第65話 赤い騎兵
青い布へ伸びていた手が、棒へ触れる前に止まった。
掌を貫いた矢が、腕の重みでわずかに揺れている。灰衣の男は自分の手と矢を見比べ、何が起きたのか分からない顔をした。その肩口へ二本目が入り、押し寄せていた人の間へ仰向けに倒れる。
続いて、弦の鳴る音が重なった。
「頭を上げるな! 青い布の内側にいる者は、その場を動くな!」
後ろから届いた声は若かった。叫んではいるのに、切羽詰まった響きがない。
ガレスが割れた盾を上へ傾ける。
「伏せろ! 矢が越える!」
僕は泥へ片手をつき、転んだミケルの肩を引き寄せた。矢は僕たちの頭より少し高いところを通り、前へ詰めていた灰衣の列へ落ちていく。味方の背と敵の顔が入り混じるほどの距離なのに、青い布のこちら側へ飛び込んだ矢は一本もなかった。
「ミケル、立てる?」
「はい。布も……まだあります」
棒を握り直そうとしたミケルの手が滑る。泥にまみれた指を服へ擦りつけている間に、前方で倒れた灰衣の後ろから、また別の者が押し出されてきた。
だが、今度はすぐには近づけなかった。
横道の向こうで、歩兵の列が左右へ割れていた。
昨日から何度も見ていた動きだった。中央を開き、騎兵を通し、最後の馬が抜けた直後に閉じる。あれほど繰り返していたはずなのに、実際の戦場で見ると、同じものには見えない。
白馬が開いた道へ入った。
乗っているのは赤い甲冑の若い将。朝、こちらを見もしないで訓練を続けていた男が、抜いた剣を低く構え、泥と死体の間をまっすぐ駆けてくる。
「騎兵は青い布の北を抜けよ! 歩兵は南から道をつなぐことを優先! 敵を追う必要はない、ここにいる兵を戻せ!」
声に応じて、白馬の後ろを走る騎兵が二列へ分かれた。
先頭の灰衣が槍を突き出す。赤い甲冑の男は馬を止めず、剣の腹で穂先を外へ払い、そのまま相手の肩へ刃を落とした。後ろから来た騎兵が開いた隙間へ入り、別の槍を馬上から叩き落とす。
深くは入らない。
最初の一列を崩すと、白馬は灰衣の流れに沿って斜めへ向きを変えた。後続も同じ線をなぞり、僕たちの正面へ固まっていた者たちを北側へ押しやっていく。
「左を閉じよ! 騎兵の後ろへ入らせるな!」
横道から進んできた歩兵が、開いていた場所へ盾を並べた。
最後の馬の尾が列を抜ける。その時にはもう、左右から寄った槍の穂先が壁を作っていた。騎兵を追っていた灰衣が止まり、後ろから押されて盾へぶつかる。
槍列は揺れたが、開かなかった。
「すげえな」
ブルーノが棍棒を肩へ戻しかけ、すぐ正面へ構え直した。
「見物してる場合か!」
「分かってる。分かってるけどよ、あれは見るだろ」
「後で見ろ! 右が来るぞ!」
ガレスの盾の横へ灰衣が入り込む。ブルーノの棍棒が横から飛び、相手を二人まとめて槍列の前へ押し返した。
その間にも、赤い甲冑の隊は動き続けている。
弓兵が一度下がり、空いた場所へ担架を持った兵が入った。負傷者を一人載せると、同じ場所に留まらず、歩兵が作った道を後ろへ走る。そのすぐ脇を、まだ戦える兵が盾を拾って前へ戻っていった。
前へ出る者と、後ろへ戻る者が、互いにぶつからずに流れている。
「青い布を上げよ!」
赤い甲冑の男が、馬上からこちらへ剣を向けた。
「後ろの兵が戻る場所を見失っている! そこを退路の目印とする!」
「ミケル、聞こえたよね!」
「聞こえました!」
「棒が折れてもいいから、布だけは見えるようにして!」
「折らないようにします!」
「だから無理は――」
「今は上げます!」
