第53話 帳面の兄貴
南の道に、青い線が見えた。
最初に気づいたのは、細い魚を二匹だけ抱えて戻ってきた若者だ。
若者は廃村の入口で足を止め、魚を落としかけ、それから井戸のそばに立っていた大柄な男へ向かって声を張った。
「親分、なんか来ます」
「親分じゃねえ」
ブルーノは、いつものように怒鳴った。
だが若者は、もうその怒鳴り声に慣れているのか逃げる様子はなく、首だけを南の道へ向けたまま、もう一度口を開く。
「あれは……旗ですかね」
「旗だぁ?」
ブルーノは、大棍棒の柄を肩に担ぎ直した。
井戸の周りにいた者たちが、ぞろぞろと道の方を見る。崩れた壁の陰で鍋を見ていた者も、折れ枝で作った境の近くにいた者も、何かが来るというだけで体を動かしかけた。
「不用意に動くな」
低い声が落ちた。
ガレスが、廃屋の壁際から一歩だけ前へ出る。槍先は下げたままだが、その一声で、前に出かけた若者たちの足が止まった。
「まだ何者たちか分からん。武器を上げるな」
「でも、槍の兄貴」
「武器を上げるなと言った」
若者たちは、半端に持ち上げかけた槍や斧を下ろした。
全員が従ったわけではない。だが、従わなかった者の肩を、近くの者が引いた。
エルヴィンは、崩れた塀の上に手を置き、目を細めていた。
遠くの道に、白とも灰ともつかない布が見える。そこに、青い線が一本、縫いつけられている。
その下に、武器を持った者たちが続いていた。
槍はある。荷車もある。人の数は多くない。だが、賊にしては微妙に整ってはいる。
「……旗ではないな」
「旗だろ、あれ」
ブルーノは、あまり深く考えていない顔で顎を撫でながら、旗らしきものを眺めていた。
「布に棒がついてるだけだ」
「なおさら旗じゃねえか」
「そういうものか」
エルヴィンは短く言ったが、声に少しだけ力が戻っていた。
青い線の下に、帳面を抱えた若い男が見えたからだ。
廃村の若者たちが、一拍遅れてざわめいた。
「あれは……前に聞いた、帳面の兄貴では?」
「帳面の兄貴が来たぞ!」
「槍の兄貴と静かな兄貴の次は、帳面の兄貴か!」
「兄貴を増やすんじゃねえ!」
ブルーノの怒鳴り声が、廃村の井戸に響いた。
だがその声は、昨日までより少しだけ明るかった。
*
ノエルは、南の廃村を見て、最初に息を止めた。
崩れた家。炊き口の前に並ぶ、空に近い椀。薄い湯気の立つ鍋。
槍とも棒ともつかないものを持った若者たち。その向こうに見える、畑。畑のさらに奥に、こちらを見ている村人たち。
近すぎる。
ノエルは、そう思った。
廃村と畑が近い。畑と村が近い。武器を持った者たちと、怯えて槍を握る村人たちが近すぎる。そのあいだにあるのは、折れた枝と、赤茶けた布を結んだだけの頼りない線だった。
「ミケル」
「はい」
「その布は下げないでください。高すぎても駄目です。こちらの位置が分かる程度に」
「はい」
ミケルは、緊張した顔で青い一条の布を握り直した。
旗ではない。少なくとも、ノエルはそう言い張るつもりだった。だが今この場で、何も掲げずに武器を持って近づけば、畑の向こうの村人たちには野盗の一団にしか見えないだろう。
「マルク」
「はいはい」
「はい、は一度でいいです。槍は構えないで下げてください。揃えるだけです」
「了解です。怖くない感じでやっときますよ」
「……軽すぎますが、今はそれでよしとします」
マルクは、へらりと笑いながらも、前にいた槍持ちたちの肩を軽く叩いて回った。
「はい、槍先下げてー。顔は怖くても、槍先まで怖くしない感じでよろしく」
「マルク」
「はい、黙ります。槍は下げます」
ノエルはため息をのみ込んだ。
完全には黙らないだろう。だが、槍先は下がっている。なら、今はよい。
「セオ」
「はい」
「道脇、後ろ、村側。勝手に離れそうな人も見てください」
「はい」
セオは短く答えると、もう視線を外していた。
返事の少なさは気になるが、仕事は早い。ノエルはそれ以上言わないことにした。
「ベルント」
「はい」
「荷車を止める位置を見てください。前に出すぎないように。あと、荒い人が勝手に前へ出ないように」
「……すでに胃が痛いのですが」
「まだ着いていませんよ」
「なおさらですよ」
ベルントは眉を下げながら真面目な顔でそう言い、しかし荷車の側へ回った。
トマが車輪の音を聞きながら、鼻を鳴らす。
「道が悪いんだよ、道が。廃村に来る道なんだから当たり前だけどな」
「トマさん、水の桶は」
