へ触れた。


「マルク!」


「見えてます!」


 マルクが五人を連れて後ろへ走り、濡れた布を縄へ被せた。マルクの隊の残りは外営の小屋側へ向き、近づく灰衣を止める。


「板の荷車を一台分下げて! 火が消えるまで前へ入れないで!」


 僕の声を、近くの帝国兵が後ろへ繰り返した。

 ニルスは張り出した木束の横で、負傷者を水路側へ寄せている。


「こっち、担架一台なら通れます! 歩ける人は壁側へ寄らないでください!」


「壁は向こうだろ!」


「小屋側です! 今はそっちを壁だと思ってください!」


「分かるように言え!」


「僕も今、考えながら言ってます!」


 怒鳴り返しながらも、ニルスは肩を貸した兵を止めなかった。

 上の木束が降ろされ、浮いていた車輪が外れる。トマが車台の下を覗き込み、泥へ刺さった軸を蹴った。


「これで倒せる。ブルーノ、壕側へ押せ。真っ直ぐじゃない、前を少し上げてからだ!」


「注文が多いな!」


「真っ直ぐ押したら、お前も一緒に壕へ落ちるぞ!」


「先に言え!」


「今言った!」


 ブルーノが車台の後ろへ肩を入れる。二人の人足が横から持ち上げ、外された車輪が泥の上を転がった。


「今だ、押せ!」


 工兵隊の指揮官が腕を振る。傾いた車台が、残してあった縄に支えられながら壕の縁へ滑る。最後にトマが縄を切ると、木の枠は泥水の中へ落ち、先に入っていた木束を上から押さえた。

 水が跳ね、大盾の下まで泥が飛んでくる。


「外した車輪は脇へ寄せろ! 次の束を前へ!」


 止まっていた荷車が、もう一度動き出した。


 その時、北の方角から、長い角笛が聞こえた。



 北側では、黒い旗の前から一つ目の部隊が退いたところだった。


 外柵まで届いてはいない。灰衣大拠点から伸びた北外営の手前、背の低い杭が並ぶ辺りで止まり、矢を受けて戻ってきた。列の右端だけが先に下がり、中央はまだ盾を前へ向けている。戻る速さも揃っていない。後ろ向きに歩いていた兵が隣へぶつかり、二人とも膝をついた。


 ヴァルグラムは馬上から、その列が自陣へ入るまで見ていた。脇に立つ若い隊長は、兜の下まで汗を流している。本人はまだ前へ出ていないが、自分の兵が矢を受けるたび、握った指揮杖が動いた。


「辺境伯殿。次は柵まで進ませますか」


「進ませない」


「ですが、灰衣の前列は下がりました。今なら外柵の一角くらいは――」


「取るな」


 若い隊長は口を閉じた。黒い旗の後ろでは、戻った兵が負傷者を列から外し、水を受け取っている。交代する部隊はその横を通り、前へ並び始めていた。


 ヴァルグラムは、新しく前へ出る列へ顎を向けた。


「杭まで行け。そこで立て」


「灰衣が出た場合は」


「盾を向けろ」


「押せるようなら」


「押すな」


 若い隊長が、今度こそ顔を上げた。


「それでは、何のために前へ出るのです」


「前へ出て、立って、戻るためだ」


「訓練なら、陣の後ろでもできます」


「矢は飛んでこない」


 ヴァルグラムはそれだけ言い、隊列の左右へ目を移した。前へ出るのは、北方軍へ遅れて合流した寄子隊だった。盾と槍は揃っている。行軍でも列を崩さない。だが、頭上へ矢が落ち、隣の兵が倒れれば自分がその穴へ入るような実戦は、まだほとんど知らない。


