第55話 仕置き
「下りるぞ」
副長の声で、止まっていた息が戻った。
僕は高台の階段へ向かった。急いだつもりはなかったけれど、二段目で足がもつれかけた。すぐ後ろから、カインの手が背を支える。
「アズール様」
「分かってる。今のは急いだんじゃなくて、足を滑らせただけ」
「同じことです」
副長は振り返りもしなかった。
「知っている声か」
「はい」
「下の連中を全員知っているのか」
「……全員は知りません」
「なら、知っている者だけ確認しろ。勝手に線を越えるなよ」
「はい」
高台を下りると、ロイター殿が待っていた。左腕を庇いながら、すでに南線の方を見ている。
「私も行こう」
副長が一度だけロイター殿を見た。
「ヴェルナー子爵家の者なら来い。証言が要るかもしれん」
僕たちは前哨の南側へ向かった。
さっきまで灰衣らしき者たちへ向けられていた兵の一部が、今度は南線へ並んでいる。槍は立てたまま。弓もまだ下がっている。それでも、通ってよい場所と、通ってはいけない場所は、ひと目で分かった。
その向こうに、青い一団がいた。
近くで見ると、本当に揃っていない。
槍を持つ者。棒を杖にしている者。肩を貸している者。荷車の横へ座り込みそうになって、後ろから押されている者。
その先頭近くに、青い一条の布があった。
掲げているのはミケルだった。布に隠れて顔が見えなくなり、風が戻るとまた見える。ミケルは僕に気づいたのか、小さく頭を下げた。
その横には、帳面を抱えたノエル。
少し前に、ガレス。大棍棒を肩に載せたブルーノ。列の外側を見ているエルヴィン。
ニルスもいた。片方の肩を庇っているけれど、自分の足で立っている。
荷車のそばでは、トマが車輪を気にしながら、帝国兵に何か説明していた。
皆、生きていた。
そう思ったところで、帝国兵の槍が少しだけ横へ動いた。
僕が線へ近づきすぎたらしい。
「そこで止まれ」
「はい」
言われなくても止まるつもりだった。
たぶん。
「アズール」
ガレスが僕の名を呼んだ。
「ガレス」
「無事だったか」
「それは僕の台詞だよ」
ガレスは何か言いかけて、やめた。
代わりに、隣からブルーノが顔を出す。
「捕まってた割には元気そうじゃねえか」
「好きで捕まってたわけじゃないよ」
「何でもいい。生きてんなら」
ブルーノはそれだけ言って、鼻を鳴らした。
大棍棒を持つ手が、いつもより少し強く握られている。
「エルヴィンも」
「ああ」
エルヴィンは短く答えた。
「まだ生きている」
「よかった」
「そちらもな」
後ろで、知らない誰かが声を上げた。
「大親分だ」
「本当にいたぞ」
「思ったより普通だな」
「最後の人、聞こえてるからね」
僕が言うと、何人かが黙った。
別の何人かは笑った。
「兄上」
ノエルが帳面を抱え直した。
「生存確認は終わりましたか」
「終わってないよ。ニルスもトマもいるし、まだ聞きたいことが」
「後にしてください。こちらは八十人以上止められています」
「……はい」
ノエルの言い方は、離れ離れになる前と何も変わっていなかった。
その様子に少しだけ安心した。
副長が南線の前へ出た。
「代表は三人までだ。武器は線の外へ置け」
ガレスが短槍を地面へ置いた。
ノエルは最初から武器らしいものを持っていない。もう一人はミケルが出ようとしたが、ノエルが青い布を見て止めた。
「ミケルはそのままで。布が下がると、皆が迷います」
「では、誰だ」
副長が聞く。
「私とガレスさんで足ります。必要なら、後から呼んでください」
副長はうなずきもしなかったが、止めもしなかった。
南線の内側へ粗い机が運ばれてきた。机といっても、板を二つの箱へ渡しただけだ。軍吏が帳面と墨壺を置く。
ノエルとガレスは線の外。
