第64話 灰色の奔流
夜明け前から、帝国中央軍の方では車輪の音が途切れなかった。
木束を山のように積んだ荷車が一台、横道をゆっくり横切り、その後ろを板と縄を担いだ人足が続いていく。車輪が轍へ落ちるたび、積み上げた枝が擦れて乾いた音を立てた。
僕たちの前では、ガレスが槍の石突で土に線を引いている。
「昨日より二歩、狭くするか」
前列にいた男たちが、自分の足元と隣の顔を見比べた。
「二歩も詰めたら、帝国の連中がこっちへ逃げてきた時に入れなくないか」
ブルーノは盾を持たず、太い棍棒を肩に預けている。昨日使ったところだけ木の色が変わり、先端には削れた跡が残っていた。
「だから真ん中を空ける。最初から広く並べて、押されてから詰める方が危ないからな」
「そいつらが真ん中から来るとは限らんだろ」
「来なければ、入れないだけだ」
「味方だぞ」
「味方だからと、隊列ごと潰されろと言うのか」
ガレスが土へ引いた線は、青い布の前でわずかに途切れ、そこから後ろへ細く伸びていた。
ブルーノはまだ何か言いたそうだったが、エルヴィンが隣から棍棒の柄を押し下げた。
「朝から二人で始めるなよ。帝国軍が勝てば、どっちの心配もいらない」
「ほらな」
「勝てば、だ。あれだけ前へ出すなら、戻る時にも同じだけ場所が必要になる」
横道を通る兵の列が、今度は反対側から来た。弓を背負った兵が五人ずつ並び、その間を矢束を抱えた人足が急ぎ足で抜けていく。僕たちへ顔を向ける者はいない。
「昨日の倍どころじゃないね」
ニルスが、槍を持ったまま背伸びをした。
「前に見える分だけで、昨日の全部より多いと思います」
エルヴィンは帝国兵ではなく、遠くの外営を見ていた。
「向こうも増えてるようだがな」
灰衣の外営には、まだ朝の煙が残っている。その煙の下、昨日は水桶や荷を運んでいた道に、人が集まり始めていた。槍を持つ者ばかりではない。棒を肩へ載せた者もいれば、手ぶらのまま門の方へ歩く者もいる。
「見物じゃないのか」
ニルスが聞くと、エルヴィンはしばらく答えなかった。
「見物なら、子供を抱いたまま前へ行かないだろう。あの女、誰かに子供を渡したぞ」
言われて探したが、もう人の陰へ隠れていた。
ミケルが青い布の結び目を引く。昨日より短く結び直したため、布は棒の高いところで小さく揺れている。
「もう少し下へ結びますか。風が強くなったら、持っていかれそうです」
「見えなくなる方が困る。棒が折れそうなら、その時に下げよう」
「折らないようにします」
「無理はしないでね。布を残すために、ミケルが危険になったら意味がないから」
「それ、昨日も聞きました」
「昨日より人が多いから、もう一度ね」
ミケルは少し困った顔をしたが、結び目をさらに一度締めた。
横道の向こうでは、赤い甲冑の若い将が馬を下り、歩兵の列の間を歩いている。昨日も同じ場所で、開いた列へ騎兵を通していた。今朝は道が三本になり、負傷者役らしい兵まで担架へ乗せられている。
ブルーノがそちらを見て、鼻を鳴らした。
「あいつら、今日も練習してるぞ。これから本番だってのに、疲れないのか」
「本番で初めてやるよりはいいだろう」
「ガレス、お前、あっちへ入りたいのか」
「誰がそんな話をした」
「ずっと見てるからな」
「お前が勝手に前へ出た時、どうやって引き戻すか考えている」
「俺の話かよ」
ブルーノが笑い、周りの何人かもつられた。その声の間を抜けるように、北側から馬の蹄が近づいてくる。