 その後ろには、古参の歩兵が二列だけ置かれている。


「後ろの隊は、いつ出しますか?」


 若い隊長が尋ねた。


「前が崩れた時だ」


「では、早めに――」


「早く助ければ、何も覚えん」


「遅ければ死にます」


「だから、お前が見るのだ」


 ヴァルグラムは若い隊長へ顔を向けた。


「重い決断を、後ろの兵にさせるな。出したのはお前だ。戻す時もお前が決めろ」


 若い隊長は指揮杖を持ち直した。


「……承知しました」


「角笛二つで戻せ。柵へ逃げる灰色は追うな。味方が背を向けても斬るな。列へ戻せ」


 二つ目の黒い旗が前へ出る。


 新しい部隊は、最初の隊よりゆっくり進んだ。盾の上から外営を見ようとする兵を隊長が怒鳴り、隣との間を詰めさせる。


 灰衣側の矢は、列が杭へ近づくまで落ちてこなかった。


 一本目が盾に刺さる。二本目は列の前へ落ち、三本目が後列の兵の肩を掠めた。盾が一斉に上がり、今度は足元が見えなくなる。前の兵が杭へ躓き、その後ろが詰まった。


「止まれ! 押すな!」


 若い隊長の声が、列の中央までは届いた。右端では誰かが前へ出ろと叫び、左では下がれという声が上がる。


 ヴァルグラムの隣にいた古参兵が一歩前へ出た。


「右が開きます」


「端だけだ」


「灰色が出ます」


「出させろ」


 北外営の柵が開き、灰衣の盾兵が走ってきた。前にいる寄子隊の乱れを見たのだろう。弓を持つ者は柵際に残り、槍と斧を持った者が杭の間へ広がる。

 新兵の右端が半歩下がった。中央はまだ立っている。


「右を寄せろ!」


 若い隊長が指揮杖を横へ振る。伝令が走り、後列の兵が空いた右へ入った。下がりかけた者の肩を盾で押し、前へ戻す。


 灰衣がぶつかった。槍先が盾へ当たり、隊列全体が一度後ろへ揺れる。前列の一人が倒れ、その隙間へ灰衣の斧が振り込まれた。


「まだですか」


 古参兵が問う。


「まだだ」


 ヴァルグラムは中央を見ていた。


 若い隊長は前へ出ず、伝令を二人に分けた。倒れた兵を後ろへ引かせ、二列目から一人を入れる。右端は戻った。左側も押されているが、まだ盾は同じ方向を向いている。


 灰衣側から、さらに人が出た。外柵を離れ、新兵隊の左へ回ろうとする。前の列が弱いと見て、深く入りすぎていた。


 ヴァルグラムが手を上げる。


「左だけ出せ」


 後ろにいた古参兵の半分が動いた。走らない。新兵隊の左後ろから斜めに入り、寄子隊の左へ回り込んだ灰衣の横腹へ盾を当てる。古参兵は先頭を倒すと、逃げる灰衣を追わず、その場で槍を並べた。


 灰衣側の足が止まる。


「戻せ!」


 若い隊長が叫び、角笛が二つ鳴った。前列が一歩ずつ下がる。背を向けかけた兵を隣が盾で押し戻し、倒れた者は後列が腕を引いた。

 古参兵は追ってくる灰衣だけを止める。外柵へ逃げる者には槍を向けず、新兵隊が杭を離れると同時に自分たちも退いた。


 黒い旗も、それ以上は進まない。

 戻った若い隊長は、ヴァルグラムの馬前で兜を脱いだ。


「列を二度崩しました」


「戻したな」


「古参兵を出していただかなければ、左から割られていました」


「次は、出す前に気づけ」


 若い隊長は、自分の後ろへ運ばれていく負傷者を見た。


「もう一度、同じ隊を出しますか」


「水を飲ませろ。倒れた者を下げ、盾を替えろ」


 ヴァルグラムは、別の黒い旗の下で待っている部隊へ目を向けた。


「次」



 北側からの三人目の伝令が南門へ着いた時、ハーゲンは壕へ落ちた荷車を見ていた。


 木束の上に車台が横たわり、その隙間へ新しい枝が投げ込まれている。帝国側の列は一度詰まったが、もう動き始めていた。


「北側、黒い旗の前列が交代しました!」


 伝令は石段を上りきる前に声を張った。


「最初の隊は矢を受けて退き、次の隊が杭まで進んでいます。前列は崩せます。北外営から出れば――」


「後ろは」


 ハーゲンが振り向く。


「後ろに別の歩兵がいます。こちらが出ると、横から入りました。ただ、追ってはきません」


「黒い旗は」


「杭の手前で止まっています」


 ハーゲンはもう一度、南門の外を見た。


 門の内側には、人だけなら余るほどいた。門下の広場、石段、壁沿いの道まで灰衣で埋まり、前へ出られない者が盾や石を抱えて待っていた。壕と南門の間には、夜明け前に門外へ出しておいた盾兵が列を作っている。


