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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第54話 帝国の順番


 帝国側前哨に留め置かれて、十日余りが過ぎていた。


 僕の手首に回された縄は、もうない。

 支給品で、大した物ではないけれど、一応、僕も、カインも剣は戻された。

 そして薄い藁だけれど寝る場所もある。質素な粥も出る。水も、順番に並べば飲める。


 けれど、前哨の外へは出られなかった。

 逃げようと思えば、走り出せないことはないかもしれない。だが、その時はたぶん、次に僕へ向けられる槍は、捕らえるためのものではなくなるだろう。


 僕は、そのくらいのことは分かるようになっていた。


「アズール様」


 カインが、低く呼んだ。

 僕が前哨の外縁に近づきすぎていたらしい。カインの手は、剣の柄ではなく、僕の袖へ向けられていた。止めるなら、剣ではなく袖を引くつもりなのだろう。


「分かってる。出ないよ」


「出そうな顔をしておりました」


「顔に出てた?」


「かなり」


 カインは、いつものように真面目な顔でこちらを見つめている。

 僕は、肩を落として、小さく息を吐いた。


 前哨の外には、低い土手と畑が広がっている。刈り残された麦、踏み荒らされた畦、ところどころ焦げた小屋。遠くには、何かが動いているようにも見えるし、ただ風が草を倒しているだけのようにも見える。


