第63話 勝てる相手
昨夜、鐘が鳴ったのは、あの一度きりだった。
見張りが交代するたびに槍の石突が土を擦り、焚き火へ小枝が投げ込まれる。遠くの城壁には火が並んだまま、門が開く気配も、灰色の人影が野へ溢れてくる様子もない。
途中、僕は二度ほど目を覚ました。
一度目は、隣の隊で馬が鼻を鳴らした時。二度目は、ブルーノが寝返りを打って荷車の板を蹴った時だった。
「痛えな……誰だ、こんなとこへ車輪を置いたの」
「荷車の隣で寝たのはお前だ」
起きたガレスが、火の向こうから返した。
「お? 朝か?」
「まだだ」
「……なら寝る」
毛布が動き、すぐにいびきが戻る。
灰衣の町から聞こえるのは、時折鳴る家畜の声と、何か大きな物を引きずるような低い音だけだった。
結局、夜襲はなく、空が白み始める頃には、灰衣の外営から煙が上がっていた。
昨夜の火が残っているだけかと思ったが、煙は少しずつ増えていく。城壁に近い方からではない。外柵の外へ張り出した小屋の間や、布を渡しただけの天幕の脇からも立ち上っていた。
水桶を二つ下げた人影が歩く。
その後ろを、小さな影がついていった。少し離れた場所では、荷車から誰かを下ろしている。武器を持った者が道を空け、灰色の長衣をまとった者たちが布ごと人を運んでいた。
昨日は大きな灰色の塊にしか見えなかった。
朝になれば、ひとつずつ動いている。
「あっちも飯か」
ブルーノが欠伸を噛み殺しながら、荷車へ背を預けた。
「食べなければ動けん」
「十二万分だろ」
「三十万以上かもしれない」
ノエルは帳面の端へ今日の日付らしき印を入れ、顔を上げた。
「武器を持っていない人も食べますので」
「分かってるよ」
ブルーノはそう言ったが、煙の数をもう一度見ていた。
僕たちの陣でも、鍋が火へ掛けられる。トマが水桶を運ぶ者を分け、ルッツは昨夜休ませた二人の手と脚を確かめていた。ガレスは北側の境へ歩き、戻る時には、隣の隊が杭を半歩ずらしたことまで見ていた。
北方軍の陣だけは、朝になってもあまり形が変わらない。
よく見ると、変わっていないのではなかった。
夜に見張りが立っていた場所から荷が消え、騎兵の通り道が広がっている。外周の兵も同じ顔ではない。交代した者が、前の者と同じ距離に立っていた。
「夜襲がなかったから、少し休むと思ってた」
僕が言うと、ガレスは北の陣から視線を外さなかった。
「来なかっただけだ。来ないと決まったわけではない」
「そうだね」
鍋の蓋が鳴った。
ノエルが振り返るより早く、人足の一人が火を弱める。
その時、東南軍本隊の方から騎馬が一騎、陣の間を抜けてきた。槍持ちが道を空け、馬は青い布の手前で止まる。
「ヴェルナー子爵家預かり隊、代表は」
「僕です」
騎手は僕の顔と、隣に立つガレスを見比べた。
「朝食後、北寄りへ配置を変える。荷車は現在地に残せ。戦える者をまとめ、命令を待て」
「北寄りというのは、どこまでですか」
「帝国中央軍との境だ。先遣指揮官オルステッド殿の指示を受けろ」
聞き覚えのある名前に、僕は少し遅れて返事をした。
「オルステッド殿が?」
「既に前へ出ている。詳細は現地で聞け」
騎手は次の隊へ向かい、馬を返した。
「生きてたんだな」
ブルーノが鍋の方を向いたまま言う。
「先遣へ戻ったとは聞いていた」
ガレスの返事はいつもと変わらない。
それでも、槍の革紐を締め直す手が少しだけ速かった。
*
帝国中央の大幕舎では、地図の四隅を鉄の重しが押さえていた。
昨日までは街道と拠点を示していた小石が取り除かれ、代わりに城壁、外柵、壕、門、帝国軍各陣の位置が描き足されている。書記が測量札を受け取るたび、炭の線が増えた。
レオポルト・アルンベルク公爵は長机の上座に座り、最後の書記が下がるのを待ってから片手を上げた。
「では、ゼーレン伯。始めよ」
オットマール・ゼーレン伯爵が、地図の正面へ細い棒を置いた。
「まず、反乱勢力へ武装解除と城門開放を求めます。帝国官吏の殺害、直轄倉の襲撃、反乱扇動に関わった首謀者を引き渡すこと。これを受諾するならば、非武装の者、女子供には危害を加えないと告げます」
