第62話 灰色の都
夜明け前、火の消えた野営地を荷車の軋みが横切っていた。
北方軍が残していった灰の上に、誰かの靴が入り、白く乾いた跡を崩す。天幕の縄が解かれ、濡れた布が丸められ、人足たちはまだ暗い道の西側から荷車を一台ずつ引き出していた。
「三台目、車輪を真っ直ぐにしろ。まだ中央へ出すなよ」
トマの声が、馬の鼻息と車軸の音に混じる。
僕は二台目の荷車の脇に立ち、道へ出ていく人の流れを見ていた。昨日までは、誰かが動くたびに別の誰かが立ち止まり、後ろから声が重なっていた。それが今朝は、前の荷車が出るまで次が待っている。
待ってはいるが、眠そうではあった。
「朝ってのは、もう少し明るくなってから来るもんじゃねえのか」
荷車の後ろに肩を当てたブルーノが、空を睨んだ。
「もう朝だ。お前が起きるのを待たなかっただけだ」
ガレスは列の先から戻ると、ブルーノの横を通り過ぎ、そのまま槍持ち二人の間隔を手で直した。
「うるせえな。押してんだろうが」
「口も動いているからな」
「両方動かせるんだよ」
「なら、もう少ししっかりと押せ」
ブルーノの肩が荷車の板へ食い込み、車輪が泥の窪みを越えた。
その内側では、ルッツが軽傷者を一人ずつ立たせている。包帯を巻いた手を上げさせ、額の布を外し、脚を曲げさせる。八人目が歩いて戻ったところで、ルッツは指についた薬草の滓を腰布へ拭った。
「全員歩けるな。昨日、前へ出さなかった二人は今日も荷車の内側だ。槍は持たせるな」
「荷車に乗せなくていい?」
「歩かせた方が列が固まらんので。痛みが酷そうなら乗せるようにします」
僕が二人を見ると、片方は腫れの残る手を胸元へ寄せ、もう片方は不満そうに口を結んでいた。
「分かった。ルッツの言うとおりにして。今日は無理に戻らなくていいから」
「動けますよ」
「うん。だから歩いてもらう。戦う方じゃなくて」
返事はなかった。けれど二人とも列の内側へ入っていく。
ノエルは荷車の縁へ帳面を置き、修正された配給札をその上へ重ねていた。薄暗い中でも、指先だけは迷わない。
「人足十名、予備兵二十名、一般兵六十七名。九十七名です。軽傷八名のうち二名は、引き続き前列から外します」
「食料は?」
「次の分岐で受け取り予定です。札も直してあります。今度は、直してある場所で受け取れます」
「今度は、って言わなくても」
「前は違いましたので」
ノエルは帳面を閉じた。
「兄上。出ますよ」
青い布がまだ暗い空の下へ上がった。ミケルが棒の結び目を確かめ、荷車の横へ立てる。正式な旗ではない。けれど、それが動けば、後ろの者たちも動くようになっていた。
東南軍の角笛が、低く一度鳴る。
九十七名と六台の荷車は、北方軍の残した灰を踏み、街道へ出た。
次の分岐では、配給を待つ列が三つに分かれていた。
帳面箱を抱えた書記が札を受け取り、端へ書き足された文字をしばらく見ている。ノエルが九十七名の内訳を答え、書記が別の紙へ写す。その間にも、後ろから麦袋が運ばれ、干し肉の束が荷車へ放り込まれた。
「現地徴用者を含む、でよいな」
「はい。別帳は前の場所で照合中です」
「照合中……ああ、これか」
書記は札の裏を見て、少し顔をしかめた。だが、それ以上は止めなかった。
「次へ回れ。ここで広げるな」
トマたちが荷を積み直す。受け取ったものを数えるノエルの横で、僕は人の列が途切れないのを見ていた。話が済んだ者から前へ出て、次の隊が空いた場所へ入る。
朝日が道の端へ差す頃には、もう分岐を離れていた。
その日の昼、僕たちは浅い渡河点へ着いた。
川岸には折れた柵が積まれ、泥の上へ黒い轍が何本も残っている。対岸では帝国直属軍の兵が縄を張り、武器を持たない灰衣の者たちを道の北側へ寄せていた。北方軍の旗はない。
「また、もういねえのか」