 そのどこかに、ガレスがいるのかもしれない。

 エルヴィンが、ブルーノがいるのかもしれない。


 いるのかもしれない、というだけだった。


 この十日余り、僕は何度も同じことを聞いた。

 ガレスは。ブルーノは。エルヴィンは。ノエルは。ニルスは。トマは。オルステッド殿は。避難民の列は。壊れた道は。近隣の畑は。


 ノエルとニルス、トマたちについては、ヴェルナー子爵家軍から前哨へ回った報告の中で、比較的早いうちに確認された。

 それは、よかったことのひとつではある。けれど、戻らない者や、戻っても傷を負った者の数を聞くたびに、胸は痛んだ。


 ノエルたちの名が戻った分だけ、戻らない三つの名が目立った。

 ガレス。ブルーノ。エルヴィン。

 何度聞いても、返ってくる答えは同じだった。


 分からない。


 帝国兵は、知らないことを知っているとは言わず、ロイター殿も、分からないことを慰めに変えたりはしなかった。

 それは正しい。正しいのだと思う。けれど、正しい言葉は、時々とても冷たく感じるものだ。


「外へは出られないぞ」


 背後から声がした。

 振り返ると、ロイター殿が立っていた。左腕の布はまだ巻かれている。再会時に前哨で見た時よりも血の色は薄くなっていたが、腕を使うたびに、わずかに眉が動く。


「ロイター殿でも、ですか」


「私も出られん」


 ロイター殿は、前哨の外へ目を向けたまま答えた。


「我らも、拾われた側だ」


 その言葉は、十日余りのあいだに何度か聞いた。

 けれど、聞くたびに少しずつ違って聞こえる。


 ロイター隊は、僕たちより先にここへ辿り着いた。

 十人余りの兵を連れ、傷つきながらも、隊として前哨へ入った。ヴェルナー子爵家の証文も残っていた。誰の兵で、誰に従い、どの軍にいたのかを、示すものがあった。


 僕には、それがなかった。

 僕にあったのは、エスターの名と、カインと、口だけだった。

 ロイター殿が証言してくれなければ、僕の縄は、もっと長く手首に残っていただろう。


「それでも、ロイター殿がいなければ、僕たちは大変なことになっていたかもしれません」


「偶然、先に到着し、前哨の帳面に我らが先に載った、それだけだ。載った者は、後から来た者を証明できることがある。だが、何かをできるわけではない」


「それはそれとして……帳面に載ると、違いますか?」


「ああ、まったく違うな」


 ロイター殿は、今度はすぐに答えた。


「飯も、水も、寝場所も、武器の扱いも、呼ばれ方も変わる。死んだ時の書かれ方も変わる」


「死んだ時の」


「そうだ」


 ロイター殿は、そこで初めて僕を見た。


「生きている間だけの話ではない」


 言葉に詰まった。ロイター殿は、慰めを言わない。だから、時々、慰めよりも深いところへ言葉が落ちる。

 その時、前哨の内側から短い声が飛んだ。


「ロイター隊監督下の若いの……アズール・エスターだったかな?」


 呼んだのは、帝国前哨の副長だった。名は聞いたはずだが、前哨の者たちはほとんど役目で呼び合うので、僕の中ではいつの間にか副長のまま定着していた。


 副長は、鉄の胸当てではなく革と鎖を重ねた実用的な装備をつけている。年は、ロイター殿より少し上かもしれない。声は大きくないが、兵が聞き逃さない種類の声だった。


「はい、アズールです」


「また外を見ているのか」


「すみません」


「謝れとは言っていない。何を見ている」


 僕は、少し考えた。


「順番を」


 副長が、わずかに眉を上げる。


「順番?」


「例えば、水をもらう順番です。どういう者が早めに水をもらえて、待たされるのはどういう者か。前に出る者はどういう者か。逆に、動かずにいる者はどういう者か、とか」


 副長は、しばらく僕を見ていた。

 その沈黙が少し長かったので、怒られるかと思ったが、違った。


「若い貴族は、たいてい自分の順番だけを見るもんだがな」


「僕は、自分の順番もよく分かっていませんので……」


「なら、見るところから始めるのがいいな」


 副長はそう言うと、顎で前哨の中央を示した。


「高台へ上がる。邪魔はするなよ。質問は、手が空いた時だけだ」


「よいのですか」


「ロイター隊監督下の者としてなら、よいだろう。カインも来い。剣は抜くな」


 カインが、僕より先に頭を下げた。


「承知しました」


 ロイター殿は、止めなかった。少しだけこちらを見て、それから持ち場へ戻っていく。

 近すぎず、遠すぎず。ロイター隊との距離は、いつもそのくらいだった。


 前哨の高台は、砦の塔というほど立派なものではなかった。

 土を盛り、丸太で補強し、上に見張り台を組んだだけの場所だ。それでも、前哨全体を見渡すには十分だ。


 上から見ると、前哨はやはり大きい。兵は二千ほどいるらしい。全員が一か所に固まっているわけではない。外縁の警戒、負傷者の区画、馬をつなぐ場所、荷を置く場所、捕らえた者を座らせる囲い、水場、軍吏の机、炊き場。それぞれが縄と杭で分けられている。


 人が多いのに、混ざっていない。

 泣いている者はいる。呻いている者もいる。怒鳴る者もいる。だが、すべてが何かの線の内側にある。最初にここへ連れてこられた時も、僕は同じことを思った。

 ここには、温かさではなく、順番がある。


「法、ですか」


 僕が言うと、副長は前を見たまま答えた。


「法だけでは組織は回らん」


「では、何でしょうか」


「手順だ。法は、後で裁くためにある。手順は、今崩れないためにある」


 今崩れないため。

 僕は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 その時、外縁の見張りの一人が腕を上げた。声は聞こえない。だが、副長の目がそちらへ動く。

 すぐに、別の兵が短い木板を打った。乾いた音が、三つだ。


 すると前哨の空気が変わった。とはいえ、大きな騒ぎになったわけではない。誰かが大声で敵だと叫んだわけでもない。けれど、動く者が粛々と動き出す。


「南東外縁。用水路沿い」


 見張り台の下で、伝令が声を上げる。


「影、十余り。灰衣の可能性あり」


「第三組、前へ。第七組は動くな。水場、捕縛囲いは現状維持。弓は上げるな、弦は持て」


 副長の声は、平らだった。

 それでも、下の兵たちは迷わない。


 前に出る兵がいる。前に出ない兵がいる。槍を取る者がいる。槍を取っても、一歩も動かない者がいる。伝令が走る。だが、走る道は決まっているのか、人と人のあいだを乱さず抜けていった。


