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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第65話 赤い騎兵


 青い布へ伸びていた手が、棒へ触れる前に止まった。


 掌を貫いた矢が、腕の重みでわずかに揺れている。灰衣の男は自分の手と矢を見比べ、何が起きたのか分からない顔をした。その肩口へ二本目が入り、押し寄せていた人の間へ仰向けに倒れる。


 続いて、弦の鳴る音が重なった。


「頭を上げるな! 青い布の内側にいる者は、その場を動くな!」


 後ろから届いた声は若かった。叫んではいるのに、切羽詰まった響きがない。


 ガレスが割れた盾を上へ傾ける。


「伏せろ! 矢が越える!」


 僕は泥へ片手をつき、転んだミケルの肩を引き寄せた。矢は僕たちの頭より少し高いところを通り、前へ詰めていた灰衣の列へ落ちていく。味方の背と敵の顔が入り混じるほどの距離なのに、青い布のこちら側へ飛び込んだ矢は一本もなかった。


「ミケル、立てる?」


「はい。布も……まだあります」


 棒を握り直そうとしたミケルの手が滑る。泥にまみれた指を服へ擦りつけている間に、前方で倒れた灰衣の後ろから、また別の者が押し出されてきた。


 だが、今度はすぐには近づけなかった。


 横道の向こうで、歩兵の列が左右へ割れていた。


 昨日から何度も見ていた動きだった。中央を開き、騎兵を通し、最後の馬が抜けた直後に閉じる。あれほど繰り返していたはずなのに、実際の戦場で見ると、同じものには見えない。


 白馬が開いた道へ入った。


 乗っているのは赤い甲冑の若い将。朝、こちらを見もしないで訓練を続けていた男が、抜いた剣を低く構え、泥と死体の間をまっすぐ駆けてくる。


「騎兵は青い布の北を抜けよ! 歩兵は南から道をつなぐことを優先! 敵を追う必要はない、ここにいる兵を戻せ!」


 声に応じて、白馬の後ろを走る騎兵が二列へ分かれた。


 先頭の灰衣が槍を突き出す。赤い甲冑の男は馬を止めず、剣の腹で穂先を外へ払い、そのまま相手の肩へ刃を落とした。後ろから来た騎兵が開いた隙間へ入り、別の槍を馬上から叩き落とす。


 深くは入らない。


 最初の一列を崩すと、白馬は灰衣の流れに沿って斜めへ向きを変えた。後続も同じ線をなぞり、僕たちの正面へ固まっていた者たちを北側へ押しやっていく。


「左を閉じよ! 騎兵の後ろへ入らせるな!」


 横道から進んできた歩兵が、開いていた場所へ盾を並べた。


 最後の馬の尾が列を抜ける。その時にはもう、左右から寄った槍の穂先が壁を作っていた。騎兵を追っていた灰衣が止まり、後ろから押されて盾へぶつかる。


 槍列は揺れたが、開かなかった。


「すげえな」


 ブルーノが棍棒を肩へ戻しかけ、すぐ正面へ構え直した。


「見物してる場合か!」


「分かってる。分かってるけどよ、あれは見るだろ」


「後で見ろ! 右が来るぞ!」


 ガレスの盾の横へ灰衣が入り込む。ブルーノの棍棒が横から飛び、相手を二人まとめて槍列の前へ押し返した。


 その間にも、赤い甲冑の隊は動き続けている。


 弓兵が一度下がり、空いた場所へ担架を持った兵が入った。負傷者を一人載せると、同じ場所に留まらず、歩兵が作った道を後ろへ走る。そのすぐ脇を、まだ戦える兵が盾を拾って前へ戻っていった。