オルステッド殿は馬を僕たちの列の前で止め、土に引かれた線と、中央へ残した隙間を見た。
「昨日より縮めたか」
「中央軍が下がる場合に備えて、通す場所を先に決めました」
ガレスが答えると、オルステッド殿は馬上から後ろの道まで目で追った。
「後ろへ抜けられるか」
「今なら。負傷者が増えれば、我々から南へ回します」
「中央の兵は、こちらの決め事を知らんぞ。空いている場所へ全員で入ってくるかもしれん」
「その時は止めます」
僕が言うと、オルステッド殿の視線がこちらへ移った。
「止まらぬ者もいる」
「はい、昨日もいました。でも、話を聞ける人には、何をすればいいか伝えます。無理な人は、ガレスたちに任せます」
「ガレス殿に任せる範囲が広すぎるな」
「私もそう思います」
真顔で返したガレスに、オルステッド殿は口元だけを少し緩めた。
「中央軍は正面へ出る。昨日のように、南へ漏れた灰衣だけを受ければよい。だが今日は、中央軍がこちらへ押されることも考えろ」
ブルーノが棍棒を肩から下ろした。
「昨日は押してただろ。今日はあれだけ出すんだ。押される方がおかしくないか」
「昨日、相手は鐘で戻っただけだ。中央軍が押し切ったわけではない」
「戻らなきゃ勝ってたかもしれん」
「そうかもしれん。だから今日、向こうが戻らなければどうなるかを見る」
オルステッド殿は、灰衣の外営へ顔を向ける。
「北の私の隊が下がったら、そちらも半歩下がれ。私の隊が前へ出ても、ついてくるな。中央軍の旗が揺れたくらいでも動くな」
「旗が消えたら?」
エルヴィンの問いに、オルステッド殿はすぐには答えなかった。
「その時は、旗より人を見ろ。走ってくる兵が武器を持っているか。後ろに敵がいるか。話を聞ける顔か。それを見てから決めろ」
馬を返しかけ、青い布へもう一度目をやる。
「それは下げるな。昨日、名を知らぬ者があれを見て戻ってきた。今日は、その数が増えるかもしれん」
「分かりました」
「ただし、布を守って隊を失うなよ」
ミケルが返事をし、オルステッド殿は北側の自隊へ戻っていった。
しばらくして、帝国中央軍の角笛が鳴った。
横道の向こうで赤い甲冑が白馬へ上がる。だが、その隊は動かない。前へ出たのは、さらに北側に並んでいた中央軍の大きな旗だった。
*
「六千だ。最初に出すのは、それ以上でも以下でもない」
旧官庁の会議室では、窓から入る朝の光が机の半分まで届いていた。ローデリヒ・ハーゲンは小石を東門の前へ二列に並べ、後ろの一列だけを指で押さえている。
「盾持ちは前だ。弓を使える者は外柵の内側にも残せ。帝国の工兵が壕へ近づいた時だけ、後ろの四千を出す」
ヴォルフ・クラマーは、机に置かれた小石を数えるように目を動かした。
「合わせて一万。昨日の三倍で、帝国は昨日よりもっと多い。数が合わん」
「数を合わせて殴り合うために出すのではない」
「また見るだけか」
「工兵を下げさせる。中央軍が食いつけば、その形を見る。北方軍へ寄るな。南へ回す者も、こちらで決めた数を越えさせるな」
「昨日、南へ出た連中は帝国の境まで届いた。そこから押せば、中央軍の横へ入れたんだぞ」
「押した後、戻せなければ全員死ぬ」
「勝てば戻る必要はない」
ハーゲンの指が、小石の後ろに描かれた大きな線へ移った。帝国中央軍。その北と南には、別の旗を示す印がある。
「中央軍を押した先に、北方軍と東南軍がいる。お前は帝国兵が逃げれば、そのまま公爵の幕舎まで走れると思っているのか」
「勢いのまま止めなければいい」
「それでは軍とは呼べん」