 捕らえられた者たちの囲いでは、何人かが顔を上げた。

 その周りにいた兵は、外を見なかった。見たかもしれないが、持ち場を離れなかった。

 負傷者のそばの兵も同じだ。外の音に肩は動いたが、足は動かなかった。


 用水路の向こう、低い土手の陰から灰色の布がちらついた。

 十人、いや、もう少しいるかもしれない。全員が正面から来るわけではない。畦に沿って散り、様子を見ている。


 本気で攻める数ではない。

 だが、近づかれると困る場所を探ろうとしている動きに見えた。


 帝国兵の一組が、前へ出る。走らない。崩れない。

 盾を持つ者が前、槍がその後ろ、弓はさらに後ろ。足の速い二人が横へ広がるが、追いすぎる感じではない。


 灰色の影が一度だけ矢を放った。

 矢は土手に刺さる。帝国兵は、そこで怒鳴らなかった。盾が少し上がり、弓の一人が返す。一本、二本。灰色の布が土手の向こうへ消える。


「追うな」


 副長が言った。

 下でも同じ命令が飛んだ。


「線までだ。線から先は追うな」


 前へ出た兵たちは、決められたあたりで止まった。逃げる灰色を追えば、何人かは捕まえられたかもしれない。

 ブルーノなら、止めなければたぶんそのまま追っただろう。ガレスなら、止めるかもしれない。エルヴィンなら、最初から土手の先を疑っただろう。


 帝国兵は、追わなかった。逃げる背を見ても、足を止めた。

 追えなかったのではない。追うか追わないかまで、すでに決められている。

 それが、僕には少し怖かった。


 やがて、前へ出た組が戻ってくる。負傷者はいないようだ。捕まえた者もいない。

 前哨は始まる前と何も変わった様子がなく、まったく崩れていなかった。


「今のようなことが毎日数回、多いときには十回以上だ」


 副長が忌々しそうな顔で口を開く。


「一応……勝てたので良いのでは?」


「追い払っただけだ。勝ちではない」


 僕は、下を見た。水場には水場の兵がいる。捕縛者の囲いには囲いの兵がいる。負傷者のそばには、負傷者のそばにいる者がいる。前に出た兵は戻り、元居た場所へ入る。


「全部、決まっているんですか?」


「決めておかなければ、いざというときに正しく動くことができんからな」


 副長は、遠くの土手を見ていた。


「前に出る者、出ない者。追う者、追わない者がいる。水場を守る者がいる。怪我人のそばを離れない者がいる。それを決めておかずに敵に当たれば、全員が敵へ向かってしまう」


「全員が敵に向かうと……」


「後ろが空く」


 短い答えだった。


 後ろが空く。それは、戦場だけの話ではなかった。

 水場を離れれば、水を求める者が乱れる。捕らえた者の囲いを離れれば、逃げる者が出る。負傷者のそばを離れれば、声を上げる者が増える。

 前に出るということは、どこかを空けるということだった。


「では、どういう順番で、誰から……」


「死なれると前哨が崩れる者からだ」


 冷たい言い方だった。

 けれど、意地悪な言い方ではなかった。


「兵、負傷兵、捕縛者、避難民、所属不明者。分けなければ、一日で分からんようになる」


「混ざると……」


「盗む。逃げる。騒ぐ。しまいには、兵が眠れなくなり、病が広がるかもしれん。そうなれば、見張りに穴が空くことになる」


 僕は、言い返せなかった。

 それは、正しかった。だけれど、何かもやもやしたものが胸の奥に湧き、すっきりとしない。


「分けられた後に、どこにも戻れない人はどうなるのですか?」


「外に置かれることになるだろうな」


「外? ですか」


「兵でもなく、敵とも言い切れず、近隣の村の者とも証明できない。そういう者を、内側には入れられん」


 副長は、ごまかさなかった。


「だから、最初に名を聞く。所属を聞く。証明する者を探す。誰の監督下に置くかを決める。そこまでできれば、少なくとも順番の内側には置けるくらいにはなる」


 順番の内側。


 僕は、手首を見た。縄の跡は、もうほとんど薄くなっている。けれど、消えてはいない気がした。

 僕の名前は、ロイター殿の証言で帳面の端に載った。カインの名も、僕一人では足りなかった。僕が護衛だと言っても足りず、ロイター殿の言葉と、ヴェルナー子爵家の証文があって、ようやく足りた。


