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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第63話 勝てる相手

 昨夜、鐘が鳴ったのは、あの一度きりだった。


 見張りが交代するたびに槍の石突が土を擦り、焚き火へ小枝が投げ込まれる。遠くの城壁には火が並んだまま、門が開く気配も、灰色の人影が野へ溢れてくる様子もない。


 途中、僕は二度ほど目を覚ました。


 一度目は、隣の隊で馬が鼻を鳴らした時。二度目は、ブルーノが寝返りを打って荷車の板を蹴った時だった。


「痛えな……誰だ、こんなとこへ車輪を置いたの」


「荷車の隣で寝たのはお前だ」


 起きたガレスが、火の向こうから返した。


「お? 朝か?」


「まだだ」


「……なら寝る」


 毛布が動き、すぐにいびきが戻る。


 灰衣の町から聞こえるのは、時折鳴る家畜の声と、何か大きな物を引きずるような低い音だけだった。


 結局、夜襲はなく、空が白み始める頃には、灰衣の外営から煙が上がっていた。


 昨夜の火が残っているだけかと思ったが、煙は少しずつ増えていく。城壁に近い方からではない。外柵の外へ張り出した小屋の間や、布を渡しただけの天幕の脇からも立ち上っていた。


 水桶を二つ下げた人影が歩く。


 その後ろを、小さな影がついていった。少し離れた場所では、荷車から誰かを下ろしている。武器を持った者が道を空け、灰色の長衣をまとった者たちが布ごと人を運んでいた。


 昨日は大きな灰色の塊にしか見えなかった。


 朝になれば、ひとつずつ動いている。


「あっちも飯か」


 ブルーノが欠伸を噛み殺しながら、荷車へ背を預けた。


「食べなければ動けん」


「十二万分だろ」


「三十万以上かもしれない」


 ノエルは帳面の端へ今日の日付らしき印を入れ、顔を上げた。


「武器を持っていない人も食べますので」


「分かってるよ」


 ブルーノはそう言ったが、煙の数をもう一度見ていた。


 僕たちの陣でも、鍋が火へ掛けられる。トマが水桶を運ぶ者を分け、ルッツは昨夜休ませた二人の手と脚を確かめていた。ガレスは北側の境へ歩き、戻る時には、隣の隊が杭を半歩ずらしたことまで見ていた。