「軍でなければ勝てないと、誰が決めた」
二人の声が重なりかけたところへ、エーミール・ザイデルが帳面を抱えて入ってきた。
「東門の前を空けてください。出撃する者だけでなく、その家族まで集まっています」
机の端に帳面を置き、開いた頁をハーゲンへ向ける。
「水桶を北へ回しましたが、北外営にも人が増えています。予定どおり六千を出すなら、戻る道を別にしてください。昨日倒れた桶はまだ一つしか戻っていません」
「西側の小門を戻りに使う」
「そこは施療所の担架が通っています」
「なら、担架を南へ」
「南の粥場を動かし始めています。今から変えれば、昼の配給が遅れます」
クラマーが机を離れ、窓から門前を覗いた。
「飯など後だ。帝国がそこまで来ている」
「戦う者が、朝から何も食べていない地区もあります」
「勝てば帝国の荷がある」
「勝つまで水を飲ませないおつもりですか」
ザイデルの声は平らだった。クラマーは何か返しかけたが、窓の外から上がった大きな声に振り返る。
女の声だった。
ハーゲンが窓へ寄る。旧官庁の前に置かれていた荷車の上に、マルタ・エーレンが立っていた。胸元の白い椀の印を片手で押さえ、門へ集まった人々へ向かって話している。
「帝国は、昨日の返事を聞きませんでした!」
声は門前の壁へぶつかり、外営の方まで広がっていく。
「武器を捨てれば助けると言いながら、誰が首謀者なのかは、帝国が決めるのです。昨日、門の外へ出た者を、あの者たちはもう見て覚えています。今日、槍を置けば、その者たちだけが連れていかれるでしょう!」
人の間から、誰かが名前を叫んだ。昨日戻らなかった者なのか、負傷している者なのかは分からない。別の声が重なり、また別の場所から帝国を罵る声が上がる。
「止めさせろ!」
ハーゲンは扉へ向かった。
外へ出ると、荷車の周りには既に人垣ができていた。灰色の長衣を着た者、上着へ灰を擦りつけただけの者、古い槍や斧を持つ者。手ぶらの者もいる。少し離れたところでは、女が抱いていた子供を老いた男へ渡していた。
「マルタ、下りろ!」
声を張ったが、彼女は振り返らなかった。
「昨日、門の外で血を流した者たちは、あなたたちと同じ椀から粥を食べた者です。その者たちだけに、今日も戦わせるのですか!」
「出す者は決めてある!」
ハーゲンが人垣を割って進む。何人かは道を空けたが、後ろから詰める人に押され、すぐ狭くなった。
「戦える者を選び、戻せる数だけ出す。門と外柵を空にすれば、ここに残る子供も負傷者も守れんぞ!」
ようやくマルタが彼を見下ろした。
「守るために、誰を門の外へ出すのですか」
「槍を使える者だ」
「槍を使える者には、子供はいないのですか。負傷した親はいないのですか。その者だけが死ぬことを、守ると呼ぶのですか」
「死なせないために戻すんだ!」
「昨日、戻らなかった者がいます」
人垣のどこかで、女の泣く声がした。
マルタはそちらへ顔を向け、荷車から両手を広げた。
「灰衣を纏えば、貴賤は消える。私たちは、誰かに命じられて粥を分けたのではありません。誰かに選ばれた者だけが水を運んだのでもない。ならば、なぜ戦う時だけ、選ばれた者の後ろへ隠れるのです!」
槍の柄が地面を打った。一人。二人。ばらばらだった音が増えていく。
「同じ椀から食べた者を、一人で死なせてはなりません!」
「門を開けるな!」
ハーゲンは門衛の方へ怒鳴った。
東門では、予定された出撃兵が既に列を作っている。その後ろへ人が詰まり、門衛の姿は肩から上しか見えなかった。
