第59話 北方の雄
翌朝、帝国本営の方角から、昨日とは違う角笛が鳴った。
一度長く、間を置いて二度。
南東外営のあちこちで旗持ちが顔を上げ、天幕の間から騎馬が出てくる。鎧を着込んだ者だけではない。巻いた地図を抱えた書記、木箱を二人がかりで運ぶ従者、まだ外套の紐を締めている貴族まで、中央へ向かう道へ集まっていった。
僕たちのところでは、トマが六台目の荷車を少しずつ後ろへ押している。
「もう少し右じゃねえか?」
「右って、誰から見た右だよ」
「僕から見て」
「じゃあ俺からは左だろ」
車輪が乾いた土を削る。二人が荷台を押し、もう一人が轅を引いたところで、外営の通路を騎馬が二騎抜けていった。
先頭の伝令は、ヴェルナー子爵家の旗を見つけると馬を緩める。
「本営より招集! 各軍の当主、軍団長、首席幕僚は半刻後までに参集されたし!」
同じ文句を残し、次の陣へ。
馬蹄の音が遠ざかる前に、ヴェルナー家の天幕でも人が動き始めた。
「軍議ですね」
ノエルは配給札を帳面へ挟み、中央の道を見る。
「僕たちも何かあるのかな」
「ないと思いますよ」
「……即答だね」
「呼ばれる理由がありませんから」
それもそうだった。
今の僕たちはヴェルナー子爵家預かりで、九十七人。全軍の行き先どころか、ヴェルナー軍の中で歩く位置すら上から渡される側だ。
しばらくして、ロイター殿が天幕の間から現れる。軍議へ向かう装いではない。左腕を身体の脇へ寄せたまま、右手に何枚かの木札を持っていた。
「アズール殿。今日はここで待機だ」
「やっぱりですか」
「何を期待していた」
「少しくらい、話が聞けるかと」
「八万の進路を、九十七の預かり隊へ相談すると思うか?」
「……さすがに思いません」
「なら、荷車を片づけろ。命令が下りた時に道へ出られない方が困る」
ロイター殿は木札の一枚をノエルへ渡す。水場と配給所の使用順が書かれているらしい。ノエルの目が上から下へ動き、途中で一度止まった。
「三台ずつですか」
「六台まとめて水場へ入れるなとさ」
「当然ですね」
「昨日はまとめて入れようとしていたな」
「昨日、規則を知りましたので」
ノエルはもう次の欄を見ている。
帝国本営へ向かう列は、まだ途切れない。
ルミナ沿海伯家の大旗が通り、その後ろへ東南の有力貴族たち。北側の道からは、黒と鉄色の外套を着た騎馬の一団が現れた。昨日、丘から見た北方軍の旗もある。
あの中に、ドラグヴァルト辺境伯がいるのだろう。
顔までは分からない。騎馬が本営の柵へ吸い込まれ、代わりに帝国の槍列が道を閉じた。
「さて」
ガレスが槍の石突きを地面へ置く。
「上が話している間に、こちらもやるぞ。昨日できなかったところからだ」
「昨日、できなかったところって何ですか?」
マルクが聞くと、ガレスの目が六台の荷車を順に追った。
「全部だ」
「広すぎません?」
「まず道を空ける。伝令と荷車を通してからだ。十人ずつ左右へ寄れ」
昨日より少しだけ早く、九十七人が動き始める。
*
帝国本営の大天幕には、長机ではなく、地図を広げるための板が三枚並べられていた。
中央の板には、現在の集結地。そこから北東へ延びる街道の両側に、小さな木片と石が置かれている。さらに先、赤い紐で囲われた場所が一つ。
灰衣の大拠点。
上座には討伐軍総司令、レオポルト・アルンベルク公爵が座っていた。現皇帝の弟、皇弟。金糸の入った外套と、軍装にしては白すぎる手袋が、周囲の使い込まれた鎧から浮いている。
「では、ゼーレン伯。始めよ」
声は穏やかだった。
脇に控えたオットマール・ゼーレン伯爵が一礼し、細い指示棒を地図へ伸ばす。
「現在地より、反徒の主たる集積地までは、平時の行軍でおよそ十日。もっとも、街道上には既に多数の拠点が築かれております」
棒の先が、最初の木片へ触れる。
「徴発倉を占拠した集落。古い街道監視所。ここには柵。次の渡河点には、逃亡兵が合流したとの報告があります」