 北方軍の陣だけは、朝になってもあまり形が変わらない。


 よく見ると、変わっていないのではなかった。


 夜に見張りが立っていた場所から荷が消え、騎兵の通り道が広がっている。外周の兵も同じ顔ではない。交代した者が、前の者と同じ距離に立っていた。


「夜襲がなかったから、少し休むと思ってた」


 僕が言うと、ガレスは北の陣から視線を外さなかった。


「来なかっただけだ。来ないと決まったわけではない」


「そうだね」


 鍋の蓋が鳴った。

 ノエルが振り返るより早く、人足の一人が火を弱める。


 その時、東南軍本隊の方から騎馬が一騎、陣の間を抜けてきた。槍持ちが道を空け、馬は青い布の手前で止まる。


「ヴェルナー子爵家預かり隊、代表は」


「僕です」


 騎手は僕の顔と、隣に立つガレスを見比べた。


「朝食後、北寄りへ配置を変える。荷車は現在地に残せ。戦える者をまとめ、命令を待て」


「北寄りというのは、どこまでですか」


「帝国中央軍との境だ。先遣指揮官オルステッド殿の指示を受けろ」


 聞き覚えのある名前に、僕は少し遅れて返事をした。


「オルステッド殿が?」


「既に前へ出ている。詳細は現地で聞け」


 騎手は次の隊へ向かい、馬を返した。


「生きてたんだな」


 ブルーノが鍋の方を向いたまま言う。


「先遣へ戻ったとは聞いていた」


 ガレスの返事はいつもと変わらない。

 それでも、槍の革紐を締め直す手が少しだけ速かった。



 帝国中央の大幕舎では、地図の四隅を鉄の重しが押さえていた。


 昨日までは街道と拠点を示していた小石が取り除かれ、代わりに城壁、外柵、壕、門、帝国軍各陣の位置が描き足されている。書記が測量札を受け取るたび、炭の線が増えた。


 レオポルト・アルンベルク公爵は長机の上座に座り、最後の書記が下がるのを待ってから片手を上げた。


「では、ゼーレン伯。始めよ」


 オットマール・ゼーレン伯爵が、地図の正面へ細い棒を置いた。


「まず、反乱勢力へ武装解除と城門開放を求めます。帝国官吏の殺害、直轄倉の襲撃、反乱扇動に関わった首謀者を引き渡すこと。これを受諾するならば、非武装の者、女子供には危害を加えないと告げます」


「応じると思うか」


 ヴァルグラム・ドラグヴァルト辺境伯は椅子へ深く座らず、机の端に片腕を置いていた。


「応じる可能性が低いからといって、勧告を省く理由にはなりません」


 オットマールは声を乱さず、棒を外柵の手前へ滑らせた。


「拒否された場合、中央軍から調査部隊を出します。外柵、壕、弓の射程を確認。敵が出撃した時は、その場で撃退し、深追いせず帰陣させます」


「人数は」


 ディートリヒ・バルケ将軍が地図を見たまま問う。


「二千を軸に。必要なら三千まで」


「弓兵は」


「戦況に応じて」


 ディートリヒの眉がわずかに動いた。


「前へ出してから決めるのか」


「バルケ将軍の判断で、最も適した数を」


 棒の先が、中央軍と灰衣側の間を往復する。


「北方軍と東南軍には所定位置を維持していただきます。中央予備は本営の命令があるまで待機。まずは帝国軍が正面を押さえ、反乱勢力へ秩序を示すべきでしょう」


 レオポルトはゆっくり頷いた。


 机の反対側で、ユリウス・クラウゼン侯爵が地図の南端を見ていた。


「ひとつ、よろしいでしょうか」


「申せ」


 ユリウスは立ち上がらなかった。指先で正面中央、北寄り、南寄りの三か所を順に示す。


「外柵へ近づく前に、敵が外へ出る時の動きを確認するべきです」


 オットマールの棒が止まる。


「中央だけではなく、三か所へ小部隊を出します。外柵へ取りつかず、一定の距離で下げる。どの門から、どれほどの人数が出るか。どこまで追い、何を合図に止まるかを見ます」