ミケルが泥へ膝をついたまま、棒を両手で押し上げた。青い布が人の頭より高く戻る。
それを見た帝国兵の一人が、後ろへ向かって怒鳴った。
「青だ! 青い布の方へ行け! 道が開いてる!」
「誰の旗だ!」
「知らん! だが、さっきからあそこだけ残ってる!」
北側から押し流されていた兵たちが、青い布へ顔を向ける。負傷した仲間を抱えた者も、盾だけを持って走っていた者も、ばらばらだった足をこちらへ揃え始めた。
僕は、道の真ん中へ入りかけた男の腕を取った。
「歩けるなら、その人の反対側を持ってください。二人で運べば、後ろまで行けます」
「俺の隊は前に残ってる!」
「戻りたいなら、まずここを空けてください。あの人を渡したら、盾を持って戻れます」
「戻る道が残っていればな!」
「残します。そのために、今は運んでください!」
男は口を歪めたが、地面へ引きずられていた兵の腕を自分の肩へ回した。
「お前、名前は」
「後でいいです。青い布の右を通って!」
「後で聞けると思うなよ!」
「それでも、今は後ろへ!」
二人が道へ入る。赤い甲冑の歩兵が盾を半歩開き、負傷者を通すと、追ってきた灰衣の前へすぐ列を戻した。
こちら側でも、ガレスが前列を組み直している。
「帝国兵は青い布の内側へ入るな! 通る者は右、戦う者は左だ! 武器を持ってるなら、自分がどちらか決めろ!」
「貴様に指図される筋合いは――」
「なら、そこで押し潰されるか!」
ガレスの割れた盾へ槍が当たり、裂け目がさらに広がる。言い返していた帝国兵は、飛んできた木片を顔へ受ける前に身を引き、そのまま左へ入った。
「前に立つ! これでいいんだろう!」
「隣を見ろ。勝手に出るな!」
「注文が多い!」
「生きて戻ってから文句を言え!」
帝国兵の盾が、ガレスの半分になった盾へ重なる。そこへエルヴィンが別の兵を押し込み、槍の穂先を前へ揃えさせた。
「アズール、右は通せる。けど、青い布の後ろが詰まり始めた」
「ニルス!」
「聞こえてます! 歩ける人は水路側へ回してます! 担架は一つずつしか通せません!」
「それでいい! 戻ってくる人を止めないで!」
「はい!」
返事の向こうで、何か重いものが地面へ落ちた。誰が倒れたのかは見えない。
赤い甲冑の騎兵が、もう一度僕たちの前を横切る。
最初とは向きが逆だった。北へ灰衣を押した騎兵が、大きく回り込んで戻り、歩兵列へぶつかろうとしていた人の塊を側面から切り離していく。
白馬の若い将は、戻る途中でも前ばかりを見てはいなかった。南の道へ流れる負傷者を一度見て、歩兵の列へ何か指示を飛ばす。すぐに盾が二枚分開き、担架が通った。
「青い布の南に一列残せ! その隊だけでは持たん。負傷者を抜く間、こちらで前を受けよう!」
「助かります!」
僕の声が届いたのか、赤い甲冑の男は剣を上げた。
「礼は、ここを抜いてからだ!」
白馬が向きを変え、再び灰衣の前へ出る。
そこからどれほど戦ったのか分からない。赤い甲冑の隊が来る前より、時間は短かったはずだ。それでも、盾を押し返す腕が痺れ、喉へ土が張りついている。灰衣側も押してはきたが、もう一つの大きな塊ではなくなっていた。
矢で切られ、騎兵に横へ押され、槍列へ止められるたび、人の流れがいくつかに分かれていく。
オルステッド隊の旗が、北側にもう一度見えた。
「境をつなげ! 南へ抜けた者は追うな!」
馬上のオルステッド殿が、こちらへ槍を向ける。
「アズール殿! そちらは下がれるか!」
