第57話 記録される青い印
東側外周へ移るつもりで外へ出ると、周りの天幕がなくなり始めていた。
昨日まで張られていた布が地面へ落とされ、杭が抜かれ、畳まれた天幕が次々と荷車へ積まれている。馬はもう轅につながれ、車輪の向きまで北西へ揃えられていた。
「東側外周へ移るんじゃなかったんですか?」
近くにいたロイター殿へ聞くと、彼はまだ大きく上がらない左腕を庇いながら、北西の方を顎で示した。
「移る。陣ごとな」
「陣ごとですか?」
「ああ、ルミナ沿海伯家の本営へ合流する。ここはもう、壊れた先遣隊を拾うための仮営じゃない」
東南から来た本隊と増援が揃い、残兵や負傷者を集める役目は終わったらしい。
北西の、ここからそう遠くない場所には、ルミナ沿海伯家と東南の寄子軍が集まっている。ヴェルナー子爵家軍も、今日中にそこへ入るという。
「では、僕たちも?」
「預かっている以上、置いてはいかん。昨日言われた仕事も変わらない。行軍列の東側の担当だ」
ロイター殿の視線の先では、ヴェルナー子爵家の兵たちが隊列を作り始めていた。
「水路と畑側の警戒。荷車へ近づく者の確認。何か見つけても、勝手に追うな」
「分かりました」
「本当に分かったか?」
「最後が一番大事だということは」
「ならいい」
そのまま戻ろうとしたロイター殿を呼び止めた。
「オルステッド殿は、どうしていますか?」
ロイター殿は足を止めた。
「もう先へ出ている」
「……先へですか?」
「ああ、崩れた時にそれなりに被害は出たが、あの隊はまだ芯が残っていた。散った兵を集め直して、本隊の到着と共に仮営を引き渡し、今はまた先遣だ」
「休まなくても大丈夫なんでしょうか」
「先遣の指揮官へ戻っただけだ。後ろが整えば、あの方は前へ行く」
それだけ言って、ロイター殿はヴェルナー子爵家本隊の方へ戻っていった。
オルステッド殿が生きていたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。
けれど、本人へ会えるのはまだ先になりそうだった。
僕も、青い布の立つ場所へ戻った。
ミケルが掲げた青い一条の下では、ノエルが並び始めた者たちと帳面を交互に見ていた。
「九十七、います」
ノエルが帳面から顔を上げ、僕へ報告する。
「昨日と同じだね」
「同じでなければ困ります」
「じゃあ、今日は大丈夫そうだね」
「出発して、到着するまでは分かりません」
青い一条の布の下へ、人が集まっている。
ミケルは長い棒を両手で持ち、布が人の頭へ隠れないよう高く上げていた。風は弱かったが、青い布は時折細く折れながら揺れている。
「槍持ちは前だ!」
指揮棒代わりに、鞘に入れたままの短刀を振り上げたガレスの声が飛ぶ。
「荷車へ寄りすぎるな! 間を空けろ!」
槍を持った者たちが動き始めた。
動きはしたが、前へ出る者と横へずれる者が混ざり、すぐに列が曲がる。
「前って、どっちだよ?!」
「ヴェルナーの旗が向いてる方でしょ!」
マルクが列の中へ入り、槍の石突きを足で押し戻していく。
「そっちは半歩だけ前。兄さんは出すぎ。ほら、青い布が真ん中に来るように並んで」
「最初からそう言ってくれよ」
「槍の兄貴は言ってますよ。分かりにくいだけで」
「聞こえているぞ」
「分かりやすく直してるだけです!」
ガレスは何か言いたそうな顔をしたが、列が少しずつ真っ直ぐになっていくのを見て、黙った。
その後ろでは、ルッツが古傷のある者や長く歩けない者を荷車の近くへ回している。
「お前は二台目の左だ」
「昨日は一台目だったぞ」
「昨日は昨日だ。今日は荷が多いんだ。転んだ時に轢かれたくなければ、言う通りにしろ」
「縁起でもねえなぁ」
「転ばなければいいだけだ」
トマは車輪を蹴り、積み荷の縄を一本ずつ引いていた。
「この車、右へ寄せすぎだ。曲がる時に後ろが溝へ落ちるぞ」
「どれくらい空ける?」
僕が聞くと、トマは前後の荷車を見比べた。
「もう半台分。いや、前が詰まるなら今のままでいい。進んでから広げる」
