第58話 七日目の列
夜明け前から、陣のあちこちで角笛が鳴っていた。
最初の一つ。空はまだ暗い。
二つ目が鳴る頃には、ルミナ沿海伯家の大旗の下で火が落とされ始める。三つ目を待たず、街道に近い部隊はもう天幕を畳み終えていた。
僕たちのいるヴェルナー子爵家軍の右後方では、まだ荷車の縄を締め直している。
先頭の方では兵が歩き始めているのに、後ろでは麦袋の積み直し。東南軍全体がどこからどこまで続いているのか、陣の中にいると分からない。
「九十七です」
ノエルは人数欄の末尾へ印をつけ、帳面をぱたんと閉じた。
「うん、問題なしだね」
「昨夜から人が増減する理由はありません」
「減ってないならよかったよ」
「そう簡単に増えたり減ったりされたら困ります」
返ってくるのは、昨日と同じ言葉。
青い一条の布は、ミケルがもう棒の先へ結び直している。風はほとんどない。周囲の天幕が次々に畳まれていく中、その細い青だけが人の頭より上に残って見える。
「よし、並べ! 槍持ちは前だ!」
ガレスの声が、畳みかけの天幕の間を突き抜ける。
「荷車へ寄るな! 前と間を空けろ!」
言われた者たちが動き始める。昨日よりは早い。けれど、右側だけが少し前へはみ出していた。
「そっち、出すぎです!」
マルクは前へはみ出した列へ、肩から割り込んでいく。
「どれくらい下がるんだよ!」
「前の槍の石突きが、背中へ届かないくらい!」
「何歩だ?」
「人によりますよ!」
「曖昧な物差しを号令にするな!」
ガレスの太い声に、前列の何人かが肩をすくめる。
マルクは両手を少し上げてなだめる形を作り、苦笑いのまま振り返った。
「だったら槍の兄貴が、歩数まで決めてください!」
「二歩だ!」
「了解です! 全員二歩下がれ!」
前列が二歩下がる。
つられて後ろも動き、荷車へぶつかりかけた。
「下がるのは前だけです!」
出発前から、もう騒がしい。
人が増えると、問題も増える。今のところ大事には至っていないけれど、小さいものなら毎日いくらでも湧いてくる。
荷車の方へ目を向ける。トマは二台目の下へ潜り込み、車軸へ手を当てていた。
「まだかかりそう?」
荷台の縁から覗き込むと、車輪の陰からくぐもった声が返ってくる。
「まだもう少し。昨日の道で泥を噛んでるんだ」
「もう少しで出発になるよ」
「車輪が外れてもいいなら、すぐ出るよ」
「それは……困るね」
「もうすぐ終わるからもう少しだけ待って」
荷車の横では、ルッツが古傷のある者をつかまえて、並びを替えている。
「今日は三台目の後ろだ」
「昨日は二台目だったぞ」
「二台目は水桶が増えた。足を挟まれたくなければ三台目へ行け」
「毎日変わるな」
「そうだ、同じ日なんてあると思うのが間違いだぞ。荷も道も毎日変わるんだ」
少し離れたところでは、ブルーノが大棍棒を肩へ載せ、荒事組の前に立っている。
「歩くだけだからって、勝手に列から抜けるんじゃねえぞ」
「水飲む時もですか?」
「飲むなら言ってから行け」
「誰にです?」
「俺以外の誰かにだ」
「ブルーノさんには言わなくていいんですか」
「俺は数えねえ」
ベルントは帳面の端で額をかく。深いため息を一つ落としてから、ようやく顔を上げた。
「はあ、だから私に言ってください。ブルーノさんへ言うと、忘れます」
「……忘れねえよ」
「昨日は、三人、一昨日は二人忘れてましたね」
「ちゃんと戻ってきただろ」
「私が数えていますからね」
ブルーノは面白くなさそうに顔を背けて鼻を鳴らした。
その横を、ヴェルナー子爵家の騎馬伝令が駆け抜ける。
「右後方、出発準備! 前が動くぞ!」
ガレスは騎馬伝令を追っていた目を切り、列の先頭へ向き直る。
「進むぞ!」
「進むぞ!」
マルクは身をひねり、後方へ片手を振って声を投げる。
「進むぞ、後ろへ伝えろ!」