石を二つ飛ばし、やや大きな木片。
「五日目想定の位置に旧砦。さらに北東には城壁の残る小都市。これらを残せば、後方の荷駄と伝令路が脅かされる。ゆえに、各拠点を順次制圧し、街道を開きながら進みます」
大拠点まで十日。
戦いも、捕虜も、壊れた橋もなければ、という数字だった。
指示棒が北側の道へ移る。
「先鋒はドラグヴァルト辺境伯家軍。北方の諸隊を率い、街道北側の拠点を攻略していただく」
ヴァルグラム・ドラグヴァルトは、腕を組んだまま地図を見ていた。
「引き受ける」
天幕の中で、何人かが顔を上げる。
「ご理解いただき、感謝いたします」
「一番強い軍が前へ出る。それだけだ。続けろ」
オットマールの口元が、わずかに固くなる。指示棒は中央へ。
「帝国直属軍は中央本隊として進み、予備兵力、攻城具、全軍の補給を管理します。南翼はルミナ沿海伯家と東南寄子軍。水路、南側街道、荷駄路の確保を」
オーレリアン・ルミナ沿海伯は、返事をせず地図へ視線を置いたまま。
「攻略した拠点については、後続の配置が整うまで、攻略部隊より必要な守備兵を残していただきます。これにより――」
「待て」
ヴァルグラムの指が、最初の木片を押さえた。
「ここを落とすのは北方軍だな」
「左様です」
「次は」
「街道の状況にもよりますが、基本的には先鋒が」
「その次もか」
「戦況に応じ、最も適した部隊を――」
「次も北方軍かと聞いている」
指示棒が宙で止まる。
レオポルトは二人を交互に見た後、椅子へ少し深く座り直した。
「先鋒でございますから、進軍前面の敵拠点を担当していただくことになります」
「落とした後は?」
「先ほど申し上げた通り、後続の配置が整うまで、必要な守備兵を」
ヴァルグラムの指が、地図上を進んだ。
一つ目の木片で止まり、二つ目、三つ目。置かれた石を順に弾き、赤い紐の手前で手を止める。
「百を残す。次で二百。その次でまた百。砦なら三百か」
「人数は現地の状況に応じて決めていただきます」
「大拠点に着く頃、一番強い軍が細切れだ。それで勝てると?」
誰もすぐには答えなかった。
オットマールは指示棒を板へ戻す。
「全軍を見ていただきたい。北方軍だけが負担を負うわけではありません。東南軍にも南翼の確保をお願いし、帝国直属軍は補給と後方支援を――」
「後ろで数を揃えているだけだろう」
「中央本隊には中央本隊の役割があります」
「なら、北方を削りたいと初めから言え」
天幕の布が、風に一度膨らんだ。
「そのような意図はございません」
「であれば勝つための配置をするのだな」
ヴァルグラムは怒鳴っていない。
机を叩きもしない。けれど、指示棒を握ったオットマールの手が、少しだけ板から離れた。
レオポルトが困ったように眉を寄せる。
「ゼーレン伯。その点はどうなのだ」
「無論、必要以上の負担を先鋒へ課す意図はございません。実際の守備配置は、戦況を見たうえで柔軟に――」
「それでは作戦になっておりません」
地図の反対側から、若い声が入った。
ユリウス・クラウゼン侯爵は、手元の紙を一枚めくる。周囲の将たちより明らかに若い。けれど、口を挟んだことへ驚いた者はいなかった。
「攻略部隊が保持する期限も、引き継ぐ部隊も決まっていない。現地を抑えた者が、帝国の意図を推測して動くことになります」
「戦場で、すべてをあらかじめ決めることはできませんぞ、クラウゼン侯爵」
「すべてを決めるとは申しておりません」
ユリウスは、街道沿いの木片を一つ持ち上げ、少し後ろへ別の駒を置く。
「攻略部隊の現場保持は、原則一日以内。周辺の安全確認後、帝国直属軍が一時守備を引き継ぎます。捕虜、負傷者、倉と物資の確認も後続が担当。街道が開通し次第、後方から守備隊を送り、帝国直属軍は本隊へ復帰させる」
「後方の守備隊が来なければ?」
ディートリヒ・バルケ将軍が、腕を組んだまま口を開く。