副長と軍吏、僕たちは線の内側。
近いのに、間には縄が一本あった。
「所属は?」
生真面目そうな軍吏が帳面に目を落としながら口を開く。
「エスター男爵家分遣隊です。現在は、ヴェルナー子爵家軍の預かりです」
ノエルは革袋から紙を取り出した。
エスター家から渡された証文。端には、ヴェルナー子爵家軍で受理された印がある。その下から、元の隊員を記した帳面も出てきた。
軍吏が証文を受け取り、封と印を確かめる。
別の兵がロイター殿へ持っていった。
「見覚えは」
「ある。ヴェルナー子爵家軍へ合流した時に確認されたものだ」
「隊長は」
「アズール・エスターです」
軍吏が僕を見た。
「本人か」
「本人です」
後ろから、また声が飛ぶ。
「大親分だぞ!」
「……違います」
ノエルが即座に訂正した。
「静かにしろ!」
ガレスの声も飛ぶ。
ブルーノは振り返り、誰かの頭を小突いていた。
軍吏は何も言わず、帳面へ筆を走らせた。
「元の帳面では、この人数ではないな」
「増えました」
「増えましたで済む数か」
「済まないので、別帳を作っています」
ノエルは、もう一冊を机へ置いた。
帳面と呼んでよいのか少し迷うものだった。紙の大きさは揃っていない。紐で綴じたものもあれば、折った紙を挟んだだけのところもある。端には泥がつき、何度も書き直した跡もあった。
「後ろの者たちは」
「廃村に集まっていた者です。現地徴用として、元の隊員とは分けて記しています」
「誰の命令だ」
「兄上の命令ではありません」
軍吏と副長が、今度は僕を見る。
「僕も今、初めて聞きました」
後ろがざわついた。
「大親分、何も知らねえぞ」
「それで大親分なのか」
「だから大親分じゃないって言ってるだろ!」
ブルーノの怒鳴り声で、ざわめきが一度引いた。
副長がノエルへ戻る。
「では、誰が徴用した」
「ガレスさんたちが廃村で押さえていました。散らせば畑を荒らすか、近くの村と争う可能性がありましたので、私が名前を聞き、ここまで連れてきました」
「全員、戦えるのか?」
「いいえ」
「灰衣は混じっているか?」
「分かりません」
「野盗は?」
「それも確認中です」
「名前は確認しているのか?」
「聞いています。本名かどうかまでは分かりません。言いたくない者もいると思います」
ノエルは、答えられないことまで答えたふりをしなかった。
副長は別帳を手に取ろうとして、ノエルが少しだけ指を残した。
「写しがありません」
「取らん。軍吏に見せろ」
「この場でお願いします」
「それでいい」
ノエルが指を離す。
軍吏は別帳を開き、最初の数枚をめくった。
「名前の横の印は?」
「武器、怪我、見張り、荷、要注意です」
「これは」
「荒い者です」
「多いな」
「はい」
ブルーノが遠くから怒鳴った。
「こっち見て言うんじゃねえ!」
軍吏が初めて少しだけ顔を上げた。
「なるほど」
「何がだ!」
ベルントらしき男が、ブルーノの袖を引いている。
止められてはいないけれど、話を増やさない役には立っていた。
副長が僕へ向き直る。
「追加された者について、お前は知らなかった」
「はい」
「お前の隊ではないのか」
すぐには答えられなかった。
僕が知っているのは、前にいる何人かだけだ。
後ろには、顔も名前も知らない者が大勢いる。何をしてきたのかも分からない。灰衣が混じっているかもしれない。村から盗んだ者もいるかもしれない。
けれど、ガレスたちがここまで連れてきた。
ノエルは名前を聞き始めている。
今さら、僕には関係がないと言って、どこへ戻せばいいのだろう。
「元から僕の隊だった人たちではありません」
「なら、違うのか」
「……ノエル。帳面では、どうなってる?」
「アズール隊付属の現地徴用者。確認中です」