いくつもの声が重なる。
前列が歩き、少し遅れて荷車が軋む。九十七人が、それぞれ違う足から歩き始めた。
昨日の夕方よりは、まとまっている。
そう思ったのも束の間、陣を出る前の狭い道で、もう列の真ん中が膨らんだ。
「右へ出るな!」
「前が遅いんだよ!」
「遅いなら、お前も遅く歩け!」
朝靄の向こうまで、ガレスの声が何度も響く。
*
日が昇っても、東南軍の列に終わりは見えない。
僕たちの左には、ヴェルナー子爵家軍の槍列。その向こうから、別の寄子家の旗が覗いている。前を見ても旗。振り返っても旗。
右手には、畑と低い水路が続く。
村が見えることもあったが、道端へ出てくる者はいない。戸は閉まり、畑の人影も、軍の先頭が近づく前に遠くへ退いていく。
一万を超える軍へ、わざわざ寄ってくる者などいない。
エルヴィンが出した見張り役が、何度か列へ戻る。
「水路沿い、人影なし。橋の下も何もなし」
「次は橋の向こうまで見るな。列から離れすぎる」
「はい」
セオが短く記録する。
昨日の二十一人のような灰色の一団は、影もない。
代わりに、兵たちの目は隣を歩くヴェルナー兵へ向いている。
ヴェルナー兵は、槍を真っ直ぐには立てない。
穂先を少し前へ傾け、石突きを腰の横へ寄せる。歩くたびに揺れても、隣の肩には当たらない。
アズール隊の前列で、槍を持った男が一人、そっと同じ持ち方を試す。
「何してる?」
隣の男が、揺れる槍を避けながら顔を寄せた。
「向こうを見ろ。あれなら歩きやすそうだ」
「ガレス殿には、そう持てって言われてねえぞ」
「駄目なら怒鳴られるだろ」
少し歩いても、ガレスは何も言わない。
もう一人。
さらに、その後ろも真似をする。
しばらくすると、槍が隣の肩へ当たる乾いた音は、列の前半からほとんど聞こえなくなっていた。
昼前、前方で列が詰まった。
「止まれ!」
ガレスの号令が、列の前を叩く。
「止まるぞ!」
「後ろへ伝えろ!」
声は回る。けれど、最後尾が止まるまでに、前列では三人が振り返っていた。
荷車の前にいた者は、後ろから押されて二歩進む。
「詰めるな!」
ガレスは踵を返し、列の脇を大股で駆け戻る。
「前が止まったら、お前たちも止まれ!」
「後ろから押されたんだよ!」
「なら後ろへ言え!」
「止まれって!」
男はその場で振り返り、後ろへ怒鳴りつけた。
「その時に言え! 今ではない!」
近くのヴェルナー兵が、こちらを見て笑う。
男は口をつぐんだ。
やがて前が動き出す。ヴェルナー兵は前列から順に歩き、後ろの者はすぐには足を出さない。自分の前に、さっきと同じ間ができるのを待っている。
こちらの列でも、一人が前へ出ようとした隣の腕をつかむ。
「まだだ。向こうと同じように間が空いてからだ」
「いつから向こうの兵になったんだよ」
「ぶつからねえように真似してみるだけだ」
ガレスの視線が、一度だけ二人をなぞる。
それだけで、口は挟まない。
*
一日目の野営地では、さっそく荷車の置き場所を間違える。
前から入った一台目を、そのまま奥へ。二台目も続ける。三台目へ手をかけたところで、トマがふと止まり、明朝最初に出す水桶の荷車と出口を見比べて顔をしかめた。
「これ、明日どうやって出すんだ?」
視線が一斉に奥へ向く。
「今、入れたばかりだが」
「だから聞いてるんだよ」
「後ろから出せば?」
「後ろは溝だ」
結局、六台ともやり直し。
炊事の火も遅れ、水汲みへ行く者さえ決まらない。豆の鍋が火へ掛かった頃には、もう日が沈み始めていた。
隣のヴェルナー軍には、僕たちが荷車を動かし直している間に、もう火が並んでいる。
ルッツはそれをしばらく眺め、黙って地面へ線を引く。
「明日は、先に出口を決める」
「どうやって決めるんです?」
地面の線を覗き込んだ一人が、首を傾げる。