「応じると思うか」
ヴァルグラム・ドラグヴァルト辺境伯は椅子へ深く座らず、机の端に片腕を置いていた。
「応じる可能性が低いからといって、勧告を省く理由にはなりません」
オットマールは声を乱さず、棒を外柵の手前へ滑らせた。
「拒否された場合、中央軍から調査部隊を出します。外柵、壕、弓の射程を確認。敵が出撃した時は、その場で撃退し、深追いせず帰陣させます」
「人数は」
ディートリヒ・バルケ将軍が地図を見たまま問う。
「二千を軸に。必要なら三千まで」
「弓兵は」
「戦況に応じて」
ディートリヒの眉がわずかに動いた。
「前へ出してから決めるのか」
「バルケ将軍の判断で、最も適した数を」
棒の先が、中央軍と灰衣側の間を往復する。
「北方軍と東南軍には所定位置を維持していただきます。中央予備は本営の命令があるまで待機。まずは帝国軍が正面を押さえ、反乱勢力へ秩序を示すべきでしょう」
レオポルトはゆっくり頷いた。
机の反対側で、ユリウス・クラウゼン侯爵が地図の南端を見ていた。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「申せ」
ユリウスは立ち上がらなかった。指先で正面中央、北寄り、南寄りの三か所を順に示す。
「外柵へ近づく前に、敵が外へ出る時の動きを確認するべきです」
オットマールの棒が止まる。
「中央だけではなく、三か所へ小部隊を出します。外柵へ取りつかず、一定の距離で下げる。どの門から、どれほどの人数が出るか。どこまで追い、何を合図に止まるかを見ます」
「三か所で戦闘を起こすおつもりですか」
「起こすとは限りません。追わなければ、門と外営を守ることを優先していると分かる。追えば、出撃の順と統制が見える」
ユリウスの指が中央軍の後ろへ戻った。
「退却路と予備の進出路も、今のうちに分けておくべきです。正面路へ双方を入れれば、敵より先に味方が道を塞ぎます」
ヴァルグラムが地図へ目を落とした。
「悪くない」
それだけだった。
オーレリアン・ルミナ沿海伯は、南側に描かれた水路を指でなぞった。
「よいのではありませんか。南へ流れるかだけでも先に分かれば、荷駄路を空けられます。退く兵と、前へ出る兵を同じ道へ入れる必要もありますまい」
オットマールは二人を順に見た。
「敵情が分からぬからこそ、部隊を分散させるべきではありません」
「分からぬから見るのだろう」
ヴァルグラムの声は低い。
「三方向で各隊が勝手な判断を始めれば、討伐軍の指揮はどうなります」
「条件を決めます」
ユリウスが答えた。
「敵が一定数を超えた時、各隊は追わせず退く。中央予備には、退却路が塞がれる前に救援へ出る裁量を――」
「認められません」
言葉が重なった。
幕舎の端で、書記の筆だけが動いている。
オットマールは棒を机へ置く。
「討伐軍は一つです。各軍が敵の数を測り、それぞれの判断で退き、予備が独自に動くようでは、中央の命令が届く前に戦況が決まってしまう」
「戦況は、命令を待ってはくれません」
「だからこそ、最初の戦闘は中央へ集めるのです」
ユリウスは地図の正面路を見た。
「武器を持つ者が十二万いる可能性があります。城を守る兵としてだけ考えるのは危険です。想定を超えて出た場合――」
「まだ一戦もしておらぬうちから、敗走兵を通す道を論じる必要がありましょうか」
「必要になってから空けることはできません」
オットマールは一度、息を置いた。
「兵に退路を意識させること自体が、退却を招きます。帝国軍が敵前で意図的に下がる姿を見せれば、反乱勢力は勢いづき、我が兵は自らの強さを疑うでしょう」
完全に筋のない話ではなかった。
ユリウスは返事をせず、地図へ視線を戻す。
ディートリヒが、正面へ置かれた小石を二つ指で動かした。
「中央から三千。弓兵を先に五百、槍兵を二列。騎兵は左右へ出すが、追撃には使わん」
「可能ですかな」