「小さな拠点でも百。砦や町なら三百は要る。五つ引き受ければ、それだけで中央軍から千を超えて抜けるぞ」
「街道が通れば三日。遅くとも五日以内に交代させます」
「五日を過ぎた場合は?」
「次の部隊を前へ出しません。先鋒も南翼も、その場で止めます」
オットマールが鼻から短く息を出す。
「全軍を、一つの守備交代で止めるおつもりか」
「後方処理が追いつかないまま先へ進み、荷駄を切られるよりはましでしょう」
「参謀府の書面が届くまで、現場の将に待てと?」
「変更を命じる者と期限だけは、書面に残します。現場判断の名で、先鋒へ守備を押しつけ続けることは認めません」
ヴァルグラムは、ユリウスが置いた駒を見ている。
「一日で引き継ぐ。それができなければ、俺たちは進軍しないか。……それで構わぬ。帝国軍が本当に引き受けられるならな」
バルケは地図の中央から街道までを指で測り、隣の書記へ何か聞いた。書記が別紙を広げる。しばらく数字を追い、指を三本立てた。
「三日なら回せる。五日を超えると、中央軍の前衛を組み替える必要がある」
「五日以内と明記します」
「なら、中央軍で引き受けよう」
ユリウスが次の駒を置こうとした時、オーレリアンが初めて顔を上げた。
「北方軍が攻略した拠点を帝国軍が引き継ぐのであれば、南側にも同じ規定を適用していただきたいものですな」
「東南軍は、主として補給路と水路を確保する役目です」
「承知しております」
オーレリアンの声は静かで、地図の南側から動かない。
「ですが、補給路を守ることと、通過したすべての村や倉へ東南軍だけが兵を残すことは、同じではありません」
オットマールが何か言う前に、ユリウスが南側へも駒を置いた。
「同じ規定でよろしいでしょう。攻略部隊の違いで、引き継ぎ条件を変える理由はありません」
「うむ」
レオポルトが、ようやく大きく頷く。
「話はまとまったようだな」
オットマールはしばらく地図を見下ろしていたが、指示棒を取り直した。
「では、私の原案に攻略後の交代規定を加えます。先鋒と南翼は拠点を制圧し、帝国直属軍が一時守備。後方守備隊への交代は五日以内。例外は参謀府を通じて命ずる。これでよろしいでしょう」
「うむ、よかろう」
レオポルトの白い手袋が、机の端を軽く叩いた。
「ゼーレン伯の案で進めよ」
オットマールが深く一礼する。
ユリウスは、地図上へ置いた駒を一つずつ元の箱へ戻していった。最後の一つを持ち上げたところで手が止まり、すぐ箱の中へ。
「クラウゼン侯爵の新編隊は、中央予備のままでよろしいか」
バルケの確認に、ユリウスは顔を上げる。
「はい。先鋒配置とは切り離します」
「では、明朝より進発とする」
オットマールの指示棒が、北東へ伸びた。
*
「違う! 十人が右、次の十人が左だ!」
「どこから十人だ!」
「先頭からですよ!」
「俺、さっき後ろから数えられたぞ!」
軍議がどこまで進んだのか、外営からは分からない。
ただ、こっちはこっちで、十人ずつに分かれるだけで右往左往していた。
ガレスが列の横を歩き、槍の柄で地面へ線を引く。
「この線から右へ出るな。前から十人、道を空けろ」
マルクが同じ内容を後ろへ投げる。
「前から十人! 青い布を見て右! 次の十人は左!」
前方は動いた。十一人。
片側へ寄ったところで、最後の一人が自分だけ余っていることに気づき、反対へ走る。そこへ二台目の荷車が入ろうとして、トマが両腕を広げた。
「止めろ、まだ入れるな!」
「道は空いただろ!」
「人が横切ってる!」
荷車の前で、十一人目と御者が顔を見合わせる。
ノエルは帳面の上で人数を数え直し、片手を上げた。
「一度止めましょう」
「まだ始めたばかりだぞ」
「始めたばかりで十一人です」
「道は空き始めている」
「一人を曖昧にしたまま、次の十人を動かすんですか?」
ガレスの口が閉じる。