「負傷者から下げています! まだ前は残せます!」
「残しすぎるな! 中央はもう戻る!」
言葉の直後、帝国中央軍側から角笛が鳴った。昨日まで聞いたことのない、長く低い音だった。
前へ出る合図ではない。
赤い甲冑の歩兵が、その音で急に下がることはなかった。前を受けたまま、一列ずつ位置を変え、僕たちとオルステッド隊の間に残っていた隙間を埋めていく。
やがて、灰衣との間に槍二本分ほどの空きができた。
白馬が青い布へ近づいてくる。赤い甲冑には泥が跳ね、肩の端には刃が擦ったらしい傷がついていた。間近で見ると、思っていたより若い。僕とそれほど変わらないようにも見えるのに、周囲の兵は誰一人、彼の進路を塞がなかった。
「この隊の指揮を執っているのは、君かな」
馬上から問われ、一瞬、後ろにいる別の誰かへ聞いているのかと思った。
「僕です。アズール・エスターです。ヴェルナー子爵家預かりの隊を任されています」
「エスター殿か」
若い将は僕の名を一度だけ繰り返し、青い布へ目を移した。
「失礼だが、あれは貴家の旗ではないのかな。紋章も、家名を示す印もない」
「はい。正式な旗ではありません。人数が増えた時に、同じ場所へ戻れるように結んだだけです」
「結んだだけ、か」
「最初は、本当にそれだけでした。今は、僕たちの隊じゃない人まで戻ってきてますけど」
青い布の右を、中央軍の負傷者が二人に支えられて通っていく。若い将はその後ろまで目で追った。
「旗の名を知っているだけでは、兵は戻らないでしょう。自分が戻れる場所だと知っているから、あそこへ向かうのでしょう」
「たぶん。僕たちも、全員の名前を覚えられているわけじゃないので」
「それで、名を知らない兵まで受け入れたのか」
「受け入れたというか……前に立たれると、後ろへ戻る人が通れなかったんです。戦えるなら前へ、無理なら一人を連れて後ろへ行ってもらいました」
言葉にすると、ずいぶん簡単なことをしたように聞こえた。
若い将は笑わなかった。ただ、泥に座り込んだ兵と、青い布の下で盾を並べ直す者たちを見ている。
「こちらで道を開けても、行き先がなければ兵は途中で散っていただろう。君たちがここへ残っていたから、後ろまでつなげられた」
「でも、来てもらえなかったら、僕たちは持ちませんでした」
「それはそうでしょうな」
あっさり認められて、返す言葉に詰まった。
「なので、礼を受け取るなら、こちらも同じだけ返す必要がある。今はそれでよいことにしようではないか」
少し離れたところから騎兵が駆けてきた。
「クラウゼン侯爵! 北側で灰衣がまたまとまり始めています。第二歩兵列が受けていますが、騎兵を戻せるのは今だけです!」
クラウゼン侯爵。
ノエルが教えてくれた名前と、目の前の顔がようやく重なった。
ユリウスは報告を聞き終える前に北側を見た。
「騎兵は半数だけ戻せ。残りは南の横道を空けよ。弓兵は次の一射で下がる。青い布の南へ残した列は、負傷者が抜けるまで動かさないように」
「本営へは」
「伝令は既に出している。返答を待って、道が閉じるようでは意味がない。私の責任で続けるとする」
副官が馬を返す。
ユリウスも手綱を引いたが、すぐには白馬を走らせなかった。
「エスター殿。負傷者を先に下げるのがよい。灰衣側は押し返されたのではなく、流れを切られただけだ。もう一度まとまれば、ここへ来るだろう」
「分かりました。クラウゼン侯爵、本当に助かりました」
「君も、まだ礼を言える場所まで戻ってはいないでしょう」
白馬が半歩、北へ向く。