「敵が五千までなら押し返せる」
ユリウスが顔を上げた。
「それ以上が出た場合は」
「下がる」
ディートリヒの返事は短い。
「その時、後ろの道が空いていればな」
レオポルトが、椅子の肘へ置いた指を二度動かした。
「ゼーレン伯。その点はどうなのだ」
「中央軍の帰路は確保します。予備は本営の命令を受け、必要な場所へ向かわせます。三方向へ兵を分けずとも、正面へ出た敵の規模と戦い方は確認できます」
「命令が届くまでに、中央が下がった場合は」
オーレリアンの問いに、オットマールは棒を持ち直した。
「その場合も、中央軍が隊列を保って帰陣します。東南軍が独自に中央へ入ることは避けていただきたい」
「こちらから入るつもりはありません。中央の兵が南の荷駄路へ溢れぬならば」
「そこはバルケ将軍に整理していただきます」
ディートリヒは何も言わなかった。
ヴァルグラムは、もう地図を見ていない。
「好きにしろ。北は動かさん」
「辺境伯」
「正面へ出すのは帝国軍なのだろう。なら、帝国軍で勝て」
幕舎の中が静かになった。
レオポルトは各人の顔を見回し、最後にオットマールへ向き直った。
「ここでの最初の一戦だ。まずは帝国軍が正面から秩序を示すべきであろう」
オットマールが頭を下げる。
「ゼーレン伯の案で進めよ」
ユリウスへは、少し声を和らげた。
「クラウゼン侯爵の懸念も分かる。予備として備えてもらいたい」
「承知しました」
ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。
*
軍議から戻ったユリウスは、自陣の前で馬を下りた。
歩兵三列が空き地に並んでいる。昨夜まで中央を開閉していた列の横へ、新しく二本の道筋が引かれていた。
「正面へ出る道はこちら。戻る者は西側を使わせます」
若い幕僚が、地面へ刺した杭を指した。
「南翼へ向かう横道は」
「荷車が二台並べる幅はありません。騎兵なら通せます」
「歩兵が負傷者を担いだ場合は」
「一列です」
「詰まるな」
「広げますか」
「広げられる場所だけでいい。水路へ落とすな」
ユリウスは、南へ続く低い道へ視線を向けた。
「伝令は三人。正面、南翼、本営へ別々に出す。戻る道も重ねない」
「総司令部の命令があるまで待機と決まりましたが」
「待機する」
赤い籠手を外し、近くの兵へ渡した。
「待機したまま、動けるようにしておく」
幕僚は一度口を閉じたが、まだ聞きたいことが残っていた。
「却下された案を、続けるのですか」
「全軍には必要ないそうだ」
ユリウスは、空き地の中央へ置かれた藁束を見た。
「ならば、我々だけで備える。負傷者役を二人に増やせ。騎兵が抜けた直後ではなく、歩兵が戻り始めたところへ入れる」
砂時計が返され、歩兵の列が開いた。
*
朝食を終えると、僕たちは荷車から槍と盾を下ろした。
六台すべてを動かす必要はない。トマとノエル、軽傷者、荷を守る者を残し、前へ出る人数を分ける。誰をどちらへ置くかはガレスとルッツが決めていた。
「二人は今日も槍なし。荷車の間から出すな」
ルッツが言うと、昨日不満そうにしていた男が今度は何も言わずに頷いた。
「兄上、食料札と人数札はこちらで持ちます。配置が変わるなら、水の受け取り先も確認しておきますので」
「お願い。トマ、荷車は」
「今の場所でいい。前へ寄せたら、帰ってくる連中とぶつかる」
「分かった」
ミケルが青い布を棒から外そうとしている。
「それは持っていって。荷車にも何か残せる?」
「短い方を結んでおきます」
正式な旗ではない。
それでも、前へ出る者と残る者が、同じ青い布を一度見た。
東南軍の北寄りへ近づくにつれ、帝国軍の陣が大きくなる。昨日は遠くに見えた真っ直ぐな区画が、今日はすぐ横にあった。縄の向こうで帝国兵が槍を並べ、こちら側では寄子兵が水桶を避けて列を作っている。
二つの軍の間には、道とも空地とも言いにくい隙間が続いていた。
その先で、馬上の男がこちらを見ている。
