第51話 相応しい者
廃村へ通い始めて、三日が過ぎた。
あの夜、村長代理は村へ戻り、見たものをすべて話した。
村は廃村を許したわけではない。ただ、翌朝すぐ槍を持って押し寄せることもしなかった。
何かが解決したわけではない。ただ、すぐに血が流れるようなことが起きなかっただけだ。
南の畑と廃村へ続く古い道の間には、折った枝と赤茶けた布で仮の線が引かれている。線と呼ぶには頼りない。子供でも跨げるし、深く考えない大人なら、見なかったことにもできる。そんなものだった。
それでも、そこに線があることが今は意味を持っていた。
「そこから先に行くんじゃねえぞ!」
朝から、ブルーノの怒鳴り声が廃村の壁にぶつかっていた。
声に驚いた鳥が、壊れた屋根の残骸から飛び立っていく。
「親分、魚取りはいいんですか!」
「親分じゃねえ! 魚は南の畑じゃねえだろ!」
「草は?」
「畑の草を抜くな!」
「道の草は?」
「食えるなら食ってから言え!」
若者たちは、笑っていいのか怒られているのか分からない顔で、線の手前に固まっている。
誰かが笑う。誰かが腹を押さえる。誰かが、空の椀を指で叩く。
鍋の前には、今日も列ができている。列があることは、まだ秩序があるということだ。だが、鍋から上がる湯気は相変わらず薄い。
ガレスは、廃屋の壁際に立ち、その列を見ていた。
槍は持っている。だが穂先は地に向けている。何かを守りに来ているのか、何かを見張りに来ているのか、自分でもまだ決められない。
隣で、エルヴィンが木炭の欠片を手に、割れた板へ印をつけていた。
横線が増え、すぐにまた消される。
「昨日より増えているな」
板から顔を上げず、エルヴィンが目だけで鍋の列を追った。
「知らねえよ」
ブルーノは井戸の縁に腰を下ろし、大棍棒を膝に乗せたまま、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「数えただろう」
「数えてる途中で魚取りに行ってた連中が戻ってきやがった」
「それは数に入れたのか」
「知るかよ」
エルヴィンは、板に残っていた線を親指でこすった。
黒い粉が指先に広がる。
「なら、もう一度最初からだ」
「何回最初からやるんだよ」
「数え終わるまでだ」
「終わる前に増えるんだよ」
ブルーノの言葉に、周りの若者の何人かが気まずそうに目を逸らした。
今朝、気づけばまた二人増えていた。一人は逃げ兵くずれ。もう一人は、近くの村へ戻ったが入れてもらえなかった若者だった。
ガレスは、二人を見た。
どちらも痩せており、武器らしいものを持っていた。捨てておけば夜のうちにどこかの畑を荒らしかねない顔だ。
「ノエルが聞いたら顔をしかめるな」
エルヴィンが、汚れた指先を見ながら呟いた。
「いねえ奴の話をすんな」
ブルーノの声が少し低くなる。
ガレスは、その変化に気づいた。アズールが生きていると分かってから、ブルーノの背は少し戻った。怒鳴り声にも力が戻った。だが、ノエルやニルス、トマの名が出ると、まだ表情のどこかが硬くなる。
まだ分かっていないのだ。
生きているのか、どこにいるのか、どこへ向かえば会えるのか。
「いないなら、なおさらだ」
エルヴィンは、板を壁に立てかけた。
「数えられる者がいない。飯を測れる者がいない。帳面を持つ者もいない。だから、俺がこの板に線を引いている」
「柄じゃねえだろ」
「俺もそう思う」
エルヴィンは、薄く息を吐いた。
その時、廃村の外れで、短く鳥の鳴き真似がした。
ただの鳥ではない。三日前から、ロイター隊の歩哨が使う合図だった。
エルヴィンの手が短剣の近くへ下がる。
ガレスは槍を持ち直し、ブルーノは、腰を上げるより先に大棍棒の柄を握った。
「またか」
ブルーノが不機嫌そうに目を細める。
「前哨からだ」
ガレスは古い道の方へ歩き出した。
木の間から、二人の兵が姿を見せた。帝国兵の立ち方をしている。だが、鎧も旗も中央の正規兵ほど揃ってはいない。ロイター隊預かりの外縁警戒。