「三か所で戦闘を起こすおつもりですか」


「起こすとは限りません。追わなければ、門と外営を守ることを優先していると分かる。追えば、出撃の順と統制が見える」


 ユリウスの指が中央軍の後ろへ戻った。


「退却路と予備の進出路も、今のうちに分けておくべきです。正面路へ双方を入れれば、敵より先に味方が道を塞ぎます」


 ヴァルグラムが地図へ目を落とした。


「悪くない」


 それだけだった。


 オーレリアン・ルミナ沿海伯は、南側に描かれた水路を指でなぞった。


「よいのではありませんか。南へ流れるかだけでも先に分かれば、荷駄路を空けられます。退く兵と、前へ出る兵を同じ道へ入れる必要もありますまい」


 オットマールは二人を順に見た。


「敵情が分からぬからこそ、部隊を分散させるべきではありません」


「分からぬから見るのだろう」


 ヴァルグラムの声は低い。


「三方向で各隊が勝手な判断を始めれば、討伐軍の指揮はどうなります」


「条件を決めます」


 ユリウスが答えた。


「敵が一定数を超えた時、各隊は追わせず退く。中央予備には、退却路が塞がれる前に救援へ出る裁量を――」


「認められません」


 言葉が重なった。


 幕舎の端で、書記の筆だけが動いている。

 オットマールは棒を机へ置く。


「討伐軍は一つです。各軍が敵の数を測り、それぞれの判断で退き、予備が独自に動くようでは、中央の命令が届く前に戦況が決まってしまう」


「戦況は、命令を待ってはくれません」


「だからこそ、最初の戦闘は中央へ集めるのです」


 ユリウスは地図の正面路を見た。


「武器を持つ者が十二万いる可能性があります。城を守る兵としてだけ考えるのは危険です。想定を超えて出た場合――」


「まだ一戦もしておらぬうちから、敗走兵を通す道を論じる必要がありましょうか」


「必要になってから空けることはできません」


 オットマールは一度、息を置いた。


「兵に退路を意識させること自体が、退却を招きます。帝国軍が敵前で意図的に下がる姿を見せれば、反乱勢力は勢いづき、我が兵は自らの強さを疑うでしょう」


 完全に筋のない話ではなかった。

 ユリウスは返事をせず、地図へ視線を戻す。


 ディートリヒが、正面へ置かれた小石を二つ指で動かした。


「中央から三千。弓兵を先に五百、槍兵を二列。騎兵は左右へ出すが、追撃には使わん」


「可能ですかな」


「敵が五千までなら押し返せる」


 ユリウスが顔を上げた。


「それ以上が出た場合は」


「下がる」


 ディートリヒの返事は短い。


「その時、後ろの道が空いていればな」


 レオポルトが、椅子の肘へ置いた指を二度動かした。


「ゼーレン伯。その点はどうなのだ」


「中央軍の帰路は確保します。予備は本営の命令を受け、必要な場所へ向かわせます。三方向へ兵を分けずとも、正面へ出た敵の規模と戦い方は確認できます」


「命令が届くまでに、中央が下がった場合は」


 オーレリアンの問いに、オットマールは棒を持ち直した。


「その場合も、中央軍が隊列を保って帰陣します。東南軍が独自に中央へ入ることは避けていただきたい」


「こちらから入るつもりはありません。中央の兵が南の荷駄路へ溢れぬならば」