ブルーノが川向こうを見回した。
「朝には渡ったらしい」
ロイターは左腕を身体へ寄せたまま、帝国兵から受け取った札へ目を落とした。
「渡河点を取ったあと、橋板を二枚替えさせて、負傷者を残して進んだ。次は東の小砦だそうだ」
「寝ないのか、あいつら」
「寝てはいるだろう」
「……ほんとうかよ」
ガレスは轍の幅を見ていた。川から上がったところで、騎兵の跡と荷車の跡が別れている。
「止まる場所を先に決めている。ここは違うようだな」
「俺たちだって、今は決めてるだろ」
「今はな」
トマが先頭の荷車を浅瀬へ入れた。水が車軸の下で跳ね、兵たちが両側から縄を引く。
その日の夕方、東の小砦へ着いた時も、黒と鉄色の旗はなかった。
門の前には折れた槍がまとめられ、壁際へ簡素な墓標が七本並んでいた。北方兵の負傷者を乗せた荷車が二台、後方へ向かってくる。横たわる者の顔に布はかかっていない。起き上がれる者は荷台の縁へ座り、通り過ぎる東南軍を黙って見ていた。
勝ってはいる。
僕は墓標の前で一度足を緩めたが、後ろから来る荷車の音に押され、そのまま歩いた。
*
次の日、橋が焼かれていた。
中央部だけが黒く落ち、両岸に残った板が水面へ垂れている。帝国軍の工兵らしい一隊が向こう岸で待っていたが、こちら側の橋詰めでは、どの隊が先に材木を出すかで話が止まっていた。
「命令書では、橋材は後続の第三輸送隊が――」
「その第三輸送隊が、後ろで詰まっているんでしょう」
「だから確認を取っている」
杭を抱えた兵たちが、川辺に立ったまま動かない。
少し下流で、水深を測っていたルミナ側の寄子兵が声を上げた。
「こっちなら荷車を空にすれば渡せるぞ!」
別の隊から縄が運ばれた。三台の荷車から荷が降ろされ、兵と人足が肩へ担ぐ。誰が最初に言い出したのか、僕には分からなかった。気づいた時には、浅瀬へ杭が打たれ、荷車の車輪が沈まないよう枝が敷かれている。
「うちも回す?」
トマに視線を向けると腕を組んだ彼が渋い顔をしながら荷車を見つめている。
「板橋を待つよりは早い。ただし一台ずつだな。六台まとめて寄せるなよ」
「ガレス」
「前後を空ける。マルクに十人つける」
「ノエル」
「荷を分けます。濡らせないものから先に」
僕が返事をする前に、もう三人が別の方向へ動き始めていた。
ブルーノが残された麦袋を一つ担ぎ上げる。
「俺は?」
「それ、向こうへ」
「見りゃ分かる」
二往復目には、ほかの隊の兵までブルーノへ袋を渡していた。
焼けた橋の上では、帝国兵がまだ書記を待っている。下流では荷車が一台、また一台と浅瀬を越えた。
*
進発から五日目の朝、斥候が空の村から戻った。
家の戸は開き、鶏も犬もいなかった。小さな倉は掃かれ、床へ麦粒ひとつ残っていない。井戸には蓋が落とされ、街道へ出る道の目印も削られていたという。
エルヴィンは持ち帰った木片をガレスへ渡した。
「橋の梁だ。斧を入れた場所が同じだった」
切り口が二つ、ほとんど同じ高さに並んでいる。
「村ごと逃げたのか?」
「逃げただけなら、倉をここまで空にはしない」
ニルスが水袋を受け取りながら、後ろの丘を振り返った。
「灰色の奴ら、いましたよ。三人。こっちを見て、火を上げてから消えました」
「追ったか」
「追ってません。距離もありましたし、エルヴィンが戻れって」
「戻って正解だ」
ガレスは木片を地面へ置き、斧跡を指でなぞった。
「集めている」
「人を?」
僕の問いに、エルヴィンが頷く。
「人も、食料も。橋を壊す順も決めている。近くの連中が勝手に逃げてる動きじゃない」
遠くの丘から、煙が一本上がった。少し遅れて、その先の丘でも。
灰色の空ではない。よく晴れた朝だった。だからこそ、細い煙がどこまでも見えた。