「街道側が出口になるだろう、普通に考えれば」
「確かに……?」
「迷う場合は、先に聞きに行く」
言われれば、どれも当たり前のことだ。
けれど、僕たちは誰も考えず、先に聞きにも行かなかった。
食事が終わると、ガレスは器を置くより先に槍持ちへ顎をしゃくり、青い布の前へ集め始める。
「半刻だけですよ」
通り過ぎようとするガレスの袖をノエルがつかみ、顔の前へ指を一本立てる。
「俺が決めることだ」
「ガレスさんは注意しておかないと長引かせるので、先に言いました」
「昨日より早く止まれるまでやる」
「半刻でできるところまでです。明日も一日歩くんですよ。疲労を残しては本末転倒です」
「……わかった、半刻だ」
青い一条を背に、槍持ちが二列を作る。
「止まれ!」
前列が止まる。
後列の一人は、その背中へそのままぶつかった。
「もう一度!」
「右を向け!」
前の者は右、後ろの者は左。
動くタイミングは掴み始めているのに、肝心の向きが合わない。
「どっちだよ!」
「青い布を背中にしてください!」
マルクは左右へ腕を広げ、自分の背中で青い布を示す。
「青い布を背中! 槍先を外! 二歩だけ前!」
今度は全員が同じ方を向く。
ただし、一人の槍が隣の耳をかすめかけた。
「下げろ!」
「槍をですか?!」
「声だ!」
「どっちも下げてください!」
半刻を使っても、出来はまだひどい。
それでも、何をするための訓練なのかは、昨夜より皆に伝わっている。
訓練が終わると、ベルントは荒事組の足元を一人ずつ見て回る。
「足を引きずっていませんか」
「歩き疲れただけだ」
「明朝も同じなら、荷車側です」
「ブルーノさんには言うなよ」
「なぜです?」
「鍛え方が足りねえって言われる」
「聞こえてるぞ!」
離れた場所から、ブルーノの声だけが飛んでくる。
「明日は走らせる!」
「走らせません!」
二人分の「走らせません」が、ぴたりと重なった。
*
二日目、槍の持ち方が少し揃う。
三日目には、停止の声を聞いた者が、ガレスに言われる前に後ろへ怒鳴るようになっていた。
その日の午後、僕たちの右前を、小さな騎士爵家の隊が進んでいた。
旗の下にいるのは百人いるかどうか。僕たちと数は大きくは変わらないくらいだ。
前列だけが速い。後ろは遅れ、真ん中へ荷車が入り込む。その荷車を左右から兵が追い越していた。
槍先はあちこちへ揺れ、指揮官らしい騎馬が怒鳴るたび、近くの者だけが慌てて動く。
細い道へ入ると、前列だけが二列になった。後ろは四列のまま、そこで詰まる。
「ひでえな、あれ」
荒事組の一人が、喉を鳴らして笑う。
「俺らよりひどいぞ」
「いや……」
隣の男は、少し前までの自分たちを思い出したのか、声を落とす。
「俺らも、ああ見えてたんじゃねえか?」
「昨日まではな」
前を歩く男が、肩越しに返した。
「今も大して変わらねえだろ」
誰も笑わなくなった。
しばらくして、アズール隊の右側が少し膨らむ。
ガレスの首が動くより早く、さっき笑っていた男が列の脇へ声を張った。
「横へ出てるぞ! あの隊みたいになってる!」
「一緒にするな!」
「なら戻れ!」
右側が列へ戻っていく。
前との間が開きすぎた者には、後ろから声が飛ぶ。
「空けすぎだ!」
「詰めたらぶつかるだろ!」
「向こうのヴェルナー兵と同じくらいだ!」
「どれだよ!」
「左見ろ!」
兵たちは、ガレスではなく隣の軍を見て、自分たちの位置を直していく。
その声は、列の先頭にいるガレスにも届いているはずだ。
「怒らないの?」
僕が横顔を覗き込んでも、ガレスは前を向いたまま。歩調も変えない。
「直っているなら、怒鳴る必要はない」
「少し寂しそうだね」
「そんなことはない」
ほんの少しだけ、そう見えた。
*
三日目の夜。荷車は、一度で決まった。