「そこはバルケ将軍に整理していただきます」


 ディートリヒは何も言わなかった。


 ヴァルグラムは、もう地図を見ていない。


「好きにしろ。北は動かさん」


「辺境伯」


「正面へ出すのは帝国軍なのだろう。なら、帝国軍で勝て」


 幕舎の中が静かになった。

 レオポルトは各人の顔を見回し、最後にオットマールへ向き直った。


「ここでの最初の一戦だ。まずは帝国軍が正面から秩序を示すべきであろう」


 オットマールが頭を下げる。


「ゼーレン伯の案で進めよ」


 ユリウスへは、少し声を和らげた。


「クラウゼン侯爵の懸念も分かる。予備として備えてもらいたい」


「承知しました」


 ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。



 軍議から戻ったユリウスは、自陣の前で馬を下りた。


 歩兵三列が空き地に並んでいる。昨夜まで中央を開閉していた列の横へ、新しく二本の道筋が引かれていた。


「正面へ出る道はこちら。戻る者は西側を使わせます」


 若い幕僚が、地面へ刺した杭を指した。


「南翼へ向かう横道は」


「荷車が二台並べる幅はありません。騎兵なら通せます」


「歩兵が負傷者を担いだ場合は」


「一列です」


「詰まるな」


「広げますか」


「広げられる場所だけでいい。水路へ落とすな」


 ユリウスは、南へ続く低い道へ視線を向けた。


「伝令は三人。正面、南翼、本営へ別々に出す。戻る道も重ねない」


「総司令部の命令があるまで待機と決まりましたが」


「待機する」


 赤い籠手を外し、近くの兵へ渡した。


「待機したまま、動けるようにしておく」


 幕僚は一度口を閉じたが、まだ聞きたいことが残っていた。


「却下された案を、続けるのですか」


「全軍には必要ないそうだ」


 ユリウスは、空き地の中央へ置かれた藁束を見た。


「ならば、我々だけで備える。負傷者役を二人に増やせ。騎兵が抜けた直後ではなく、歩兵が戻り始めたところへ入れる」


 砂時計が返され、歩兵の列が開いた。



 朝食を終えると、僕たちは荷車から槍と盾を下ろした。


 六台すべてを動かす必要はない。トマとノエル、軽傷者、荷を守る者を残し、前へ出る人数を分ける。誰をどちらへ置くかはガレスとルッツが決めていた。


「二人は今日も槍なし。荷車の間から出すな」


 ルッツが言うと、昨日不満そうにしていた男が今度は何も言わずに頷いた。


「兄上、食料札と人数札はこちらで持ちます。配置が変わるなら、水の受け取り先も確認しておきますので」


「お願い。トマ、荷車は」


「今の場所でいい。前へ寄せたら、帰ってくる連中とぶつかる」


「分かった」


 ミケルが青い布を棒から外そうとしている。


「それは持っていって。荷車にも何か残せる?」


「短い方を結んでおきます」


 正式な旗ではない。


 それでも、前へ出る者と残る者が、同じ青い布を一度見た。


 東南軍の北寄りへ近づくにつれ、帝国軍の陣が大きくなる。昨日は遠くに見えた真っ直ぐな区画が、今日はすぐ横にあった。縄の向こうで帝国兵が槍を並べ、こちら側では寄子兵が水桶を避けて列を作っている。