以前より日に焼けたように見えた。兜の下から覗く目は変わらず落ち着いていて、僕たちの先頭から最後尾までを一度で数えるように動く。
「生きていたか」
「オルステッド殿も」
「私は先に戻っておったからな」
馬から下りると、オルステッド殿は青い布へ目を向けた。
「ずいぶん増えた」
「少しだけです」
「少し、か」
後ろの列をもう一度見る。
「その少しが、六台の荷車を連れて歩くようになったらしい」
「まだ、借りてる人たちも多いです」
「戦場では、同じ場所へ戻れば同じ隊に見える」
僕は返事に迷った。
オルステッド殿は待たず、地面へ置かれた細い棒を拾う。
「配置についてだ。私の隊が北寄り、帝国軍との境へ出る。そちらは我が隊の南、半歩後ろだ」
棒が土へ線を引いた。
「中央軍の調査隊が前へ出る。灰衣が南へ流れた場合のみ受ける。追うな。こちらから外柵へ寄ることも禁じられている」
「荷車は今の陣です」
「それでよい。道は空けておけ。中央が戻る時、まっすぐ自分の陣へ戻るとは限らん」
ガレスが線の幅を見た。
「オルステッド殿の隊と、こちらの間隔は」
「槍二本。狭ければ詰まる。広ければ入られる。灰色が出てから直す暇はない」
「承知した」
「久しぶりだというのに、堅いな」
「戦場ですので」
「それもそうだ」
オルステッド殿は棒を投げ、馬へ手を掛けた。
「アズール殿」
「はい」
「増えた者の顔は、覚えておるか」
「全部は、まだ」
「なら、青い布から離すな。名を知らぬ者は、戻る場所まで失いやすい」
馬へ上がり、前の隊へ戻っていく。
僕が青い布を振り返ると、ミケルはちょうど結び目を締めていた。
*
帝国側の使者は、白い布を掲げて正面の野へ出た。
護衛は十名ほど。弓の届かない位置で止まり、角笛のあと、書記が巻物を開く。声は南側まで届かなかったが、同じ内容を伝える騎手が各陣を回っていた。
武器を捨てること。
城門と外柵を開くこと。
帝国官吏の殺害、倉の襲撃、反乱の扇動に関わった首謀者を引き渡すこと。
従うなら、非武装の者と女子供へ危害を加えないこと。
「首謀者って、誰だろうな」
ブルーノが槍を肩へ乗せた。
「向こうに決めさせるつもりではないだろう」
ガレスは正面を見たまま答える。
「じゃあ、帝国が決めるのか」
「捕らえた後にな」
「それ、開ける奴いるのか?」
僕は答えられなかった。
外柵の上では、灰衣の者たちが動いている。返事はすぐには来ない。使者は野に立ち、風に揺れる白い布を何度か持ち直した。
やがて門の上へ別の白布が出た。人影がひとり、柵の前へ歩み出る。こちらの使者と同じ距離まで来ることはなく、何かを読み上げた。
騎手が戻り、各陣へ伝えた返答は短かった。
条件は受け入れない。
非武装者の安全、帰還先、処罰の範囲が示されない限り、門は開かない。
「まあ、そうなるよね」
僕の声は、自分で思ったより小さかった。
*
旧官庁の会議室では、帝国から渡された書面が机の中央に置かれていた。
エーミール・ザイデルは、文面の余白へ書かれた印を見ている。ローデリヒ・ハーゲンは窓際から帝国軍の正面を見たまま、振り返らなかった。
「非武装者には危害を加えない」
マルタ・エーレンが書面を読んだ。
「誰が非武装と決めるのでしょう」
「帝国だろう」
ヴォルフ・クラマーは椅子へ座らず、机へ両手を置いている。
「槍を捨てれば、次は首謀者だ。誰かを差し出せば、そいつの隣を差し出せと言うだろうな」
「門を開ければ、配給は止まります」
ザイデルが別の帳面を重ねた。
「帝国が三十万人を養う準備をしているとは思えません。元の村へ戻せと言われても、倉も家畜もここへ集めています」
「だから、出る」
「今の話から、なぜそうなるのです」
「包囲される前に中央を割る。昨日より陣は整った。明日はもっと固くなる」
ハーゲンがようやく机へ戻った。
「帝国軍が出るようだぞ」
クラマーの顔が上がる。
「正面に三千ほど。弓と槍。左右に騎兵を置く動きだ」
「好都合だ。今度こそ出るぞ」
「見るだけだ」
「帝国軍がどう戻るかだ」