 前へ出る者と、後ろへ戻る者が、互いにぶつからずに流れている。


「青い布を上げよ!」


 赤い甲冑の男が、馬上からこちらへ剣を向けた。


「後ろの兵が戻る場所を見失っている! そこを退路の目印とする!」


「ミケル、聞こえたよね!」


「聞こえました!」


「棒が折れてもいいから、布だけは見えるようにして!」


「折らないようにします!」


「だから無理は――」


「今は上げます!」


 ミケルが泥へ膝をついたまま、棒を両手で押し上げた。青い布が人の頭より高く戻る。


 それを見た帝国兵の一人が、後ろへ向かって怒鳴った。


「青だ! 青い布の方へ行け! 道が開いてる!」


「誰の旗だ!」


「知らん! だが、さっきからあそこだけ残ってる!」


 北側から押し流されていた兵たちが、青い布へ顔を向ける。負傷した仲間を抱えた者も、盾だけを持って走っていた者も、ばらばらだった足をこちらへ揃え始めた。


 僕は、道の真ん中へ入りかけた男の腕を取った。


「歩けるなら、その人の反対側を持ってください。二人で運べば、後ろまで行けます」


「俺の隊は前に残ってる!」


「戻りたいなら、まずここを空けてください。あの人を渡したら、盾を持って戻れます」


「戻る道が残っていればな!」


「残します。そのために、今は運んでください!」


 男は口を歪めたが、地面へ引きずられていた兵の腕を自分の肩へ回した。


「お前、名前は」


「後でいいです。青い布の右を通って!」


「後で聞けると思うなよ!」


「それでも、今は後ろへ!」


 二人が道へ入る。赤い甲冑の歩兵が盾を半歩開き、負傷者を通すと、追ってきた灰衣の前へすぐ列を戻した。


 こちら側でも、ガレスが前列を組み直している。


「帝国兵は青い布の内側へ入るな! 通る者は右、戦う者は左だ! 武器を持ってるなら、自分がどちらか決めろ!」


「貴様に指図される筋合いは――」


「なら、そこで押し潰されるか!」


 ガレスの割れた盾へ槍が当たり、裂け目がさらに広がる。言い返していた帝国兵は、飛んできた木片を顔へ受ける前に身を引き、そのまま左へ入った。


「前に立つ! これでいいんだろう!」


「隣を見ろ。勝手に出るな!」


「注文が多い!」


「生きて戻ってから文句を言え!」


 帝国兵の盾が、ガレスの半分になった盾へ重なる。そこへエルヴィンが別の兵を押し込み、槍の穂先を前へ揃えさせた。


「アズール、右は通せる。けど、青い布の後ろが詰まり始めた」


「ニルス!」


「聞こえてます! 歩ける人は水路側へ回してます! 担架は一つずつしか通せません!」


「それでいい! 戻ってくる人を止めないで!」


「はい!」


 返事の向こうで、何か重いものが地面へ落ちた。誰が倒れたのかは見えない。


 赤い甲冑の騎兵が、もう一度僕たちの前を横切る。


 最初とは向きが逆だった。北へ灰衣を押した騎兵が、大きく回り込んで戻り、歩兵列へぶつかろうとしていた人の塊を側面から切り離していく。


 白馬の若い将は、戻る途中でも前ばかりを見てはいなかった。南の道へ流れる負傷者を一度見て、歩兵の列へ何か指示を飛ばす。すぐに盾が二枚分開き、担架が通った。


「青い布の南に一列残せ! その隊だけでは持たん。負傷者を抜く間、こちらで前を受けよう!」


「助かります!」


 僕の声が届いたのか、赤い甲冑の男は剣を上げた。


「礼は、ここを抜いてからだ!」


 白馬が向きを変え、再び灰衣の前へ出る。


 そこからどれほど戦ったのか分からない。赤い甲冑の隊が来る前より、時間は短かったはずだ。それでも、盾を押し返す腕が痺れ、喉へ土が張りついている。灰衣側も押してはきたが、もう一つの大きな塊ではなくなっていた。