その日の午後から、沿道の小拠点は戦わずに捨てられていた。
柵だけが残り、灰衣の布も、武器も、人もない。煮炊きの跡は土で埋められ、使えそうな縄まで持ち去られている。
北方軍は追わなかった。
代わりに、道の脇へ短い札を立てていた。
――前方、敵影なし。井戸一、使用不可。東の道、荷車通行可。
それだけ。
東南軍は札を読み、井戸を確かめ、壊された道を直しながら進んだ。追いつくことはなかったが、置いていかれもしなかった。
*
進発から十日目、街道が緩い坂へ入った。
先頭の方から、声が消えた。止まれという号令はない。けれど前の者が歩みを緩め、次の者も、その後ろも同じように速度を落としていく。
僕は荷車の左へ寄り、坂を上がった。
最初に見えたのは煙だった。一本や二本ではない。低い空の下で、数えられない煙が同じ方向へ流れている。
次に、壁。
遠くに古い城壁が横たわり、四角い塔がいくつか突き出している。ここまでは、聞いていた大拠点という言葉に収まった。
だが、その手前にも柵があった。城壁から離れた野に木柵が走り、その外へ壕が掘られている。さらに外側には屋根が並び、布の天幕があり、荷車が輪を作り、家畜囲いの柵が続く。煮炊きの煙は城内だけでなく、城外のあちこちから上がっていた。
坂を下る道の左右にも小屋がある。
町が、城壁から溢れていた。
「……なんだ、あれ」
ブルーノの声が低い。
僕もすぐには答えられなかった。
「拠点って聞いてたよね」
「拠点じゃねえだろ。街だ、あれ」
ガレスは何も言わず、城壁の左右へ視線を動かしている。外柵がどこまで続くかを追っているらしい。だが、丘の向こうへ消えた先は見えない。
ノエルは胸元の帳面へ手をかけたまま止まっていた。
「あの煙……」
「うん」
「あれ全部で、炊いているんでしょうか」
城外の一角で鐘が鳴り、人の群れが動いた。遠すぎて、誰が歩いているのかは分からない。ただ、灰色の地面だと思っていた場所がゆっくり形を変え、別の場所へ寄っていく。
ロイターが馬を寄せてきた。受け取ったばかりらしい紙札を左手だけで開く。
「先遣からの見積もりが来た」
周りの者が顔を向ける。
「武器を持つ者は、十万を下らない。多い報告では十二万」
ブルーノが鼻を鳴らしかけ、途中で止めた。
「城内と外営を合わせた人数は、三十万を超える可能性がある。非戦闘員だけで二十万近い、と」
「十二万って……」
僕は、城外へ広がる灰色をもう一度見た。
九十七名を数える時、ノエルは動く場所ごとに数え直す。十人が橋を渡れば、こちらと向こうを分けて確かめる。
あれを、どう数えたのだろう。
「意味わかんねえ数だな」
ブルーノがようやく吐き出した。
「聞かなきゃよかったぜ」
「聞かなくても、結果は変わらん」
ガレスの返しも、いつもより遅かった。坂の下では、先に着いた帝国軍の旗が動いている。その旗さえ、灰衣の町を前にすると小さく見えた。
*
帝国討伐軍は、すぐには攻めなかった。
街道から正面へ続く平地には、帝国直属軍の陣が作られ始めた。
測り縄が真っ直ぐに張られ、その横へ杭が等間隔で打たれていく。旗の位置が決まり、幕舎の区画が引かれ、荷車の道まで土へ線が刻まれていた。遠くから見れば、まだ布も張られていないのに、完成した陣の形が分かる。
僕たちが南側へ回る途中、一つの杭を挟んで二人の書記が言い争っていた。
「ここは第三歩兵団の端だ」
「いや、南へ四歩。図では用水路から二十歩とある」
「用水路が図より曲がっている」
「なら上へ確認を」
十人ほどの兵が、幕柱を担いだまま立っている。誰も下ろさず、誰も動かさない。
「四歩ずらせばいいんじゃない?」
僕が小さく言うと、ロイター殿が前を向いたまま返した。
「ずらした結果、隣と重なれば、ずらした者の責任になる」
「じゃあ、あのまま?」