 二つの軍の間には、道とも空地とも言いにくい隙間が続いていた。


 その先で、馬上の男がこちらを見ている。


 以前より日に焼けたように見えた。兜の下から覗く目は変わらず落ち着いていて、僕たちの先頭から最後尾までを一度で数えるように動く。


「生きていたか」


「オルステッド殿も」


「私は先に戻っておったからな」


 馬から下りると、オルステッド殿は青い布へ目を向けた。


「ずいぶん増えた」


「少しだけです」


「少し、か」


 後ろの列をもう一度見る。


「その少しが、六台の荷車を連れて歩くようになったらしい」


「まだ、借りてる人たちも多いです」


「戦場では、同じ場所へ戻れば同じ隊に見える」


 僕は返事に迷った。

 オルステッド殿は待たず、地面へ置かれた細い棒を拾う。


「配置についてだ。私の隊が北寄り、帝国軍との境へ出る。そちらは我が隊の南、半歩後ろだ」


 棒が土へ線を引いた。


「中央軍の調査隊が前へ出る。灰衣が南へ流れた場合のみ受ける。追うな。こちらから外柵へ寄ることも禁じられている」


「荷車は今の陣です」


「それでよい。道は空けておけ。中央が戻る時、まっすぐ自分の陣へ戻るとは限らん」


 ガレスが線の幅を見た。


「オルステッド殿の隊と、こちらの間隔は」


「槍二本。狭ければ詰まる。広ければ入られる。灰色が出てから直す暇はない」


「承知した」


「久しぶりだというのに、堅いな」


「戦場ですので」


「それもそうだ」


 オルステッド殿は棒を投げ、馬へ手を掛けた。


「アズール殿」


「はい」


「増えた者の顔は、覚えておるか」


「全部は、まだ」


「なら、青い布から離すな。名を知らぬ者は、戻る場所まで失いやすい」


 馬へ上がり、前の隊へ戻っていく。

 僕が青い布を振り返ると、ミケルはちょうど結び目を締めていた。



 帝国側の使者は、白い布を掲げて正面の野へ出た。


 護衛は十名ほど。弓の届かない位置で止まり、角笛のあと、書記が巻物を開く。声は南側まで届かなかったが、同じ内容を伝える騎手が各陣を回っていた。


 武器を捨てること。


 城門と外柵を開くこと。


 帝国官吏の殺害、倉の襲撃、反乱の扇動に関わった首謀者を引き渡すこと。


 従うなら、非武装の者と女子供へ危害を加えないこと。


「首謀者って、誰だろうな」


 ブルーノが槍を肩へ乗せた。


「向こうに決めさせるつもりではないだろう」


 ガレスは正面を見たまま答える。


「じゃあ、帝国が決めるのか」


「捕らえた後にな」


「それ、開ける奴いるのか?」


 僕は答えられなかった。


 外柵の上では、灰衣の者たちが動いている。返事はすぐには来ない。使者は野に立ち、風に揺れる白い布を何度か持ち直した。


 やがて門の上へ別の白布が出た。人影がひとり、柵の前へ歩み出る。こちらの使者と同じ距離まで来ることはなく、何かを読み上げた。


 騎手が戻り、各陣へ伝えた返答は短かった。


 条件は受け入れない。

 非武装者の安全、帰還先、処罰の範囲が示されない限り、門は開かない。


「まあ、そうなるよね」


 僕の声は、自分で思ったより小さかった。



 旧官庁の会議室では、帝国から渡された書面が机の中央に置かれていた。


 エーミール・ザイデルは、文面の余白へ書かれた印を見ている。ローデリヒ・ハーゲンは窓際から帝国軍の正面を見たまま、振り返らなかった。


「非武装者には危害を加えない」


 マルタ・エーレンが書面を読んだ。


「誰が非武装と決めるのでしょう」


「帝国だろう」


 ヴォルフ・クラマーは椅子へ座らず、机へ両手を置いている。


「槍を捨てれば、次は首謀者だ。誰かを差し出せば、そいつの隣を差し出せと言うだろうな」


「門を開ければ、配給は止まります」