門前の高い小鐘が、ばらばらに鳴った。
出撃の合図ではない。列を整える者が、離れた場所へ声を届かせるための小鐘だったはずだが、人垣の後ろから歓声が上がった。誰かが縄を奪ったのか、甲高い音は止まらず、続けざまに門壁へ跳ね返る。
前の列が動き、門の隙間へ入る。止めようとした門衛が横へ押され、そのまま姿を消した。
「小鐘を止めろ! 後ろを出すな!」
ハーゲンの声は、乱れた鐘と人の足音に呑まれた。
東門だけではなかった。南外営で、仮設柵の一本が倒れる。荷車を動かした隙間から灰色の人影が外へ走り出し、別の小門でも閂へ手が掛かっていた。
ザイデルが外へ出てきて、開きかけた南の道を見た。
「そこは戻る道です! 荷車を動かさないでください! 担架が通れなくなる!」
叫びながら走ったが、荷車の車輪にはもう何人もの手が掛かっている。
クラマーは旧官庁の石段から、門の外へ広がる灰色を見ていた。
「ほら見ろ。誰も止まりたくなどない」
「止まれないのと、止まらないのは違う」
ハーゲンが振り返った時、マルタはまだ荷車の上にいた。
門から溢れた人々が、彼女の前を通っていく。武器を持つ者も、持たない者も、同じ方向へ押されるように走っていた。
マルタは頬を赤くし、その流れをうっとりと見つめている。
「それでいいのです」
*
帝国軍の最初の矢が飛んだ時、灰衣の先頭はまだ壕から遠かった。
空へ上がった矢は緩い弧を描き、野を走る灰色の列へ落ちていく。前の者が倒れ、後ろの者が避けようとしてぶつかる。その間に帝国軍の盾列が進み、弓兵は次の矢をつがえていた。
「灰衣が止まりましたね!」
ニルスが声を上げる。
確かに、最初の灰衣はそこで足を鈍らせた。帝国兵の槍先が一斉に下がると、勢いの残っていた者も前へ入れず、左右へ散っていく。
「昨日より多いけど、昨日より崩れるのが早いな」
ブルーノは棍棒の先を土へ置いたまま、遠くの戦いを見ている。
「昨日の連中とは違うのかもしれない」
エルヴィンが答えた。
「盾を持っていない人が多い。槍の持ち方も揃ってない」
「なら、帝国の勝ちか」
「後ろが止まればな」
灰衣の前列が押し返されても、その後ろからどんどんと人が出て来ていた。
門を出た列だけではない。外営の小屋の間、倒れた柵の向こう、荷車の隙間。昨日なら道ではなかった場所からも、灰色の人影が野へ出てくる。
帝国軍の二度目の矢が落ちた。
また前列が倒れる。今度は後ろの者が避けられず、倒れた者の上へ乗り上げた。それでも流れは止まらない。押されて転んだ者の脇を、斧を持った男が駆け、さらにその後ろを棒だけ持った若者が続いた。
「……多くないか」
ブルーノの声から、さっきまでの軽さが消えた。
「うん、多すぎるね……」
僕が答えた時、中央軍から伝令が一騎、後ろへ走っていった。
「敵一万を超える! 第二陣、前へ!」
近くを通った声が、南側の陣へも届く。
帝国軍の後列が動いた。前列の背へ詰めるのではなく、左右へ分かれて進み、疲れた槍兵の列と入れ替わっていく。交代はきれいだった。下がる兵と前へ出る兵が肩をぶつけず、弓兵の射線も空いている。
「ほら。大丈夫だろ」
ブルーノが言った。
ガレスは返事をせず、青い布の前に残した隙間を見た。
正面では、帝国軍の槍が灰衣を押し戻し始めていた。工兵を守る兵も前へ出て、木束を担いだ人足が壕へ近づいていく。灰衣の一部が南へ流れたが、昨日ほどまとまっていない。オルステッド殿の隊が槍を下げると、その手前で向きを変え、また中央の大きな塊へ戻っていった。