「では、失礼する」
戦場で別れを告げるには、不思議なくらい丁寧な言葉だった。
僕が何か返す前に、ユリウスは白馬を走らせていた。残っていた騎兵がその後ろへ入り、開いた歩兵列の中央を抜ける。
最後の馬が通ったところで、列はまた閉じた。
*
「中央へ二千を回しますか」
北方軍の幕僚は、灰色に沈みかけた帝国中央軍の旗を指した。
ヴァルグラム・ドラグヴァルトは答えず、馬上で戦場の北側を見ている。
灰衣の群れは中央軍へ深く食いつき、その後ろからもまだ人が押していた。帝国軍の先鋒と後続をまとめて呑み込みながら、北側の端だけが細長く伸びている。
「辺境伯?」
「二千をどこへ入れる」
「中央軍の後ろへ。南側の横道なら、まだ――」
「クラウゼンが開けた道だ。そこへ北方軍まで入れれば、また詰まる」
ヴァルグラムは、赤い甲冑の騎兵が境界部から北へ戻るのを見た。
「中央は自分で下がる。下がれぬ兵は、あれが拾う」
「では、我々は動かずに」
「誰が動かぬと言った」
黒い大旗の前で、ヴァルグラムが剣を抜いた。
刃先が向いたのは、帝国軍の背ではない。
「灰色は帝国軍を食っているつもりで、腹をこちらへ晒している。騎兵は外へ広がる者を内側へ追え。歩兵は俺の旗を見て斜めに入る」
幕僚が、北側に続く灰衣の人数を見た。
「相手は、こちらの何倍いるか分かりません」
「正面にはな」
「正面には?」
「横を向いている奴まで、正面の数に入れるな。こちらを見ている者から砕く」
ヴァルグラムは剣を上げた。
「門までは押せ。中へは入るな。逃げる者を追って列を崩すな。噛んだ場所を離すな」
北方軍の角笛が鳴る。
帝国中央軍のものより短く、鋭い音だった。
先に動いたのは騎兵だった。灰衣の外側へ大きく回り、中央軍から離れようとした者の前へ馬を並べる。斬り込んで追い散らすのではなく、馬と槍で進む向きを内側へ変えていく。
行き先を失った灰衣が、後ろから来る仲間へぶつかった。
そこへ北方軍の歩兵が入る。
盾の列はまっすぐではなかった。黒い大旗を先にして、灰衣の横腹へ斜めに突き刺さる。最初の衝突で盾が大きく鳴り、灰衣の前列が数歩押された。
北方兵は足を止めない。槍が盾へ刺されば、隣の兵が穂先を払う。前の兵が泥へ膝をつくと、後ろにいた者がその肩を越えるように盾を差し込み、開きかけた場所を塞いだ。
誰か一人が突出することはない。それでも、列全体が敵を押す速さは、走っているように見えるほど速かった。
「止めろ! 北だ、北から来るぞ!」
灰衣側で声が上がる。中央軍へ向いていた者が振り返り、北方軍へ槍を向けようとする。その時には、既に一列目が押し込まれ、二列目との間がなくなっていた。
灰衣の人数は多い。だが、全員が同じ方向を向くための命令がない。前へ進もうとする者、北へ向こうとする者、押されて戻る者が互いの肩を塞ぐ。
北方軍は、その詰まりへさらに食い込んだ。ヴァルグラムの黒い大旗が、歩兵のすぐ後ろを進む。
「右を押せ! 倒れた奴に構うな、立っている者を下がらせろ!」
灰衣が数人、旗へ向かって走る。
ヴァルグラムは馬を引かず、正面へ出た。振り下ろされた槍を剣で弾き、馬の胸へ触れかけた男を斬り伏せる。すぐ横から別の北方兵が入り、二人目を盾で押し倒した。
辺境伯の周囲だけが先へ出ることはなかった。
旗が進めば歩兵も進み、歩兵が止まれば旗も止まる。止まった一瞬に後列が詰め、槍の折れた者が腰の斧を抜いて前へ戻る。
「食いつきすぎたな」