トマが野営地へ入る前にヴェルナー側へ出口を聞きに行き、ルッツが地面へ印を書いて位置を決める。
荷車は内側。槍持ちは外側。古傷のある者は水場の近くへ寄せ、朝先に動く荷車は道へ向けた。
「今日は早いね」
荷車の脇へしゃがんで声をかけると、トマは縄を強く引き、鼻を鳴らす。
「昨日と一昨日が遅すぎただけだよ」
四日目、ミケルが青い布を立てるより先に、荷車を置く場所が空く。
五日目、水汲みへ出る者は、誰に言われるでもなく二人組になっていた。
ルヴィンの見張り役も、戻るなり、見た人数と武器の有無から報告する。
「右の畑に農夫三人。武器なし。こちらを見て村へ戻っていきました」
「道の先は?」
「空いています。水路に橋一つ。荷車は通れます」
セオが書き終えるまで、報告する側も黙って待つようになる。
槍の訓練も、毎晩半刻だけ。
「止まれ!」
「止まるぞ!」
「後ろへ回せ!」
「青い布を背中!」
最初はガレスとマルクだけだった声に、四日目には列の中から返事が混じる。
五日目の夜。ガレスの「右を向け」が飛ぶと、前列が向き、その後ろも続く。槍先までは揃わない。それでも、逆を向く者はいない。
「構えろ!」
槍が前へ出る。
遅れたのは、一本だけ。
「もう一度だ」
「一本だけですよ」
前列の端から、少し不満そうな声が漏れる。
「その一本の隙間から敵が入ってくるぞ」
「でも、昨日は五本遅れてました」
「ああ、今日は一本まで減った。次こそはなくすぞ」
男は口を尖らせたまま、それでも槍を戻した。
「もう一度!」
脇で見ていたノエルが、指を四本、ガレスの視界へ差し出す。
「あと四回ですよ」
「なぜ回数を決める?」
「半刻までの時間がちょうどそれくらいです」
ガレスは空を仰ぎ、月の位置を測る。
「あと五回はできる」
「四回です」
五回目へ入ろうとしたところでノエルに睨まれ、ガレスもそこで槍を収めた。
*
六日目の昼前、前方から停止の声が走った。
道の先で、別の軍の荷車が車輪を溝へ落としたらしい。
「止まれ!」
ガレスの号令が、前方から来た声へ重なる。
「止まるぞ!」
前列から、すぐ声が返る。
「止まれ! 後ろへ回せ!」
「荷車止めろ!」
トマの腕が、御者の前へ伸びる。
御者が手綱を引き、後ろの荷車も軋みながら止まった。
「詰めるな!」
後ろからも声が上がる。
僕も足を止めた。
誰の胸も、前の背中へ当たらない。
荷車の馬が一頭、前へ首を振る。六台とも、列の中に収まったままだ。
声が最後尾まで届く。
遠くで、ニルスの手が上がった。
「止まったぞー!」
誰かが吹き出し、その笑いが列の中へ広がっていく。
「今の、ちゃんと止まれたよな?」
「止まっただけだ」
「六日前は、それもできなかっただろ」
ガレスは列の横をゆっくり歩く。槍列、荷車、最後尾のニルス。順に目を向けていく。
前列の一人はその視線に気づき、やり直しと言われる前に足を開き直した。
ガレスの口は開かない。
やがて前の道が空く。列の先へ戻ったガレスが、片手を上げた。
「進むぞ!」
やり直しは、なかった。
少し遅れて、列の中から声が返る。
「進むぞ!」
「後ろへ伝えろ!」
九十七人が、また同じ方へ歩き出す。
*
七日目。道を埋める轍が増えていく。
東南軍がつけたものだけではない。北から来た車輪の跡と、西から入った跡が重なり、乾いた土を細かく砕いている。道端には馬糞と藁。飼葉を積んだ荷車が、別の道から次々と合流してくる。
帝国兵が、街道脇へ等間隔に立っている。
進んでくる旗を見て、通す道を振り分けている。
「ルミナ沿海伯家軍、東の道へ!」
「荷駄は左! 兵列は右を空けろ!」
伝令の騎馬が何度も横を抜けていく。道の端では、人足が崩れた土を均し、溝へ板を渡している。
やがて丘を越えた先に、天幕の群れが浮かんだ。