「じゃあ、進んでからトマが決めて」
「最初からそのつもりだよ」
少し離れたところでは、ブルーノが昨日受け持った荒事組を睨んでいた。
「お前ら、今日は勝手に前へ出んなよ」
「ブルーノさんが一番出そうですけど」
「俺はいいんだよ」
「よくありませんよ……」
ベルントが帳面を抱えたまま、すぐに口を挟む。
「本日の役目は行軍です。倒した人数ではなく、到着した人数が記録されるんです」
「昨日だって倒してねえよ」
「五人転がしてましたよ」
「勝手に転んだんだ!」
その言い合いを聞きながら、カインが僕の横へ来た。
「アズール様、お一人にはなりませぬように」
「うん。でも、ずっと僕だけ見てなくていいからね」
「承知しております」
返事はしたけれど、たぶんあまり承知していない。
ニルスは最後尾の辺りで、どちらへ並ぶのか分からず立ち尽くしている者を、青い布の方へ押し戻していた。
「ほら、見失ったらあれだって! 青いやつ!」
「旗か?」
「旗じゃないらしいけど、今はあれ!」
離れたところでノエルが顔を上げたが、聞かなかったことにしたらしい。
*
ヴェルナー子爵家軍の先頭が動き始めた。
「進め!」
ガレスが叫ぶ。
マルクがすぐ後ろを向いた。
「進むぞ! 後ろへ回して!」
「進むぞ!」
「後ろへ伝えろ!」
声が列の中を進んでいく。前列が歩き始め、少し遅れて荷車が軋み、その後ろの者たちも動いた。
九十七人が一度に同じ足を出したわけではない。それでも、誰か一人が勝手に歩き始めるよりは、ずっとましだった。
仮営を出てしばらくすると、道の左側にはヴェルナー子爵家本隊の槍列が続き、右側には畑と細い水路が並ぶようになった。
僕たちは、その間を歩いた。
ガレスの「止まれ」は、前から後ろまで一応届いた。
ただ、最後尾が止まった時には、前の者たちはもう後ろを振り返っていた。
「遅い!」
「聞こえたけど、前が止まったのか分からなかったんだよ!」
「だから声を回せと言っている!」
ガレスが怒鳴ると、マルクが後ろへ向かって両手を広げた。
「止まる時は、前の背中を見るんじゃなくて、声を後ろへ渡してください! ぶつかってから怒鳴っても遅いんで!」
「マルクの方が分かりやすいな」
「そう言うと槍の兄貴が怒りますよ」
「もう怒っている!」
朝のうちは、そんな声も上がっていた。
日が高くなり始めた頃、行軍列は低い土手沿いの道へ入った。
右手の水路は少し深くなり、その向こうには刈り残された草と、背の低い畑が続いている。土手が緩く曲がっているせいで、前方の見通しはよくなかった。
エルヴィンとセオは、二人ずつに分けた見張り役を右側へ出し、列と離れすぎない距離で歩かせていた。
そのうち一組が、土手の向こうから駆け戻ってきた。
「右前方、人影!」
その報告に、エルヴィンが顔を上げる。
「数は?!」
「二十くらい。灰色の服だ。槍を持ってる」
「くらいではなく数えろと言っただろう!」
「動いてるんだよ!」
「二人で見たのだろう」
もう一人が息を切らしながら答えた。
「二十一。見えたのは二十一です。槍が七か八。短い弓みたいなのが一つ」
「後ろは?」
「分からない。土手の向こうです」
エルヴィンはすぐガレスへ向いた。
「右前、二十一。灰衣らしき者。武器あり」
ガレスの顔が変わった。
「止まれ!」
声が響く。
前列は止まった。
その後ろは、止まらなかった。
「止まれ! 止まれって言ってるぞ!」
「何だよ!」
「右だ! 灰衣がいる!」
後ろの者が前の背へぶつかり、さらに後ろが詰まる。
荷車の馬が驚いて鼻を鳴らした。
「槍持ちは右を向け!」
ガレスが叫ぶ。
前の十人ほどが右を向いた。その後ろの者は、何が起きたのか分からず、前へ出ようとしていた。
「右だ! 青い布を背中にしろ!」
マルクが列の間を走る。
「二歩前! それ以上行くな! 槍を横へ振るな!」
一本の槍が隣の肩へ当たり、怒鳴り声が上がった。別の男は慌てて向きを変えた拍子に、槍を地面へ落とした。
青い布が大きく揺れた。