ヴァルグラムは、帝国中央軍へ伸びきった灰色の列を見た。
「食い破れ」
黒い旗が、再び前へ出た。
灰衣側の横腹が折れた。
*
「中央軍の敗兵、さらに南へ入ります!」
ルミナ沿海伯軍の南翼では、水路沿いの道へ負傷者が途切れず運ばれていた。
寄子の将が馬を寄せ、北側を指す。
「沿海伯閣下、こちらから二隊を中央へ回します。今なら北方軍も動いております。合わせて押せば――」
「その二隊を出した後、水路の口へ灰衣が来た場合は、誰が止めるのです」
オーレリアン・ルミナは、担架を避けるため馬を道の端へ寄せた。
「しかし、中央軍が崩れれば、南翼だけ残しても」
「中央軍は既に崩れております。だからこそ、戻る兵の道まで空にしてはなりません」
前方から、盾を捨てた帝国兵が十数人走ってくる。ルミナ軍の槍兵が道を塞ぎ、武器を持つ者と負傷者を分け始めた。
「クラウゼン侯爵が境で道を開いているのでしょう。ドラグヴァルト辺境伯は、敵の横を押しております。あの二人が返した兵を、ここでまた詰まらせるおつもりですか」
「では、救援は出さないと」
「北へは出しません。南へ流れた灰衣を押し返し、荷駄路を空けます。水を北側へ二列、担架は水路寄りへ。まだ槍を持てる中央兵は、勝手に前へ戻さず、隊ごとにまとめてください」
オーレリアンは、道の中央へ置かれていた水桶を顎で示した。
「それを端へ。負傷者が跨いでいる。桶を守って人を転ばせては、何のための水か分かりません」
近くの兵が二人で桶を動かす。
寄子の将は、まだ北側を気にしていた。
「辺境伯が押し切れば、追撃へ加わりますか」
「門へ入る命令は出ておりません。勝ったように見えた時ほど、自分の持ち場を忘れぬことです」
「承知しました」
「それと、南へ来た中央兵へ、敗走したと怒鳴らせないように。まだ前で戦っている者がいます。余計な言葉で、戻る列まで崩す必要はありません」
寄子の将が馬を返す。
オーレリアンは北へ兵を出さず、空き始めた道へ次の担架を通した。
*
北から響いていた音が変わった。
灰衣の叫びが小さくなったわけではない。金属と盾のぶつかる音が、一定の速さでこちらへ近づき、やがて遠ざかっていく。
僕たちの前にいた灰衣が、何度も北を振り返り始めた。
「何が起きてる」
ブルーノが棍棒を肩へ載せ、血のついた先端を服で拭おうとしてやめた。
「北方軍が入った」
エルヴィンは、灰衣の頭越しに動く黒い旗を見ている。
「あれ、入ったって言うのか。押してるぞ」
「だから入ったんだろ」
「人数が違いすぎるだろうが」
「向こうは、人数を気にしてないらしい」
黒い大旗は、灰色の中へ入ってからも止まらなかった。
帝国中央軍の旗は、灰色の人波へ沈んだまま見えない。赤い甲冑の隊は、その沈んだ場所の端へ道を開け、人を一人ずつ外へ出している。
北方軍は違った。
道を探しているようには見えない。前にいる灰衣を押し、空いた場所へさらに入り、戦場そのものをこちら側へずらしている。
「あいつら、助けに来た顔じゃねえな」
ブルーノが呟いた。
「助けに来てない。敵を殴りに来たんだ」
ガレスは割れた盾を捨て、帝国兵が落としていったものを拾う。腕を通す革紐が切れており、左手で縁を握るしかなかった。
「その結果、俺たちが助かってる」
「赤いのは助けに来たぞ」
「赤いのではない。クラウゼン侯爵だ」
「さっきまでお前も赤い甲冑って呼んでただろ」
「名を知った後まで続けるな」
「本人の前じゃ言わねえよ」
「僕の前でも、できればやめて」
言いながら、青い布の後ろを見る。
