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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第58話 七日目の列


 夜明け前から、陣のあちこちで角笛が鳴っていた。


 最初の一つ。空はまだ暗い。

 二つ目が鳴る頃には、ルミナ沿海伯家の大旗の下で火が落とされ始める。三つ目を待たず、街道に近い部隊はもう天幕を畳み終えていた。


 僕たちのいるヴェルナー子爵家軍の右後方では、まだ荷車の縄を締め直している。

 先頭の方では兵が歩き始めているのに、後ろでは麦袋の積み直し。東南軍全体がどこからどこまで続いているのか、陣の中にいると分からない。


「九十七です」


 ノエルは人数欄の末尾へ印をつけ、帳面をぱたんと閉じた。


「うん、問題なしだね」


「昨夜から人が増減する理由はありません」


「減ってないならよかったよ」


「そう簡単に増えたり減ったりされたら困ります」


 返ってくるのは、昨日と同じ言葉。


 青い一条の布は、ミケルがもう棒の先へ結び直している。風はほとんどない。周囲の天幕が次々に畳まれていく中、その細い青だけが人の頭より上に残って見える。


「よし、並べ! 槍持ちは前だ!」


 ガレスの声が、畳みかけの天幕の間を突き抜ける。


「荷車へ寄るな! 前と間を空けろ!」


 言われた者たちが動き始める。昨日よりは早い。けれど、右側だけが少し前へはみ出していた。


「そっち、出すぎです!」


 マルクは前へはみ出した列へ、肩から割り込んでいく。


「どれくらい下がるんだよ!」


「前の槍の石突きが、背中へ届かないくらい!」


「何歩だ?」


「人によりますよ!」


「曖昧な物差しを号令にするな!」


 ガレスの太い声に、前列の何人かが肩をすくめる。

 マルクは両手を少し上げてなだめる形を作り、苦笑いのまま振り返った。


「だったら槍の兄貴が、歩数まで決めてください!」


「二歩だ!」


「了解です! 全員二歩下がれ!」


 前列が二歩下がる。

 つられて後ろも動き、荷車へぶつかりかけた。


「下がるのは前だけです!」


 出発前から、もう騒がしい。

 人が増えると、問題も増える。今のところ大事には至っていないけれど、小さいものなら毎日いくらでも湧いてくる。


 荷車の方へ目を向ける。トマは二台目の下へ潜り込み、車軸へ手を当てていた。


「まだかかりそう?」


 荷台の縁から覗き込むと、車輪の陰からくぐもった声が返ってくる。


「まだもう少し。昨日の道で泥を噛んでるんだ」


「もう少しで出発になるよ」


「車輪が外れてもいいなら、すぐ出るよ」


「それは……困るね」


「もうすぐ終わるからもう少しだけ待って」


 荷車の横では、ルッツが古傷のある者をつかまえて、並びを替えている。


「今日は三台目の後ろだ」


「昨日は二台目だったぞ」


「二台目は水桶が増えた。足を挟まれたくなければ三台目へ行け」


「毎日変わるな」


「そうだ、同じ日なんてあると思うのが間違いだぞ。荷も道も毎日変わるんだ」


 少し離れたところでは、ブルーノが大棍棒を肩へ載せ、荒事組の前に立っている。


「歩くだけだからって、勝手に列から抜けるんじゃねえぞ」


「水飲む時もですか?」


「飲むなら言ってから行け」


「誰にです?」


「俺以外の誰かにだ」


「ブルーノさんには言わなくていいんですか」


「俺は数えねえ」


 ベルントは帳面の端で額をかく。深いため息を一つ落としてから、ようやく顔を上げた。


「はあ、だから私に言ってください。ブルーノさんへ言うと、忘れます」


「……忘れねえよ」


「昨日は、三人、一昨日は二人忘れてましたね」


「ちゃんと戻ってきただろ」


「私が数えていますからね」


 ブルーノは面白くなさそうに顔を背けて鼻を鳴らした。


 その横を、ヴェルナー子爵家の騎馬伝令が駆け抜ける。