三日前、アズールの名を持ってきた者たちと同じ筋の兵だった。
「まだここにいるのか」
先に口を開いたのは歩哨だった。
槍は下がっているが、指は柄から離れていない。
「そちらこそ、よく来る」
エルヴィンが半歩遅れて立つ。
「廃村のはずなのに煙があがって、人の気配が濃いとなれば、嫌でも見に来るしかないではないか」
歩哨は、廃村の中をちらりと見た。
鍋。列。棒。弓。古い短槍。
そして井戸のそばに立つブルーノ。
「親分殿は、今日も元気そうだな」
「誰が親分だ」
ブルーノの声に、歩哨の片方が肩をすくめた。
「名乗り直すか?」
「いらん」
エルヴィンが遮るように手を上げた。
「前哨の話を聞きたい」
歩哨の表情が少し硬くなる。
その硬さを見て、ガレスは嫌な予感を覚えた。
「アズールは」
名を口にしたのは、ガレスだった。
自分でも、声が少し急いたのが分かった。
「安心しろ、変わらずに前哨にいる」
歩哨は、言葉を選びながら答えた。
「カインという男も一緒だ。二人とも大きな怪我はない。少なくとも、俺が見た限りではな」
ブルーノの肩から、わずかに力が抜けた。
だが、すぐにまた大棍棒を握り直す。
「動けるのか」
ガレスが一歩前へ出る。
「動ける」
「では、なぜ来ない」
歩哨は、その問いにすぐ答えなかった。
代わりに、廃村の中へもう一度目を向ける。
「自由な者は、前哨の外へ出られるんだがな……」
その言い方で、ガレスは黙った。
捕らわれてはいない。だが、自由でもないのだと想像できた。
エルヴィンが、短く息を吐いた。
「ロイター隊の近くに留め置かれている、ということか」
「俺の口からは、それ以上は言えん」
「十分だ」
十分ではない。
けれど、聞き出せる限界はそこだ。
「なら、こっちから行くしかねえか」
ブルーノが大棍棒を肩に担ぎ直した。
その動きだけで、鍋の前の列が揺れた。椀を持った若者たちが、何人もこちらを見る。丸顔の若者などは、すでに立ち上がりかけていた。
エルヴィンが、ブルーノの前に体を入れ、制するように目を向けた。
「お前が行けば、後ろの連中が動く」
「動くんじゃねえって怒鳴らあよ」
「怒鳴って止まるなら、誰もお前を親分とは呼び続けん」
「親分じゃねえ!」
「何回言っても、呼び名が変わらんのはそういうことだ」
ブルーノは、言い返そうとして口を閉じた。
鍋の前の若者たちが、まだ見ている。その目が、答えだった。
「……俺が行く」
ガレスは、静かに口を開いた。
エルヴィンが振り向く。
眉間に浅く皺が寄っている。
「お前が行けば、村が不安がるだろう」
「村はお前が見ればいい」
「俺が村を見るなら、廃村を誰が数える」
「ブルーノが見ればよい」
「そのブルーノが一番行きたがっている」
ガレスは黙った。
ブルーノが鼻を鳴らす。
「じゃあ、お前が行けよ」
「俺は話すのが得手ではない」
「誰も行けねえじゃねえか」
「そうだ」
エルヴィンは、苦々しく廃村を見回した。
「だから困っている」
しばらく、誰も声を出さなかった。
風が壊れた壁の間を抜ける。薄い鍋の匂いと、湿った土の匂いが混ざる。
歩哨の一人が、槍の柄を握り直した。
「伝言なら預かれる」
その言葉に、三人の視線が向く。
「ただし、届くとは限らん。俺たちも前哨の外縁警戒だ。上に渡すことはできるが、そこから先は確約できん」
「上で止まるかもしれないということか」
エルヴィンが確認するように目を細める。
「止まるかもしれん。読まれるかもしれん。アズール殿が返事を書けるかも分からん」
「廃村のことを書けば?」
「前哨が警戒を深めるな……」
「しかし、書かねば、アズールは判断できん」
「そういうことだ」
歩哨は、悪びれもせず肩をすくめた。
悪意ではない。現実を言っているだけだ。
ガレスは、廃村の奥を見た。
数えられていない人の群れ。村との境。畑。空の椀。その全部を、一枚の伝言にどう書けばいいのか。
自分なら、短く書くだろう。
生きている。廃村にいる。会いたい。
しかし、それでは足りない。
