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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第61話 北狼


 地図を押さえた石が、風に押された紙ごと少し動いた。


 幕僚の手が伸び、石を元の位置へ戻す。地図と言っても、街道と水路、倉の位置を斥候の報告から書き足したばかりのものだった。板の端にはまだ湿った泥がついている。


 正面の緩い斜面を上がった先に、木柵が見える。

 古い徴発所を囲い直したものらしい。柵の内側には、屋根の低い倉が幾つも並び、その間を灰色の布が動いている。正面門の前には荷車を横へ倒し、隙間へ丸太を詰めてあった。


「武装した者は、およそ三千」


 幕僚は指先を正面門から南へ滑らせる。


「正面と南柵に多く、北側は薄い。騎兵は確認されておりません。北東へ半日走らせましたが、組織だった援軍も見つかっていません」


「見つからなかった、だな」


 ヴァルグラム・ドラグヴァルトは、地図ではなく柵を見ている。


「はい。いないとは申しません」


 幕僚は言い直し、南側へ置いた木片を二つ動かした。


「敵は倉と荷車、それに非戦闘員を抱えております。拠点を捨て、全軍でこちらの一部へ出る可能性は低いと見ます」


 北方軍の斥候が一人、地図の外で膝をついたまま待っている。外套の裾は水路の泥で黒くなり、革靴の脇から水が落ちていた。


「南の水路は?」


「浅いところで膝上。岸は崩れています。騎馬を揃えて渡すには向きませんが、徒歩なら通れます。水路沿いに荷車道が一本。南柵まで、ここから半里ほどです」


「続けろ」


 一万五千を越える北方軍の大半は、まだ主街道にいた。


「正面へ九千を残します。バイエルライン隊二千を南へ回し、敵を引きつけながら南柵を狙わせる。北には騎兵を置き、退路と外からの援軍を監視させます」


 幕僚はそこで一度、木片から指を離した。


「兵を分ければ、南の隊と本隊の間が開きます。敵がまとまって南門から出るか、確認できていない援軍が現れれば、バイエルライン隊が孤立する危険があります。ただ、敵に騎兵がなく、半日以内の援軍も見つかっていない。倉と人を置いて全軍で出るとも考えにくい。危険は低いと判断します」


 北の木片が一つ。南へ二つ。残りは正面と、その後ろ。


「南柵が開き次第、正面を進めます。この形で行きたいと考えますが、よろしいでしょうか」


「よい」


 返事は早かった。

 幕僚が木片を集めようとした時、ヴァルグラムの指が北側の道を押さえる。


「北を塞ぎ切るな」


「退路を残しますか」


「武装した集団と、外から来る兵だけを止めろ。女子供や荷車まで柵へ押し戻すな」


 柵の北側では、細い道へ荷車が二台続いている。遠くて人までは見分けられない。けれど、積み荷の上に人影が幾つも重なっていた。


「追い詰めれば、捨てる武器も捨てられなくなる」


「北の騎兵へ伝えます」


 ヴァルグラムの指が南へ移る。


「バイエルライン隊は水路から離すな。角笛の届かぬところまで追わせるな」


「敵がまとまって出た場合は」


「受け止めずに下がらせろ。本隊との間へ入られる方がまずい」


「承知しました」


「それと、正面は南柵が開くまで待つな」


 幕僚の手が止まった。


「では、いつ動かします」


「敵が南へ兵を回した時だ」


「突破の報せより先に?」


「開いてから動くのでは遅い。向こうが迷った時に進め」


 幕僚は地図の上を見直した。

 北の騎兵は道を塞ぎ切らず、南は水路から離れない。正面軍は南の成功を待たない。


「バイエルライン隊には、後退の条件まで伝えます」


「そこまででよい」


 ヴァルグラムは柵の南、葦の先へ目を向けた。


「ライオスに任せておけば問題あるまい」



「二台目は、まだだ!」


 橋の向こうでトマが両腕を振った。


 さっき列へ入った十人目が足を止め、先に出ていた九人がまた振り返る。ガレスは道の先を指した。


「斥候はそのまま行け! 橋を見るな!」


「行ってきます!」


 十人が今度こそ葦の向こうへ消える。


 小橋では、空の荷車を渡した後も人足たちが板の沈み方を見ていた。橋の下へ一人が潜り、別の二人が上から棒を差し込む。車輪の横には白い粉で印がつけられ、そこを外すなと何度も言われていた。