 ザイデルが別の帳面を重ねた。


「帝国が三十万人を養う準備をしているとは思えません。元の村へ戻せと言われても、倉も家畜もここへ集めています」


「だから、出る」


「今の話から、なぜそうなるのです」


「包囲される前に中央を割る。昨日より陣は整った。明日はもっと固くなる」


 ハーゲンがようやく机へ戻った。


「帝国軍が出るようだぞ」


 クラマーの顔が上がる。


「正面に三千ほど。弓と槍。左右に騎兵を置く動きだ」


「好都合だ。今度こそ出るぞ」


「見るだけだ」


「帝国軍がどう戻るかだ」


 ハーゲンは地図の東門へ指を置いた。


「三千を出す。東門だけだ。前へ出すのは盾を持てる者。南へ回る隊は五百を超えさせるな」


「それだけで何が分かる」


「北が動くか。南が動くか。正面が下がる時、後ろがどう開くか」


「勝てるなら、そのまま押せばよい」


「鐘二つで戻す」


 クラマーの口元が歪んだ。


「また戻すのか」


「戻せぬ兵は出さない」


 マルタは書面を畳み、胸元の白い椀へ指を置いた。


「門の外では、帝国の条件の話が広がっています。武器を捨てれば助かるのだと」


「助かる保証はない」


「保証がないと伝えるのですか」


「事実を伝えろ」


「それだけでは、人は槍を持ちません」


「槍を持たせるために嘘をつくなよ」


 二人の間へ、ザイデルが帳面を差し入れた。


「東門を使うなら、昼の水桶を北へ回します。出る者の列と配給列を重ねないでください」


 クラマーが鼻を鳴らす。


「戦が始まる時まで帳面か」


「戦が始まるからです」


 外から鐘の音が一つ、低く届いた。


 ハーゲンは東門の小石を前へ動かす。


「出せ。深く追うな。鐘を聞け」



 最初に動いたのは、帝国軍の旗だった。


 正面中央から三本。少し遅れて弓兵の列が前へ出る。盾を持った歩兵がその前へ並び、足元の草を踏み倒しながら、外柵へ向かって進んでいった。


 僕たちの位置からは横顔しか見えない。


 それでも、列が真っ直ぐなのは分かった。先頭が止まると後ろも止まり、間が空けば次の列が半歩詰める。号令は大きいが、同じ言葉が何度も重ならない。


「やっぱり、ちゃんとしてるなぁ」


 ニルスが槍を握り直した。


「ちゃんとしているから帝国軍なんでしょう」


 エルヴィンは外柵を見ていた。


「出るぞ」


 門の前で灰色が膨らんだ。


 柵の内側にいた人影が、ひとつの出口へ集まる。門が開いたのか、脇の柵が外されたのか、遠くて見えない。ただ、灰色の塊が野へ押し出され、前へ伸びてきた。


 角笛が鳴る。


 帝国軍の弓兵が止まり、前列がしゃがむ。乱れずに止まれるのはさすが帝国軍だ。その様子を見ながら、灰衣側から先に矢が飛ぶ。しかし、届かないものが多く、手前に落ち草へ刺さる。帝国の弓兵はまだ弓を引かない。


 距離が縮まる。

 二度目の角笛で、矢が上がり、空の色が一瞬だけ変わる。


 灰色の前列が崩れ、後ろがそれを避ける。けれど止まらない。盾を上げる者、倒れた者を越える者、横へ広がる者。中央へ向かう大きな流れから、南へ外れる一団が出た。


「来るぞ」


 オルステッド殿の隊で槍が下がった。


「前列、止まれ! 後ろは詰めるな!」


 声がこちらまで届く。


 ガレスが僕を見る。


「こちらも合わせる」


「お願い。ブルーノは前へ。でも、追わないで」


「分かってるよ」


 ブルーノはもう槍を持っていなかった。太い棍棒を肩から下ろし、前列の隙間へ入る。


「ミケル、布を上げて。ベルント、後ろが広がらないように見て」


 返事が二つ、別の場所から来る。


 灰衣の一団は、帝国軍中央の側面へ回るつもりだったのかもしれない。こちらを見て進路を変えた者もいる。揃った列ではない。盾も槍も長さが違い、斧や農具を持つ者まで混じっていた。


