第52話 青一条
壊走から、十日余りが過ぎていた。
十日あれば、人は死ぬ。
十日あれば、戻ってこない者の名に、線を引かなければならなくなる。
十日あれば、まだ生きている者も、名を失う。
ノエル・エスターは、帳面の上に置いた指を止めた。
仮営の外では、低い声がいくつも重なっている。痛みをこらえる声。水を求める声。人足が荷車の車輪を叩く音。誰かが、煮えきらない薄い粥をかき混ぜる音。
東部に来たころは、戦える者は、三十ほどいたのに、いま、ノエルの帳面に戦える者として名を戻せているのは、二十と少しとなっている。
死んだ者。まだ戻らない者。戻らないまま、死んだと扱わなければ飯も寝床も請求できない者。
線を引くたびに、ノエルは腹の奥が冷えるのを感じた。
兄上なら、まだ待てと言うかもしれない。
けれど、待つだけでは物事は進んでいかない。
「ノエルさん」
ニルスが、帳面の向こうから顔を出した。肩に巻いた布はまだ新しい。大きな怪我ではないが、動かせば痛むらしく、時々顔をしかめている。
「また数えてるんですか」
「数が変わったから仕方ないです」
「変わってない日って、あります?」
「……ありません。だから数えるんです」
ノエルは顔を上げずに答えた。
アズールは生きている。カインもその側にいる。
帝国側の前哨で、ロイター隊の近くに留め置かれ、大きな怪我はないと聞いている。
そこまでは、先日報告を受けて知っていた。
だからこそ、ノエルは動けない。
兄が前哨から出られない以上、アズール隊の残りについて話を受け、名を答え、食料を請い、寝床を求め、傷の具合を示す者が必要だった。
そして、その役をできる者は、ほかにいなかった。
「アズール殿の名代として、こちらの確認を願いたい」
朝にも、ヴェルナー子爵家の書記がそう言って、帳面を渡してきた。
ノエルはその時、筆を止め、一度だけ目を閉じた。
「名代ではありません。兄上の弟です」
「では、その弟殿として」
「……確認します」
認めたわけではない。
ただ、確認しなければ、負傷者の分の寝藁が減る。粥の椀が減る。武器を預けた者が、敗残兵として別に扱われる。
それは、困る。とても困る。
「人足は全員います」
荷車のそばから、トマの声がした。
彼は車輪を蹴って、軸の音を聞いている。戦線には出ていなかったため、トマたち人足は全員無事だった。幸い、と言うには腹立たしい状況だったが、使える手が残っているのは確かだった。
「逃げた者はいますか?」
「逃げられる足がありゃ、とっくに逃げてる」
「つまり、いないんですね」
「言い方ってもんがあるだろ」
「事実です」
「事実ばっか言ってるから嫌な顔されるんだよ」
ノエルは、帳面に小さく印をつけた。
もともと怪我で戦いに出られなかった者たちも、十名と少し残っている。古傷はまだ完全ではないが、見張り程度なら立てる者もいる。荷車の周りで槍を持てる者もいる。
戦力と呼ぶには足りない。
だが、置いていく者を守る手にはなる。
そろそろ、兄上を迎えに行かなければいけない頃合いだろう。
「マルク」
「はいはい、呼ばれましたよっと」
ひょいと軽い調子で出てきた男が、片手を上げた。
マルク・ヴァイト。黒棘からの敗走中に途中で拾った、近隣都市所属だった衛兵だ。口だけ聞けば、軽い調子が漏れだして、今が壊走後の仮営だとは思えない。
「前列の槍持ちを見てください。ふざけてもいいですが、槍は下げすぎないこと」
「了解です。ふざける許可いただきました!」
「許可は出していませんけど……」
「槍はちゃんと見ますって」
「そこだけはお願いしますね」
マルクはにやりと笑い、近くの若い兵の肩を叩きながら歩いていった。
軽い。とても軽い。だが、彼が声をかけると、硬くなっていた兵の肩が少しだけ下がる。槍の向きも揃う。腹立たしいことに、仕事はできる男だった。
「セオ」
少し離れた木杭の陰に立っていた男が、顔だけこちらへ向けた。
セオ・バルツァー。元北潟隊。斥候と見張りを任せると、一番ミスが少ない。ただし、ほとんどしゃべらない。
「道脇を見てください。人の気配があれば、すぐに」
セオは黙って頷いた。
「返事は」
「……はい」