「右後方、出発準備! 前が動くぞ!」


 ガレスは騎馬伝令を追っていた目を切り、列の先頭へ向き直る。


「進むぞ!」


「進むぞ!」


 マルクは身をひねり、後方へ片手を振って声を投げる。


「進むぞ、後ろへ伝えろ!」


 いくつもの声が重なる。

 前列が歩き、少し遅れて荷車が軋む。九十七人が、それぞれ違う足から歩き始めた。


 昨日の夕方よりは、まとまっている。

 そう思ったのも束の間、陣を出る前の狭い道で、もう列の真ん中が膨らんだ。


「右へ出るな!」


「前が遅いんだよ!」


「遅いなら、お前も遅く歩け!」


 朝靄の向こうまで、ガレスの声が何度も響く。



 日が昇っても、東南軍の列に終わりは見えない。


 僕たちの左には、ヴェルナー子爵家軍の槍列。その向こうから、別の寄子家の旗が覗いている。前を見ても旗。振り返っても旗。


 右手には、畑と低い水路が続く。

 村が見えることもあったが、道端へ出てくる者はいない。戸は閉まり、畑の人影も、軍の先頭が近づく前に遠くへ退いていく。


 一万を超える軍へ、わざわざ寄ってくる者などいない。


 エルヴィンが出した見張り役が、何度か列へ戻る。


「水路沿い、人影なし。橋の下も何もなし」


「次は橋の向こうまで見るな。列から離れすぎる」


「はい」


 セオが短く記録する。

 昨日の二十一人のような灰色の一団は、影もない。


 代わりに、兵たちの目は隣を歩くヴェルナー兵へ向いている。

 ヴェルナー兵は、槍を真っ直ぐには立てない。

 穂先を少し前へ傾け、石突きを腰の横へ寄せる。歩くたびに揺れても、隣の肩には当たらない。


 アズール隊の前列で、槍を持った男が一人、そっと同じ持ち方を試す。


「何してる?」


 隣の男が、揺れる槍を避けながら顔を寄せた。


「向こうを見ろ。あれなら歩きやすそうだ」


「ガレス殿には、そう持てって言われてねえぞ」


「駄目なら怒鳴られるだろ」


 少し歩いても、ガレスは何も言わない。


 もう一人。

 さらに、その後ろも真似をする。


 しばらくすると、槍が隣の肩へ当たる乾いた音は、列の前半からほとんど聞こえなくなっていた。


 昼前、前方で列が詰まった。


「止まれ!」


 ガレスの号令が、列の前を叩く。


「止まるぞ!」


「後ろへ伝えろ!」


 声は回る。けれど、最後尾が止まるまでに、前列では三人が振り返っていた。

 荷車の前にいた者は、後ろから押されて二歩進む。


「詰めるな!」


 ガレスは踵を返し、列の脇を大股で駆け戻る。


「前が止まったら、お前たちも止まれ!」


「後ろから押されたんだよ!」


「なら後ろへ言え!」


「止まれって!」


 男はその場で振り返り、後ろへ怒鳴りつけた。


「その時に言え! 今ではない!」


 近くのヴェルナー兵が、こちらを見て笑う。

 男は口をつぐんだ。


 やがて前が動き出す。ヴェルナー兵は前列から順に歩き、後ろの者はすぐには足を出さない。自分の前に、さっきと同じ間ができるのを待っている。


 こちらの列でも、一人が前へ出ようとした隣の腕をつかむ。


「まだだ。向こうと同じように間が空いてからだ」


「いつから向こうの兵になったんだよ」


「ぶつからねえように真似してみるだけだ」


 ガレスの視線が、一度だけ二人をなぞる。

 それだけで、口は挟まない。



 一日目の野営地では、さっそく荷車の置き場所を間違える。


 前から入った一台目を、そのまま奥へ。二台目も続ける。三台目へ手をかけたところで、トマがふと止まり、明朝最初に出す水桶の荷車と出口を見比べて顔をしかめた。


「これ、明日どうやって出すんだ?」


 視線が一斉に奥へ向く。


「今、入れたばかりだが」


「だから聞いてるんだよ」


「後ろから出せば?」


「後ろは溝だ」


 結局、六台ともやり直し。

 炊事の火も遅れ、水汲みへ行く者さえ決まらない。豆の鍋が火へ掛かった頃には、もう日が沈み始めていた。


