第56話 全員
帝国前哨での照合を終え、預けていた武器を返され、ヴェルナー子爵家の仮営へ戻ってから十日余りが過ぎていた。
朝の仮営には、土を踏み固める音が絶えない。
東南から到着した兵が、新しい天幕の場所を探して歩き回り、荷車は道を塞ぎ、馬は慣れない匂いに鼻を鳴らしている。あちこちで杭を打つ音と怒鳴り声が重なっていた。
僕たちが戻った頃には、壊れた先遣隊が身を寄せるだけだった場所も、いまではヴェルナー子爵家軍の陣らしい形になり始めている。
僕たちは、仮営に残っていたルッツたちを改めて迎え、ノエルは数日かけて人と帳面を合わせ、途中で抜けた者、動けない者、別の組に混ざっていた者を拾い直した。
ヴェルナー子爵家からは、麦と豆、それに干した肉が少し支給された。九十人近い人間を連れて戻れば、追い出されてもおかしくないと思っていた。実際、帳面を見た軍吏は、何度か長い息を吐いたらしい。
それでも、エスター家の証文があり、ヴェルナー子爵家軍で受理された印がある。帝国前哨にも、僕たちが八十余で到着した記録が残った。
そのお陰かどうかは定かではないけれど、ひとまず、食べるものはなんとかなっている。そうなれば、今度は、食べた分だけ何かを返さなければならない。
「止まれ!」
ガレスの声が、仮営の外れに広がった。
槍を持った前列が止まる。そのすぐ後ろで、誰かが前の背にぶつかった。
「痛え!」
「急に止まるな!」
「止まれと言われただろう!」
「後ろまで聞こえなかったんだよ!」
言い合いの間にも、さらに後ろの二人が詰まり、せっかく揃いかけていた列が真ん中から曲がっていく。
ガレスは何も言わず、その崩れた部分まで歩いていった。
朝から何度目か分からない。
「声を出せといっているだろう」
「え? 誰が?」
「……聞いた者がだ。前から後ろへ伝えろ」
「そんな余裕あるかよ」
「戦場で前の背にぶつかる余裕はあるのか」
言われた男が口を閉じる。並んでいる者の半分ほどは、槍を持った経験がないわけではなかった。
元領兵。街の衛兵。傭兵の下働き。村の自警団。中には、どこかの隊で列を組んだ経験がある者もいる。ただし、前にいた部隊も、覚えていた号令も違う。
止まれと言われてすぐ足を止める者もいれば、三歩進んでから気づく者もいる。周りに合わせるより、自分のやり方を押し通そうとする者もそれなりにいる。
一人ずつなら、それなりに戦える者はいる。
しかし、同じ方を向かせようとすると、とたんに難しくなる。
「もう一度だ」
ガレスは元の位置へ戻った。
「槍を上げろ」
槍先がいっせいに動いた。
そのうち一本が、隣の男の耳のすぐ横を通った。
「おい!」
「寄ってくるなよ!」
「寄ってるのはお前だろ!」
槍を握ったまま押し合いが始まりそうになり、マルクが間へ入った。
「一度下げて。ほら、下げる。槍の兄貴は、隣を刺せとは言ってないでしょ」
「当たり前だ」
「分かってない奴がいるんですよ」
マルクは笑いながら、槍の石突きを足で少しずつ動かしていった。
「こっちが半歩。そっちは動くな。そう、それでいい」
ガレスが言ったことを、マルクが言い直す。同じことを伝えているのだけれど、わかりやすいのか、それで伝わることが結構多い。ガレスも最初は納得がいかず口を挟んでいたが、近頃はそれで解決するならと任せるようになっていた。
少し離れた場所では、棒を持った男が一人、ブルーノと向かい合っていた。
ほかの者たちは、巻き込まれないよう数歩離れて円を作っている。
「避けろよお!」
ブルーノが大棍棒を振り上げた。
男は慌てて横へ飛ぶ。
直後、それまで男が立っていた土を、大棍棒が鈍い音とともに叩いた。
男は避けた先で足をもつれさせ、そのまま肩から転がった。
「遅えぞ!」
「避けれました!」
「転んだだけだ!」
「当たらなかったので同じことでは!!」
「同じじゃねえ!」
周りで見ていた者たちが笑っている。ブルーノは最初から当てるつもりではなかった。振り下ろす速さも、地面を打つ力も、普段よりずっと抑えている。
それでも、自分が相手をする番になれば、笑ってはいられないだろう。
「ブルーノさん」
脇にいたベルントが、帳面から顔を上げた。
「あ?」
「今日、倒したのはこれで五人目です」
「倒してねえよ。転んだだけだ」
「明日も動ける程度で済ませてください」
「こんなもん序の口だろ?」
転がった男が、寝たまま片手を上げた。
「俺はもう無理です」
「水運びへ回せ」
「本人の前で決めないでください」
ベルントがため息をつきながら、帳面へ何かを書き足した。
ブルーノのところには、棒や短剣に慣れた者、喧嘩なら負けないと言い張る者、槍の列へ入れると周りまで乱しそうな者が集められている。