負傷者の列はまだ続いている。ニルスが手を上げ、担架を一つずつ水路側へ送っていた。何人下がったのか、誰がまだ前にいるのか、ここからでは数えられない。
「アズール、布を下げるぞ」
エルヴィンが言った。
「まだ見えてた方がよくない?」
「見える位置を後ろへ移す。前だけが下がって、帰る場所がここに残ったら、また人が詰まる」
「分かった。ミケル、僕たちと一緒に下がろう。先に布を動かして、そこで止めて」
「どのくらいですか」
ガレスが後ろの道を見た。
「槍十本分。前列がそこへ届いてから、もう一度動かす。一度に下がれば追われる」
「聞こえた人から伝えて! 青い布を後ろへ移します! 走らず、前列から順に下がってください!」
声を重ねるように、オルステッド隊からも後退の指示が届く。
赤い甲冑の歩兵が前を受けている間に、青い布が少しずつ後ろへ動く。負傷者、敗兵、僕たちの前列。誰も完全には揃っていなかったが、少なくとも同じ方向へ歩いていた。
戦場から離れるほど、叫びより呻き声が多くなる。
途中で、クラウゼン侯爵の白馬が遠くを横切った。こちらへ顔を向けることはなく、また別の崩れかけた列へ騎兵を連れて入っていく。
ブルーノもそれを見たらしい。
「忙しい奴だな。礼を言った途端に、もう別の場所かよ」
「戦場で立ち話を続ける方がおかしい」
ガレスが返す。
「でも、『では、失礼する』はおかしくないのか」
「礼儀正しいだけだろう」
「あの顔で言われると、俺が野蛮みたいじゃねえか」
「みたい、ではない」
「お前も盾で殴ってやろうか!」
言い合う二人の間を、負傷者を背負った帝国兵が通る。二人とも道を空け、男が過ぎるまで口を閉じた。
青い布は、また少し後ろへ移った。
*
東門の内側では、運び込まれた者を寝かせる場所が足りなくなっていた。
「名前は後です。歩ける者は壁際へ。血が止まらない者を先にこちらへ運んでください」
エーミール・ザイデルは、濡れた帳面を閉じ、戸板に載せられた男の脚へ目を落とした。
「その布では足りません。配給所から麻袋を持ってきてください。中身は別の桶へ移す。水桶は門の真ん中へ置かないでください、戻る者が倒します」
「東の水場が空です!」
「南から回します。走る者を一人、桶を運ぶ者を四人。施療所へ入れる前に、武器は壁際へまとめてください」
人の声が重なり、誰の返事か分からないまま、何人かが動いた。
割れた白い椀が泥へ半分沈んでいる。踏まれて細かくなった欠片の間を、負傷者の血が流れていた。
「中央は崩した!」
門の脇から、ヴォルフ・クラマーの声が上がる。
灰衣の者たちは戻り続けていた。奪った帝国兵の盾を持つ者、仲間を背負う者、槍をなくして両手だけを血で染めた者。クラマーはその流れに逆らって、ローデリヒ・ハーゲンの前へ進む。
「見ただろう。帝国の先鋒も後ろもまとめて呑んだ。北の連中さえ横から入らなければ、そのまま本営まで押せた!」
「何人出た」
ハーゲンは、戻ってくる者の顔を見ながら問うた。
「今はそんな話をしている場合か」
「何人出て、何人戻った」
「数えている暇などなかった。門から出た者だけじゃない。南の外営からも――」
「だから聞いている」
ハーゲンの声は低かった。
「俺は六千を出した。後ろへ四千を置いた。お前は、その後ろを勝手に前へ出したか」
「俺が出したんじゃない。皆、自分で出たんだ」
「なら、誰の命令で戻す」
クラマーが口を閉じる。
門前では、戻る者とまだ外へ出ようとする者がぶつかり、ザイデルの部下が両側へ分けようとしていた。