 隣のヴェルナー軍には、僕たちが荷車を動かし直している間に、もう火が並んでいる。


 ルッツはそれをしばらく眺め、黙って地面へ線を引く。


「明日は、先に出口を決める」


「どうやって決めるんです?」


 地面の線を覗き込んだ一人が、首を傾げる。


「街道側が出口になるだろう、普通に考えれば」


「確かに……?」


「迷う場合は、先に聞きに行く」


 言われれば、どれも当たり前のことだ。

 けれど、僕たちは誰も考えず、先に聞きにも行かなかった。


 食事が終わると、ガレスは器を置くより先に槍持ちへ顎をしゃくり、青い布の前へ集め始める。


「半刻だけですよ」


 通り過ぎようとするガレスの袖をノエルがつかみ、顔の前へ指を一本立てる。


「俺が決めることだ」


「ガレスさんは注意しておかないと長引かせるので、先に言いました」


「昨日より早く止まれるまでやる」


「半刻でできるところまでです。明日も一日歩くんですよ。疲労を残しては本末転倒です」


「……わかった、半刻だ」


 青い一条を背に、槍持ちが二列を作る。


「止まれ!」


 前列が止まる。

 後列の一人は、その背中へそのままぶつかった。


「もう一度!」


「右を向け!」


 前の者は右、後ろの者は左。

 動くタイミングは掴み始めているのに、肝心の向きが合わない。


「どっちだよ!」


「青い布を背中にしてください!」


 マルクは左右へ腕を広げ、自分の背中で青い布を示す。


「青い布を背中! 槍先を外! 二歩だけ前!」


 今度は全員が同じ方を向く。

 ただし、一人の槍が隣の耳をかすめかけた。


「下げろ!」


「槍をですか?!」


「声だ!」


「どっちも下げてください!」


 半刻を使っても、出来はまだひどい。

 それでも、何をするための訓練なのかは、昨夜より皆に伝わっている。


 訓練が終わると、ベルントは荒事組の足元を一人ずつ見て回る。


「足を引きずっていませんか」


「歩き疲れただけだ」


「明朝も同じなら、荷車側です」


「ブルーノさんには言うなよ」


「なぜです?」


「鍛え方が足りねえって言われる」


「聞こえてるぞ!」


 離れた場所から、ブルーノの声だけが飛んでくる。


「明日は走らせる!」


「走らせません!」


 二人分の「走らせません」が、ぴたりと重なった。



 二日目、槍の持ち方が少し揃う。


 三日目には、停止の声を聞いた者が、ガレスに言われる前に後ろへ怒鳴るようになっていた。


 その日の午後、僕たちの右前を、小さな騎士爵家の隊が進んでいた。

 旗の下にいるのは百人いるかどうか。僕たちと数は大きくは変わらないくらいだ。


 前列だけが速い。後ろは遅れ、真ん中へ荷車が入り込む。その荷車を左右から兵が追い越していた。

 槍先はあちこちへ揺れ、指揮官らしい騎馬が怒鳴るたび、近くの者だけが慌てて動く。


 細い道へ入ると、前列だけが二列になった。後ろは四列のまま、そこで詰まる。


「ひでえな、あれ」


 荒事組の一人が、喉を鳴らして笑う。


「俺らよりひどいぞ」


「いや……」


 隣の男は、少し前までの自分たちを思い出したのか、声を落とす。


「俺らも、ああ見えてたんじゃねえか?」


「昨日まではな」


 前を歩く男が、肩越しに返した。


「今も大して変わらねえだろ」


 誰も笑わなくなった。


 しばらくして、アズール隊の右側が少し膨らむ。

 ガレスの首が動くより早く、さっき笑っていた男が列の脇へ声を張った。


「横へ出てるぞ! あの隊みたいになってる!」


「一緒にするな!」


「なら戻れ!」


 右側が列へ戻っていく。

 前との間が開きすぎた者には、後ろから声が飛ぶ。


「空けすぎだ!」


「詰めたらぶつかるだろ!」


「向こうのヴェルナー兵と同じくらいだ!」


「どれだよ!」


「左見ろ!」


 兵たちは、ガレスではなく隣の軍を見て、自分たちの位置を直していく。

 その声は、列の先頭にいるガレスにも届いているはずだ。