「お願いしますね」
短い。あまりにも短い。だが、エルヴィンさんなら、特に何も言わないのだろう。ノエルはそう思って、少しだけ眉間を押さえた。
「ベルント」
「はい」
返事は、今度はきちんとしていた。
ベルント・ラング。元北潟隊で、エスター領のころからブルーノに妙に懐いていた男である。見た目も声も真面目で、どちらかと言えば文官肌に見える。実際、武器も扱えるのに、いつも人数や配置や怪我人のことで胃を痛めている。
「荷車周りをお願いします。ブルーノさんの真似をしそうな者がいたら止めてください」
「ブルーノ殿本人がいたらどうします」
「その時は……諦めるしかないですね」
「諦めないでください」
「では、あなたが止めてください」
「無茶を言わないでください」
「無茶を言う人が近くにいないだけ、今はましです」
ベルントは何か言いかけ、結局、深く息を吐いただけだった。
ノエルは、次に帳面の別の頁を開いた。
「ルッツ」
「……私でいいんですか」
呼ばれる前から、そう言いそうな顔をしていた男が答えた。
ルッツ・オルガン。元北潟隊。敗走の時に、隊のまとめ役として何人かを託され、そのまま崩さず連れてきた男だ。
「ほかに誰がいますか」
「……分かりました」
「こちらに残る者をお願いします。古傷組を無理に動かさないでください。見張りは短く回すこと。食料はこの線まで。水はトマに確認を。誰かが勝手に出ようとしたら止めてください」
「止まらなかったら?」
「マルクを置いていきます」
「止めます」
ルッツは、妙に真面目な顔で頷いた。
それで、半日は持つ。一日持つかは分からない。
だが、動ける。
ノエルが帳面を閉じようとした時、仮営の入口側がざわついた。
「エスター家のノエル殿はいるか」
聞き慣れない声だ。ヴェルナー子爵家の兵ではあるが、仮営内では聞いた事がない声だった。鎧も埃をかぶり、外の道を急いできた顔をしている。
「はい、私がノエルですけれど、どうされましたか?」
ノエルは立ち上がった。
兵は、周囲を一度見回してから、革紐で括った木片を差し出した。
「ロイター隊預かりの外縁警戒から回されてきた。一応、上を通している。途中で検められなかった保証はないが、受け取ってくれ」
「……誰からですか?」
「南の廃村にいる者たちからだと伝え聞いている」
ノエルの指が、木片に触れる前に止まった。
「南の廃村? その者たち名はわかりますか?」
「ガレス・ローヴァン。エルヴィン・ケーラー。ブルーノ・ガルト」
息が、少しだけ遅れた。
ニルスが立ち上がる気配がした。トマが車輪を叩く手を止めた。ベルントが顔を上げ、マルクの軽口が途切れる。
「……生きているんですか」
声は、自分で思ったより小さかった。
「そう聞いている」
ノエルは目を閉じた。
よかった。本当に、よかった。
ガレス殿が生きている。エルヴィン殿が生きている。ブルーノ殿が生きている。
兄上の周りから、また人が消えたわけではなかった。
肩から力が抜けた。
けれど、兵の次の言葉で、抜けた力は別の場所へ移っていった。
「南の廃村にいる。武装した半端者が多数。村と畑が近い。ブルーノ殿が抑えているが、食料が心もとない。アズール殿へ直接向かえば、前哨、近隣の村、廃村のどこかが崩れる恐れあり。帳面、人数、飯、名分、伝言の整理のため、ノエル・エスターに至急接触したい、と」
ノエルは木片を受け取った。
薄い木の端に、見覚えのない雑な印があった。だが、並び方には意味がある。ガレス、エルヴィン、ブルーノ。三つの名を示す短い印。そして、余白に、急いで削ったような線。
ノエルはしばらく、それを見つめた。
「生きていてよかった」
小さく、そう言った。
ニルスが、ほっとしたように笑いかけた。
ノエルは、木片を握り直す。
「本当に、よかった」
それから、帳面の余白に新しい線を引いた。
「ですが、なぜ生きている者は、こうも面倒ごと増やしていくんですか」
「ノエルさん、そこはもう少し喜ぶところじゃ」
「喜んではいます」
「そうは見えませんけど……」
「すみません、少し混乱していまして」
ノエルは、木片を机代わりの板の上に置いた。