「中央は崩れたんだぞ」
クラマーはもう一度言った。
「見えている」
「なら勝てた。もっと早く、もっと多く出していれば――」
「北方軍に横を裂かれてもか」
「あれだけの人数だ。全員が北へ向けば押し返せた」
「全員へ、誰が向きを変えろと伝える」
「鐘を鳴らせばいい」
「戻る鐘も聞かなかった連中が、か」
クラマーの顎が上がった。
「お前は、勝てる時にも戻る話しかしないな」
「戻らぬつもりなら、最初からそう言え。門の内側にいる者まで、全員外へ出して死なせろ」
「死なせるためじゃない。勝つためだ」
「戻す道も考えずに出ることで、俺は勝てるとは思わん」
ザイデルが二人の間を横切る。
「議論するなら、門から離れてください。担架が通りません」
「帳面屋、帝国中央を崩したんだ。少しは――」
「東門の水がなくなりました。施療所へ入れない者が外に寝ています。勝ったという話で血が止まるなら、今ここで続けてください」
クラマーは何か言い返しかけ、運ばれてきた若い男の腕が戸板から落ちるのを見た。
ザイデルはその腕を戻し、担架を先へ通す。
ハーゲンは門の石段を見上げた。
マルタ・エーレンが、白い椀の印へ手を添えて立っている。朝、荷車の上から人々を外へ向かわせた時と同じ灰衣。頬に土がついているほかは、血も傷も見えなかった。
ハーゲンは人の流れを避けながら石段へ上がった。
「何人死んだと思っている」
「まだ、誰にも数えられません」
「そういう話をしているんじゃない」
「私も見ています。戻らなかった人も、運ばれてきた人も」
「見ていたのか」
ハーゲンは足を止める。
「お前は、ここから見ていたのか。門を押し開けた連中が踏まれ、帝国の矢へ向かい、北方軍に横から切られるところを」
マルタは目を逸らさなかった。
「私は、人々へ一人ではないと伝えていました」
「槍も持たずにか」
「私が槍を持てば、あの声を止める者がいなくなります」
「止めたのか?」
下の門前では、戻った者が家族の名を叫んでいる。
マルタはその声を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
「昨日は、選ばれた人だけが門の外へ出ました。残った者は、その背中を見ていました。今日は違います。農地を捨てた者も、水を運んでいた者も、父も息子も、同じ場所へ立った」
「同じ場所で死ねば、平等だと言うのか」
「死を望んでいるのではありません」
返事は迷いなく出た。
「誰か一人へ、自分の死を押しつけないことを望んでいるのです」
「お前は押しつけた」
「私は、誰にも命じていません」
「出ろと言った」
「一人で戦わせるのかと、問いかけました」
「同じことだ」
「いいえ。命令なら、従った者は命じた者を恨めます。今日、外へ出た人々は、自分で選んだのです」
ハーゲンの手が、腰の剣へ触れた。
抜きはしなかった。
「自分で選んだと思わせたのは、お前だ」
「それでも、人々は選びました」
マルタは石段の下へ顔を向ける。
槍も斧も持たず、門の陰から外を見ている者たちがいた。負傷者の家族なのか、戦えない者なのか、それとも朝、出ることを選ばなかった者なのか。誰もマルタへ近づかず、誰も目を離せずにいる。
胸元の白い椀へ、マルタの指が触れる。
「灰衣を纏えば、貴賤は消えるのです」
ハーゲンが口を開くより先に、マルタは続けた。
「ならば、戦う者と見ている者の差も、消さなければなりません」