 足りないのは人ではない。壕際へ立てる幅と、門上で矢を射られる者の数、それに石や水を運び上げる道だった。


「前の隊は餌だ」


「ですが、押せます」


「押した先に、飢えた狼がいる」

 

 伝令が返事を迷っていると、東門から来た別の兵が板札を差し出した。


「クラマー殿からです。北の前列を潰すため、北側からの出撃を許可されたいと」


 ハーゲンは札の文字を一度見て、折り返した。


「出るな、と返せ」


「それだけでよろしいですか」


「北側から出すな。前の隊が下がっても追うな。向こうが選んだ場所で戦う必要はない」


 伝令が走り去る。


 石段の下では、マルタが籠を持った人々を二列に分けていた。子供には小石、老人には布と水。大きな石を抱えた者は、門上へ続く列へ入れている。


「北にも、石を運ぶ者を増やします」


「北にいる者で回せ」


 ハーゲンが答える。


「人なら、まだいます」


「いるだけだ」


 水桶を載せた小さな荷車が、二人の間を通った。ザイデルが前を歩き、門下へ集まる者を壁際へ寄せている。


「ですが、水桶も弓も増えてはいません」


 荷車の後ろで、空の桶がぶつかり合った。


「南へ石を上げ、北へ水を回せば、粥場へ戻す桶がなくなります。人を増やせば、その人が立つ道も要ります」


「では、ここにいる者へ何をさせるのです」


 マルタが尋ねた。


「待たせてください」


「待つことも役目だと?」


「門前へ詰めれば、負傷者が戻る道が詰まります。今は、前にいる者が働けるように、後ろを空ける方が必要です」


 マルタは石を抱えた男を見た。男は門上へ行く列へ入れず、何度も前を覗いている。


「何もせず待てと言えば、あの人たちは自分だけが残されたと思います」


「なら、今は休ませてください」


 ザイデルは荷車の取っ手を押し直した。


「石を抱えたまま倒れられるより、今は休ませて待たせた方が、いざというときに役に立ちます」


 門外で、板が壕へ落ちる音がした。


 ハーゲンは胸壁へ戻る。帝国工兵が最初の板を木束の上へ載せようとしていた。灰衣側から伸びた鉤縄が板の端へ掛かり、壕の中へ引き落とす。


「木束はもう引くな」


 近くの弓兵と、鉤縄を持つ男が顔を上げた。


「板を狙え。杭を打つ者、縄を結ぶ者を射ろ。渡った兵は門前で止める。広がらせるな」


「壕へ入った材は、残すのですか」


「全部を引き出す間に次が入る。間に合わん」


 ハーゲンは門下へ目を落とした。


「門前へ出してある盾兵を三列に分けろ。最初に渡った兵へ全員で寄るな。門は開けるな。壕と門の間に立てる人数だけで持たせろ」


 声が石段を下り、門内へ伝わっていく。

 北からは、また黒い旗が動いたという報告が届いた。


 南では、次の板が運ばれていた。



 最初の板は、兵を一人載せたまま壕へ落ちた。


 大盾を頭上へ上げていた男が泥水へ沈み、板の端だけが木束の上に残る。助けようと二人が壕際へ寄ったところへ、門上から石が落ちた。


「前を止めるな!」


 工兵隊の指揮官が叫ぶ。


「救助縄を投げろ! 次の板を出せ!」


 壕へ落ちた兵が泥の中から腕を上げる。縄が届くまでの間にも、後ろから別の板が運ばれてきた。


「作業を一度、下がらせなくていいんですか!」


 ニルスが僕の横で声を上げた。


「僕に聞かれても分からない!」


「ですよね!」


「でも、引き上げた人はこっちへ! 右の道を空けて!」


 泥まみれの兵が壕から引かれ、二人が脇を抱える。ニルスはその一人と肩を替わり、青い布の右側へ連れていった。


 二枚目の板には、初めから二本の縄が結ばれていた。一本を近くの杭に、もう一本を壕へ落とした荷車の車台に回し、後ろから十人ほどが引いて固定する。トマが板の厚みを見て、工兵隊の兵へ首を振った。