 矢で切られ、騎兵に横へ押され、槍列へ止められるたび、人の流れがいくつかに分かれていく。


 オルステッド隊の旗が、北側にもう一度見えた。


「境をつなげ! 南へ抜けた者は追うな!」


 馬上のオルステッド殿が、こちらへ槍を向ける。


「アズール殿! そちらは下がれるか!」


「負傷者から下げています! まだ前は残せます!」


「残しすぎるな! 中央はもう戻る!」


 言葉の直後、帝国中央軍側から角笛が鳴った。昨日まで聞いたことのない、長く低い音だった。


 前へ出る合図ではない。


 赤い甲冑の歩兵が、その音で急に下がることはなかった。前を受けたまま、一列ずつ位置を変え、僕たちとオルステッド隊の間に残っていた隙間を埋めていく。


 やがて、灰衣との間に槍二本分ほどの空きができた。


 白馬が青い布へ近づいてくる。赤い甲冑には泥が跳ね、肩の端には刃が擦ったらしい傷がついていた。間近で見ると、思っていたより若い。僕とそれほど変わらないようにも見えるのに、周囲の兵は誰一人、彼の進路を塞がなかった。


「この隊の指揮を執っているのは、君かな」


 馬上から問われ、一瞬、後ろにいる別の誰かへ聞いているのかと思った。


「僕です。アズール・エスターです。ヴェルナー子爵家預かりの隊を任されています」


「エスター殿か」


 若い将は僕の名を一度だけ繰り返し、青い布へ目を移した。


「失礼だが、あれは貴家の旗ではないのかな。紋章も、家名を示す印もない」


「はい。正式な旗ではありません。人数が増えた時に、同じ場所へ戻れるように結んだだけです」


「結んだだけ、か」


「最初は、本当にそれだけでした。今は、僕たちの隊じゃない人まで戻ってきてますけど」


 青い布の右を、中央軍の負傷者が二人に支えられて通っていく。若い将はその後ろまで目で追った。


「旗の名を知っているだけでは、兵は戻らないでしょう。自分が戻れる場所だと知っているから、あそこへ向かうのでしょう」


「たぶん。僕たちも、全員の名前を覚えられているわけじゃないので」


「それで、名を知らない兵まで受け入れたのか」


「受け入れたというか……前に立たれると、後ろへ戻る人が通れなかったんです。戦えるなら前へ、無理なら一人を連れて後ろへ行ってもらいました」


 言葉にすると、ずいぶん簡単なことをしたように聞こえた。


 若い将は笑わなかった。ただ、泥に座り込んだ兵と、青い布の下で盾を並べ直す者たちを見ている。


「こちらで道を開けても、行き先がなければ兵は途中で散っていただろう。君たちがここへ残っていたから、後ろまでつなげられた」


「でも、来てもらえなかったら、僕たちは持ちませんでした」


「それはそうでしょうな」


 あっさり認められて、返す言葉に詰まった。


「なので、礼を受け取るなら、こちらも同じだけ返す必要がある。今はそれでよいことにしようではないか」


 少し離れたところから騎兵が駆けてきた。