 それでも、走ってくる人数は多い。


「槍を出せ!」


 ガレスの声で、こちらの前列が動く。


 最初の灰衣がオルステッド隊へぶつかり、木と鉄の音が重なる。


 僕たちの前にも三人、五人、その後ろからさらに来た。槍の先が揺れ、誰かが早く突き出しすぎる。


「まだ! 前へ出さないで!」


 ガレスが柄を押し戻し、横から来た灰衣の槍を盾で流した。


 ブルーノが一歩出る。


 棍棒が灰衣の盾へ当たり、板ごと身体が横へ飛んだ。二人目の槍を柄で巻き、足元へ叩き落とす。前が止まったところへ、こちらの槍が揃って出た。


「押せ! 倒れた奴を踏むな!」


 オルステッド殿の声。

 前へ出るというより、形を戻すための一歩だった。


 灰衣側も下がらない。倒れた者の脇から別の者が入り、槍を突き、盾へ斧を振り下ろす。僕は前列から二列下がった位置で、青い布とオルステッド隊の旗を交互に見ていた。


 隙間が開けばガレスが入る。


 ブルーノが出すぎれば、エルヴィンが横から肩を押し戻す。ニルスは後ろへ下がった負傷者を受け、ルッツのいる方へ回した。


 僕が命じる前に動く。


 でも、全部ではない。


「右! 右から来る!」


 誰かの声で見れば、帝国軍との境の空地へ灰衣が回り込んでいた。


「マルク、十人を右へ! ガレス、ここは」


「保つ。行かせろ」


「マルク、お願い!」


 青い布の下から十人が離れ、境の道へ走る。


 中央では、帝国軍の槍列が一度下がった。崩れたのではない。先頭の列が下がると、後ろの列が前へ出る。弓兵の前が開き、また矢が上がった。


 左右へ回った帝国騎兵が速度を上げる。灰衣側の横へ入るのではなく、退く道を細くする位置へ馬首を向けた。


 角笛が鳴る。

 帝国軍の槍列が前へ出た。


 さっきまで押していた灰色の塊が、少しずつ形を失っていく。前の者が後ろを見た。左右の騎兵を見て、槍を下げる。


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 灰衣側の後ろから声が上がる。


 二度目。


 僕たちの前にいた者が、急に下がった。


「追うな!」


 オルステッド殿とガレスの声が、ほとんど同時だった。


 ブルーノが二歩進み、止まる。


「まだやれただろうが!」


「向こうがやめた」


 ガレスは盾についた斧傷を確かめながら、前へ出た兵を戻していく。


「だから何だよ」


「追撃は禁止だ」


「分かってるっつってんだろ」


 灰衣側は走って逃げているようには見えなかった。


 振り返りながら下がる者がいる。倒れた者を二人で引く者もいた。帝国軍の矢が届く範囲を抜けると、ばらばらだった者たちが門の前でまた固まり、順に柵の内側へ消えていく。


 エルヴィンが、血のついた槍先を草へ擦った。


「逃げたんじゃないな」


「うん」


「見終わったから戻った」


 中央では帝国軍の旗が一歩前へ出ていた。


 勝ち鬨が上がる。


 こちらの兵も声を出しかけたが、オルステッド殿の隊が動かないので、途中で止まった。野には、戻れなかった灰衣の者たちと、折れた槍が残っている。

 帝国軍の前衛は命令どおり、外柵へ寄らずに止まった。



 ユリウスの新編隊は、中央から半ばまで進んだところで停止命令を受けた。


「中央軍、敵を押し返しました」


 伝令の馬が止まりきる前に報告する。


「南側は」


「東南軍前衛と接触しましたが、既に退いています」


「北方軍は」


「動いておりません」


 ユリウスは白馬の上から、外柵へ戻る灰衣の列を見た。


 隣では書記が砂時計を止めている。


「中央正面まで、前回より遅れ四十」


「南翼へ回した歩兵は」


「まだ横道です」


「続けさせろ。到着まで測る」


 伝令が少し戸惑った。


「戦闘は終わったと思いますが」


「だから測れるんだろう?」


 騎兵の半数を戻し、歩兵だけが南へ続く道へ入る。狭い箇所で列が一度止まり、前の兵が杭を抜いて道を広げた。


 若い幕僚が、外柵へ戻る灰衣を見ている。


「敗走にしては、遅いですね」


「敗走ではない」


 ユリウスは門の上へ上がる灰色の旗を見た。


「合図に従って戻った。中央軍の矢の間隔も、騎兵の出る位置も見られた」


「こちらも、敵の力を見られました」


「そうだな」


 否定はしない。

 帝国軍中央では、勝ち鬨がまだ続いていた。



「三方向へ兵を分けずとも、必要なことは確認できました」


 午後の軍議で、オットマールは測量札を机へ並べた。


「外柵手前まで前進可能。敵は数千を出しましたが、帝国軍の正面攻撃に耐えられず退却。中央軍の損害も軽微です」


 ディートリヒは報告札を一枚裏返した。


「明日は前衛を厚くする。弓兵の矢を増やせ。騎兵は今日と同じく追わせない」