帝国軍の旗が一つ前へ進む。
その向こうで、東門からさらに人が出てきた。
前にいた者より列が乱れ、武器を持っていない者も混じっている。止まりかけた灰衣の背へ追いつき、押し、押された者が帝国軍の槍へぶつかる。弓で射られても、後ろの者には前が見えていないようだった。
伝令がまた走る。
「南外営からも出ています! 数、確認できません!」
別の騎馬が、そのすぐ後ろを追った。
「敵二万を超えたとの報告! 第三陣は待機、本営の命令を――」
声は途中で遠ざかる。
横道では、中央軍の後続が既に前へ動き始めていた。命令を受けたのか、前の隊が苦しいのを見て進んだのか、僕たちには分からない。ただ、槍の穂先が列になって北へ曲がり、木束を積んだ荷車の脇を抜けていく。
「止まれって言ってませんでしたっけ?」
ニルスが聞く。
「前に出た連中への命令じゃないかもしれん」
エルヴィンは、遠くではなく横道を見ていた。
「下がるべき場所へ、次々に兵が入ってきている」
ガレスがようやく口を開いた。
「アズール、後ろをもう一度見てくれ。水路まで、荷が出ていないか」
「ニルス、行ける?」
「見てきます」
ニルスが列を抜け、青い布の後ろへ走っていく。
前方で三度目の角笛が鳴った。
*
帝国軍のディートリヒ・バルケは、前列の旗がまだ揃っていることを確認してから、南側へ向けていた騎馬伝令を呼び戻した。
「南端の第二列を曲げろ。正面へ足すな。外から回る敵を受けさせる」
「第二列は既に前へ入っています」
「半分を抜け」
「交代中です。今抜けば、第一列との間が開きます」
若い将校は、声を張っているのに何度も聞き返された。弓弦、槍と盾がぶつかる音、人の叫び、後ろから進む兵の号令。近くにいる者の声すら、一度では届かない。
ディートリヒは馬を半歩進め、正面を見た。
中央の槍列は崩れていない。最前列が押されれば二列目が支え、倒れた兵の穴にはすぐ別の兵が入る。灰衣の死体が槍の前へ積み上がり、足場を悪くしていたが、まだ押し返している。
問題は、その後ろだった。
休ませるはずの兵が下がる場所へ、第三陣の先頭が来ている。工兵が捨てた木束の脇を負傷者が通り、矢束を運ぶ人足が逆向きに走っていた。
「第三陣を止めろ。前へ入れるな。工兵は材を置き、護衛と一緒に下がらせる」
「本営からは、工兵を壕へ進めよとの命令が――」
「今の壕へ入れれば戻せん。命令が出た時とは数が違う!」
将校が馬を返す前に、別の伝令が駆け込んできた。馬の首には白い泡がつき、乗り手は兜を失っている。
「南外営から敵が増えています! 東南軍との境へ回る者も――」
「数は」
「分かりません。門から出た者より、外営から出た者の方が多いとの報告もあります」
「南端へ予備一隊。正面へ向いている者を、そのまま横へ走らせるな。一度下げて向きを変えろ」
「下げる場所がありません」
伝令は答えたあと、自分の言葉に気づいたように口を閉じた。
正面で帝国軍の旗が大きく傾いた。旗手が倒れたのではない。後ろから押された兵が旗竿へぶつかり、持ち直そうとしている。
「弓兵を一段下げろ! 射線を作れ!」
号令が伝えられる。
弓兵の一部は下がったが、その後ろには負傷者と人足がいた。道を開けようと横へ動き、南端の槍兵が向きを変えようとする場所へ入り込む。誰も止まってはいない。皆が命令どおりの場所へ行こうとして、その行き先を互いに塞いでいた。
灰衣の人波が、槍列の南端へぶつかる。