ミケルが人の間を抜け、土手側から見える位置へ移動している。
「布より前が槍持ち! 後ろは荷車の内側へ!」
ルッツが古傷組へ声を飛ばす。
「走るな! 転ぶぞ! 一台目と二台目の間へ入れ!」
誰かが荷車を動かそうと、馬の手綱へ手を伸ばした。
「触るな!」
トマがその手を叩く。
「ここで車を回したら、後ろが全部詰まる! 動かすな!」
荒事組の何人かは、槍列の横から前へ出ようとしていた。
「お前ら、下がれ!」
ブルーノが大棍棒を横へ出し、道を塞ぐ。
「見えてんだぞ! 敵が!」
「だから勝手に行くなっつってんだよ!」
「ブルーノ」
僕が呼ぶと、ブルーノが振り返った。
「来るぞ」
「動くときは言うから。でも、まだ待って」
「……分かったよ!」
ブルーノは前へ出ず、大棍棒を肩から下ろしたまま、荒事組の前へ立った。
セオが土手側から戻ってくる。
「見えているのは二十一! 後ろに別の集団は確認できず!」
「弓は?!」
「一つだけです!」
「追いかける人を出さないで!」
僕は声を張った。
「荷車は動かさない! 青い布より前へ、勝手に出ないで!」
自分の声がどこまで届いたかは分からない。
ニルスが後ろへ向かって、同じことを怒鳴り始めた。
「追うな! 荷車を動かすな! 青い布より前へ出るな!」
灰衣たちは、水路の向こうで止まっていた。
全員が同じ灰色ではない。薄汚れた灰色の上着や布を身につけた者が多く、その中に槍や棒を持った者が混じっている。
こちらを見つけて、最初は道へ寄ってきていたらしい。
けれど、今は止まっている。距離はまだある。走ってもすぐには届かないくらいに。弓なら届くかもしれないが、あちらの一人も弦を引いてはいなかった。
僕たちの槍列は、真っ直ぐとは言い難かった。右端だけ前へ出て、真ん中に隙間があり、一本はまだ地面に落ちたままだ。
しかし、青い布の後ろにはヴェルナー子爵家の旗があった。槍列が続き、荷車が続き、そのさらに後ろから兵がこちらへ動き始めている。
ヴェルナー側の伝令が走ってきた。
「東側で灰衣二十余! 一番近いのはどこだ!」
「青い布の隊です!」
別の兵が答える。
「青一条へ、持ち場を保てと伝えろ! 本隊からも回す!」
「青一条?」
僕が聞くと、カインが青い布を見た。
「恐らく、私どものことかと」
「ほかに青い布はないですからね」
ノエルが帳面を抱えたまま言う。
「旗ではありませんが」
「今はそれどころじゃないと思う」
「それはそうです」
水路の向こうで、灰衣の一人が後ろを振り返った。
何か短く叫ぶ。先頭にいた者が、槍先を下げた。それから、一歩ずつ後ろへ下がり始める。
「下がっていくぞ!」
槍を持った男が声を上げた。
「追うか?」
「追わないよ!」
僕はすぐ答えた。
「今の目的は、ルミナ沿海伯家の軍へ合流することだよ。列を離れないで」
灰衣たちはこちらへ背を向けきらないまま、水路沿いに下がっていった。
土手の曲がりへ入り、灰色の姿が一人ずつ見えなくなる。
最後まで、矢は飛んでこなかった。こちらからも、誰も武器を振らなかった。
姿が消えても、すぐには誰も動かなかった。地面へ槍を落とした男が、黙って拾い上げる。左右を間違えて荷車側へ入った者は、誰とも目を合わせなかった。
後ろの方から、小さな声が聞こえた。
「灰色たちって、どこにいたんだ?」
「見えなかったのかよ」
「人の背中しか見えなかったぜ」
ガレスは、崩れた槍列の前を端から端まで歩いた。
「今のままなら、あちらが来ていれば、俺たちは割られていたな」
「あいつら、二十人しかいなかったぞ」
誰か鼻を鳴らすように言った。
「二十人だったから助かったんだ」
ガレスはそれ以上何も言わなかった。
元の位置へ戻る。
「もう一度並べ」
「今ですか?」
「今だからだ」
今度は、文句を言う者はいなかった。
「槍持ちは右!」
ガレスが叫ぶ。
「右だ! 青い布を背中にしろ!」
マルクが続ける。
前の者が向きを変えた。
後ろから声が返る。
「右を向け! 後ろへ伝えろ!」