「クラウゼン侯爵! 北側で灰衣がまたまとまり始めています。第二歩兵列が受けていますが、騎兵を戻せるのは今だけです!」


 クラウゼン侯爵。


 ノエルが教えてくれた名前と、目の前の顔がようやく重なった。


 ユリウスは報告を聞き終える前に北側を見た。


「騎兵は半数だけ戻せ。残りは南の横道を空けよ。弓兵は次の一射で下がる。青い布の南へ残した列は、負傷者が抜けるまで動かさないように」


「本営へは」


「伝令は既に出している。返答を待って、道が閉じるようでは意味がない。私の責任で続けるとする」


 副官が馬を返す。

 ユリウスも手綱を引いたが、すぐには白馬を走らせなかった。


「エスター殿。負傷者を先に下げるのがよい。灰衣側は押し返されたのではなく、流れを切られただけだ。もう一度まとまれば、ここへ来るだろう」


「分かりました。クラウゼン侯爵、本当に助かりました」


「君も、まだ礼を言える場所まで戻ってはいないでしょう」


 白馬が半歩、北へ向く。


「では、失礼する」


 戦場で別れを告げるには、不思議なくらい丁寧な言葉だった。


 僕が何か返す前に、ユリウスは白馬を走らせていた。残っていた騎兵がその後ろへ入り、開いた歩兵列の中央を抜ける。


 最後の馬が通ったところで、列はまた閉じた。



「中央へ二千を回しますか」


 北方軍の幕僚は、灰色に沈みかけた帝国中央軍の旗を指した。


 ヴァルグラム・ドラグヴァルトは答えず、馬上で戦場の北側を見ている。


 灰衣の群れは中央軍へ深く食いつき、その後ろからもまだ人が押していた。帝国軍の先鋒と後続をまとめて呑み込みながら、北側の端だけが細長く伸びている。


「辺境伯?」


「二千をどこへ入れる」


「中央軍の後ろへ。南側の横道なら、まだ――」


「クラウゼンが開けた道だ。そこへ北方軍まで入れれば、また詰まる」


 ヴァルグラムは、赤い甲冑の騎兵が境界部から北へ戻るのを見た。


「中央は自分で下がる。下がれぬ兵は、あれが拾う」


「では、我々は動かずに」


「誰が動かぬと言った」


 黒い大旗の前で、ヴァルグラムが剣を抜いた。

 刃先が向いたのは、帝国軍の背ではない。


「灰色は帝国軍を食っているつもりで、腹をこちらへ晒している。騎兵は外へ広がる者を内側へ追え。歩兵は俺の旗を見て斜めに入る」


 幕僚が、北側に続く灰衣の人数を見た。


「相手は、こちらの何倍いるか分かりません」


「正面にはな」


「正面には?」


「横を向いている奴まで、正面の数に入れるな。こちらを見ている者から砕く」


 ヴァルグラムは剣を上げた。


「門までは押せ。中へは入るな。逃げる者を追って列を崩すな。噛んだ場所を離すな」


 北方軍の角笛が鳴る。

 帝国中央軍のものより短く、鋭い音だった。


 先に動いたのは騎兵だった。灰衣の外側へ大きく回り、中央軍から離れようとした者の前へ馬を並べる。斬り込んで追い散らすのではなく、馬と槍で進む向きを内側へ変えていく。