「怒らないの?」


 僕が横顔を覗き込んでも、ガレスは前を向いたまま。歩調も変えない。


「直っているなら、怒鳴る必要はない」


「少し寂しそうだね」


「そんなことはない」


 ほんの少しだけ、そう見えた。



 三日目の夜。荷車は、一度で決まった。


 トマが野営地へ入る前にヴェルナー側へ出口を聞きに行き、ルッツが地面へ印を書いて位置を決める。

 荷車は内側。槍持ちは外側。古傷のある者は水場の近くへ寄せ、朝先に動く荷車は道へ向けた。


「今日は早いね」


 荷車の脇へしゃがんで声をかけると、トマは縄を強く引き、鼻を鳴らす。


「昨日と一昨日が遅すぎただけだよ」


 四日目、ミケルが青い布を立てるより先に、荷車を置く場所が空く。


 五日目、水汲みへ出る者は、誰に言われるでもなく二人組になっていた。

 ルヴィンの見張り役も、戻るなり、見た人数と武器の有無から報告する。


「右の畑に農夫三人。武器なし。こちらを見て村へ戻っていきました」


「道の先は?」


「空いています。水路に橋一つ。荷車は通れます」


 セオが書き終えるまで、報告する側も黙って待つようになる。

 槍の訓練も、毎晩半刻だけ。


「止まれ!」


「止まるぞ!」


「後ろへ回せ!」


「青い布を背中!」


 最初はガレスとマルクだけだった声に、四日目には列の中から返事が混じる。


 五日目の夜。ガレスの「右を向け」が飛ぶと、前列が向き、その後ろも続く。槍先までは揃わない。それでも、逆を向く者はいない。


「構えろ!」


 槍が前へ出る。

 遅れたのは、一本だけ。


「もう一度だ」


「一本だけですよ」


 前列の端から、少し不満そうな声が漏れる。


「その一本の隙間から敵が入ってくるぞ」


「でも、昨日は五本遅れてました」


「ああ、今日は一本まで減った。次こそはなくすぞ」


 男は口を尖らせたまま、それでも槍を戻した。


「もう一度!」


 脇で見ていたノエルが、指を四本、ガレスの視界へ差し出す。


「あと四回ですよ」


「なぜ回数を決める?」


「半刻までの時間がちょうどそれくらいです」


 ガレスは空を仰ぎ、月の位置を測る。


「あと五回はできる」


「四回です」


 五回目へ入ろうとしたところでノエルに睨まれ、ガレスもそこで槍を収めた。



 六日目の昼前、前方から停止の声が走った。


 道の先で、別の軍の荷車が車輪を溝へ落としたらしい。


「止まれ!」


 ガレスの号令が、前方から来た声へ重なる。


「止まるぞ!」


 前列から、すぐ声が返る。


「止まれ! 後ろへ回せ!」


「荷車止めろ!」


 トマの腕が、御者の前へ伸びる。

 御者が手綱を引き、後ろの荷車も軋みながら止まった。


「詰めるな!」


 後ろからも声が上がる。


 僕も足を止めた。


 誰の胸も、前の背中へ当たらない。

 荷車の馬が一頭、前へ首を振る。六台とも、列の中に収まったままだ。


 声が最後尾まで届く。

 遠くで、ニルスの手が上がった。


「止まったぞー!」


 誰かが吹き出し、その笑いが列の中へ広がっていく。


「今の、ちゃんと止まれたよな?」


「止まっただけだ」


「六日前は、それもできなかっただろ」


 ガレスは列の横をゆっくり歩く。槍列、荷車、最後尾のニルス。順に目を向けていく。

 前列の一人はその視線に気づき、やり直しと言われる前に足を開き直した。


 ガレスの口は開かない。


 やがて前の道が空く。列の先へ戻ったガレスが、片手を上げた。


「進むぞ!」


 やり直しは、なかった。


 少し遅れて、列の中から声が返る。


「進むぞ!」


「後ろへ伝えろ!」


 九十七人が、また同じ方へ歩き出す。



 七日目。道を埋める轍が増えていく。


 東南軍がつけたものだけではない。北から来た車輪の跡と、西から入った跡が重なり、乾いた土を細かく砕いている。道端には馬糞と藁。飼葉を積んだ荷車が、別の道から次々と合流してくる。