「俺たちだけでは危ういな」
エルヴィンが、先に言葉にした。
「俺たちだけ?」
ブルーノが眉を寄せる。
「お前を含めてだ」
「なんで俺を見る」
「一番危ういからだ」
「俺がか?」
「他に誰がいる」
ブルーノは不満げに大棍棒を地面へ立てた。
どん、と鈍い音が鳴る。近くの若者がびくりと肩を震わせた。
ガレスは、その音を聞きながら、ようやく一人の顔を思い出した。
怒った顔。帳面を抱え、こちらの無茶を聞き、まず眉を吊り上げる顔。
「……ノエルか」
その名を口にした時、エルヴィンが小さく頷いた。
「こういう時、まず怒る」
ガレスの口元がわずかに緩む。
「それから数える」
「そして、飯が足りないと言う」
ブルーノが露骨に顔をしかめた。
「聞こえるみてえで腹立つな」
「合っているからだ」
「なお腹立つわ!」
エルヴィンは、先ほどの板を拾い上げた。
黒い線がいくつも並び、途中で途切れ、こすれて消えている。
「アズールへ向かうには、分かっていることだけでは足りん」
「では、何がいる」
ガレスが問うと、エルヴィンは板をブルーノの前へ突き出した。
「冷静に、丁寧に説明できる者だ」
「面倒くせえな」
「だからノエルが必要だ」
ブルーノは、板を見ないように顔を背けた。
「俺は嫌だぞ」
「何がだ」
「ノエルに数えられるのは嫌だ」
ガレスが思わず眉を上げる。
「数えられる側なのか」
「知らねえけど嫌だ」
「安心しろ」
エルヴィンは、淡々と板を脇に抱える。
「お前は最初に怒られる側だ」
「もっと嫌なやつじゃねえか!」
廃村の若者たちが、こらえきれずに笑った。
ブルーノが睨む。笑いは少し引っ込んだが、完全には消えなかった。
歩哨は、そのやり取りを眺めてから、少し考え込むように顎に手をやった。
「ノエル、という名なら聞いた気がするな」
ガレスの顔が上がる。
「どこで」
「前哨で聞いた、ヴェルナー子爵家の現状の話の中でだ」
歩哨は周囲に目を配り、声を落とした。
「帳面を抱えた若い男がいる、と聞いた。エスター家に縁のある者らしい。文書が読めるから、敗残兵とは別に扱われているとか」
「ノエル・エスターか」
「詳しくは知らん。ただ、名はノエルだと」
ガレスは、知らず息を吐いていた。
確かではない。本人を見たわけではない。
それでも、何もないよりはずっといい。
「ニルスやトマは」
エルヴィンが踏み込む。
「他は知らん。ただ、ノエルという者の側に若い衛兵らしい者と、荷車に詳しい男が近くにいたという話はある」
「それっぽいな」
ガレスの声が少し強くなる。
「まだ決めるな」
エルヴィンがすぐに釘を刺した。
だが、その目にも、わずかな光が戻っている。
「ただ、可能性は高い」
「なら、連れてくるか」
ブルーノが大棍棒を握りなおし、立ち上がると即座に言った。
「お前は行かせん」
「なんでだよ」
「話を聞いていたか」
「聞いてただろうがよ」
「ではなぜ同じことを言う」
「行きたいからだ」
あまりに正直な答えに、エルヴィンは一瞬だけ目を閉じた。
「お前が行けば、後ろの若いのが黙ってはいまい」
「怒鳴るつってるだろ」
「またそこへ戻るのか」
ガレスが、ブルーノの肩に手を置いた。力は入れない。ただ、止める位置に置く。
「ブルーノ」
「なんだよ」
「ノエルを呼ぶ」
「……俺が行くより遅えだろ」
「ああ」
「腹立つな」
「ああ」
「だが、ノエルが来たら、たぶん早くなる」
ブルーノは、ガレスを横目で見た。
しばらくして、ふてくされた様に舌打ちする。
「もっと腹立つな」
エルヴィンが、歩哨の方へ向き直った。
「ヴェルナー子爵家側へ伝言を送れるか」
「簡単ではないな」
「簡単なら頼まんさ」
「内容は?」
エルヴィンは、割れた板の上の黒い線を見た。
それから、廃村の鍋を、そして村の方角を見た。