 行き先を失った灰衣が、後ろから来る仲間へぶつかった。


 そこへ北方軍の歩兵が入る。


 盾の列はまっすぐではなかった。黒い大旗を先にして、灰衣の横腹へ斜めに突き刺さる。最初の衝突で盾が大きく鳴り、灰衣の前列が数歩押された。


 北方兵は足を止めない。槍が盾へ刺されば、隣の兵が穂先を払う。前の兵が泥へ膝をつくと、後ろにいた者がその肩を越えるように盾を差し込み、開きかけた場所を塞いだ。


 誰か一人が突出することはない。それでも、列全体が敵を押す速さは、走っているように見えるほど速かった。


「止めろ! 北だ、北から来るぞ!」


 灰衣側で声が上がる。中央軍へ向いていた者が振り返り、北方軍へ槍を向けようとする。その時には、既に一列目が押し込まれ、二列目との間がなくなっていた。


 灰衣の人数は多い。だが、全員が同じ方向を向くための命令がない。前へ進もうとする者、北へ向こうとする者、押されて戻る者が互いの肩を塞ぐ。


 北方軍は、その詰まりへさらに食い込んだ。ヴァルグラムの黒い大旗が、歩兵のすぐ後ろを進む。


「右を押せ! 倒れた奴に構うな、立っている者を下がらせろ!」


 灰衣が数人、旗へ向かって走る。


 ヴァルグラムは馬を引かず、正面へ出た。振り下ろされた槍を剣で弾き、馬の胸へ触れかけた男を斬り伏せる。すぐ横から別の北方兵が入り、二人目を盾で押し倒した。


 辺境伯の周囲だけが先へ出ることはなかった。


 旗が進めば歩兵も進み、歩兵が止まれば旗も止まる。止まった一瞬に後列が詰め、槍の折れた者が腰の斧を抜いて前へ戻る。


「食いつきすぎたな」


 ヴァルグラムは、帝国中央軍へ伸びきった灰色の列を見た。


「食い破れ」


 黒い旗が、再び前へ出た。


 灰衣側の横腹が折れた。



「中央軍の敗兵、さらに南へ入ります!」


 ルミナ沿海伯軍の南翼では、水路沿いの道へ負傷者が途切れず運ばれていた。


 寄子の将が馬を寄せ、北側を指す。


「沿海伯閣下、こちらから二隊を中央へ回します。今なら北方軍も動いております。合わせて押せば――」


「その二隊を出した後、水路の口へ灰衣が来た場合は、誰が止めるのです」


 オーレリアン・ルミナは、担架を避けるため馬を道の端へ寄せた。


「しかし、中央軍が崩れれば、南翼だけ残しても」


「中央軍は既に崩れております。だからこそ、戻る兵の道まで空にしてはなりません」


 前方から、盾を捨てた帝国兵が十数人走ってくる。ルミナ軍の槍兵が道を塞ぎ、武器を持つ者と負傷者を分け始めた。


「クラウゼン侯爵が境で道を開いているのでしょう。ドラグヴァルト辺境伯は、敵の横を押しております。あの二人が返した兵を、ここでまた詰まらせるおつもりですか」


「では、救援は出さないと」


「北へは出しません。南へ流れた灰衣を押し返し、荷駄路を空けます。水を北側へ二列、担架は水路寄りへ。まだ槍を持てる中央兵は、勝手に前へ戻さず、隊ごとにまとめてください」