ハーゲンは地図の東門へ指を置いた。
「三千を出す。東門だけだ。前へ出すのは盾を持てる者。南へ回る隊は五百を超えさせるな」
「それだけで何が分かる」
「北が動くか。南が動くか。正面が下がる時、後ろがどう開くか」
「勝てるなら、そのまま押せばよい」
「鐘二つで戻す」
クラマーの口元が歪んだ。
「また戻すのか」
「戻せぬ兵は出さない」
マルタは書面を畳み、胸元の白い椀へ指を置いた。
「門の外では、帝国の条件の話が広がっています。武器を捨てれば助かるのだと」
「助かる保証はない」
「保証がないと伝えるのですか」
「事実を伝えろ」
「それだけでは、人は槍を持ちません」
「槍を持たせるために嘘をつくなよ」
二人の間へ、ザイデルが帳面を差し入れた。
「東門を使うなら、昼の水桶を北へ回します。出る者の列と配給列を重ねないでください」
クラマーが鼻を鳴らす。
「戦が始まる時まで帳面か」
「戦が始まるからです」
外から鐘の音が一つ、低く届いた。
ハーゲンは東門の小石を前へ動かす。
「出せ。深く追うな。鐘を聞け」
*
最初に動いたのは、帝国軍の旗だった。
正面中央から三本。少し遅れて弓兵の列が前へ出る。盾を持った歩兵がその前へ並び、足元の草を踏み倒しながら、外柵へ向かって進んでいった。
僕たちの位置からは横顔しか見えない。
それでも、列が真っ直ぐなのは分かった。先頭が止まると後ろも止まり、間が空けば次の列が半歩詰める。号令は大きいが、同じ言葉が何度も重ならない。
「やっぱり、ちゃんとしてるなぁ」
ニルスが槍を握り直した。
「ちゃんとしているから帝国軍なんでしょう」
エルヴィンは外柵を見ていた。
「出るぞ」
門の前で灰色が膨らんだ。
柵の内側にいた人影が、ひとつの出口へ集まる。門が開いたのか、脇の柵が外されたのか、遠くて見えない。ただ、灰色の塊が野へ押し出され、前へ伸びてきた。
角笛が鳴る。
帝国軍の弓兵が止まり、前列がしゃがむ。乱れずに止まれるのはさすが帝国軍だ。その様子を見ながら、灰衣側から先に矢が飛ぶ。しかし、届かないものが多く、手前に落ち草へ刺さる。帝国の弓兵はまだ弓を引かない。
距離が縮まる。
二度目の角笛で、矢が上がり、空の色が一瞬だけ変わる。
灰色の前列が崩れ、後ろがそれを避ける。けれど止まらない。盾を上げる者、倒れた者を越える者、横へ広がる者。中央へ向かう大きな流れから、南へ外れる一団が出た。
「来るぞ」
オルステッド殿の隊で槍が下がった。
「前列、止まれ! 後ろは詰めるな!」
声がこちらまで届く。
ガレスが僕を見る。
「こちらも合わせる」
「お願い。ブルーノは前へ。でも、追わないで」
「分かってるよ」
ブルーノはもう槍を持っていなかった。太い棍棒を肩から下ろし、前列の隙間へ入る。
「ミケル、布を上げて。ベルント、後ろが広がらないように見て」
返事が二つ、別の場所から来る。
灰衣の一団は、帝国軍中央の側面へ回るつもりだったのかもしれない。こちらを見て進路を変えた者もいる。揃った列ではない。盾も槍も長さが違い、斧や農具を持つ者まで混じっていた。
それでも、走ってくる人数は多い。
「槍を出せ!」
ガレスの声で、こちらの前列が動く。
最初の灰衣がオルステッド隊へぶつかり、木と鉄の音が重なる。
僕たちの前にも三人、五人、その後ろからさらに来た。槍の先が揺れ、誰かが早く突き出しすぎる。
「まだ! 前へ出さないで!」
ガレスが柄を押し戻し、横から来た灰衣の槍を盾で流した。
ブルーノが一歩出る。
棍棒が灰衣の盾へ当たり、板ごと身体が横へ飛んだ。二人目の槍を柄で巻き、足元へ叩き落とす。前が止まったところへ、こちらの槍が揃って出た。
「押せ! 倒れた奴を踏むな!」
オルステッド殿の声。
前へ出るというより、形を戻すための一歩だった。
灰衣側も下がらない。倒れた者の脇から別の者が入り、槍を突き、盾へ斧を振り下ろす。僕は前列から二列下がった位置で、青い布とオルステッド隊の旗を交互に見ていた。
隙間が開けばガレスが入る。