「南の廃村。武装した半端者。村と畑。薄い鍋。ブルーノ殿。ガレス殿。エルヴィン殿。兄上は前哨。ロイター隊。ヴェルナー子爵家」
言葉にしながら、線を引く。
繋がっている。繋がっているということは、どこを引いても全部揺れるということだ。
「アズールさんのところへ行くんですか」
ニルスが聞いた。
それに対して、ノエルは、ニルスへ視線を向けて首を横に振った。
「いいえ、先に廃村へ行きましょう」
「アズールさんのところじゃなくて?」
「兄上は、今すぐ死ぬ状況ではありませんし」
言いながら、少しだけ胸が痛んだ。
会いたくないわけではない。確かめたくないわけでもない。
むしろ、すぐにでも行きたい。
けれど、行きたいから行く、で済むなら、帳面など要らない。
「ですが、廃村は違います。腹が減れば、今日にも線を越えます。村が怯えれば、今日にも槍を持ちます。ブルーノさんが動けば、後ろの者たちも動くでしょう」
「それは、まあ……」
「廃村を放って兄上のところへ行けば、兄上に会う前に、兄上の名で面倒が増えそうです。残念ながら……」
トマが、嫌そうな顔をした。
「それで、誰が行くんだ」
「僕が行くしかないでしょう。伝言でもそう伝えられましたし」
「ノエル一人でか?」
「まさか……僕が一人で行けば、途中で何者かに襲われて死んじゃいますよ」
「そんなはっきり言うか」
「事実です。兄上と違って、荒事には慣れていません」
「アズールさんも、別にそんな荒っぽい感じではないと思うんですけど」
ニルスが小さく言った。
「それはそうですが、兄上は、殴られる前に誰かが助けに来ます。もしくは、殴られても誰かが助け起こします」
「確かにそんな気はしますね」
「僕にも、助けは来ると信じたいですけど、来る前に帳面を奪われます」
「帳面の心配なんですか」
「僕の命と同じくらい大事です。これがあるから、僕がいる意味があると、そう思えるくらいには」
トマが肩をすくめた。
「要するに護衛がいるってことだろ」
「違います。必要な人員配置です」
「何が違うんだ? 同じだろ」
「同じではありません」
ノエルは仮営の外へ出た。
動ける者たちが、こちらを見る。怪我を押して槍を持つ者。腕を吊ったまま立つ者。荷車の横で水袋を数える人足。古傷のせいで片足を引きずりながらも、見張りに立とうとしている男。
このまま武器だけを持って道を行けば、ただの敗残兵に見える。
数がいれば、野盗に見える。それは、まずい。
「こんなうらぶれた姿で武器を持って道を行けば、野盗に見えてもおかしくないです」
ノエルは言った。
「僕たちは、野盗じゃないですけど」
ニルスが困ったように返す。
「相手にそう見えなければ意味がありません」
ノエルは、荷の中にあった生成りの粗布へ目を向けた。
次に、補修用に取ってあった青い布切れを見る。
「わかりやすく所属を示すものが必要だと思うんです」
「……それって、旗ってことですか?」
「旗ではありません」
ノエルは即座に否定した。
「識別用の布です」
トマが、すぐに口を挟んだ。
「棒につけて掲げる布は旗って言うんじゃねえか?」
「違います。これは必要に迫られて作る、識別用の布です」
「……いや、旗だろ」
「仕方ないんです!」
声が少し大きくなった。周囲が、ぴたりと黙る。
ノエルは、自分でも少し驚いた。けれど、止まらなかった。
「兄上はいない。ガレスさんたちは面倒ごとを増やす。ブルーノさんはおそらく親分などと呼ばれている。武器を持って歩けば野盗に見える。なら、こちらが何者か分かるようにするしかないでしょう」
「親分って呼ばれてるんですか」
ニルスが妙な顔をした。
「呼ばれていない方がおかしいです」
ベルントが、胃のあたりを押さえながら言った。
「想像ができすぎるだけに、考えたくありません」
「俺もだよ……」
トマが頷いた。
ノエルは粗布を広げた。
白とも灰とも言えない、ありものの布だ。そこへ、青い裂き布を一本、置く。
「その青い布は、もう少し真ん中へ」
「……ノエルさん、旗じゃないんですよね?」
ニルスが言った。
「識別用の布です。だからこそ、遠目で見えなければ意味がありません」
「ノリノリじゃねえか」
トマが呟く。
「精度の話です」