「二台目、少し左!」


「左ってどっちだ!」


「水路じゃない方!」


「最初からそう言え!」


 轅の脇へ人がつく。馬の鼻先を押さえる者、後ろから荷台を支える者。布を巻いた腕で手を出そうとした男は、ルッツに荷車の間へ戻された。


「だから、お前は持つな」


「押すくらいできます」


「さっきまで腫れた手を水に浸けてただろ」


「反対の手で」


「そこへ座れ」


 男は座らず、荷車の横で立っていた。ただ、手は出さない。


 青い一条は橋を渡った先へ移されている。ミケルが棒を低く持ち、車輪の進む位置と人の立つ場所を空けていた。


「進め!」


 二台目の車輪が板へ乗る。

 ぎし、と橋全体が沈んだ。


 全員の声が止まり、水の音だけになる。


 もう一度、車輪が動いた。

 下にいる人足が支えを見たまま手を上げる。トマが轅を叩き、馬を一歩だけ前へ。


「そのまま! 止めるな、急がせるな!」


「どっちなんだよ!」


「同じ速さで行けってことだ!」


 二台目が橋の中央を越えたところで、主街道の方から蹄の音が近づいてきた。


 ロイター殿が振り返る。

 細い道へ入ってきた騎兵は、ヴェルナー軍の旗を見つけると手綱を引いた。馬の胸から白い泡が落ちている。


「前方の街道拠点に北方軍が接触!」


 差し出された札を、ロイター殿が右手で受け取る。


「敵の数は」


「武装した者、およそ三千。倉と非戦闘員を抱えています。帝国直属軍は捕虜の受け入れと、引き継ぎ隊の準備に入れとのことです」


「もう攻めるのか」


 ブルーノが水路の向こうから顔を出す。


「北方軍は既に展開中です」


 騎兵はそれだけ伝えると、馬首を返した。狭い道で向きを変えられず、しばらく尻をこちらへ向けたまま何度も手綱を引いている。


「三千だって」


 僕の隣で、ノエルが札の文字を目で追った。


「聞こえました」


「昨日の監視所より、大きいよね」


「比べる大きさではないと思います」


 そう言いながら、ノエルは自分の帳面を開いた。


「二台目、渡ります。橋のこちら側に残っている人から数えます。呼ばれたら返事をしてください」


「今、数えるの?」


「動く時に数えるんです」


 二台目の後輪が板から土へ下りた。

 橋の向こうで声が上がる。トマは喜ぶより先に、三台目の轅へ走っていた。


「間を空けろ! すぐ入れるな! 板をもう一度見る!」


 前方では、三千人の拠点を落とす戦いが始まろうとしている。

 僕たちは三台目を橋へ入れる前に、一本ずつ釘を確かめていた。



 水路沿いを進む北方兵の足は、泥へ深く沈んだ。


 先頭が葦を踏み、後ろの者はその跡へ靴を入れる。盾の縁に泥がついても、列は水路から離れない。正面の黒と鉄色の旗は見えたり隠れたりしながら、ずっと同じ位置にあった。


 伝令が追いついた時、ライオス・バイエルラインは南柵までの距離を見ていた。


「敵がまとまって出れば下がれ。本隊との間を切らすな。正面は、敵が南へ兵を回した時に動く」


「承知した」


「北の騎兵は、非武装の退避者を通します」


「それも承知した」


 伝令は馬を返し、来た道を戻っていく。


 ライオスは前へ合図した。

 盾が一枚ずつ低くなり、その後ろから鉤と斧を持った兵が進む。柵へ急ぐ者はいない。水路と葦の間に列を作り、南門から見えるところまで出た。


 最初に鳴ったのは、灰衣側の鐘だった。


 倉の屋根で一度。間を置かず二度、三度。

 南門の内側へ人が集まり、丸太が外される。門が開く前から、柵越しに槍が上がった。


「出てきます!」


「ああ、見えている」