「ある。こぼれてねえ。車軸もまだ泣いてねえ。泣きたいのは俺だ」
「泣くのは、着いてからにしてください」
「ひどいな、ノエル坊ちゃん」
ニルスが横で、痛む肩を庇いながら笑った。
「坊ちゃん、今のひどいですよー」
「あなたも肩を無理に動かさないでください」
「はいはい」
「はいは一度です」
「うわ、マルクと同じ注意された」
ノエルは返事をしなかった。
廃村の入口で、三人が待っていたからだ。
ガレス。
エルヴィン。
ブルーノ。
三人とも、生きていた。
その事実が、胸の奥で一度だけ大きく膨らんだ。
ノエルは帳面を抱える手に力を入れ、深く息を吐いた。
「生きていてよかったです」
最初に出た言葉は、それだった。
自分でも、少しだけ驚いた。
ガレスがわずかに表情を緩めながら静かに頭を下げた。
「心配をかけた」
「かけました」
エルヴィンも、表情は変えないまでも、申し訳なさそうに短く言う。
「すまない」
「謝罪より、分かっていることを教えてください」
「……分かった」
ブルーノは大棍棒を肩に担いだまま、踏ん反り返りつつ、少しだけ目を逸らしていた。
「ノエルも無事だったか。なによりじゃねえか」
「見れば分かるでしょう」
「他の奴はどうだ」
「ニルスさんは生きています。トマさんも生きています。僕も生きています」
「そりゃよかったぜ」
「それで」
ノエルは、廃村を見回した。
井戸、鍋、武器、畑、村。
そして、ブルーノの周りに集まっている若者たち。
「どうして生きている人たちは、こうも僕の仕事を増やすんですか」
ブルーノが、露骨に嫌な顔をした。
「俺に言うんじゃねえよ」
「どうせ、ブルーノさん絡みですよね?」
「親分じゃねえぞ」
「分かっています。ですが、客観的に見れば親分のように見えるので」
「見えねえよ!」
廃村の若者が、小さく手を上げた。
「見えてます」
「黙ってろ!」
若者は肩をすくめた。怖がってはいる。だが、笑ってもいる。
ノエルはそれを見て、ますます顔をしかめた。
「ブルーノさん」
「……おう」
「畑を荒らさせなかったことは、えらいです」
「お、おう」
「村を襲わせなかったことも、えらいです」
「もっと褒めてもいいぜ」
「ですが」
ノエルは帳面を開いた。
「何名いるんですか?」
「……」
「食料の残りは?」
「……鍋はある」
「量です」
「……」
「武器の数も把握できていませんよね?」
「見りゃ分かるだろ」
「見ただけでは帳面に載せられません」
「……」
「寝る場所も決めきれていないんじゃないですか?」
「寝られるところで寝てる。何も問題ねえ」
「……問題しかありません」
ブルーノは、言い返す言葉を探すように口を動かしたが、結局何も出なかった。
「それでは、親分とは名乗れませんね」
「親分じゃねえ! いや、そう、親分じゃねえ」
「なんでもいいんですけど、数くらいは数えてください!」
ノエルの声が、廃村の前に響いた。
若者たちが、今度は本当に少し静かになった。
ガレスが、わずかに目を伏せた。
エルヴィンは、壁に預けていた手を離し、ノエルの帳面を見た。
「人数は、朝より増えている」
「でしょうね」
「分かるのか」
「見れば分かります。鍋の湯気より、並べられている椀の数の方が多いじゃないですか……」
エルヴィンは短く息を吐いた。
「昨日よりも多い。今朝、二人増えた。昼前にも一人戻った。魚を取りに出ている者もいる」
「出入りがあるんですね」
「ある」
「一番困るやつです」
「そうだ」
ノエルは、ガレスを見た。
「境界は?」
「保てているとは言い難いところだ」
「保とうと努力しているだけで十分です。今は」
ガレスは、畑の方を見た。
村の男たちが、こちらを見ている。槍を持っているが、近づいては来ない。怖れている。怒ってもいる。
ノエルは、そちらへ向けて空の手を上げた。
「こちらから、その線は越えません」
声が届いたかは分からない。
だが、マルクがすぐに槍持ちたちへ声をかけた。
「はい、槍は下げたまま。見せるのは礼儀正しさってね。怖くしない、怖くしない」
畑の向こうの村人たちは、まだ動かなかった。
それでいい。今は、それで十分だった。
「まず、数えましょう」
ノエルが言うと、廃村の若者たちがざわついた。
「数えるって、何をだ? 俺らか?」
「名前、言うのか?」
「言ったら捕まるんじゃねえのか」
「捕まえるために聞くのではありません」
ノエルは、できるだけ声を平らにした。