少し離れたところで、ブルーノが大棍棒に顎を載せた。
「全員まとめて道の端へ寄せりゃいいだろ」
「それでは、狭い場所で前から順に空けられません」
「狭い場所に荷車を通すな」
「通さなければならない時の訓練です」
「んだよ、面倒だな」
「面倒だからこそ練習しているんです」
結局、十人ごとに分かれるのは一度やめた。
前から声を受け取った者が、左右どちらかへ一人ずつ寄る。十人をまとめて動かすより遅い。それでも、真ん中に細い道が一本できていく。
「荷車、一台だけ通せ!」
トマが一台目の轅を引く。
車輪は途中で少し曲がり、右側の槍持ちが半歩退いた。誰かが怒鳴る前に、その後ろも同じだけ下がる。
荷台が抜ける。
「今のはどう?」
ガレスはすぐ答えず、道の幅と列の後ろを見る。
「まだ遅い」
「形にはなってきてると思うよ」
「形だけではだめだ。敵が待ってくれると思うか?」
「今日は荷車も敵も待ってくれるから、もう一回やろう」
マルクが笑いをこらえながら、後ろへ戻っていく。
隣の帝国軍区画では、槍兵が号令一つで列を開き、伝令を通していた。動きは揃っている。伝令が抜けると、また同じ間隔へ。
そのさらに向こう、北方軍の端では、荷車が来る前から兵が少しずつ位置を変えている。号令は聞こえない。荷車が通った後も、元と同じ場所へ戻る者はいなかった。空いた位置へ近い者が入り、別の形に収まっている。
「あれをやるか?」
ブルーノの顎が北側へ動く。
「無理だ」
ガレスは即答した。
「やらなきゃできるもんもできねえだろ」
「全員が周りを見て、自分で次の場所を選べなければならん」
「じゃあ見せときゃいい」
「見ただけでできれば、今も苦労していない」
ブルーノは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
それでも、次に荷車を通した時には、自分の前にいた二人の肩を押し、道の幅を少し広げていた。
昼を過ぎても、本営からの命令は来ない。
水場の使用順が回ってきたところで、ノエルとトマが三台ずつ荷車を動かす。ルッツは古傷のある者を日陰へ寄せ、エルヴィンは共用路へ出した見張りから、各軍の動きを聞いていた。
「北方軍、馬の水を先に終えています。帝国軍は配給列を組み直し。東南の前列は、旗の位置を変えたようです」
「出発順が決まったのか」
「まだ噂の域ですが」
セオが帳面へ書きかけた手を止める。
「何と書けば?」
「細かく書かなくていい。見たことだけで」
「北方軍の馬、水やり終了」
「それは書け」
エルヴィンが短く返し、外営の道へ目を戻す。
僕も明日の出口を確認しておきたかった。
ガレスは訓練から離れられず、ノエルも配給札と水桶に囲まれている。カインへ声をかけると、すぐ槍を持ち上げた。
「共用路と、東南軍の集合位置を見てくる。遠くへは行かない」
「距離の問題ではございません。おひとりでは」
「じゃあ、一緒に来て」
「はい、そのつもりです」
二人で青い布を離れた。
南東外営の道は、昨日より人が多い。水桶を担ぐ兵、配給袋を運ぶ人足、軍議から戻る家臣を待つ騎馬。角を一つ曲がるたび、別の旗が見える。
外営の出口には、既に明日の進発に使うらしい杭が打たれていた。東南軍の旗ごとに道を分けるためか、縄も張られ始めている。
「六台、通れるかな」
轍の幅を見ながら歩く。カインは縄の位置と、脇へ避けられる場所を確かめていた。
「二列で出せば詰まります。前後を空け、一列で」
「トマにも見せた方がいいね」
「戻りましたら連れてまいりましょう」
共用水場へ向かう途中、北側の陣と帝国直属軍の間に、少し広い草地がある。
そこに男が一人立っていた。
北方風の暗い外套。腰には幅のある剣。鎧は上等なのだろうが、飾りより先に傷が目に入る。供回りも旗もなく、道の端で帝国兵の訓練を眺めていた。
カインの歩みがわずかに遅くなる。
「知ってる人?」