 門が開き、灰衣の集団が押し出される。

 先頭には盾を持つ者もいたが、形は揃っていない。短槍、斧、棍棒。後ろから来る者に押され、最初の列が泥へ入った。


「六百……もっといます!」


「列を下げろ」


 北方兵の前列が一歩退く。

 灰衣側から声が上がった。さらに人が門を出てくる。


「もう一歩」


 盾を向けたまま、北方兵がまた下がる。

 走る者はいない。水路へ背を向ける者もいない。灰衣が間を詰めようとすれば槍で止め、止まればこちらも下がった。


「押せ! 水へ落とせ!」


 灰衣の声が近づく。

 後ろにいた北方兵の一人が前へ出かけた。


「追うな」


「こちらが下がっています!」


「だからどうした。列へ戻れ」


 兵は歯を食いしばり、元の場所へ入った。


 南柵から、灰衣が次々に出てくる。

 門の内側は薄くなり、柵の上に立つ弓の数も減っていた。


 遠くで角笛が鳴った。


 一度、低く長く。

 続けて正面側から太鼓の音が響き、倉の屋根にいた者たちが一斉に北を向く。


 正面軍が動いた。


 灰衣の列の後ろから、戻れという声が飛ぶ。けれど前では、まだ押せと怒鳴っている。振り返る者と、北方兵へ槍を向けたままの者がぶつかった。


「下がります!」


「そのまま行かせろ」


 灰衣の一部が南門へ走る。

 水路の下流へ逃げる者もいた。北方兵がそちらへ向きを変えようとする。


「捨てろ。柵へ寄れ」


 ライオスの腕が上がった。


 下がっていた盾列が止まる。

 鉤を持った兵が、その隙間を抜けた。灰衣の背を追わず、守る者が減った南柵へ一直線に走る。


 最初の鉤が丸太の間へ掛かる。

 柵の上から矢が落ち、縄を握った兵が一人、泥へ膝をついた。後ろの者がその手から縄を取り、列へ入る。

 縄が張り、四人、六人と身体を後ろへ倒した。別の場所では斧が支柱へ入り、乾いた音が続く。


 灰衣が門から戻ってくる。

 だが、出ていく者と戻る者が狭いところで詰まり、丸太を掛け直せない。


「右を切れ!」


 斧が隣の支柱へ移る。

 柵が一度、内側へ傾いた。


「まだ入るな!」


 前へ出かけた兵が止まる。縄がもう一度引かれ、丸太の下から土が崩れた。


 柵が倒れる。


「行け」


 今度は止まらなかった。


 盾が穴へ入り、その両脇を斧持ちが広げる。倒れた柵を踏み越えた者は、その場の灰衣と長く打ち合わず、倉の間へ兵を流した。


「門へ回れ。ここは後ろに渡せ」


 ライオスも穴を越える。

 目の前へ槍を突き出した灰衣が倒され、その横を次の北方兵が抜けた。誰か一人が道を塞いでも、後ろの列は止まらない。


 正面門の方で大きな音がした。

 門板が破れたのか、積んだ荷車が倒れたのか、ここからは見えない。灰衣の声だけが一段高くなり、すぐ幾つもの声へ割れた。


「武器を捨てろ!」


 北方兵の声が倉の間を走る。


「捨てた者は斬るな! 道の右へ座れ!」


 短槍が落ちた。

 斧を手放す者、まだ倉の戸口へ逃げる者。南門から柵外へ出た灰衣の一部は戻れず、そのまま畑へ散っていく。


 北側の道では、荷車が三台続いていた。

 馬上の北方兵が槍を横へ向ける。荷台の陰から武器を持った男が降ろされ、道端へ押さえつけられた。後ろの荷車には女と子供が乗っている。槍は上がり、道が開く。


 日が西へ傾き始める前に、正面門の灰色の布が下ろされた。


 捕らえた者の数は、まだ誰にも分からない。

 倉の間にも、柵の外にも、座らされた者が増え続けている。負傷者を運ぶ荷車が入り、北方兵は倒れた者を敵味方に分け始めた。


「帝国軍の旗が見えました!」


 正面から報告が届く。