それでもブルーノには大人しく従う者たちだ。ブルーノはそれだけ怖いらしい。
ブルーノ自身は、とても教える側に向いているとは思えない。
それでも、「前へ出るな」と言えば、少なくとも彼より先へ出ようとする者はいなかった。
畦道の方から、二人組が走って戻ってきた。
「右に二人」
エルヴィンが言う。
戻ってきた二人は息を整える間もなく、その前へ立った。
「何が見えた」
「荷車が三台。兵が二十ほど」
「どこの兵だ」
「……分からない」
「旗は?」
「見てない」
「では、兵とは限らない」
「でも、槍を持ってたぞ」
「槍を持つ人足もいる」
エルヴィンの声は、怒っているようには聞こえない。
それでも、適当に答えて済ませられる雰囲気ではなかった。
「見たものだけ言え、憶測を混ぜるな」
「荷車三台。槍持ちが二十くらい」
「くらいとは?」
「十八か、二十二」
「二人で見たんだろう。次は数えろ」
「動いてたんだぞ」
「だから二人で行かせた」
二人は顔を見合わせた。
隣でセオが、報告を帳面の端へ書きつけている。エルヴィンは、足音を消す方法より先に、余計なことを足さずに戻ってくることを教えていた。
訓練場の端では、青い一条の布が風に揺れている。
ミケルが長い棒へ結びつけたものだ。正式な旗ではない。ノエルは、聞かれるたびに識別用の布だと訂正している。
けれど、
「青い布より前へ出るな」
「崩れたら、青い布まで戻れ」
「右の組は、青い布の横へ集まれ」
と言えば、誰にでも通じた。
今のところ旗ではないらしいが、使われ方はだんだん旗に近づいていた。
青い布の後ろでは、ルッツが古傷のある者たちを動かしている。
「桶は半分でいい」
「それじゃ足りねえだろ」
「二度運べ」
「面倒だな」
「満杯にして転ぶ方が面倒だ」
水運び、炊事、薪、杭の打ち直し、荷車の縄、武具の手入れ。
前に立てない者にも、仕事はいくらでもあった。ルッツは、歩けない者を寝かせたままにはしない。
座ってできる仕事を渡し、片腕しか動かない者には紐や革を選らばせ、夜番へ出られない者には朝の火を見させた。
「これ、全部ルッツが決めたの?」
僕が聞くと、ルッツは桶の数を確かめながら答えた。
「ノエル殿が人を分けました。私は残った仕事を回しただけです」
「残った仕事、多くない?」
「人も多いですからね」
ルッツはそれだけ言い、桶を抱えた男を別の列へ戻した。
「兄上」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、ノエルが帳面を差し出している。
「何?」
「見ているだけなら、こちらを手伝ってください」
「僕は訓練を見てるんだけど」
「見ているだけで列がすぐに良くなりますか?」
槍列を見る。
ちょうどまた、右側だけ前へ出ていた。
「……ならないね」
「では、豆袋の数を確認してください」
帳面を渡された。
ヴェルナー子爵家から届いた食料は、当面をしのぐには足りている。
ただし、好きなだけ食べられるわけではない。
東南から本隊と増援が入り始め、仮営の人数は毎日増えていた。新しく来た兵にも飯が要る。馬にも飼葉が要る。荷を運ぶ人足も、鍛冶も、怪我人も食べる。
僕たちだけが、いつまでも特別扱いされるはずはなかった。
「一、二、三……」
「兄上」
「数えてるよ」
「口だけではなく、帳面にも印をつけてください」
「……はい」
炊事場の脇へ積まれた豆袋を数えていると、仮営の方から三人の兵が近づいてきた。
先頭はロイター殿だった。
左腕の包帯は外れているが、まだ腕を大きく動かすのは避けている。
その横に、見覚えのない男がいた。ヴェルナー子爵家の色をつけた外套を着ている。年はガレスより少し上に見えた。
「アズール殿」
ロイター殿が僕を呼ぶ。
「帳面は後でいい。こちらは本隊の隊長殿だ」
僕は慌てて豆袋から離れた。ノエルが、聞こえるくらいの息を吐いた。
本隊の隊長は、訓練場をゆっくり見回した。
槍列は曲がっているし、ブルーノの前では、今度は二人が同時に転がっていた。
エルヴィンのところから出た一人は、戻る方向を間違え、青い布の反対側へ走っている。セオが追いかけていた。
あまり、見られたくない現場だった。
「これが、アズール・エスター隊か」
「はい」
僕が答えると、隊長はもう一度、端から端まで目を動かした。
「何人いる」
「今朝の帳面で、九十七です」
ノエルがすぐ答えた。
「帝国前哨では八十余だったな」
「前哨まで来なかった残留組を含め、戻った者、動けない者、途中で抜けた者を合わせ直しました」
僕たちを見ていたガレスが、こちらへ寄ってきた。額へ張りついた髪の間から、汗が流れている。
本隊の隊長が、ガレスを見て尋ねる。
「この中で、使える者は何人だ」
「全員です」
ガレスは、ほとんど間を置かなかった。