一面の天幕。炊事の煙が幾筋も上がり、大きな旗が風をはらんでいる。
「着いたんですか?」
近くのヴェルナー兵へ聞くと、兵は前を向いたまま鼻で笑う。
「あれは荷駄営だ」
「荷駄だけ?」
「本営は、もう一つ丘を越えた先だ」
目の前の天幕だけで、旧ハルヴァ砦の時に見た軍営より大きく見える。
「意味が分からねえな」
ブルーノは荷駄営の端から端まで目を走らせ、頭を掻く。
「何が?」
「荷車だけで、あれかよ」
荷駄営の外側には、袋と樽の山。馬を集めた区画、壊れた車輪を直す場所、その向こうには鍛冶の火がいくつも並ぶ。
僕たちは荷車を六台並べるだけで、初日に一度全部動かし直した。
丘の下では、その何十倍、何百倍もの荷車が、兵の行軍を邪魔せず流れていく。
帝国兵は旗を一瞥するだけで、ヴェルナー子爵家軍を別の道へ振り分ける。
「ヴェルナー子爵家軍、南東外営へ!」
「青一条は後ろを離れるな!」
ミケルが青い布を高く上げる。
もう、周りを見回す者はいない。
「青一条、進むぞ!」
マルクは青い布の下へ駆け寄り、後方へ腕を回す。
「進むぞ!」
声が、前から後ろへ走る。
帝国軍の外営へ入ってからも、まだ歩く。旗の間を抜け、荷車道を横切り、水場へ向かう列を待って、また進む。
前にも後ろにも兵。槍の穂先が並び、馬がつながれ、天幕の列は丘の向こうへ消えていく。
旧ハルヴァ砦で見たルミナ沿海伯家軍も大きかった。けれど、その東南軍一万三千が、ここでは一つの方向から入ってくる軍でしかない。
ヴェルナー子爵家軍の配置が決まり、僕たちも右後方へ収まる。
「止まれ!」
ガレスの号令が、荷車の軋みと外営のざわめきを押し切る。
「止まるぞ!」
「後ろへ回せ!」
九十七人の足が止まる。同時ではない。一人が半歩多く進み、二台目の荷車も少し軋んだ。
それでも、ぶつかる音は一つもない。
ノエルは列の端から端まで指先で追い、帳面へ最後の印を落とす。
「九十七です」
「七日間、同じだったね」
「はい。到着しましたので、ようやく同じだったと言えます」
「じゃあ、もう大丈夫かな?」
「これから野営地を作ります」
「まだ駄目か」
「今日が終わるまでは」
荷車を置き始めたところで、ロイター殿が荷の隙間を縫って現れる。
左腕は、相変わらず身体の脇から大きく離れない。
「アズール殿。水場と荷車道を見ておけ。明日以降、場所を間違えると戻れなくなるぞ」
「そんなに広いんですか?」
「上から見た方が早い」
ロイター殿の顎が、外営の脇にある低い丘へ動く。
「ガレス、ブルーノ、ノエルも来て。カインも」
「当然、お供いたします」
ミケルと青い布を九十七人のところへ残し、僕たちはロイター殿について丘を上る。
*
丘の上へ出た途端、帝国軍の陣が視界いっぱいに開けた。
最初に目へ入るのは、旗。
中央に大きな帝国旗。その周囲を軍団ごとの旗が囲み、さらに外側へ、各地から来た貴族家の旗が並んでいる。
旗の下には、区画ごとの天幕。
兵の列が通る道と荷車の道は分けられ、馬をつなぐ場所、水を運ぶ場所、炊事の煙が上がる場所も、それぞれ固まっている。
何騎もの伝令が道を走っている。それでも、兵がその道へはみ出すことはない。
僕たちの九十七人なら、あの道の一つへ全部入ってしまう。
同じような道が、丘の向こうにも何本も続いている。
「これが、五万の軍勢ってやつか……」
ブルーノは遠くの帝国旗と、丘の下に広がる陣を何度も見比べる。
「中央の帝国直属軍だけで、五万近いと聞いています」
ノエルの返事にも、わずかに息が混じる。
「じゃあ、今入ってきた俺らは?」
「別です。北方軍も別です」
ブルーノの口が、そこで閉じた。
僕も、八万と言われた時には、数が大きすぎてどれくらいなのか分からなかった。