「荷車の外へ出るな!」
「青い布を見ろ!」
まだ遅い。
隙間もある。
それでも、誰かに怒鳴られる前に、後ろへ声を回す者がいた。行軍を再開してからも、朝のような言い合いはほとんど起きなかった。
*
午後になると、街道の先に旗が増え始めた。
一つや二つではない。
小さな騎士家の旗、その倍ほどある男爵家の旗、港や町から来た兵の印。さらに奥には、ルミナ沿海伯家の大きな旗が立っている。
炊事の煙が幾筋も上がり、馬の鳴き声と鍛冶の音が、まだ距離のある街道まで聞こえてきた。
旧ハルヴァ砦でも、この軍を見ていた。あの時の僕たちは、三十人ほどだった。ヴェルナー子爵家軍の後ろへ置かれ、橋を渡る兵も、戻される負傷者も、戦が終わった後まで動き続ける荷車も見た。
今は九十七人いる。僕たちだけで見れば、随分と増えた。
けれど、大小の旗が並ぶ陣へ入れば、青い布の周りに集まった九十七人は、やはり小さかった。
ヴェルナー子爵家軍の先頭が、本営の外側で止まる。
合流の報告と配置の確認は、ヴェルナー側の軍吏たちが進めてくれた。僕たちは列を崩さず、言われた場所へ動けばいい。
「青一条、前へ詰めろ!」
ヴェルナー側の兵が叫んだ。何人かが周りを見回す。
「僕たちみたいだよ」
僕が言うと、ミケルが青い布を少し高くした。
「青一条、九十七! ヴェルナー右後方へ入れ!」
今度は全員が動いた。
青い一条を先頭に、指定された場所へ入っていく。荷車を置き、古傷組を休ませ、人数を数え直していると、ヴェルナー側の書記が一人やってきた。
「アズール・エスター隊、九十七。青一条でルミナ側にも通った」
ノエルが顔を上げる。
「旗ではありませんが……」
「旗とは書いていない。識別印だ」
「帳面の欄が違うだけでは?」
「場所が分かれば何でもいい」
書記はそう言い残し、次の隊へ向かった。
「……兄上」
「何?」
「ルミナ沿海伯家側の帳面にも、青一条で記録されました」
「分かりやすいなら、それでいいんじゃない?」
「……もう少し気にしてください」
「何を?」
ノエルはしばらく僕を見ていたが、諦めたように帳面へ視線を戻した。
「……九十七、欠けなしです」
「それはよかった」
そんなとき、水場へ向かおうとしたアズール隊の男を、別の男が呼び止めた。
「どこ行くんだ?」
「ん? 水場だ」
「今、数えてるところだろ」
「すぐそこだぞ」
「灰衣が来た時も、すぐそこだったじゃねえか」
言われた男は口を閉じ、思うところがあったのか黙って列へ戻っていった。
昼前までは、ルッツやエルヴィンが言わなければ止まらなかった者たちだ。
それだけで隊になったとは思わない。けれど、朝よりは少しましになっていた。
*
日が落ちる前、ヴェルナー子爵家側から翌朝の命令が届いた。
東南のルミナ沿海伯およびその寄子軍は、明朝から北上。向かう先は、帝国本隊との合流地点だ。僕たちは引き続き、ヴェルナー子爵家軍の東側を歩く。勝手な追撃、離脱、道中の徴発は禁止。
「帝国本隊は、五万近いそうですよ」
ノエルが帳面を閉じながら言った。
「五万?」
ブルーノが聞き返す。
「帝国直属の本隊だけで、です。さらに北方のドラグヴァルト辺境伯家とその寄子も参加してるとか。こちらの東南軍まで合わせれば、八万ほどになるかもしれません」
ブルーノは、目の前に並ぶ旗を見た。
「ここにいる連中より多いのか?」
「帝国直属だけで四倍、全部入れたら六倍以上ですね……」
「意味わかんねえ数だな。聞かなきゃよかったぜ」
ガレスが槍持ちを呼び集める。
「休む前に、もう一度だけ並ぶぞ」
朝なら、またかと声が上がっただろう。
今度は誰も文句を言わなかった。
「止まれ!」
声が前から後ろへ送られた。
まだ、九十七人が同時に止まれたわけではない。それでも、前の背中へぶつかる者はいなかった。
「まだ甘い、もう一度だ!」
ガレスが鋭い視線で一同を見回しながら続けて言った。
大小の旗が並ぶ陣の中で、青い一条の布も、明日の北を向いて揺れていた。