「飯を出すためです。寝る場所を決めるためです。怪我をした時に、誰が倒れたか分かるようにするためです。勝手に死んだことにされないためです」
ざわめきが、少し変わった。
死んだことにされない。
その言葉だけを、何人かが拾った。
ノエルは一人目の若者を見た。
魚を持って戻ってきた、最初に青一条へ気づいた若者だった。
「名前は」
「……ヨルン」
「武器は」
「短剣。あと、棒」
「畑を荒らしましたか?」
「入ってすらいねえ。親分が怒るから」
「親分ではありません」
ノエルとブルーノの声が、ほとんど同時に出た。
若者たちが笑った。
ノエルは無視して、続けた。
「魚は取れますか?」
「少しなら」
「道は分かりますか?」
「この辺なら多少は……」
「では、エルヴィンさんのところへ移動してください」
「静かな兄貴のところですか」
「エルヴィンさんです」
エルヴィンが、わずかに眉を寄せた。
「俺に預けるのか」
「道を見られる者は、エルヴィンさん預かりです」
「魚を取ってただけだぞ」
「戻ってこれるなら十分です」
エルヴィンは黙った。
横にいたセオが、一歩だけ近づく。
「セオ」
「はい」
「ついてこい、後ろを任せる。勝手に離れた者も見ておけ」
「はい」
それだけで通じていた。
ノエルは、少しだけ二人を見比べた。
「……それだけで足りるんですね」
「足りる」
エルヴィンが短く答える。
セオも、うなずくだけだった。
次に前へ出てきたのは、痩せてはいるが肩の張った若者だった。手には、どこかから拾ったらしい槍を持っている。槍先は欠けていた。
「名前は」
「ラウ」
「槍は使えますか?」
「使える」
「誰に教わりましたか」
「見よう見まねで」
「あなたは、ガレスさんのところへ移動してください」
ラウは、ぎょっとした顔をした。
「槍の兄貴のところかよ」
「槍を持って戦えそうな者は、ガレスさんです」
「戦うとか怖いんだが……」
「怖い方が、前に出すぎなくて済みます」
横からマルクが軽く手を振った。
「大丈夫大丈夫。槍の兄貴は顔が怖いだけで、指示はだいたい正しいから」
「マルク」
「はい、黙ります。槍を揃えますね」
ガレスは、マルクを一瞥したあと、ラウに向き直った。
「槍は勝手に上げるな」
「え?」
「槍は指示があるまで上げるな、その前に足を揃えろ」
「足?」
「そこからだ」
ラウは、思っていたより地味な指示に、口を開けた。
マルクがその横で、ひょいと槍先を下げる。
「そうそう、足からね。槍の兄貴は、最初から最後まで足の話しますよ、俺にはわかります。たぶんだけど」
「黙れ」
「はい」
少しだけ、廃村の空気が緩んだ。
だが、緩んだままにはしない。
ノエルは、次の者を呼ぶ。
怪我をしている者は、トマの荷車近くへ。
鍋の周りにいた者には、誰が食料を分けていたかを聞き、夜に見張りをしていた者には、どちらの道を見ていたかを確認した。
畑に近づいた者は、理由を聞いて、ブルーノに怒鳴られて止まれた者は、そのことだけは帳面に書く。
「止まれたなら、そこは書き残します」
「怒られたことも書くのか」
「必要なら残します」
「書かないでくれよ……」
「では次から近づかないでください」
若者は、素直にうなずいた。
やがて、前に出てくる者の中に、明らかに気配の荒い者たちが混じり始めた。
肩が広い。目つきが鋭い。腹が減れば先に声を荒げそうな者たち。悪人ではないのかもしれないが、行き場を失った力が、そのまま外へ向いている者たちだった。
「あなたたちは」
ノエルが言うより先に、一人が胸を張った。
「親分のところでいいです」
「親分じゃねえ」
「ブルーノさんのところです」
ノエルは訂正した。
ブルーノが嫌そうな顔をする。
「俺のところかよ」
「はい。ただし、ベルントさんも付きます」
「え? 私ですか!?」
ベルントが、静かに顔色を悪くした。
「はい」
「……私では、ブルーノ殿を止められるとは思えませんが」
「止めなくていいです」
「では、何を」
「暴れだすのは織り込み済みで、方向だけ整えてあげてください」
「……できるとは思えないんですけど」
「あなたなら、できますよ」
ベルントは、しばらくノエルを見ていた。
それから、諦めたようにうなずいた。
「……分かりました」
ブルーノは、荒い若者たちを見た。
若者たちは、どこか嬉しそうに背筋を伸ばしている。
「お前ら、何か悪さしたら俺が殴るからな!」
「はい、親分!」