 オーレリアンは、道の中央へ置かれていた水桶を顎で示した。


「それを端へ。負傷者が跨いでいる。桶を守って人を転ばせては、何のための水か分かりません」


 近くの兵が二人で桶を動かす。


 寄子の将は、まだ北側を気にしていた。


「辺境伯が押し切れば、追撃へ加わりますか」


「門へ入る命令は出ておりません。勝ったように見えた時ほど、自分の持ち場を忘れぬことです」


「承知しました」


「それと、南へ来た中央兵へ、敗走したと怒鳴らせないように。まだ前で戦っている者がいます。余計な言葉で、戻る列まで崩す必要はありません」


 寄子の将が馬を返す。


 オーレリアンは北へ兵を出さず、空き始めた道へ次の担架を通した。



 北から響いていた音が変わった。


 灰衣の叫びが小さくなったわけではない。金属と盾のぶつかる音が、一定の速さでこちらへ近づき、やがて遠ざかっていく。


 僕たちの前にいた灰衣が、何度も北を振り返り始めた。


「何が起きてる」


 ブルーノが棍棒を肩へ載せ、血のついた先端を服で拭おうとしてやめた。


「北方軍が入った」


 エルヴィンは、灰衣の頭越しに動く黒い旗を見ている。


「あれ、入ったって言うのか。押してるぞ」


「だから入ったんだろ」


「人数が違いすぎるだろうが」


「向こうは、人数を気にしてないらしい」


 黒い大旗は、灰色の中へ入ってからも止まらなかった。


 帝国中央軍の旗は、灰色の人波へ沈んだまま見えない。赤い甲冑の隊は、その沈んだ場所の端へ道を開け、人を一人ずつ外へ出している。


 北方軍は違った。


 道を探しているようには見えない。前にいる灰衣を押し、空いた場所へさらに入り、戦場そのものをこちら側へずらしている。


「あいつら、助けに来た顔じゃねえな」


 ブルーノが呟いた。


「助けに来てない。敵を殴りに来たんだ」


 ガレスは割れた盾を捨て、帝国兵が落としていったものを拾う。腕を通す革紐が切れており、左手で縁を握るしかなかった。


「その結果、俺たちが助かってる」


「赤いのは助けに来たぞ」


「赤いのではない。クラウゼン侯爵だ」


「さっきまでお前も赤い甲冑って呼んでただろ」


「名を知った後まで続けるな」


「本人の前じゃ言わねえよ」


「僕の前でも、できればやめて」


 言いながら、青い布の後ろを見る。


 負傷者の列はまだ続いている。ニルスが手を上げ、担架を一つずつ水路側へ送っていた。何人下がったのか、誰がまだ前にいるのか、ここからでは数えられない。


「アズール、布を下げるぞ」


 エルヴィンが言った。


「まだ見えてた方がよくない?」


「見える位置を後ろへ移す。前だけが下がって、帰る場所がここに残ったら、また人が詰まる」


「分かった。ミケル、僕たちと一緒に下がろう。先に布を動かして、そこで止めて」


「どのくらいですか」


 ガレスが後ろの道を見た。


「槍十本分。前列がそこへ届いてから、もう一度動かす。一度に下がれば追われる」


「聞こえた人から伝えて! 青い布を後ろへ移します! 走らず、前列から順に下がってください!」


 声を重ねるように、オルステッド隊からも後退の指示が届く。


 赤い甲冑の歩兵が前を受けている間に、青い布が少しずつ後ろへ動く。負傷者、敗兵、僕たちの前列。誰も完全には揃っていなかったが、少なくとも同じ方向へ歩いていた。


 戦場から離れるほど、叫びより呻き声が多くなる。


 途中で、クラウゼン侯爵の白馬が遠くを横切った。こちらへ顔を向けることはなく、また別の崩れかけた列へ騎兵を連れて入っていく。


 ブルーノもそれを見たらしい。


「忙しい奴だな。礼を言った途端に、もう別の場所かよ」


「戦場で立ち話を続ける方がおかしい」


 ガレスが返す。


「でも、『では、失礼する』はおかしくないのか」


「礼儀正しいだけだろう」


「あの顔で言われると、俺が野蛮みたいじゃねえか」


「みたい、ではない」


「お前も盾で殴ってやろうか!」


 言い合う二人の間を、負傷者を背負った帝国兵が通る。二人とも道を空け、男が過ぎるまで口を閉じた。


 青い布は、また少し後ろへ移った。



 東門の内側では、運び込まれた者を寝かせる場所が足りなくなっていた。


「名前は後です。歩ける者は壁際へ。血が止まらない者を先にこちらへ運んでください」


 エーミール・ザイデルは、濡れた帳面を閉じ、戸板に載せられた男の脚へ目を落とした。


「その布では足りません。配給所から麻袋を持ってきてください。中身は別の桶へ移す。水桶は門の真ん中へ置かないでください、戻る者が倒します」


「東の水場が空です!」


「南から回します。走る者を一人、桶を運ぶ者を四人。施療所へ入れる前に、武器は壁際へまとめてください」


 人の声が重なり、誰の返事か分からないまま、何人かが動いた。

 割れた白い椀が泥へ半分沈んでいる。踏まれて細かくなった欠片の間を、負傷者の血が流れていた。


「中央は崩した!」


 門の脇から、ヴォルフ・クラマーの声が上がる。


 灰衣の者たちは戻り続けていた。奪った帝国兵の盾を持つ者、仲間を背負う者、槍をなくして両手だけを血で染めた者。クラマーはその流れに逆らって、ローデリヒ・ハーゲンの前へ進む。