 帝国兵が、街道脇へ等間隔に立っている。

 進んでくる旗を見て、通す道を振り分けている。


「ルミナ沿海伯家軍、東の道へ!」


「荷駄は左! 兵列は右を空けろ!」


 伝令の騎馬が何度も横を抜けていく。道の端では、人足が崩れた土を均し、溝へ板を渡している。

 やがて丘を越えた先に、天幕の群れが浮かんだ。


 一面の天幕。炊事の煙が幾筋も上がり、大きな旗が風をはらんでいる。


「着いたんですか?」


 近くのヴェルナー兵へ聞くと、兵は前を向いたまま鼻で笑う。


「あれは荷駄営だ」


「荷駄だけ?」


「本営は、もう一つ丘を越えた先だ」


 目の前の天幕だけで、旧ハルヴァ砦の時に見た軍営より大きく見える。


「意味が分からねえな」


 ブルーノは荷駄営の端から端まで目を走らせ、頭を掻く。


「何が?」


「荷車だけで、あれかよ」


 荷駄営の外側には、袋と樽の山。馬を集めた区画、壊れた車輪を直す場所、その向こうには鍛冶の火がいくつも並ぶ。


 僕たちは荷車を六台並べるだけで、初日に一度全部動かし直した。

 丘の下では、その何十倍、何百倍もの荷車が、兵の行軍を邪魔せず流れていく。


 帝国兵は旗を一瞥するだけで、ヴェルナー子爵家軍を別の道へ振り分ける。


「ヴェルナー子爵家軍、南東外営へ!」


「青一条は後ろを離れるな!」


 ミケルが青い布を高く上げる。

 もう、周りを見回す者はいない。


「青一条、進むぞ!」


 マルクは青い布の下へ駆け寄り、後方へ腕を回す。


「進むぞ!」


 声が、前から後ろへ走る。


 帝国軍の外営へ入ってからも、まだ歩く。旗の間を抜け、荷車道を横切り、水場へ向かう列を待って、また進む。


 前にも後ろにも兵。槍の穂先が並び、馬がつながれ、天幕の列は丘の向こうへ消えていく。

 旧ハルヴァ砦で見たルミナ沿海伯家軍も大きかった。けれど、その東南軍一万三千が、ここでは一つの方向から入ってくる軍でしかない。


 ヴェルナー子爵家軍の配置が決まり、僕たちも右後方へ収まる。


「止まれ!」


 ガレスの号令が、荷車の軋みと外営のざわめきを押し切る。


「止まるぞ!」


「後ろへ回せ!」


 九十七人の足が止まる。同時ではない。一人が半歩多く進み、二台目の荷車も少し軋んだ。


 それでも、ぶつかる音は一つもない。


 ノエルは列の端から端まで指先で追い、帳面へ最後の印を落とす。


「九十七です」


「七日間、同じだったね」


「はい。到着しましたので、ようやく同じだったと言えます」


「じゃあ、もう大丈夫かな?」


「これから野営地を作ります」


「まだ駄目か」


「今日が終わるまでは」


 荷車を置き始めたところで、ロイター殿が荷の隙間を縫って現れる。

 左腕は、相変わらず身体の脇から大きく離れない。


「アズール殿。水場と荷車道を見ておけ。明日以降、場所を間違えると戻れなくなるぞ」


「そんなに広いんですか?」


「上から見た方が早い」


 ロイター殿の顎が、外営の脇にある低い丘へ動く。


「ガレス、ブルーノ、ノエルも来て。カインも」


「当然、お供いたします」


 ミケルと青い布を九十七人のところへ残し、僕たちはロイター殿について丘を上る。



 丘の上へ出た途端、帝国軍の陣が視界いっぱいに開けた。


 最初に目へ入るのは、旗。


 中央に大きな帝国旗。その周囲を軍団ごとの旗が囲み、さらに外側へ、各地から来た貴族家の旗が並んでいる。


 旗の下には、区画ごとの天幕。

 兵の列が通る道と荷車の道は分けられ、馬をつなぐ場所、水を運ぶ場所、炊事の煙が上がる場所も、それぞれ固まっている。


 何騎もの伝令が道を走っている。それでも、兵がその道へはみ出すことはない。


 僕たちの九十七人なら、あの道の一つへ全部入ってしまう。

 同じような道が、丘の向こうにも何本も続いている。


「これが、五万の軍勢ってやつか……」


 ブルーノは遠くの帝国旗と、丘の下に広がる陣を何度も見比べる。


「中央の帝国直属軍だけで、五万近いと聞いています」


 ノエルの返事にも、わずかに息が混じる。


「じゃあ、今入ってきた俺らは?」


「別です。北方軍も別です」


 ブルーノの口が、そこで閉じた。