少し離れたところで、ブルーノが振り返る。
「……全員?」
「ああ、全員だ」
「お前、今のを見てたか?」
「見ていた」
「半分くらいのやつらは、まだ真っ直ぐ歩けてねえぞ」
「急いで歩けるようにするまでだ」
「槍もまともに持てない奴もいるぞ」
「持てるようにするまでだ」
「そっちの一人、まだ違う方へ走ってるぞ」
ガレスがそちらを見る。
「セオ!」
「今、戻します!」
遠くから返事が飛んだ。
本隊の隊長は、口を挟まずに待っていた。
「全員を戦列へ置くのか」
「いいえ。戦列に置けるのは、今なら半数ほどです」
「残りは」
「荷、見張り、運搬、炊事、陣の維持。できることをさせます」
「何もできない者は」
「できることを探します」
「それでも、何もできない者は」
「おりません。何かしらできるようにします」
声の調子は変わらなかった。
近くにいた者たちが、少しずつ口を閉じていく。
槍を持っていた者も、ブルーノの周りで笑っていた者も、ルッツのところで桶を運んでいた者も、こちらを見ていた。
ガレスは脅すつもりで言ったのではない。
本当に、そうするつもりなのだ。誰かが食べさせてくれるからと、それに甘えてここにいるわけではない。
できる者は前へ出る。前へ出られない者は、荷を守る。水を運ぶ。火を見る。傷んだ縄を替える。
それもしない者を、この場所へ置いておく余裕はないし、そうはしない。
「いつまでに形にする」
本隊の隊長が聞いた。
「命令が下るまでに」
「明日なら」
「明日までに、今よりは動かします」
ブルーノが、大棍棒を肩へ載せ直した。
「おい、マジで言ってんのか」
「お前もだ、遊ばせるわけにはいかんぞ」
「何がだ?」
「先日振り分けた者たちをまとめあげろ」
「はあ、やるしかねえか」
「ああ、全員使う、やるしかない」
「まあ、仕方ねえわな! ベルントやるぞお!」
ベルントが、少し離れた場所で頭を抱えた。
本隊の隊長は、その様子を見て初めてわずかに口元を緩めた。
「分かった」
それから僕へ向き直る。
「明朝から、お前たちは東側外周へ移れ」
「東側ですか」
「増援と荷車が続けて入る。水路沿いの見張り、荷の誘導、仮営外の巡回だ。灰衣の小集団も出ている」
「戦うこともありますか」
「灰衣が来れば、そういうこともあるだろうな」
隊長は簡単に答え、またガレスを一瞬見た後、僕に視線を戻す。
「槍持ちだけ連れてこられても困る。隊を維持する者も要る」
「承知しております」
「全員使えると言ったな」
「はい」
「なら、全員で来い」
僕はうなずいた。
訓練場へ視線を向ければ、槍列はまだ曲がっているし、棒持ちは土まみれで起き上がっている。斥候役の一人は、ようやくセオに連れ戻されたところだった。
「明日からですね……」
「明朝からだ。よろしく頼む」
隊長はそれだけ言い、ロイター殿とともに仮営の方へ戻っていった。
その背が見えなくなっても、しばらく誰も声を出さなかった。
最初に口を開いたのは、やはりブルーノだった。
「アズール」
「どうしたの?」
「本当に、全員連れていく気か?」
「ガレスができるって言ってるからね」
「こいつらだぞ?」
「分かってる。ガレスの言葉を信じるし、責任は僕が持つ」
ブルーノは、訓練場ではなく僕の顔を見ていた。
「何でもかんでも、お前が背負うこたねえだろ」
「でも、今ここにいる皆を見捨てないなら、そうするしかないよ。できないって言えないことは、ブルーノも分かるよね?」
「……分かってるよ」
「それに、ただ飯食らいは、置いておけないんだよ」
ノエルが帳面を開く。
「では、明朝までに組み直します」
「うん、大変だけど、よろしく頼むね」
「任せてください、慣れっこです」
ルッツも、桶を置いてこちらへ来た。
「陣に残す者は」
「いないよ。全員で行く」
僕が答えると、ガレスが小さく頷いた。
「動けない者も、東側の仮置き場で仕事をさせる。荷と水があるなら、座ってできることはある」
ルッツは少し考え、それからうなずいた。
「分かりました。古傷組は私が見ます」
「頼むね」
僕は、訓練場の中央へ改めて足を運ぶ。
「全員、聞いて!」
曲がった槍列も、土まみれの棒持ちも、青い布の向こうにいた者も、少しずつ顔を上げる。
「明朝、東側外周へ移る!」
ざわめきが広がった。
「これは仕事で、訓練ではない」
僕は、並んでいる者たちを一人ひとり見回した。
「今から、もう一度やるよ」
居並ぶ一同の中から誰かが細く小さい声を上げた。
「……何をだよ」
それを聞いて、僕の横にいるガレスが大声で叫ぶ。
「止まるところからだ!!」
ブルーノが、僕の横で小さく呟いた。
「マジかよ」
たぶん、そこにいた僕とガレス以外の全員が、同じことを思った。