「ガレス・ローヴァン、エルヴィン・ケーラー、ブルーノ・ガルトは生存。南の廃村にいる。武装した半端者が多数。村と畑が近く、緊張がある。ブルーノが抑えているが、食料が薄い。アズールのもとへ直接向かうと、前哨、村、廃村が崩れる恐れがある。ノエル・エスターがヴェルナー子爵家側にいるなら、至急接触したい。帳面、人数確認、文書、名分、アズールへの伝言整理が必要」
エルヴィンは、ひとつずつ指を折るように言った。
歩哨は、途中から眉間を押さえていた。
「ずいぶん長いな」
「必要なことだけにしたつもりだ」
「全部伝えろと?」
「ノエルなら分かる」
「分からなかったら?」
エルヴィンは、少しだけ考えた。
「伝え方が悪いことになるな」
「おいおい、責任重大じゃないか」
「まあ、そうだな」
歩哨は、呆れたように口を開けた。
だが、隣の兵は小さく笑っている。
ガレスが前へ出た。
「アズールにも伝えてほしい」
「何と」
「生きている、と」
それだけ言って、ガレスは一度口を閉じた。
喉の奥に、いくつもの言葉が詰まっていた。
迎えに行けず申し訳ない。ブルーノも生きている。ノエルを探している。必ず行く。
どれも、今のアズールへ届く言葉としては重すぎた。
「ガレス、エルヴィン、ブルーノは生きている。南の廃村にいる。まずノエルを呼ぶ。そう伝えてくれ」
歩哨は、ゆっくり頷いた。
「届くとは限らんぞ」
「分かっている」
「途中で読まれるかもしれん」
「構わん」
エルヴィンが口を挟む。
「読まれて困ることは書かん。だが、読ませたいことは書く」
「面倒な奴だな」
「そうでなければ、今ここで生きていない」
歩哨は、腰の小袋から薄い木札を取り出した。その場で書くわけではない。前哨へ戻り、上へ通すための目印だろう。
エルヴィンは、板の端を割り、小さな木片を作った。そこへ短い印を三つ刻む。
旅の荷札で何度か使った、三人を示す雑な印だ。
ガレス。
エルヴィン。
ブルーノ。
名をすべて書ける紙はない。
墨もない。だが、ノエルなら、この三つの印で足りるはずだった。
「ノエルなら、これで分かるか」
ガレスが問う。
「分からなければ怒る」
エルヴィンは、木片を歩哨へ渡した。
「そして確かめに来る」
歩哨は木片を受け取り、懐へ入れた。
その動きを、ブルーノがじっと見ている。
「なくすなよ」
「なくさん」
「遅れるなよ」
「俺は伝令ではないんだが」
「なら走れ」
「話を聞いていたか?」
歩哨は苦い顔をしたが、それ以上は言わなかった。
帰り際、丸顔の若者が線の手前から手を振った。
「槍の兄貴、静かな兄貴、今度は帳面の兄貴が来るんですか!」
エルヴィンの眉がぴくりと動いた。
「誰が兄貴を増やせと言った」
「帳面の兄貴!」
「やめろ。本人の前で言うな」
「親分、帳面の兄貴って怖いんですか!」
ブルーノは、大棍棒を肩に担ぎ直しながら、心底嫌そうな顔をした。
「怖えぞ」
若者たちの顔が強張る。
「まず怒る」
「それから?」
「数える」
「そのあと?」
「飯が足りねえって騒ぐ」
廃村の列が、妙な沈黙に包まれた。腹を押さえていた若者が、自分の椀を見下ろす。
ガレスは、小さく笑いかけて、やめた。
笑うには、鍋が薄すぎた。
歩哨たちが古い道へ戻っていく。
木々の間に槍の穂が消えるまで、三人はその場に立っていた。
「アズールへではなく、まずノエルか」
ブルーノが、まだ納得しきれない声を出す。
「アズールへ向かうためだ」
エルヴィンは、黒く汚れた指で板を持ち直した。
「廃村を連れて前哨へ押しかければ、アズールの立場まで悪くする。村を空ければ、畑が危うい。お前を置けば、お前が勝手に動く。ガレスを行かせれば、村が揺れる。俺はそもそも向いていない」
「だからノエルか」
ガレスが廃村の鍋を見た。
薄い湯気。数えきれない椀。畑の向こうにある村。
遠く、帝国の前哨にいるアズール。
「ここを見れば分かる」
ブルーノは鼻を鳴らした。
「ノエルが見たら、まず怒るぞ」
「怒らせればいい」
エルヴィンが、消えかけた線をもう一度板に引き直した。
「怒って、数えさせる」
その日の夕方。
アズールへ向かう道より先に、ノエルを呼ぶ言葉が廃村を離れた。