「いえ。ただ、身分の低い方ではないかと」
「一人だけど」
「それが不自然です」
男は道に迷った様子でもない。ただ、ずっと同じところにいる。
通り過ぎかけて、僕は足を止めた。
「何か、お困りですか?」
男がこちらを見る。
目が合っただけで、背中が勝手に伸びた。
「困っているように見えるか」
「ずっと同じ場所にいたので。道を探しているのかと」
「道なら見ている」
「道を?」
「兵もな」
男の視線が帝国軍の槍列へ戻る。
ちょうど号令がかかり、百人ほどが一斉に向きを変えていた。槍先が揃い、足音も重なる。
「数はいる」
「帝国兵ですか?」
「ああ」
それ以上は続かない。
褒めているようにも聞こえなかった。
「お前たちは何をしている」
「明日、荷車を出す道の確認です。あと、ほかの軍がどうしているのかも」
「他人の軍を見てどうする」
「僕たちは、まだあまり上手く歩けないので。真似できそうなところがないかと思って」
男の顔が、少しだけこちらへ向く。
「どの隊だ」
僕は来た道を振り返る。天幕の隙間から、細い青がかすかに見えていた。
「あの青い布のところです」
「あれか」
「はい」
「何人いる」
「九十七です」
「お前の兵か」
「僕の兵というわけではありません。今は、ヴェルナー子爵家預かりで」
「誰が進めと命じるのだ」
「最後は僕です」
「誰が止める」
「それも、最後は」
「ならば、お前の下にいるということだな」
言い切られて、すぐには返せなかった。
「でも、僕に仕えると決めた人ばかりではありません」
「それがどうした」
「どうしたと言われても……そのままの意味です」
「お前の判断で動き、お前が誤れば死ぬ。それは預かっているということだ」
男は青い布を見たまま。
「お前が命じ、それで動くなら、やつらはお前の庇護下であろう」
「庇護……」
「戦えるのは何人だ」
「半分くらいです」
「残りは」
「荷車を見る人、記録をする人、見張り。古傷があって、長く歩けない人の手伝いも」
「槍は持たせていないな」
「持てる人もいます。でも、前へは出していません」
「それでいい」
初めて、男の声が少しだけ低くなった。
「強い者が前へ立つ。弱い者は、その後ろへ置け」
「後ろへですか?」
「庇護を受ける場所だ」
帝国軍の槍列が、また向きを変える。
今度は一人遅れた。指揮官の怒鳴り声が飛び、列が止まる。
「弱い人は、強い人に従うってことですか?」
「庇護が必要な者ならな」
返事が早すぎて、僕の方が言葉を探すことになった。
「強い者には、下の者を守る責任がある。守れるから上に立つ。命じるのも、そのためだ」
「その人が、間違っていたら?」
「何を間違う」
「命令とか、決めたことが」
「それでも守れるなら、そいつが主だ。守れないようでは違うがな」
「その時は?」
「別の強い者に従え。誰にも従いたくないなら、自分自身で身を守れ」
簡単に言う。けれど、冗談でも、考えずに口へ出しているようにも見えない。
「守ってもらっていても、自分で決めたい人はいると思います」
「好きに動く者まで守れるほど、戦場は甘くはない」
男の目が、僕の腰の剣へ落ち、また顔へ戻る。
「お前は強いのか」
「僕は……あまり」
「剣は」
「ついてくれている幼馴染たちの方が、ずっと強いです」
「隊を動かすのはどうだ」
「それも幼馴染の方が分かります。食料や人数は弟で、荷車は人足上がりの友人です」
「では、お前は何ができる?」
詰まった。
青い布の向こうで、誰かの号令が上がっている。ここからでは何を言っているのか聞き取れない。
「皆に聞いて……最後に決めます」
「なら、それをやれ」
「それでいいんでしょうか……」
「分からんことを知る者に聞くのは当然だ」
男は、少し不思議そうに僕を見る。
「だが、重い決断を他人にさせるな。お前の下でやつらが死ぬなら、お前自身が決めろ」
喉の奥が少し乾いた。