九十七なら、ノエルが一人ずつ数えられる。千を超えれば、旗と帳面に分けなければ分からない。丘の下の人数は、もう目で数えるものではない。
「すごいな」
それ以上の言葉は、出てこない。
「形は、よく整っている」
ガレスは遠い本営へ目を凝らし、わずかに顎を引く。
褒めたのか、形だけを測ったのか。声からは分からない。
「これだけの兵と荷を、集め、整えられるのが帝国軍だ」
ロイター殿は無事な右手を腰へ当て、中央の陣へ視線を滑らせる。
視線を北へ移すと、帝国軍から少し離れて、もう一つ大きな陣がある。
旗の色も、天幕の形も違っていた。
「あれが北方軍ですか?」
ノエルは吹き上げる風に目を細め、丘の北側へ身を乗り出す。
「ドラグヴァルト辺境伯家と、その寄子だ」
ロイター殿が、顎で北側の旗を示す。
人数は帝国直属軍より少ない。
天幕も、中央軍ほど綺麗には揃っていない。武具や馬具に、遠目でも分かるような飾りもない。
それなのに、そこだけが別のものに見える。
北方軍の端を、荷車が二台進んでいる。
誰かが大声で道を空けろと命じたわけではない。近くの兵が荷車に気づき、半歩退く。空いたところへ別の兵が入り、見張りの位置には穴が残らない。
一頭の馬が、積み荷の音に驚いて首を振る。近くの二人が同時に手を伸ばし、一人は手綱、もう一人は馬の横へ。ほかの兵は騒がず、その脇を避けて通っていく。
指揮官を待つ者はいない。
だからといって、勝手に走り回る者もいなかった。
「今、何か命令が出た?」
北方軍の動きを追ったまま尋ねると、ガレスは馬と荷車の間へ一度目を走らせ、首を横へ振る。
「必要がなかったのだろう」
「でも、皆が違うことをしたら、ばらばらにならない?」
「それぞれが自分のいる場所で、何をすべきか分かっているんだろう」
ガレスの目は、北方軍へ据えられたまま。
「命じられて並んでいるのではない。並び方を知っている」
ブルーノは、いつの間にか口を閉ざしている。
「強そう?」
横から聞いても、ブルーノはすぐには返さない。北方軍の端から中央まで、ゆっくり目を這わせていく。
「……強えよ」
「帝国兵より?」
「比べんな」
いつもの笑いはない。
「あいつらは、全員が戦う奴だ」
北方軍では、休んでいる者も武器を手の届く場所へ置いている。
話している者も、食事をしている者もいる。それでも、自分の周りを見ていない者は一人もいないように見えた。
やがて、その軍の中央を数騎の騎馬が通る。
遠くて、顔までは分からない。
先頭近くには、ドラグヴァルト辺境伯家の大旗。
騎馬が進む先で、兵たちが道を空ける。作業を止める者はいない。大声で名を呼ぶ者も、直立して礼を取る者もいない。
それでも、遠くの兵まで一度は顔を上げる。騎馬の位置を確かめると、すぐ自分の仕事へ戻っていった。
「辺境伯殿だ」
吹き上げる風の中へ、ロイター殿の低い声が落ちる。
「ヴァルグラム・ドラグヴァルト……」
ノエルの唇が、確かめるようにその名をなぞる。
誰かが命じたようには見えない。それでも、その人の進む先だけは、最初から道が引かれていたように開いていく。
「味方なんだよね?」
僕も北方の旗へ目を戻す。ロイター殿はそちらを見たまま、一度だけ頷いた。
「ああ。北方軍も、同じ討伐へ来ている」
ブルーノの指が、大棍棒の柄へ食い込む。
「敵には回したくねえな」
ガレスの目も、北方軍に据わったままだ。
その時、丘の下から声が飛ぶ。
「青一条! 荷車道を空けろ! 配置を詰めるぞ!」
斜面の下で、ミケルが青い布を持ち上げる。
九十七人が、こちらを待っている。
真っ直ぐとは言いがたい。
右端は少し前へ出て、最後尾の荷車も半台分ほど離れている。
けれど、七日前の列ではない。
「戻ろう」
僕たちは丘を下りる。
斜面の下では、九十七人がもう、荷車道を空けるために肩を寄せ始めていた。