「一度に載せるなよ。三人乗ったら真ん中から沈む」


「盾兵を続けて渡す」


「続けてもいいが、板の上には一人ずつだ。渡りきる前に次を乗せるな」


 兵は指揮官を見た。


「一人ずつ渡せ!」


 同じ命令がすぐに出る。


 大盾兵が板へ足を載せた。木束が沈み、泥水が板の上まで上がる。男は盾を頭上へ傾け、横を向かずに進んだ。


 門上から石が落ちる。盾へ当たり、板が大きく揺れた。男の片膝がついたが、後ろから乗る者はいない。立ち直るまで待ち、また一歩進む。


 対岸から灰衣の槍が伸びた。盾の縁で受け、男が板の先から泥の地面へ足を下ろす。二人目が続き、三人目が渡る頃には、最初の男が門へ背を向け、次の兵を迎えるための場所を作っていた。


「鉤だ!」


 エルヴィンの声がした。


 対岸から投げられた鉤が、板を固定する縄へ絡んでいる。灰衣が三人がかりで引き、近くの杭が泥の中で傾いた。


「渡るのを止めて!」


 僕が板の手前へ腕を出す。


「縄を押さえる人を増やして! 板の上にいる人は、そのまま前へ!」


 ガレスが鉤縄を槍で地面へ押しつけた。革紐の切れた盾へ矢が刺さり、縁を握る手が下がる。それでも槍先を動かさない。


「切れ!」


 帝国兵の剣が縄へ入る。一度では断てず、鉤を引く力でガレスの足が泥を滑った。


 ブルーノが横から縄を掴んだ。


「引っ張り合いなら、最初から俺を呼べ!」


「追うなよ!」


「縄を引いてるだけだろうが!」


 ブルーノが腰を落とす。


 対岸の灰衣が前へつんのめり、縄が一瞬緩んだ。剣がもう一度振り下ろされ、切れた端が泥の上を跳ねる。


「板を押さえろ! 次、渡れ!」


 壕の向こうでは、帝国兵が少しずつ増えていた。


 大盾が半円に並び、その隙間から槍が出る。門下に待っていた灰衣が押し寄せるが、前へ立てるのは同じく数人ずつだった。


 盾と盾が当たり、どちらも広がれない。帝国兵が一人倒れると、板を渡った次の兵がその場所へ入る。灰衣の列も、前が下がれば後ろにいた者が次の場所へ入った。


「前へ出すぎるな! 板の前を空けろ!」


 対岸の帝国指揮官が、盾列の後ろで叫んでいる。勝ち進むためではない。渡ってくる兵と、戻る負傷者が通る幅を残すため、盾列を左右へ開かせていた。


 僕たちの側でも、板を渡ろうとする兵が増え始めた。


「一人ずつです!」


 ミケルが青い布を持ったまま声を張る。


「前の人が下りるまで乗らないでください!」


「布持ちが命令するな!」


「僕じゃなくて、工兵の命令です!」


「なら最初からそう言え!」


「今、言いました!」


 怒鳴り合う声の上を、矢が通った。


 青い布の端が揺れたが、棒からは外れない。


 工兵隊の指揮官が、門前にできた小さな盾列を見た。盾列が押し返されるたび、灰衣は板の先まで迫った。それでも、帝国兵は対岸から消えずに残っている。


「工兵を渡せ!」


 斧と鉤を持った者たちが前へ出た。最初の男が板を渡る。次の男は縄を肩に掛け、三人目は短い斧を二本抱えていた。


 門上から石が落ち、一人目の肩に当たった。男が板の途中で倒れかける。後ろの工兵は立ち止まらず、落ちた斧を拾い、倒れた男を板の端へ寄せた。


「負傷者を戻せ!」


 盾兵が腕を伸ばし、男をこちら側へ引く。その横を、次の工兵が進んだ。


 僕たちは、ただ道を空け続けた。


 前へ行く者には左を、戻る者には右を。板を押さえる者が減れば人を足し、担架が来れば荷車を止める。誰が壕の向こうで倒れたのか、もう顔までは見えなかった。


 黒い南門が、大盾の隙間から少しずつ近づいていく。


 工兵たちは門前へ着くと、まず鉤を扉の継ぎ目へ入れた。内側から木を打ちつける音がする。灰衣が門扉を補強しているらしい。


「斧を持て!」


 対岸の声が壕を越えた。工兵の一人が、両手で斧を振り上げる。北の角笛は、もう聞こえなかった。代わりに壕の向こうから、重い音が届いた。


 帝国工兵の斧が、南門を叩いていた。


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