「捕虜と倉を渡せ。動ける者は水を取れ」


 ライオスは倒れた南柵を振り返らなかった。


「半刻後に出る」



 三台目を渡したところで、最初の斥候が戻った。


 ちゃんと十人いる。

 怪我もない。先頭の男が、ガレスの前で一度息を整えた。


「道は二つ目の曲がりの先で少し広がります。灰衣は見ませんでした。水路へ入った二人も見つかっていません」


「足跡は」


「水路の中は分かりません。向こう岸へ上がった跡も見つけられませんでした」


「なら、『確認できず』だ。いないとは決めるな」


「はい」


 ガレスが次の十人へ目を向ける。


「同じ距離まで。水路へ入るな。曲がりの手前で一度止まり、後ろがいるか確かめろ」


「はい!」


「声が大きい」


 それでも十人は、さっきより迷わず道へ入った。


 橋では四台目が待っている。

 トマが板を踏み、今度は自分の体重で沈み方を確かめた。


「次、来い! 一台ずつだぞ!」


 四台目が動き出した時、また主街道から騎兵が来た。

 今度は細い道へ入らず、分かれ道のところから声を張る。


「北方軍、南側で交戦! 北の道は騎兵が確保!」


 ロイター殿が右手を上げた。


「こちらは変更なし! 橋を通せ!」


 誰も戦場を見ることはできない。

 聞こえるのは、橋板と車輪の音だけだった。


 四台目。

 五台目。


 荷車が一台渡るたび、ミケルの青い布が少し先へ動く。橋のこちら側に残る人数が減り、向こう側へ列が伸びた。


 六台目の前輪が橋へ乗った時、三人目の伝令が来た。


「外柵突破!」


 馬を止める間もなく叫び、主街道へ戻っていく。


「外柵って、どこのだ」


 ブルーノが後ろ姿へ怒鳴る。


「前の拠点でしょ」


「南か、北か、正面かって聞いてんだ」


「行ってしまいましたね」


 ノエルは帳面へ何かを書き足した。


「何を書いたの?」


「外柵突破。場所、不明」


「それも書くんだ」


「分からないことを、分かったことにしないためです」


 六台目が橋の中央へ入る。

 板が沈み、後ろで予備兵の一人が息を止める音まで聞こえた。


「止まるな!」


 トマが轅の横を走る。


「そのまま、同じ速さ! 馬を引くな、押すな! ああ、もう、触るな!」


 誰に言っているのか分からない。

 それでも六台目は向こう岸へ届いた。


 後輪が土へ下りる。


「六台、渡った!」


 トマが両手を上げる。

 すぐ橋板を振り返り、しゃがみ込んだ。


「……渡ったけど、次の隊をすぐ入れるな! 板がずれてる!」


 喜ぶ時間は短かった。



 水路沿いの確認を終え、主街道へ戻った頃には、日が傾き始めていた。


 前方から来る兵の数が増えている。

 帝国直属軍の歩兵。捕虜を縛る縄を積んだ荷車。帳面箱を抱えた書記。僕たちとは反対に、皆が街道を急いでいた。


 分かれ道の近くで、帝国兵が命令札を打ちつけている。

 昨日決められた宿営地の名へ横線が引かれ、その下に別の場所が書き足された。


「変わるんですか」


 ノエルが足を止める。


「北方軍が先へ出た」


 札を持つ兵は、釘を口にくわえたまま答えた。


「ここで止めると道が詰まる。東南軍も一つ先へ。配給は次の分岐で受けろ」


「配給札は前の場所になっています」


「書記へ見せろ。今、全部直してる」


 兵はまた槌を振った。

 古い文字の上へ板が重なり、釘が入る。


「前が早いと、後ろの帳面まで全部変わるんですね」


「まだ変えられている」


 ガレスは、道の先から来る荷車を避けて端へ寄った。


「今のところはな」