「返事が来るまではな」
少し先では、荷車が一台、ぬかるみへ車輪を沈めていた。
こちらはルミナ側の寄子軍だった。御者が声を上げる前に、隣の隊から兵が三人来て縄を掛ける。別の者が枝を敷き、後ろの荷車は道の端へ寄った。
「せーの!」
車輪が泥を噛み、跳ねた。
誰かが泥を浴びて怒鳴り、周りが笑う。荷車が抜けると、枝を拾って次の窪みへ運んでいった。
「うちはあっちだ」
ロイターが水路沿いの低地を指した。
東南軍の陣は、帝国軍ほど真っ直ぐではなかった。地面の高いところへ天幕が寄り、荷車は水路から少し離して置かれている。隣り合う寄子軍の境には隙間もあったが、その隙間を通って水桶や材木が行き来していた。
「六台は西寄り。前を塞ぐな」
トマが先に場所を見つけ、車輪の向きを変えさせる。
「ベルント、十人つけて。マルクは杭を打つ方へ。ルッツ、負傷者は?」
「二人とも歩けている。今日はもう座らせる」
「ノエル、水は?」
「今夜分はあります。明朝分を受け取る場所は確認します」
僕は返事をしながら、ひとつずつ声の出た方向へ顔を向けた。
自分で考えることがないわけではない。ただ、先に分かる者がいる。僕が口を開く前に、荷車は場所へ入り、杭が地面へ落ち、水袋がまとめられていく。
青い布が、荷車の間へ立った。
*
北側の陣は、日が傾く前に形を終えていた。
ドラグヴァルト辺境伯家軍の天幕は多くない。壕と杭、見張りの位置が先に決まり、騎兵の出入口には余計な荷が置かれていない。外周を歩く兵の間隔も、遠くから見て分かるほど揃っていた。
「もう見張りを回している」
ガレスが言う。
「まだ陣を作ってる途中だろ」
「作りながら守っている」
ブルーノはしばらく見てから、北の陣へ背を向けた。
「比べんなよ」
「誰も比べていない」
「顔が比べてんだよ」
帝国軍の中央と東南軍の間には、もう一つ、小さな陣があった。
旗の数は少ない。だが、その前の空き地を騎兵が何度も往復している。
歩兵が三列に並び、中央を開ける。騎兵が抜ける。抜けた直後、列が閉じる。後ろでは別の兵が負傷者に見立てた藁束を担ぎ、開いた道を通っていく。
脇に立つ書記が、砂時計を返した。
また最初から。
「あれ、何をしてるの?」
僕は足を止めた。
「道を開けて、閉じている」
ガレスの答えに、ブルーノが舌打ちする。
「見りゃ分かる。なんで何度もやってんだ」
ロイター殿が目を細めた。
「帝国軍の新編隊らしい。クラウゼン侯爵肝入りだそうだ」
白い馬が、空き地の端を歩いていた。
乗っている若い将の甲冑は赤い。周りの兵が動いていても、自分で声を張り続けるわけではない。近くの副官へ短く何かを伝え、副官が別の方向へ手を上げる。その時にはもう、歩兵の一列目が開き始めていた。
「ユリウス・クラウゼン」
ノエルが名前を口にした。
「知ってるの?」
「名前だけです。帝都の法衣貴族、クラウゼン侯爵家の……」
砂時計が返され、歩兵がまた道を開ける。
騎兵が走り抜けた。
「戦う前から、あれをやるんだ」
「戦う前だからだろう」
ロイターはそれだけ言い、東南軍の陣へ戻った。
赤い甲冑の若者は、一度もこちらを見なかった。
*
旧官庁の会議室には、窓が三つあった。
二つは板で塞がれ、残る一つから帝国軍の陣が見える。
ローデリヒ・ハーゲンは窓際へ立ち、机に広げられた地図ではなく、実際の旗を見ていた。
「中央は、予定より南へ広がっています」
灰衣を肩へ巻いた伝令が、息を整えながら報告する。
「水路を避けたか」
「はい。南の地方軍は水路沿い。北の黒い旗は、丘の向こうまで陣を伸ばしています」
「騎兵の出口は」
「二つ。北東と、正面寄りです」
ハーゲンは窓から離れた。
壁際では、エーミール・ザイデルが三冊の帳面を開いている。軍の旗には目も向けず、地区名の横へ小さな印を足していた。