「外柵へ取りつけますかな」


「手前までは。壕を越えるなら工兵が要る」


「必要な部隊は、戦況に応じて――」


「今決めろ」


 オットマールの言葉を、ディートリヒが短く切った。


「工兵を前へ出してから、護衛がないとは言えん」


「では、中央から護衛を付けましょう」


「人数は」


 再び数字の話が始まる。

 レオポルトはそれを聞き、最後に翌朝の本格前進を認めた。


 ユリウスは、勝利報告へ異議を唱えなかった。


「中央予備は、明日も本営の命令を待て」


 オットマールが確認する。


「承知しています」


「ただし、南側へ異変があった場合に備え、陣を中央軍南端へ寄せていただきます。東南軍が独自に中央へ入らぬよう、境を押さえてください」


 ユリウスの目が地図の南へ動いた。


「境の道は、予備の進出路として使ってよいのですか」


「本営の命令があれば」


「分かりました」


 ヴァルグラムは報告札を一枚も手に取らなかった。


「どう見ましたかな、辺境伯」


 レオポルトに問われ、窓の外へ顔を向ける。


「帝国軍は悪くない」


 オットマールの表情がわずかに緩む。


「灰色も悪くない」


 それだけ言い、席を立った。



 灰衣側の会議室では、土を落とした靴が床を汚していた。


 戻った者から集めた報告を、ハーゲンが地図へ置いていく。


「中央は二列を入れ替えた。弓は二度。騎兵は左右へ出たが、追わなかった」


「北は」


「動かん」


「南は」


「受けただけだ。前へは出ていない」


 クラマーは、帝国中央を示す石を指で押した。


「中央は押せる」


「今日はこちらが下がっただけだ」


「今日は三千だからだ。倍を出せば、弓を射る前へ入れる」


「倍も出せば、戻す門が詰まるぞ」


「また戻す話か」


「戻さぬつもりなら、全員出せばよい」


 クラマーの指が止まる。


 ザイデルは戦況札ではなく、別の紙を見ていた。


「東門の配給が半刻遅れました。負傷者が水桶の道へ入り、北外営で二つ倒れています。明日も同じ門を使うなら、粥場を移します」


「明日は今日より多く出る」


 マルタの周囲には、戻ってきた者たちが集まり始めている。帝国の矢を受けた者、友人を門の外へ残した者。書面の条件は、もう人の口を通って別の言葉になっていた。


 武器を捨てても殺される。首謀者として全員連れていかれる。女子供も領主へ返される。

 誰が言い始めたのかは分からない。


「事実でないことまで広がっています」


 ザイデルが言う。


「帝国の書面も、事実を保証してはいません」


 マルタは窓の外を見た。


「外の者たちは、今日、帝国軍が仲間を射るところを見ました」


「だから何だ」


 クラマーが問う。


「次は、止めても出る者が増えます」


 ハーゲンは地図の中央と南の境へ、小さな石を置いた。

 帝国中央軍。さらに南へ、地方軍の前衛。


「明日、帝国軍は前へ出る」


「なら、今夜――」


「今夜は出んぞ」


 クラマーが言い終える前に切った。



 僕たちは日が落ちる前に、もう一度陣を動かした。


 中央軍が翌朝のために前へ詰め、その南側へ空きができる。東南軍も境を離さないよう、オルステッド隊を北へ寄せた。


 僕たちは、その南側。


 荷車六台は元の水路沿いに残し、前へ出す天幕と水桶だけを運ぶ。トマは車輪を動かさない代わりに、戻る道へ荷を置かせなかった。ノエルは新しい水場を探し、ミケルは青い布を結び直している。


「朝より帝国軍が近いね」


 僕は、張られ始めた縄の向こうを見た。


 昨日、遠くにあった小さな陣が、今は横道を挟んだ先にある。


 歩兵が列を作り、中央を開ける。

 騎兵が抜ける。


 その後ろから、負傷者役を担いだ兵が入り、道の途中で別の列とぶつかりかけた。号令が飛び、やり直しになる。


「クラウゼン侯爵の隊です」


 ノエルが、水桶の札を持ったまま言った。


「またやってる」


「今日は実際に戦がありましたから」


「勝ったのに?」


「勝ったからでは」


 ノエルは自分で言ってから、少し眉を寄せた。


「……いえ、分かりません」


 赤い甲冑の若い将は、白い馬を下りていた。

 近くの副官へ何かを伝え、地面へ引かれた二本の道を歩いて確かめている。こちらを見ることはない。


 オルステッド隊の陣では杭を打つ音がし、僕たちの後ろから水桶が届く。

 帝国軍の陣では、今日の勝利を話す声があちこちから聞こえた。


 灰衣は押せる。


 数が多いだけだ。


 明日は外柵まで行ける。


 その声の向こうで、クラウゼン侯爵の隊は、開けた道を閉じ、閉じた道をまた開いていた。

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