 少しして、拠点が見えた。


 最初に見えたのは、正面門ではなかった。

 街道の南、水路へ向いた柵が大きく倒れている。丸太には新しい斧の跡が並び、引き倒すのに使った縄がまだ泥の上へ残っていた。


 柵の外へ出る足跡。

 途中で向きを変え、門へ戻ろうとした跡。その脇を北方兵の揃った足跡が横へ折れ、倒れた柵へ続いている。


 エルヴィンが道を外れない範囲で立ち止まった。


「灰衣が外へ出ている」


「押し返したのか?」


 ブルーノが覗き込む。


「北方兵の跡は、こっちだ」


 エルヴィンが南柵を指す。


「逃げた相手を追ってない」


「何でだ」


「柵を開ける方が先だったんだろう」


 ガレスは門の方を見る。

 正面には矢が幾本も刺さり、横倒しにされていた荷車の一台が砕けている。門の内側では、帝国直属軍の兵が捕虜を十人ずつ分けていた。


 数え終わっていないらしい。

 座らされた灰衣は倉の壁沿いだけでは足りず、道の片側まで続いている。布を巻かれた者、顔を伏せている者。その向こうでは、帝国の書記が倉から出される袋を一つずつ札へ写していた。


 北方軍の姿は少ない。

 負傷者を運ぶ者と、帝国兵へ引き継ぎを説明する者が残っているだけで、黒と鉄色の旗はどこにもなかった。


「南柵を開いた隊はどこだ」


 ロイター殿が、帳面を持つ帝国兵へ聞く。


「バイエルライン隊です」


「指揮官は」


「ライオス・バイエルライン。引き継ぎ前に、もう出ました」


 ブルーノが僕を見る。


「誰だ」


「僕も知らないよ」


「北方軍の将だ」


 ガレスは倒れた柵から目を離さない。


「それは聞けば分かる」


「なら、それ以上は分からん」


 ブルーノは不満そうに南柵を見た。


「三千いたんだろ」


「そのくらいと聞いたね」


「こいつを開けて、もう次へ行ったのか」


 答える者はいない。


 倉の間から、担架が一つ運ばれてくる。

 道を空けるため、捕虜の列が少し詰められた。子供を抱いた女が倉の陰から出てきて、帝国兵に止められる。武器を持っていないと分かると、北側の道を指され、そのまま歩いていった。


 僕たちの列も、拠点の中を抜ける。


 倒れた柵。

 集められた武器。

 数えられている袋。

 まだ名前も書かれていない負傷者。


 そのどこにも、ライオス・バイエルラインはいなかった。



 新しく指定された停止場所へ着いた時、空はもう赤くなっていた。


 北方軍が休んだ跡だけが残っている。

 踏み固められた草。馬へ水をやったらしい浅い溝。火を消した土の色。そこから北東へ、轍と蹄の跡が続いていた。


「北方軍は、次の渡河点へ向かった」


 命令を持ってきた兵が告げる。


「東南軍は明朝までに、ここを抜けろ。荷車は道の西へ寄せ、中央を空けておけ」


「今から天幕を張って、明朝には畳むのかよ」


 トマが六台目の轅へもたれた。


「張らなければ寝られません」


「畳むのは俺たちだぞ」


「分かっています」


「分かってる顔じゃねえ」


 ノエルは返事をせず、変更された配給札を帳面へ挟んだ。


 ブルーノは、北東へ続く道を見ている。


「あいつら、寝ないのか?」


「寝てはいるだろう」


 ガレスが槍を荷車へ立てかけた。


「いつだよ」


 坂の下で、車輪が轍へ落ちる音がした。


「六台目、右へ寄せろ!」


 トマが轅から離れ、また走っていく。


 僕たちの六台目が坂を上り切った時には、黒と鉄色の旗はもう次の曲がりの向こうにいた。


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