 僕も、八万と言われた時には、数が大きすぎてどれくらいなのか分からなかった。

 九十七なら、ノエルが一人ずつ数えられる。千を超えれば、旗と帳面に分けなければ分からない。丘の下の人数は、もう目で数えるものではない。


「すごいな」


 それ以上の言葉は、出てこない。


「形は、よく整っている」


 ガレスは遠い本営へ目を凝らし、わずかに顎を引く。

 褒めたのか、形だけを測ったのか。声からは分からない。


「これだけの兵と荷を、集め、整えられるのが帝国軍だ」


 ロイター殿は無事な右手を腰へ当て、中央の陣へ視線を滑らせる。


 視線を北へ移すと、帝国軍から少し離れて、もう一つ大きな陣がある。

 旗の色も、天幕の形も違っていた。


「あれが北方軍ですか?」


 ノエルは吹き上げる風に目を細め、丘の北側へ身を乗り出す。


「ドラグヴァルト辺境伯家と、その寄子だ」


 ロイター殿が、顎で北側の旗を示す。


 人数は帝国直属軍より少ない。

 天幕も、中央軍ほど綺麗には揃っていない。武具や馬具に、遠目でも分かるような飾りもない。


 それなのに、そこだけが別のものに見える。


 北方軍の端を、荷車が二台進んでいる。

 誰かが大声で道を空けろと命じたわけではない。近くの兵が荷車に気づき、半歩退く。空いたところへ別の兵が入り、見張りの位置には穴が残らない。


 一頭の馬が、積み荷の音に驚いて首を振る。近くの二人が同時に手を伸ばし、一人は手綱、もう一人は馬の横へ。ほかの兵は騒がず、その脇を避けて通っていく。


 指揮官を待つ者はいない。

 だからといって、勝手に走り回る者もいなかった。


「今、何か命令が出た?」


 北方軍の動きを追ったまま尋ねると、ガレスは馬と荷車の間へ一度目を走らせ、首を横へ振る。


「必要がなかったのだろう」


「でも、皆が違うことをしたら、ばらばらにならない?」


「それぞれが自分のいる場所で、何をすべきか分かっているんだろう」


 ガレスの目は、北方軍へ据えられたまま。


「命じられて並んでいるのではない。並び方を知っている」


 ブルーノは、いつの間にか口を閉ざしている。


「強そう?」


 横から聞いても、ブルーノはすぐには返さない。北方軍の端から中央まで、ゆっくり目を這わせていく。


「……強えよ」


「帝国兵より?」


「比べんな」


 いつもの笑いはない。


「あいつらは、全員が戦う奴だ」


 北方軍では、休んでいる者も武器を手の届く場所へ置いている。

 話している者も、食事をしている者もいる。それでも、自分の周りを見ていない者は一人もいないように見えた。


 やがて、その軍の中央を数騎の騎馬が通る。


 遠くて、顔までは分からない。

 先頭近くには、ドラグヴァルト辺境伯家の大旗。


 騎馬が進む先で、兵たちが道を空ける。作業を止める者はいない。大声で名を呼ぶ者も、直立して礼を取る者もいない。


 それでも、遠くの兵まで一度は顔を上げる。騎馬の位置を確かめると、すぐ自分の仕事へ戻っていった。


「辺境伯殿だ」


 吹き上げる風の中へ、ロイター殿の低い声が落ちる。


「ヴァルグラム・ドラグヴァルト……」


 ノエルの唇が、確かめるようにその名をなぞる。


 誰かが命じたようには見えない。それでも、その人の進む先だけは、最初から道が引かれていたように開いていく。


「味方なんだよね?」


 僕も北方の旗へ目を戻す。ロイター殿はそちらを見たまま、一度だけ頷いた。


「ああ。北方軍も、同じ討伐へ来ている」


 ブルーノの指が、大棍棒の柄へ食い込む。


「敵には回したくねえな」


 ガレスの目も、北方軍に据わったままだ。


 その時、丘の下から声が飛ぶ。


「青一条! 荷車道を空けろ! 配置を詰めるぞ!」


 斜面の下で、ミケルが青い布を持ち上げる。

 九十七人が、こちらを待っている。


 真っ直ぐとは言いがたい。

 右端は少し前へ出て、最後尾の荷車も半台分ほど離れている。


 けれど、七日前の列ではない。


「戻ろう」


 僕たちは丘を下りる。

 斜面の下では、九十七人がもう、荷車道を空けるために肩を寄せ始めていた。


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