「守れるなら命じろ。命じるなら守れ」
「守れば、従わせていいんですか?」
「逆だ」
男は、ようやく僕へ身体ごと向き直った。
「従わせるなら守れ。守れない奴に、上へ立つ資格はない」
遠くから、馬の音が近づいてくる。
一騎ではない。北方軍の外套を着た騎兵たちが、道を分かれて何かを探していた。
「こちらにもおられない!」
「水場を見ろ!」
そのうちの一人が、草地にいる男を見つける。
「辺境伯閣下!」
馬が一斉にこちらへ向いた。
隣で、カインの息が止まる。
「また単身で軍営を離れられては困ります!」
「離れてはいない。軍営の中だ」
「北方軍営の外です!」
「同じ討伐軍だろう」
騎兵たちは、そんな理屈では済まないという顔で馬を寄せる。
「アズール様」
カインの声が硬い。
次の瞬間には深く礼を取っていた。
「ドラグヴァルト辺境伯閣下とは存じ上げず、失礼いたしました」
頭の中で、丘から見た北方軍の旗と、目の前の男がようやく重なる。
僕も慌ててカインに続いた。
「馴れ馴れしく接してしまい、申し訳ありません」
「気にするな」
ヴァルグラム・ドラグヴァルトは、探し回っていた部下たちを一度見回す。
「勝手に出たのは俺だ」
「軍議後の確認が残っております。せめて一騎、お連れください」
「歩くのに騎馬はいらん」
「護衛の話をしております」
答えず、ヴァルグラムは青い布の方へ顔を向けた。
「明日、北方軍が道を開く」
「はい」
「お前は、お前の九十七を落とすなよ」
そのまま騎兵の一人から手綱を受け取り、馬へ乗る。
部下たちは今度こそ逃がさないように、前後と左右を固めていった。
騎馬の一団が北方軍の陣へ戻っていく。
「あれが……ドラグヴァルト辺境伯か」
「肝が冷えました」
カインはまだ、遠ざかる背中を見ている。
「……すごい人だね」
「はい」
「いろいろ考えさせられたよ」
返事はない。
弱い者は、強い者に従う。
守れる者が上に立ち、命じる。
納得したとは言えない。
でも、ただ偉そうに言っていたわけではなかった。あの人の後ろには、昨日見た北方軍がいる。全員が戦う者に見えた、あの軍が。
「戻ろうか」
青い布の下で、また荷車が動き始めている。
*
戻る頃には、ヴェルナー軍の天幕前へ人が集まっていた。
ロイター殿が命令書を右手で開き、周囲を見回す。
「明朝、全軍進発。進路は北東」
ざわめきが小さく広がる。
「目標は灰衣の大拠点。何事もなければ十日ほどだが、道中の小拠点、中規模拠点を順次攻略する。十日で着くとは思うな」
ノエルの指が、すぐ帳面の食料欄へ移った。
「先鋒はドラグヴァルト辺境伯家軍。帝国直属軍が中央。東南軍は南翼、補給路と水路の確保を担当する」
少し前まで話していた男が、明日は全軍の一番前を進む。
「ヴェルナー子爵家軍は、東南軍内の指定列。青一条は右後方を離れるな。勝手な離脱、追撃は禁止。拠点攻略時も、命令がない限り位置を守れ」
「はい」
「返事だけはいいな」
「ほかは、これからです」
ロイター殿は命令書を畳み、ノエルへ補給の木札を渡す。
すぐに人が動き始めた。
「食料、十日では見ません。次の配給地点までで計算します」
「荷車は大丈夫?」
「六台とも動くよ。ただ、三台目の右輪は今夜もう一度見る」
トマは言いながら、縄の束を肩へ引っかける。
「古傷組は二台目と三台目の間だ。明日の朝、足を見て替えるぞ」
ルッツが人を集め、エルヴィンは見張りの交代を書き直す。ガレスは地面へ明日の列を引き、マルクがその横で名前を呼び始めた。
ミケルが畳んでいた青い布を広げる。
風は弱い。
細い一条が一度だけ持ち上がり、九十七人の頭の上へ落ちた。
「前から十人! 今度こそ数を間違えるな!」
ガレスの声が飛ぶ。
「十一人目はどうするんです!」
「そこで待て! 勝手に次へ入るな!」
返事と笑いが重なり、六台目の荷車がもう一度軋んだ。