「見ただろう。帝国の先鋒も後ろもまとめて呑んだ。北の連中さえ横から入らなければ、そのまま本営まで押せた!」


「何人出た」


 ハーゲンは、戻ってくる者の顔を見ながら問うた。


「今はそんな話をしている場合か」


「何人出て、何人戻った」


「数えている暇などなかった。門から出た者だけじゃない。南の外営からも――」


「だから聞いている」


 ハーゲンの声は低かった。


「俺は六千を出した。後ろへ四千を置いた。お前は、その後ろを勝手に前へ出したか」


「俺が出したんじゃない。皆、自分で出たんだ」


「なら、誰の命令で戻す」


 クラマーが口を閉じる。


 門前では、戻る者とまだ外へ出ようとする者がぶつかり、ザイデルの部下が両側へ分けようとしていた。


「中央は崩れたんだぞ」


 クラマーはもう一度言った。


「見えている」


「なら勝てた。もっと早く、もっと多く出していれば――」


「北方軍に横を裂かれてもか」


「あれだけの人数だ。全員が北へ向けば押し返せた」


「全員へ、誰が向きを変えろと伝える」


「鐘を鳴らせばいい」


「戻る鐘も聞かなかった連中が、か」


 クラマーの顎が上がった。


「お前は、勝てる時にも戻る話しかしないな」


「戻らぬつもりなら、最初からそう言え。門の内側にいる者まで、全員外へ出して死なせろ」


「死なせるためじゃない。勝つためだ」


「戻す道も考えずに出ることで、俺は勝てるとは思わん」


 ザイデルが二人の間を横切る。


「議論するなら、門から離れてください。担架が通りません」


「帳面屋、帝国中央を崩したんだ。少しは――」


「東門の水がなくなりました。施療所へ入れない者が外に寝ています。勝ったという話で血が止まるなら、今ここで続けてください」


 クラマーは何か言い返しかけ、運ばれてきた若い男の腕が戸板から落ちるのを見た。


 ザイデルはその腕を戻し、担架を先へ通す。


 ハーゲンは門の石段を見上げた。


 マルタ・エーレンが、白い椀の印へ手を添えて立っている。朝、荷車の上から人々を外へ向かわせた時と同じ灰衣。頬に土がついているほかは、血も傷も見えなかった。

 ハーゲンは人の流れを避けながら石段へ上がった。


「何人死んだと思っている」


「まだ、誰にも数えられません」


「そういう話をしているんじゃない」


「私も見ています。戻らなかった人も、運ばれてきた人も」


「見ていたのか」


 ハーゲンは足を止める。


「お前は、ここから見ていたのか。門を押し開けた連中が踏まれ、帝国の矢へ向かい、北方軍に横から切られるところを」


 マルタは目を逸らさなかった。


「私は、人々へ一人ではないと伝えていました」


「槍も持たずにか」


「私が槍を持てば、あの声を止める者がいなくなります」


「止めたのか?」


 下の門前では、戻った者が家族の名を叫んでいる。


 マルタはその声を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。


「昨日は、選ばれた人だけが門の外へ出ました。残った者は、その背中を見ていました。今日は違います。農地を捨てた者も、水を運んでいた者も、父も息子も、同じ場所へ立った」


「同じ場所で死ねば、平等だと言うのか」


「死を望んでいるのではありません」


 返事は迷いなく出た。


「誰か一人へ、自分の死を押しつけないことを望んでいるのです」


「お前は押しつけた」


「私は、誰にも命じていません」


「出ろと言った」


「一人で戦わせるのかと、問いかけました」


「同じことだ」


「いいえ。命令なら、従った者は命じた者を恨めます。今日、外へ出た人々は、自分で選んだのです」


 ハーゲンの手が、腰の剣へ触れた。

 抜きはしなかった。


「自分で選んだと思わせたのは、お前だ」


「それでも、人々は選びました」


 マルタは石段の下へ顔を向ける。


 槍も斧も持たず、門の陰から外を見ている者たちがいた。負傷者の家族なのか、戦えない者なのか、それとも朝、出ることを選ばなかった者なのか。誰もマルタへ近づかず、誰も目を離せずにいる。


 胸元の白い椀へ、マルタの指が触れる。


「灰衣を纏えば、貴賤は消えるのです」


 ハーゲンが口を開くより先に、マルタは続けた。


「ならば、戦う者と見ている者の差も、消さなければなりません」


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