ブルーノが出すぎれば、エルヴィンが横から肩を押し戻す。ニルスは後ろへ下がった負傷者を受け、ルッツのいる方へ回した。
僕が命じる前に動く。
でも、全部ではない。
「右! 右から来る!」
誰かの声で見れば、帝国軍との境の空地へ灰衣が回り込んでいた。
「マルク、十人を右へ! ガレス、ここは」
「保つ。行かせろ」
「マルク、お願い!」
青い布の下から十人が離れ、境の道へ走る。
中央では、帝国軍の槍列が一度下がった。崩れたのではない。先頭の列が下がると、後ろの列が前へ出る。弓兵の前が開き、また矢が上がった。
左右へ回った帝国騎兵が速度を上げる。灰衣側の横へ入るのではなく、退く道を細くする位置へ馬首を向けた。
角笛が鳴る。
帝国軍の槍列が前へ出た。
さっきまで押していた灰色の塊が、少しずつ形を失っていく。前の者が後ろを見た。左右の騎兵を見て、槍を下げる。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
灰衣側の後ろから声が上がる。
二度目。
僕たちの前にいた者が、急に下がった。
「追うな!」
オルステッド殿とガレスの声が、ほとんど同時だった。
ブルーノが二歩進み、止まる。
「まだやれただろうが!」
「向こうがやめた」
ガレスは盾についた斧傷を確かめながら、前へ出た兵を戻していく。
「だから何だよ」
「追撃は禁止だ」
「分かってるっつってんだろ」
灰衣側は走って逃げているようには見えなかった。
振り返りながら下がる者がいる。倒れた者を二人で引く者もいた。帝国軍の矢が届く範囲を抜けると、ばらばらだった者たちが門の前でまた固まり、順に柵の内側へ消えていく。
エルヴィンが、血のついた槍先を草へ擦った。
「逃げたんじゃないな」
「うん」
「見終わったから戻った」
中央では帝国軍の旗が一歩前へ出ていた。
勝ち鬨が上がる。
こちらの兵も声を出しかけたが、オルステッド殿の隊が動かないので、途中で止まった。野には、戻れなかった灰衣の者たちと、折れた槍が残っている。
帝国軍の前衛は命令どおり、外柵へ寄らずに止まった。
*
ユリウスの新編隊は、中央から半ばまで進んだところで停止命令を受けた。
「中央軍、敵を押し返しました」
伝令の馬が止まりきる前に報告する。
「南側は」
「東南軍前衛と接触しましたが、既に退いています」
「北方軍は」
「動いておりません」
ユリウスは白馬の上から、外柵へ戻る灰衣の列を見た。
隣では書記が砂時計を止めている。
「中央正面まで、前回より遅れ四十」
「南翼へ回した歩兵は」
「まだ横道です」
「続けさせろ。到着まで測る」
伝令が少し戸惑った。
「戦闘は終わったと思いますが」
「だから測れるんだろう?」
騎兵の半数を戻し、歩兵だけが南へ続く道へ入る。狭い箇所で列が一度止まり、前の兵が杭を抜いて道を広げた。
若い幕僚が、外柵へ戻る灰衣を見ている。
「敗走にしては、遅いですね」
「敗走ではない」
ユリウスは門の上へ上がる灰色の旗を見た。
「合図に従って戻った。中央軍の矢の間隔も、騎兵の出る位置も見られた」
「こちらも、敵の力を見られました」
「そうだな」
否定はしない。
帝国軍中央では、勝ち鬨がまだ続いていた。
*
「三方向へ兵を分けずとも、必要なことは確認できました」
午後の軍議で、オットマールは測量札を机へ並べた。
「外柵手前まで前進可能。敵は数千を出しましたが、帝国軍の正面攻撃に耐えられず退却。中央軍の損害も軽微です」
ディートリヒは報告札を一枚裏返した。
「明日は前衛を厚くする。弓兵の矢を増やせ。騎兵は今日と同じく追わせない」
「外柵へ取りつけますかな」
「手前までは。壕を越えるなら工兵が要る」
「必要な部隊は、戦況に応じて――」
「今決めろ」
オットマールの言葉を、ディートリヒが短く切った。
「工兵を前へ出してから、護衛がないとは言えん」
「では、中央から護衛を付けましょう」
「人数は」
再び数字の話が始まる。
レオポルトはそれを聞き、最後に翌朝の本格前進を認めた。