「じゃあ、今はそれでお願いします」
ノエルは一度だけ僕を見た。
何も言わず、すぐに帳面へ目を戻した。
副長が眉を寄せた。
「徴用を認めろという話なら、ここではできん。ヴェルナー子爵家へ言え」
「はい。認めてほしいというより、今ここへ一緒に来たことを、そう書いてください」
「事実だけなら書く」
副長は軍吏へ言った。
「ヴェルナー子爵家預かり、アズール・エスター隊。到着、八十余。現地徴用者として申告された者を含む。別帳は照合中」
軍吏の筆が動く。
それだけだった。
誰かが許したわけでもない。正式な兵になったわけでもない。
それでも、後ろの者たちは、もう前哨の帳面に何もない者ではなくなった。
「次だ」
副長が南線の兵へ声をかける。
「槍と棒は、あの杭へまとめろ。短剣は一本ずつ申告。荷車は南の空き地へ回せ。動けない者から先に見ろ」
命令が伝わると、青い一団の中がざわめいた。
「武器を置けだと」
「置いたら返ってこねえんじゃないか」
「灰衣が来たらどうする」
欠けた槍を持った若者が、一歩だけ後ろへ下がった。
「ラウ」
ガレスが呼んだ。
若者が止まる。
「槍を下げろ」
「でも」
「上げれば、向こうも上げる」
ラウは帝国兵を見た。
帝国兵の槍はまだ立っている。けれど、すぐ倒せる位置にあった。
ラウは唇を噛み、それから槍を下げた。
「今は置け」
ガレスが言う。
「返さないと言われた時に、もう一度話す」
「……分かった」
横からマルクが入って、ラウの槍を受け取った。
「大丈夫大丈夫。槍の兄貴は、返ってこなかったら自分で取りに行く顔してるから」
「余計なことを言うな」
別の場所では、一人が列から抜けようとしていた。
エルヴィンがいつの間にかその前へ回っている。
「どこへ行く」
「小便だよ」
「申告してから行け」
「小便までかよ」
「今だけだ」
ブルーノは荒い者たちの前へ出た。
「置けって言われたんだから置け! ここで槍向けたら、返してもらう前に刺されんぞ!」
「親分が置けって言うなら」
「親分じゃねえ!」
その声で、何人かが笑った。
笑いながら、槍や棒を杭の方へ運び始める。
ベルントがその横で、名前と武器を確認している。
「槍一本……短剣は」
「一本」
「本当に一本ですね?」
「一本だって」
「後で出てきたら、私が怒られるんですよ……」
セオは列の外側を歩き、勝手に離れようとする者を戻している。
ミケルは青い布を下げず、ただ少しだけ高さを落とした。
トマは帝国兵と荷車の向きを変えながら、車輪を溝へ落とすなと怒鳴っている。
ばらばらだった。
でも、誰かの声で少しずつ動いた。
副長はしばらくその様子を見ていた。
「南の空き地に杭を打て。前哨の中へはまだ入れるな。水は回せ。重い怪我人だけ先に分けろ」
「はい」
「数が合ったら報告しろ」
副長は、それ以上何も言わなかった。
ノエルは別帳を軍吏の前へ広げ、ガレスは武器を置く列へ戻る。
ブルーノはまだ親分ではないと怒鳴っている。
エルヴィンは、いつの間にか青い一団の後ろへ回っていた。
「兄上」
ノエルが帳面から顔を上げた。
「何?」
「隊長本人の確認があります」
軍吏が筆を持ったまま僕を見る。
「アズール・エスターで間違いないな」
「はい」
「隊長として記す」
「はい」
また後ろから声がした。
「大親分で書いとけ!」
「書きません!」
ノエルの声が飛んだ。
ブルーノも何か怒鳴っている。ガレスは騒ぐなと言い、ニルスは笑っている。カインは僕の横で、深く息を吐いた。
「アズール様」
「何?」
「ずいぶん増えましたね」
「僕も今、知ったよ」
僕が知っている顔は、その中のほんの少しだった。
大親分になった覚えはない。
けれど、訂正している暇もなさそうだった。