「端はどうします?」
マルクが、いつの間にか隣にしゃがんでいた。
「揃えてください。斜めだと、だらしなく見えます」
「旗じゃないのに?」
「識別用だからです」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
マルクは笑いながら、けれど手元は丁寧に布を合わせた。
トマが木の棒を持ってくる。人足の一人が針と糸を出す。ニルスが布の端を押さえ、ベルントが妙に真面目な顔で歪みを見ている。
セオは少し離れた場所から、無言で周囲を見張っていた。
やがて、粗末な布ができあがった。
生成りの粗布に、青い裂き布が一条。
ただ、それだけのものだった。
エスター家の正式な家紋ではない。帝国の旗でもない。ルミナ沿海伯家の旗でもない。アズールが認めたものですらない。
それでも、武器を持った者たちが、何も掲げずに歩くよりはましだった。
「ミケル」
ノエルは、若い男を呼んだ。
ミケル・フェンは、一歩遅れて前に出た。
黒棘からの敗走中に拾った一人だ。あの頃は、自棄になって、こちらへ襲いかかってきた。今は、目つきも声もずいぶん戻っている。真面目すぎるほど、真面目になっていた。
「はい」
ノエルは、青い一条の布を差し出した。
「これをあなたに預けます。隊で動く時は、あなたが持ってください」
ミケルは、布を見つめた。
「これは……旗、ですか」
「識別用の布です」
「どう見ても、旗ですよね」
「識別用の布です」
ミケルは、少しだけ背筋を伸ばした。
「……布ですね、分かりました。それはそれとして、俺が持っていいんですか」
「落とさない、傾けない、無くさない。大切な役目です」
「……分かりました。任せてください」
「ええ、頼みます」
「お任せください」
ミケルは両手で棒を受け取った。
その指に、少し力が入りすぎている。
ノエルは、今はそれでいいと思った。
軽く持たれては困る。けれど、重すぎても困る。今は、その中間を覚える時だ。
「マルク、前列。槍は揃えてください。顔までは揃えなくて結構です」
「先に言われちまったなー」
「言われる前にやる人ではないでしょう」
「信用が厚くて嬉しいですねえ」
「いえ、薄い方ですけど」
「あちゃー。まぁ、槍はちゃんと見ときますんで」
「はい、お願いします」
マルクが前へ行く。
「セオ、道脇と後ろ」
セオが頷いた。
「返事は」
「……はい」
「お願いします」
「ベルント、荷車周り。荒い者を前に出さないでください」
「ブルーノ殿の真似をしそうな者は?」
「止めてください」
「ブルーノ殿本人は?」
「……会ってから考えます」
「考える時間があるといいですね」
「嫌なことを言わないでください」
ベルントは深く頭を下げ、荷車の方へ向かった。
「ルッツ」
「はい」
「残る者たちを任せます。僕が戻るまで、名簿から勝手に人を消さないこと。戻った者がいれば、別枠に。食料はこの線。水はトマの印。怪我が悪くなった者は、ヴェルナー側の手当に回してください」
「分かりました」
「無理に立たせないこと」
「分かりました」
「褒められても困らないこと」
「それは……分かりません」
「では、そこは後で」
ルッツは困った顔をした。
それでも、頷いた。
ノエルは帳面を抱え直した。木片は、帳面の間に挟んだ。
前哨へ行く道ではない。兄上へまっすぐ向かう道でもない。
けれど、兄上へ向かうための道だった。
「では、行きます」
ノエルが言うと、ミケルが青い一条を掲げた。
風が吹いた。粗布はうまくはためかず、少し不格好に揺れた。青い裂き布も、まだ真新しい旗のようには見えない。ただの縫いつけた布だった。
「どう見ても、旗ですね」
ニルスが小さく言った。
「識別用の布です」
ノエルは南の道を見た。
「旗だな」
トマが言った。
「仕方ないんです」
ノエルは、少しだけ唇を尖らせた。
「武器だけ持って歩けば、野盗と変わりません。名を持つなら、目印も必要です」
誰も、それ以上は言わなかった。
アズール本人の知らないところで、アズール隊の旗が初めて立った。
その日の午後、生成りの粗布に青い一条を掲げた一団が、南の廃村へ向けて仮営を出た。