「南外営へ水桶を二百回せますが、その分、施療所へ回す水が足りなくなります」
「明日には直せるか」
「井戸は直せるものではありません。待って澄むようなら待ちます。待てないなら、別の場所から運びます」
ザイデルは顔を上げた。
「包囲が閉じれば、麦より先に水と捨て場が詰まります。これだけの数です。戦う者だけ数えないでください」
机の反対側で、ヴォルフ・クラマーが椅子を鳴らした。
「だから、閉じる前に出る」
若くはない。だが、ハーゲンより一回りは下に見える。左頬から顎へ古い傷が走り、腰の剣だけが灰衣の者たちの中で妙に手入れされていた。
「中央はまだ杭を打っている。今夜、三万出せば食い破れる」
「三万をどの門から出す」
「東門と南門だ」
「戻す道は」
「勝てば戻す必要はない」
ハーゲンは地図の北側へ指を置いた。
「中央へ食いついたところを、北の軍に横から切られる」
「一万五千だと聞いているが?」
「ドラグヴァルト辺境伯を侮らぬことだ。北の英雄殿は尋常ではない」
クラマーの口が止まる。
灰色の長衣をまとったマルタ・エーレンが、窓のそばへ歩いた。胸元には白い椀が縫いつけられている。外から鐘が鳴り、人の声が波のように寄せてきた。
「外の者たちは、帝国軍を見ています」
「何か問題が?」
「怯えています」
「怯えさせておけ。死ぬよりましだ」
マルタの目が細くなった。
「あなたは、いつもそう言いますね。生き残るために待て。生き残るために退け。では、何のためにここへ集まったのです」
「死ぬためではない」
「灰衣を纏った者を、戦える者と戦えない者に分けるのですか」
「分ける」
ハーゲンの返事は短かった。
「槍を持てない者を門へ立たせても、門は強くならん」
ザイデルが帳面を閉じた。
「議論は明日にしてください。今日の配給が終わっていません」
「明日があると思っているのか、帳面屋」
クラマーの声に、ザイデルは眉も動かさない。
「あるようにするのが私の仕事です」
部屋の外を人が走り、扉が開いた。
「南外柵から。帝国側の陣火が増えています」
ハーゲンは地図の上へ置かれた小石を一つ、中央から北へ動かした。
「今夜は出ない。外の斥候も一段下げろ。火を見せるだけでいい」
「ハーゲン」
「出ない」
クラマーが椅子を蹴るように立ち上がった。
マルタは止めず、ザイデルは次の帳面を開く。
窓の向こうで、帝国軍の最初の陣火が灯った。
*
夜になると、灰衣の町はさらに大きく見えた。
城壁の上へ火が並び、その下の外営にも、粥場にも、小屋の間にも灯りが増えていく。遠い場所では一つに見えた火が、目を凝らすと二つ、三つに分かれ、その奥にもまだ続いていた。
東南軍の陣では、天幕の縄を張る音がしている。トマは六台の荷車を見回り、ノエルは明朝の水受け取り場所を帳面へ書き足していた。二人の軽傷者は二台目と三台目の間で毛布へくるまり、ルッツが腫れた手を確かめている。
ブルーノは荷車の車輪へ背を預け、灰衣の町を見ていた。
「あれ、全部に人がいるんだよな」
誰へ聞いたのか分からない声だった。
「火だけ焚いている場所もあるだろう」
ガレスも、いつものようには言い切らなかった。
ノエルが帳面から顔を上げる。
「それでも、明日また食べ物を配るんでしょうね」
僕は、自分たちの火を見た。
荷車の間に三つ。少し離れた見張りのそばに一つ。隣の隊、その向こうの隊にも火があり、帝国軍の中央へ向かって地上の灯りが続いている。
けれど、灰衣の町はその先まで明るかった。
鐘がひとつ鳴った。
こちらの見張りが顔を上げ、北の陣でも誰かが動く。
二度目の鐘は鳴らない。
二つの陣の間に残された野だけが暗く、風に押された草の音が、何もないところを渡ってきた。