最初の一人は倒れた。二人目も槍に掛かった。三人目が前の二人を押し、四人目と五人目が横から盾へ手を掛ける。
帝国兵は踏みとどまったが、その背へ、交代に来た味方がぶつかった。
「押すな! 前はまだ立っている!」
隊長が振り返って叫ぶ。後ろの兵には、その前が見えない。後続は救援のために来ている。前へ入れと言われ、倒れた仲間の代わりに槍を出そうとしている。
さらに灰衣が来る。
槍列は破られず、列の形を残したまま後ろへ押される。下がった足が後列の足に当たり、次の一歩で工兵の木束に踵を取られた。
「材を捨てろ! 全部だ!」
命令が通った時には、既に何束もの木材が兵の足元で転がっていた。
中央の旗が一本、灰色の中へ沈んでいった。
*
最初にこちらへ来た帝国兵は、右腕を押さえながら歩いていた。
走ってはいない。槍も持っている。けれど僕たちの列を見ると、何か言う前に膝をついた。
「おい、そこで止まるな。後ろが来るぞ」
エルヴィンが肩を貸して立たせる。
「中央へ……戻る。道を」
「中央は後ろだ。青い布の右を通れ。歩けるなら、向こうの負傷者も連れていけ」
「俺は、中央第二――」
「所属は戻ってから聞く。今は一人で歩けるか」
兵は返事をせず、自分の右腕を見た。血は出ているが、指は動いている。
僕が近くの帝国兵を指すと、ようやくそちらへ向かった。
次は二人。その次は五人。
槍を持つ者、盾だけを持つ者、兜を失った者。誰も同じ方向を見ていない。北へ戻ろうとする者を、オルステッド隊の兵が押し返し、僕たちの前へ流してくる。
「こちらへ入れるのは歩ける者だけだ!」
オルステッド殿の声が北から響く。
「倒れている者は槍列の後ろへ置け! 走らせるな、後ろまで崩れるぞ!」
ガレスが青い布の前へ戻り、土の線を踏み直した。
「アズール、もう来る。帝国兵を後ろへ通すのは、ここだけにする」
「うん。エルヴィン、話を聞ける人は」
「盾を持たせて内側へ。武器を捨ててる者は、そのまま後ろへ送る」
「俺は?」
ブルーノが聞いた。
「前だ。ただし、押し返しても追うな。戻ってこられなくなる」
「今日は誰も戻ってこないだろ」
「お前が戻る場所はここだ」
ガレスの言葉に、ブルーノは一度だけ青い布を見て、前へ出た。
帝国兵の後ろから、灰衣が現れた。
一人や二人ではない。敗兵の間へ入り込み、走る者の背を追うようにこちらへ流れてくる。オルステッド隊の槍列が横から食い止めたが、その南を抜けた者が僕たちの正面へ向いた。
「前列、槍を下げろ! 真ん中は空けたままだ!」
ガレスの声で、穂先が一斉に前を向く。
灰衣の男が棒を振り上げるより先に、ブルーノの棍棒が肩から胸へ叩き込まれた。男が横へ飛び、後ろの二人を巻き込む。
「右、来るぞ!」
マルクが十人を連れて隙間へ入り、横から回った灰衣を受ける。ベルントは後列へ広がろうとした兵の背を押し、青い布の内側へ戻した。
正面で盾がぶつかる。
ガレスの槍が一人目の足を払い、前列の兵がその上から穂先を押し出す。ブルーノが開いた場所へ踏み込み、棍棒を横へ振った。
「前へ出すぎるな!」
「出てねえ!」
「戻ってから言え!」
エルヴィンがブルーノの腰帯を掴み、一歩だけ引き戻した。その横を、肩から血を流す帝国兵が抜けようとする。
「待て。盾を持ってるなら置いていくな」
「俺の隊は北だ!」
「北はもう灰衣で見えない。盾を持って前へ入るか、後ろの負傷者を運ぶか、どっちかにしろ」
「お前は何だ」
「今それを聞いてどうする」
帝国兵はエルヴィンを睨んだが、正面で槍が折れる音を聞くと、盾を上げて前列の端へ入った。