「親分じゃねえ!」
「ブルーノさん」
ノエルが冷たく呼んだ。
「説明を省かないでください」
「省いてねえだろ」
「今のは、ほとんど怒鳴り声です」
ベルントが、胃のあたりを押さえた。
「ブルーノ殿。まず、名前を聞いてまとめましょう」
「あ? そんな面倒なことやれっかよ。お前に任せた」
「え? 来たばかりなんですけれど」
「うるせえな、名前聞くだけじゃねえのかよ」
「名前ですが、人数もです」
「じゃあそれもやっといてくれ」
「……はい」
ベルントの声は静かだった。
静かだったが、すでに疲れていた。
それでもベルントは、若者たちへ向き直る。
「まず、順に名前を言ってください。武器も。怪我も。昨日まで何をしていたかも」
「いっぺんに言うなよ、なんだって?」
「名前、扱う武器、怪我の有無、昨日まで何をしてきたか、です」
「そんなの聞かれたことねえぞ」
「必要だから聞くんです、早くしてください」
若者たちは顔を見合わせた。
ブルーノは今までそんなことを聞いてこなかった。だが、目の前に立つこの真面目そうな男は聞く。そして、ブルーノはそれを止めない。というか、言うこと聞けと言う雰囲気で睨んでいる。
その事実だけで、彼らはしぶしぶ並び始めた。
「ブルーノさん」
「なんだよ」
「あなたが抑えていたから、この人たちはまだ畑を荒らしていません」
「ならいいだろ」
「それだけでも悪くはありませんが、ちょっと足りません。抑えた後に、数える、並べることが必要なんです」
ブルーノは鼻を鳴らした。
「面倒くせえな」
「ブルーノさんには面倒そうだから、僕が来ました」
「わかってるじゃねえか」
ブルーノは、少しだけ笑った。
ノエルは笑わなかった。
廃村の端で、ミケルが青い一条の布を持って立っていた。
その布を見た丸顔の若者が、目を輝かせる。
「旗の兄貴もいるぞ」
「旗ではない、そうです」
ミケルが、真面目に答えた。
「しゃべったぞ」
「識別用の布だと」
「どう見ても、旗だろ。識別の布? なんだそりゃ」
「……旗ではないんです」
ミケルとその若者の間で、謎で不毛なやり取りがしばらく続いた。
そのやり取りを横目に、ノエルは次の名を帳面へ書き込んだ。
「じゃあ、親分のところでいいのか」
「親分じゃねえ」
ノエルとブルーノの声が、また妙に揃う。
一瞬、廃村の空気が止まったが、それから、あちこちで小さく笑いが漏れる。
ノエルは、咳払いを一つし、口を開く。
「笑っている場合ではありませんよ」
「笑わせたの、坊ちゃんだろ」
トマが荷車の横から言った。
「僕ではありません」
「そういうところだよ」
ニルスが肩を押さえながら笑った。
ノエルは、二人を無視した。
帳面に、名前が増えていく。
まだ正しい数ではない。出入りもある。嘘も混じるだろう。言いたくない名もある。罪を隠す者もいる。
それでも、何も書かないよりはましだった。
名前の横に、ノエルは短い印をつけた。
槍、見張り、荷、怪我、要注意。そして、荒い者。
槍の印の先には、ガレスが立った。
マルクが軽口を叩きながら、若者たちの槍先を下げさせている。
「はい、前に出たい人ほど半歩下がって。槍の兄貴に怒られますよ」
「もう怒っている」
「ほらね」
見張りの印の先には、エルヴィンが立った。
セオが黙って道の影を見ている。魚を取っていたヨルンは、いつの間にか二人の後ろで、どちらを見ればよいのか分からず、きょろきょろしていた。
「動くな」
エルヴィンが言う。
「どこを見ればいいのか」
「音がした方だ」
「音がしなかったら」
「見続けろ」
ヨルンは困った顔をしたが、逃げはしなかった。
荒い者の印の先には、ブルーノが立った。
その横で、ベルントがすでに胃のあたりを押さえている。
乱暴な若者たちは、ブルーノの方を見たり、ベルントの方を見たりしていた。どちらが怖いのか、まだ決めかねているようだった。
畑の向こうでは、村人たちがまだこちらを見ていた。
そのうち一人が、ほんの少しだけ槍先を下げた。
だが、誰もこちらへ近づいては来ない。
線は頼りない、鍋は薄い、飯は足りない。
寝る場所も、武器の置き場所も、何一つ足りていない。
それでも、廃村の前にいた者たちは、少しずつ一つの場所へ置かれ始めていた。
ノエルは、次の名前を聞いた。
「名前は」
若者が答える。
ノエルは書く。
青い一条の下で、最初に始まったのは、戦ではなかった。
人数を数え、置き場所を決めることだった。