 名前だけでは足りない。家名だけでも足りない。誰が証明し、誰の監督下に置くか。

 僕は、そうして水の順番に入った。


「覚えておきます」


 僕が言うと、副長は少しだけ笑ったように見えた。


「覚えるだけでは足りん」


「はい」


「だが、覚えないよりはましだ」


 その時だった。


 南側の物見が、今度は長く腕を上げた。

 さっきとは違う。合図の音も、乾いた木板ではなく、低い角笛だった。


 副長の顔が、すぐに戻る。


「報告」


 伝令が高台の下まで駆けてきた。


「南より一団。数、八十から九十。百には届かず。荷車あり。槍、棒、短剣あり。負傷者らしき者あり」


 副長の目が細くなる。


「灰衣か」


「灰ではありません。布を掲げています。白とも灰ともつかない布に、青い線が一本」


「青い線?」


 僕は思わず口にした。

 副長は僕を見ず、伝令へ続ける。


「列は」


「乱れています。ただ、崩れてはいません。先頭の槍は下がっています」


「さっきの別動かもしれん。南線で止めろ。弓は構えるな。だが、弦は外すな。水場、捕縛囲いは現状維持だ。代表だけを前へ出させろ。荷車は線の外へ回せ」


 命令が、下へ落ちていく。前哨は、揺らがなかった。

 二千の兵がいる。百に届かない一団が来たところで、揺らぐ数ではない。


 けれど、侮りもしなかった。


 動くべき者が動き、動いてはいけない者は動かない。

 さっき灰衣の影へ向けられた手順が、今度は青い線の一団へ向けられていく。


 僕は、高台の縁まで出かけた。

 カインの手が、すぐに袖を掴む。


「アズール様」


「分かってる」


 分かっている。

 でも、見たかった。


 南の道に、確かに布が見えた。

 白とも灰ともつかない粗い布。そこに、青い線が一本。風に煽られ、時々見えなくなり、また見える。


 その下に、人がいる。

 多い。兵の列という雰囲気ではない。避難民の列とも少し違う。荷車があり、槍があり、棒があり、肩を借りて歩く者がいる。まとまってはいるが、揃ってはいない。


 けれど、崩れてはいなかった。

 誰かが声をかけ、誰かが荷車を押し、誰かが遅れた者の肩を支えている。

 列ではない。だが、ばらばらでもない。


「何だ、あれは」


 ロイター殿が下で呟いたのが聞こえた。

 ロイター隊の兵たちも立っている。だが、やはり勝手には前へ出ない。槍は取っている。けれど、持ち場からは動かない。


 前哨の線の手前で、青い一団が止められた。

 しばらく声は聞こえなかった。帝国兵が何かを問うているのだろう。青い一団の先頭あたりが揺れた。


 次の瞬間、聞いたことのない声が前哨まで飛んできた。


「アズール大親分はどこだ!」


 僕は、足を止めた。


「……大親分?」


 カインが、こちらを見た。何か言いたそうだ。


「アズール様」


「いや、知らない」


「でしょうね……」


 その間にも、外の声は続く。


「親分の親分だろ!」


「俺たちは大親分のところへ来たんだ!」


「会わせろって!」


 前哨の兵たちが、明らかに困惑している。

 副長も、ほんの少しだけ眉を動かした。


「アズール・エスター」


「はい」


「大親分とは何だ」


「僕が聞きたいです」


 その時、青い一団の中から、もっと聞き覚えのある怒鳴り声が飛んだ。


「大親分じゃねえ! 親分でもねえ!」


 ブルーノの声だった。


 胸の奥が、強く跳ねた。

 だが、声はそれだけでは終わらない。


「騒ぐな。武器を上げるな」


 低く、固い声。

 ガレスだった。


 さらに少し離れたところから、妙に冷静な声が続く。


「旗ではありません。識別用の布です」


 ノエルの声だった。


 聞き覚えのない呼び名。聞き覚えのある怒鳴り声。聞き覚えのある低い声。聞き覚えのある、妙に冷静な訂正。

 南から来た青い線の下に、僕の知らない何かが増えていた。


 僕は、高台の上で、しばらく息をするのを忘れていた。


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