僕は後ろを振り返る。
「立てる人は、負傷者を一人ずつ連れて! 青い布の右から後ろへ下がってください! 走ると道が詰まります!」
「命令するな、俺は中央軍だ!」
頬を切った男が怒鳴った。
「命令じゃありません。お願いです。でも、ここに立っていても後ろの人が通れない。歩けるなら、あの人の肩を持ってください」
「俺はまだ戦える!」
「なら盾を持って前へ。どちらもしないなら、せめて道を空けてください」
男は僕と、地面に座り込んだ兵を見比べた。悪態をつきながら腕を取り、青い布の右へ歩き始める。
「話を聞く奴ばかりじゃないぞ!」
ガレスの声が飛ぶ。
「聞かない人は、押してでも通して!」
「無茶を言う!」
「ガレスならやれる!」
返しながら、槍を持てない帝国兵の背へ手を当てる。男は一度振り返ったが、何も言わず後ろへ走った。
青い布の周りへ人が増えていく。
戻る場所を探す者。立てない仲間を引きずる者。どの隊のものか分からない盾を拾った者。帝国軍の旗は見えなくなっているのに、ミケルが掲げる青だけは、まだ頭の上にあった。
「左、下がる!」
オルステッド隊の前列が半歩戻る。
ガレスはそちらを見て、同時に自分たちの列へ声を掛けた。
「こちらも半歩! 一度に下がるな、前から順に足を引け!」
前列が一歩ではなく、靴半分ほど下がる。後ろがそれに合わせ、青い布も少し動いた。
灰衣がさらに押してきた。
誰かの命令で揃っているようには見えない。前の者を押し、横へはみ出し、倒れた者を踏み越えている。その分、止まらなかった。槍で一人を倒しても、その後ろの二人が同じ場所へ入ってくる。
ブルーノの棍棒が灰衣の盾へ当たり、木が裂けた。相手ごと押し返したが、足元の死体に踵を取られ、体が前へ傾く。
「ブルーノ!」
エルヴィンが腕を掴み、ガレスが盾を割り込ませる。次の瞬間、その盾へ斧が落ちた。
木板にひびが走る。
「まだ使える!」
ガレスは斧を槍の柄で払い、割れた盾を前へ押し戻した。
「それ、もう半分だぞ!」
「半分あれば足りる!」
ブルーノが横から棍棒を叩き込み、斧を持った男を倒す。だが、開いた場所へすぐ別の灰衣が入ってきた。
後ろからニルスの声がする。
「ルッツのところまで道はあります! でも、もう担架が二つ並べません!」
「一つでいい! 戻る人を止めないで!」
「分かりました!」
僕の声が届いたのか、その先は人の叫びに消えた。
正面の土が見えなくなっている。倒れた人、捨てられた槍、割れた盾。足を置く場所を探す間にも、後ろから押される。
オルステッド殿の馬が見えた。前列のすぐ後ろで、兵を南へ回している。
「境を閉じるな! 青い布まで道を残せ!」
その声で、北から流れてきた帝国兵がこちらを見た。
何人かが青い布へ向きを変える。
同じ数だけ、灰衣もついてきた。
「ミケル、少し下げよう!」
「はい!」
ミケルが棒を抱えたまま後ろへ足を引く。泥に刺さっていた石突が抜けず、二度揺すった。その間に前列がまた押される。
「抜けない!」
「置いていけ!」
ガレスが叫ぶ。
「でも、布が――」
「棒を折れ!」
ミケルが両手で棒を引いた。
石突が急に泥から抜け、体が後ろへ傾く。踏み直した足が、誰かの捨てた盾の縁へ乗った。
青い布が大きく傾いた。
「ミケル!」
僕が手を伸ばす。
その前に、灰衣の男が割れた槍の間から腕を伸ばした。
泥に膝をついたミケルの頭上で、太い指が青い布の棒に掛かる。
その手に、矢が刺さった。