ユリウスは、勝利報告へ異議を唱えなかった。
「中央予備は、明日も本営の命令を待て」
オットマールが確認する。
「承知しています」
「ただし、南側へ異変があった場合に備え、陣を中央軍南端へ寄せていただきます。東南軍が独自に中央へ入らぬよう、境を押さえてください」
ユリウスの目が地図の南へ動いた。
「境の道は、予備の進出路として使ってよいのですか」
「本営の命令があれば」
「分かりました」
ヴァルグラムは報告札を一枚も手に取らなかった。
「どう見ましたかな、辺境伯」
レオポルトに問われ、窓の外へ顔を向ける。
「帝国軍は悪くない」
オットマールの表情がわずかに緩む。
「灰色も悪くない」
それだけ言い、席を立った。
*
灰衣側の会議室では、土を落とした靴が床を汚していた。
戻った者から集めた報告を、ハーゲンが地図へ置いていく。
「中央は二列を入れ替えた。弓は二度。騎兵は左右へ出たが、追わなかった」
「北は」
「動かん」
「南は」
「受けただけだ。前へは出ていない」
クラマーは、帝国中央を示す石を指で押した。
「中央は押せる」
「今日はこちらが下がっただけだ」
「今日は三千だからだ。倍を出せば、弓を射る前へ入れる」
「倍も出せば、戻す門が詰まるぞ」
「また戻す話か」
「戻さぬつもりなら、全員出せばよい」
クラマーの指が止まる。
ザイデルは戦況札ではなく、別の紙を見ていた。
「東門の配給が半刻遅れました。負傷者が水桶の道へ入り、北外営で二つ倒れています。明日も同じ門を使うなら、粥場を移します」
「明日は今日より多く出る」
マルタの周囲には、戻ってきた者たちが集まり始めている。帝国の矢を受けた者、友人を門の外へ残した者。書面の条件は、もう人の口を通って別の言葉になっていた。
武器を捨てても殺される。首謀者として全員連れていかれる。女子供も領主へ返される。
誰が言い始めたのかは分からない。
「事実でないことまで広がっています」
ザイデルが言う。
「帝国の書面も、事実を保証してはいません」
マルタは窓の外を見た。
「外の者たちは、今日、帝国軍が仲間を射るところを見ました」
「だから何だ」
クラマーが問う。
「次は、止めても出る者が増えます」
ハーゲンは地図の中央と南の境へ、小さな石を置いた。
帝国中央軍。さらに南へ、地方軍の前衛。
「明日、帝国軍は前へ出る」
「なら、今夜――」
「今夜は出んぞ」
クラマーが言い終える前に切った。
*
僕たちは日が落ちる前に、もう一度陣を動かした。
中央軍が翌朝のために前へ詰め、その南側へ空きができる。東南軍も境を離さないよう、オルステッド隊を北へ寄せた。
僕たちは、その南側。
荷車六台は元の水路沿いに残し、前へ出す天幕と水桶だけを運ぶ。トマは車輪を動かさない代わりに、戻る道へ荷を置かせなかった。ノエルは新しい水場を探し、ミケルは青い布を結び直している。
「朝より帝国軍が近いね」
僕は、張られ始めた縄の向こうを見た。
昨日、遠くにあった小さな陣が、今は横道を挟んだ先にある。
歩兵が列を作り、中央を開ける。
騎兵が抜ける。
その後ろから、負傷者役を担いだ兵が入り、道の途中で別の列とぶつかりかけた。号令が飛び、やり直しになる。
「クラウゼン侯爵の隊です」
ノエルが、水桶の札を持ったまま言った。
「またやってる」
「今日は実際に戦がありましたから」
「勝ったのに?」
「勝ったからでは」
ノエルは自分で言ってから、少し眉を寄せた。
「……いえ、分かりません」
赤い甲冑の若い将は、白い馬を下りていた。
近くの副官へ何かを伝え、地面へ引かれた二本の道を歩いて確かめている。こちらを見ることはない。
オルステッド隊の陣では杭を打つ音がし、僕たちの後ろから水桶が届く。
帝国軍の陣では、今日の勝利を話す声があちこちから聞こえた。
灰衣は押せる。
数が多いだけだ。
明日は外柵まで行ける。
その声の向こうで、クラウゼン侯爵の隊は、開けた道を閉じ、閉じた道をまた開いていた。




